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第44話 勝者の憂鬱――正しい決断の向こう側にあるもの

 エルベ修道院を発ち、街道を西へ。

 春の陽光が馬車の幌を温め、揺られているだけで眠気が忍び寄ってくる穏やかな朝だった。

 ふと、昨日のことが気になった私は御者台の小窓を開け、操車するステラに話しかけた。


「……ねえステラ。昨日のあれ、何だったの」


「あれって?」


「とぼけないで。ハーラル団長にナイフを投げたことよ。あの場で斬り合いにでもなってたらどうするつもりだったの」


 振り向かず尻尾だけを左右に揺らして、ステラはいつもどおり淡々とした答えをよこした。


「あの傭兵、隙だらけだった。護衛任務中の人間の佇まいじゃなかった。だからちょっと試しただけ」


「試すにしても手段が過激すぎるのよ」


「ん。でも、反応自体は一流だった。あの速度でナイフを指で摘めるなら、腕は本物。ただ――」


 ステラの尻尾の揺れが止まり、一拍の間が空いた。


「――ただ?」


「あの場にいる間だけ、完全に気が抜けてた。あれは護衛の顔じゃない。別の理由であそこにいたはず」


「別の理由、か……」


 チーズとビールの買い付けにイリヤがわざわざ足を運ぶ理由。

 ハーラルの歴戦の傭兵らしからぬ穏やかな横顔。

 引っかかることは幾つもあるけれど、今ここで答えは出なかった。


「まあ、イリヤが絡んでるなら悪い話じゃないとは思う」


「……そうね。今はいいわ。放っておきましょう」


 答えの出ない問いを棚に上げて、私は窓の外に目を向けた。

 今はそれより、これから通る場所のことを考えなくてはならない。


 ※


 街道を進むこと半日。

 やがて見覚えのある紋章の門が見えてきた。

 二匹の蛇が輪になって絡み合う意匠――ヘルマンシュタイン伯爵家の紋章である。

 ついひと月近く前、エルベ谷の領有権を巡って刃を交わした因縁の相手。

 ここはその領境の検問所である。


(すっげー気まずい……)


 いくらお忍びに近い旅とはいえ、公的な検問で身分を偽るわけにはいかない。

 私は馬車を降り、検問の兵士の前に立った。


「アッシュフィールド伯爵リリアーネ。王都への公務につき貴領の通過許可を願います」


 名を告げた瞬間、検問の兵士の顔が微かに強張ったのを見逃さなかった。

 それはほんの一瞬のことで、すぐに職業的な無表情に戻った。だが、その一瞬ですべてを察してしまった。


「……確認いたします。少々お待ちを」


 兵士は通行証を改め、もう一人の同僚と小声で言葉を交わしてから、事務的な声で告げた。


「通行を許可いたします。主要街道沿いをお進みください。――良い旅を」


 最後の一言は慣例の挨拶に過ぎない淡々とした声色だった。

 拒絶ではない。だが歓迎でもない。「用があるなら通れ、さっさと行け」という空気だけが残る。


「ありがとう。お手数をおかけしたわね」


 私は丁寧に礼を述べて馬車に戻った。

 御者台のステラと目が合う。彼女も検問のやり取りは聞いていただろうが、何も言わなかった。

 馬車が再び動き出す。


 お忍びとはいえ検問所で名乗った以上、ヘルマンシュタイン伯爵の下に私が領内を通過した報告が上がるだろう。

 だが、それ以上のことは起きまい。向こうだって今さら事を荒立てる理由はない。


 もし私が不在のアッシュフィールド領に侵攻したりしたら、和睦の執り成しをした教会と私の叙爵式を手配した王家の双方のメンツを潰すことになる。さすがにそこまでの覚悟はないはずだ。

 ただ粛々と通過し、粛々と出ていく。それだけのことだ。


 しかし、街道沿いの景色はそう簡単に割り切らせてくれなかった。

 商店の軒先に並ぶ品物が少ない。宿場の食堂は昼時だというのに客がまばらで、通りを行く人々の足取りもどこか重い。


 それが戦のせいなのか、賠償金のせいなのか、それとも元からこういう土地柄だったのかは分からない。

 分からないのに、「自分のせいかもしれない」という思いだけが胸の奥でわだかまっていた。


(生かさず殺さず、か)


 あの時、私は賠償金の額を慎重に計算した。

 領地が破綻しない程度に。でも「痛い出費だった」と骨身に染みる程度には。

 合理的で正しい判断だったと今でも思う。

 でも、その「正しさ」の向こう側にはこういう景色があるのだ。


「……考えてることは分かる」


 御者台から、小窓越しにステラの声が聞こえた。


「でも、あなたの判断は正しかった。あれ以外の選択肢はなかった」

「ええ。分かってるわ」


 分かっている。頭では。

 ただ、馬車の窓から見えるこの風景を私は覚えておかなければならない。

 勝者の「正しい判断」が敗者の暮らしに何をもたらすのかを。

 宿場町を一つ通り過ぎ、二つ通り過ぎ、やがてヘルマンシュタイン領の西端が近づいてくる。


 結局――検問所の兵士以外には誰も私に気づくことはなかった。

 馬車の中で一人、悶々とした気分が残されただけだった。



 ヘルマンシュタイン領を抜けると街道の景色は緩やかに変わっていった。

 街道沿いの木々が途切れた先に目に入ってくるのは、古い石造りの砦、整然と並ぶ兵舎、街道を見下ろす位置に築かれた物見櫓。

 エーデルガルド四大公爵がひとつ、ブラックウォール公爵家の領地だ。


「……軍事拠点だらけ」

「ん。さすが王都の盾」


 ブラックウォール公爵家は、エーデルガルド王国が旧ヴァリャーグ帝国から独立を果たした時代から続く武門の名家だ。

 そもそもこの国の成り立ちからして複雑で、元を辿ればエーデルガルド王家自体が旧ヴァリャーグ帝国の公爵家だった。帝国の弱体化に乗じて独立を果たし、王を名乗ったわけだが、裏を返せばエーデルガルドの王は帝国皇統の傍系でもあるということになる。

 まあそんな旧帝国との血の繋がりは何代も前の話で、今となってはほとんど形骸化した歴史の注釈に過ぎないんだけどね。


 ――余談だけど、ブラックウォールとアッシュフィールド。

 この二つの家名はこの国の一般的な貴族、例えばヘルマンシュタインなどとは明らかに響きが異なる。


 それもそのはずで、両家はもともと西の大国グランファーレン系の人間だったのだ。

 独立戦争の折にグランファーレンからの支援があり、その縁で王国東部の開拓と防衛に入植したのが両家の始まりだと伝えられている。

 だからこそブラックウォール家とアッシュフィールド家は公爵と伯爵という上下関係だけではなく、同じ根を持つ者として代々繋がりの深い関係にあった――と、我が家の歴史書には書かれてある。

 

 ブラックウォール領は街道は、それそのものが軍事・物流を前提に設計されているのだろう。

 道幅は広く、兵を素早く展開させることに適した作りになっている。


 だが――その砦の壁は黒ずみ、石畳のところどころにひびが入ったまま補修されていない。

 兵舎の屋根には苔が生え、物見櫓に立つ兵の姿はまばらだった。

 立派な骨格はあるのに肉がやせ細っているような印象。


(予算を削られているのね……)


 十数年前ヴァリャーグ帝国が革命で滅び、新たに興ったヴァリャーグ連邦共和国は未だに外交の窓口を閉ざしたままになっている。

 仮想敵国だった帝国がいなくなり、後を継いだとされる国は王国の中枢にとっては“なんだかよくわからない国”になってしまった。

 それは東からの脅威が“実感されなくなった”ことと同義なのだろう。


 かつて帝国から王都を護ると誓った武門の家も、今や“過去の栄光”でしかないということらしい。

 目の前の風景は、その冷遇が数字ではなく現実としてここにあることを教えてくれる。


 翌日、私はブラックウォール公爵の居城を訪ねた。

 アッシュフィールド家とブラックウォール家は代々、東方の守りを共に担ってきた間柄だ。

 同じグランファーレンに縁あるもの同士、領内を通るなら挨拶くらいはするのが筋というものだろう。


 公爵の居城は街道から少し外れた丘の上にある堅牢な城だった。

 優雅さよりも実用性を追求した無骨な造りで、いかにも武門の家らしい。

 だが城門の前に立った時、出迎えの家臣から告げられたのは予想通りの言葉だった。


「申し訳ございません。公爵様は現在、王都にお住まいでいらっしゃいまして……」


 家令を名乗る初老の男が深々と頭を下げる。


「当主不在の折にアッシュフィールド伯爵様にお越しいただきまして、まことに恐縮でございます」


「いいえ、お気遣いなく。ご不在と知らずにお邪魔してしまったのはこちらですから」


 高位の貴族が王都に在住するのは珍しいことではない。

 王の目の届く場所に置いておきたいという王家の思惑と、宮廷政治に関与し続けなければ発言力を失うという貴族側の事情が重なった結果だ。


 かつての江戸時代の日本だって大名は自領と江戸での二重生活を余儀なくされていた。

 それを思うと参勤交代が無い分、有力貴族は無駄金をあまり使っておらずまだマシなのではないかという気がしなくもない。

 でも、それは同時に「領地の現場を当主自ら見ることができない」ということでもある。


「どうぞ、せめて茶と菓子でもお召し上がりくださいませ。先代のアッシュフィールド伯爵様にも生前何度かお立ち寄りいただきました。ご息女にお目にかかれましたこと、我々一同大変嬉しく存じております」


 その言葉に、ほんの少し胸が温かくなる。

 お父様はここを訪れていたのだ。

 王都の社交には背を向けていたお父様が、この武門の公爵家とは足を運ぶ間柄だった。

 同じ根を持つ者同士――その言葉を今更になって実感したような気がした。


 通された客間で出された紅茶は、素朴だが丁寧に淹れられたものだった。

 華美な装飾など一切ない質実な部屋。壁には古い戦の絵図と歴代当主の肖像画が並んでいる。

 どの肖像画も甲冑か軍服をまとった武人の姿だった。この家が何を誇りとしてきたかが一目で分かる。


「ステラ、この公爵家のこと、どう思う?」


 家令が席を外した隙に、小声で尋ねる。


「実直で堅い家。城の警備も、この人数にしては規律が行き届いてる。でも――」


「でも?」


「金がない。砦の補修が滞ってるのは予算不足。兵の装備も型落ち。練度は高いけど数が足りてない」


 ステラの観察は辛辣だが正確だった。

 忠義に篤く、実直で、筋を通す家。しかし今の宮廷ではそれが報われていない。

 東の脅威が「見えない」今、彼らの存在意義を理解している者が少ないのだ。


(……でも、いずれ必ずこの家の力が必要になる時が来るかもしれないわ)


 この公爵家とは、きちんと繋がりを維持しておかなければ。

 茶を飲み終え、丁重に礼を述べて城を辞する。

 門を出る際、家令が深々と頭を下げてくれた。


「伯爵様。王都でお困りのことがございましたら、どうか遠慮なく公爵様をお頼りくださいませ。我が家は代々アッシュフィールドの友でございますれば」


 その言葉に私は素直に頭を下げた。

 王都には味方がいないと思っていた。でも、もしかしたら一人だけ頼れる人がいるのかもしれない。

 まだ顔も合わせていない相手に期待をかけるのは早計だけれど。

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