第5話 皇女ユースティア
「……ん、ぅ……」
重い瞼を持ち上げると、そこは見慣れた自室の天井だった。
身体を起こそうと力を入れると、全身に走る稲妻のような激痛。
「い゛っ、たぁぁぁぁぁぁぁいッ!!!」
私の絶叫が、アッシュフィールド伯爵邸の朝を叩き起こした。
生まれたての子鹿のようにプルプルと震えてシーツに沈没する私を、ベッドの脇から呆れたような視線が見下ろしている。
「……おはようございます、お嬢様。ずいぶんと元気な悲鳴ですね」
ステラだ。彼女は濡らしたタオルを手に、まるで珍獣を見るような目で私を見ていた。
「な、何よこれ……身体が、鉛みたいに重い……」
「無詠唱で魔力回路を無理やりこじ開けて、身体強化なんてすればそうなるわ」
呪文の詠唱は魔力を安全に制御するための“安全装置”。それを無視したのだから、当然の反動だ。
私の使った魔力は、おそらくステラが驚くほどの量だったようだ。
ま、本来なら主人公のルーカスに最初に立ちはだかるボスだからね。潜在的な魔力量は伊達じゃない。
湿布だらけの自分の右腕を見て、私は苦笑する。
まったく、我ながら悪役令嬢らしいやり方で解決したものである。
コンコン、と扉がノックされる。現れたのは、執事のヴェルナーだった。
「お目覚めですかお嬢様。……早速ですが、地下牢に拘束しているグスタフ様の処遇について、ご決断をいただきたく――」
ヴェルナーの表情は硬い。親族による暗殺未遂。貴族社会の醜聞。
通常であればほとぼりが冷めるまで幽閉、あるいは国外追放というのが穏当な落としどころだろう。
だが――
「ヴェルナー、法に則りなさい」
「……と、仰いますと?」
「領主への暗殺未遂及び殺人未遂、そして――王家より賜りし爵位の継承を私欲で覆そうとした、王命に対する『反逆』。伯爵位の権威を、ひいては任命権者である王家を蔑ろにする不敬極まりない大罪よ。……斬首にするには十分すぎる罪状だわ」
私の言葉にヴェルナーが目を見張り、ステラが息を呑んだ。
「しょ、処刑……ですか? しかし、彼は腐っても貴女の叔父君。追放処分に留めておくのが慈悲というものでは……」
「慈悲?」
私は鼻で笑う。
「追放したところで、叔父上の性格よ? 逆恨みして他家の貴族に取り入り、あることないこと吹き込んでアッシュフィールドを貶めるのが関の山だわ。生かしておけば、いつか必ず災いの種になる」
「し、しかし……それではお嬢様が『親族殺し』の汚名を被ることになります。まだ正式に王家から伯爵位の襲爵が承認されているわけではありませんのに、そのような業を背負えば――」
ヴェルナーの言葉は正しい。私を想っての忠言だ。
16歳の少女が、自らの手を汚す必要はない。追放して野垂れ死ぬのを待てばいい。
けれど、それではダメなのだ。
「いいえヴェルナー。私の殺意で殺すのよ」
私はベッドから降り、床を踏みしめる。
「アッシュフィールドを害する者は、たとえ肉親であろうと私が裁く。見えないところで勝手に死なせるんじゃない。私が、私の意志で命を奪うの」
これから先、飢饉が起き、戦乱が起きれば、私は多くの決断を下さなければならない。
その中には多くの命を切り捨てる選択もあるだろう。
叔父一人殺す覚悟もなく、何が領主か。
「……そのすべての業と責任は、当主である私が背負うわ。――やりなさい」
私の瞳に迷いがないことを悟ったのか、ヴェルナーは深く長く頭を下げた
それは私を一人の当主と認めた畏敬の礼だった。
「……御意に。直ちに手配いたします」
ヴェルナーが退室していく。部屋に残された私とステラ。
扉が閉まったことを確認してからステラが口を開いた。
「……意外。リリアーネなら、彼を追放して穏便に済ませると思っていた」
「あら、どうして?」
「あなたは合理主義者。……それに、追放すれば他の貴族に取り入る前に彼は野垂れ死ぬ。わざわざ手を汚す必要はない」
ステラの指摘は正しい。けれど、本当の理由はヴェルナーには言えないことだ。
「私が殺さなくても、追放先で“誰か”が彼を始末するでしょう?」
私はステラの金色の瞳を真っすぐに見つめる。
叔父が生きていれば、ヴァリャーグの工作が露見するリスクが残る。赤い眼は必ず口封じに動くはずだ。
「例えば――私のあずかり知らぬところで『眼』の掃除人が口封じに来るとか。あるいは私の優秀なメイドが、後顧の憂いを断つためにこっそりと首を掻き切るとか、ね?」
「――ッ」
ステラの肩が微かに跳ね、尻尾がピンっと張った。
図星だ。彼女は私が甘い処分を下せば、裏で勝手にグスタフを始末するつもりだったのだ。
「ステラ。私に仕えるなら勝手に動かないで。私がやれと言ったらやれ。やるなと言ったらやるな。それを徹底してほしいの」
「……」
「アッシュフィールドの不始末は、私がつける。他国の組織なんかに介入させる隙は作らない」
ステラは沈黙をもって肯定した。
彼女の瞳に、私への畏怖の色が混じる。
「……それに」
「それに?」
「ん……これは私の個人的な感情だけど。もうこれ以上、ステラが“赤い眼”に縛られる必要はないのよ」
私は痛む身体を起こし、ステラに向き直る。
そして――彼女にとって最大のタブーであるその名を呼んだ。
「ね? 『ユースティア・ゲオルギエヴナ・ヴァリャーグィナ』皇女殿下?」
その名は、東の大国の歴史における最大の禁忌。
十数年前、雪の帝国で起きた“革命”。
腐敗した帝政を打倒するという大義名分のもと、王宮に押し入った革命軍は皇帝夫妻のみならず幼い子供を含む皇族全員を見世物のように処刑したという。
降り積もる純白の雪が、皇族たちの鮮血で赤黒く染まったという惨劇の日。
公式には「皇族は根絶やしにされた」とされている。だが、ゲームの設定では末の皇女だけが奇跡的に――あるいは薄汚い政治的取引によって生き延び、名前と身分を奪われ、暗殺者として飼われ――そして主人公ルーカスの下へ身を寄せるヒロインがステラなのだ。
ピクリ、と。ステラの身体が強張った。
一瞬にして部屋の空気が凍り付く。彼女から放たれるのは明確な殺意。
おそらく彼女が隠し持っている暗器に手が伸びるよりも早く、私は言葉を続ける。
「警戒しなくていいわ。この情報を売るつもりなら、とっくに西のグランファーレンか教皇庁に売っているところよ」
「……いつから、知っていた?」
「最初からよ。あなたが私のメイドになった時からずっと」
ステラの喉がゴクリと鳴る。
「亡国の皇女なんて肩書き、今のあなたにはただの呪いでしかない。……だから、捨てなさい。ここにいるのは私の忠実なメイドであり、共犯者である『ステラ』だけ」
私は痛む手を伸ばし、彼女の硬直した頬に触れる。
ステラの白狼の耳が――皇族の証が、小さく震えているのがわかった。
「ヴァリャーグの犬として使い潰されるか、アッシュフィールドの狼として私の隣で牙と爪を研ぐか。……選びなさい、ステラ」
長い沈黙があった。
やがて、彼女の瞳から殺気が消え、代わりに奇妙な熱の籠った光が宿る。
ステラは私の手を取りその甲に唇を落とした。
それは、騎士が主君に行う、絶対の忠誠の儀。
「ちょっと! 仮にも皇女様がそんな大げさな!?」
こ、この反応は予想外だ。
「あ、あなたが選べと言うから……!」
「いえ、その、ちょっとカッコつけて言ったけど雇用契約にサインするくらいの気安さでOKしてもらって大丈夫よ!? なんでいきなり重たい方をチョイスしてるの!」
「私は“ステラ”。ユースティアなんて娘知らない。我が主はリリアーネ・アッシュフィールドただ一人」
「ひぃぃぃ!? 忠誠が……忠誠が重いぃぃ!」
「ふふっ、最後までお供しますわ、お嬢様」
白狼の小柄な少女は尻尾をぶんぶんと振って微笑む。
彼女の笑顔は、まるで憑き物が落ちたかのようだった。




