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第39話 暁の茶会――エルベ渓谷防衛戦、決着

 東の空が白み始め、エルベ渓谷の稜線が鋭く切り取られたように浮かび上がる。

 張り詰めた冷気の中でヘルマンシュタインの陣地は総攻撃の下知を待ち構え、緊張感に満ちていた。

 魔導兵という切り札を失い相手の堅牢な守りに初戦は阻まれたものの、まだ総兵力ではヘルマンシュタイン軍の優位に変わりはない。  


 その思いがあるゆえに、この早朝の猛攻さえ成功させれば勝てる――その希望が兵たちの士気を支えていた。

 しかし、どこか浮き足立つような焦りの空気が陣地全体を満たしてもいる。  

 昨日と同じ平押しだけでは再び銃と弓の波状射撃を受けるだけだと分かりきっているからだ。

 それを打開するべく、何らかの策をヘルマンシュタイン伯爵が出さなければ、士気の維持は難しいだろう。


 そんな空気の中で兵士たちは静かに命令を待っていたのだが――

 予定の時刻を過ぎても、伯爵からの号令はなかった。


「おい、どうしたんだ? もう夜が明けたぞ」


「閣下のご起床が遅れているのか……?」


 陣内の兵士たちがざわめき始めた頃、伯爵の天幕周辺では、全く別の種類の動揺が走っていた。

 総大将であるローマン・ヘルマンシュタイン伯爵を起こしに行った副官が、血相を変えて飛び出してきたのだ。


「か、閣下が……閣下がいらっしゃらないッ!!」


「な、何を言っている! 厠かどこかに行かれたのではないか?」


「違う! 天幕の裏が切り裂かれ、寝台には誰もいなかったんだ! 誰かが閣下を……」


「――ッ、なんだと……!? それはまことか!」


 その報告は、たちどころに指揮官たちの間に広がった。

 伯爵に近しい配下たちが天幕に雪崩れ込むと、そこにはもぬけの空となった寝台があるのみ。  


 誰の目にも明らかだった。

 何者かが――それも相当な手練れが、千の兵が守る陣地の中心から、総大将だけを音もなく連れ去ったのだ。


「ば、馬鹿な……警備は何をしていたんだ!」


「暗殺か!? いや、ご遺体がないということは誘拐か!?」


「敵に寝返った者がいるのではないか!」


「まさか、閣下が敵前逃亡を……!?」


 疑心暗鬼が指揮系統を寸断する。

 頭を失った千の軍勢は、ただの烏合の衆へと成り下がりつつあった。

 ある者は卑劣なアッシュフィールドの手の者だと剣を抜き、ある者は逃げ腰になり、またある者は怒号を上げる。

 パニックが臨界点に達しようとした、その時だ。


 プァァァァァァァンーーーッ!!!


 谷の静寂を切り裂くように高く澄んだ音が響き渡った。

 それは無骨な戦太鼓でも、敵襲を告げる鐘でもない。

 まるで王宮の舞踏会が始まるかのような、優雅な金管楽器の音。


 一体なんだ――兵士たちが音源の方角を見ると、それはアッシュフィールド軍が立てこもる砦だった。

 ちょうどその時、稜線から顔を出した朝日がスポットライトのようにエルベ砦の城壁の一角を照らし出した。

 戦場の中心にもかかわらず、そこだけが異空間のように「日常」が存在していた。


 純白のテーブルクロスが敷かれた丸テーブル。

 三段重ねのケーキスタンドとティーセットが用意された茶会の一風景。

 そして――優雅に紅茶を傾ける、一人の令嬢。    


「あれは……アッシュフィールドの女領主か?」


「おい待て、その向かいに座っているのは……まさか!?」


 兵士たちの目が点になる。

 望遠鏡を覗き込んだ副官が、信じられないものを見たという顔で膝から崩れ落ちた。

 そこにいたのは紛れもなく彼らの主君、ローマン・ヘルマンシュタイン伯爵その人だったのだ。


 ※


 眼下に広がる千近い敵軍がまるで蟻の巣をつついたように混乱しているのが見える。

 私はその光景を眺めながら、努めて優雅な動作でティーカップをソーサーに戻した。

 手は震えていない。心臓の鼓動も極限の緊張を超えて逆に静まり返っている。


(……舞台は整ったわね)


 私はゆっくりと視線をテーブルの向かいの席に戻す。

 そこには、顔面蒼白でガチガチと歯を鳴らすローマン・ヘルマンシュタイン伯爵が座っていた。


 彼はシルクの寝間着のままここに連れて来られたが、今は私が用意させた毛皮のコートを羽織らせている。

 遠目に見れば、領主同士の一対一の会談として映ることだろう。

 もちろん、そのコートの下で彼の手足が椅子に頑丈に縛り付けられていることは見えない。


「……さて、閣下。素晴らしい朝ですわね」


 私が微笑みかけると、伯爵は「ヒッ」と小さな悲鳴を漏らした。

 無理もない。彼のすぐ背後にはつい数時間前に彼の寝込みを襲った張本人――ステラが、能面のような無表情で控えているのだから。

 彼女の手には白いポット。

 けれどその注ぎ口は、いつでも伯爵の首筋に熱湯を浴びせられる角度で維持されている。


「き、貴様……こんなことをして、タダで済むと……」


「タダで済ませないために、こうしてお話し合いの席を設けたのではありませんか」


 私は声を潜め、あくまで親しげに語りかける。

 傍から見れば仲睦まじいティーパーティーに見えるように。


「単刀直入に申し上げますわ。閣下、あなたの負けです」


「なっ……まだ我が軍は負けておらん! 千の兵がいるのだぞ!」


「ええ、数の利ではまだ閣下におありかもしれません。ですが――虎の子の魔導兵を失い、修道院を襲おうとした傭兵団“鉄の牙”はすでに投降。何より――閣下の身柄はこの通り、私の手中にあります」


 ぐぐっ、と伯爵は言葉に詰まる。

 ここで自身の命を顧みず突撃命令を下せるなら、私に大きな損害を与えることはできるだろう。  

 しかし、自陣のど真ん中から兵に守られたはずの自分が拉致されたという事実。    

 そして自身の生殺与奪権が完全に私にある状況。

 私は扇子を開き、口元を隠して囁いた。


「さて、ここからがご相談です閣下。あなたは今、『寝間着姿で敵に拉致され晒し物にされる無様な敗軍の将』として歴史に名を残すか……それとも、『無益な流血を避けるために単身敵陣に乗り込み、和睦をまとめた名君』として帰還するか。どちらがお好みかしら?」


 伯爵の表情が凍りつく。

 彼も貴族だ。命よりも「面子」が大事な生き物だ。

 「面子」を潰されてしまえば彼は社交界の笑いものになり、家臣の信頼も失墜する。それは死ぬより辛い「社会的な死」だ。

 私が提示したのは、そこからの唯一の逃げ道。

 

「わ、儂が……自ら決めろと……?」


「ええ。閣下は領民を愛しておられる。だからこそ、これ以上彼らを死なせないために危険を顧みず単身、私との会談に臨まれた……そういう『筋書き』です」


 私はニッコリと、悪役令嬢らしく微笑んだ。


「もちろん、その『英断』に見合うだけの対価(賠償金)は後ほどきっちりと書類にさせていただきますが……お安いものでしょう? 名誉も、命も守れるのですから」


 伯爵は脂汗を流しながら眼下の自軍と、背後のステラ、そして目の前の私を交互に見た。

 彼に選択権などない。


「……わ、わかった……そうしよう……」


 屈辱に顔を歪ませながら、それでも彼は頷いた。

 交渉成立だ。

 私は傍らに用意していた拡声の魔導具を起動し、それを伯爵に向けた。


「さあ閣下。愛する家臣の皆様が、今か今かとあなたのお言葉を待っていますわ」


 伯爵は震える手で――拘束されているから実際には動かせないが――咳払いを一つすると、魔導具に向かって声を張り上げた。


『我が軍に告げる! 全軍攻撃を中止せよ! 繰り返す攻撃中止だ!』


 その声は魔導具によって増幅され谷中に響き渡る。

 ざわめきが波紋のように広がる中、伯爵は私に視線で促され言葉を継いだ。


『私は今、アッシュフィールド伯と……そう、高度な政治的交渉を行い、和平の場を設けるよう努力していたところだ! これ以上の流血は双方ともに無為な犠牲を広げるのみである! よって慈悲の心で和平の意向があることを表明する! 全軍、その場で武装を解いて待機せよ!』


 ちょっと調子が良すぎる演技に内心イラッするも、十分だ。

 眼下の兵士たちが安堵とも戸惑いともつかない溜息を漏らし、剣を下ろしていくのが見えた。


 ――戦は終わった。

 安心感で脱力しそうになるのを踏み留まり、私は大きく息を吐き出す。

 背中には冷たい汗がびっしょりと張り付いていた。


 私は紅茶に口をつける。

 すっかり冷めてしまっていたが、その渋みさえも今は勝利の味のように甘美に感じられた。


「……ステラ、おかわりを」


「ん、かしこまりました。伯爵様」


 ステラが静かに紅茶を注ぐ音が、朝の澄んだ空気に吸い込まれていく。

 こうして、エルベ谷の防衛戦は――私の「お茶会」によって幕を閉じたのだった。

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