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第38話 闇に沈みかけた主と影の誓い(後編)

 夜の冷気が肌を刺す。私は音もなく雪の上を疾走していた。

 纏っているのはいつものロングスカートのメイド服ではない。

 かつてかつて『赤い眼』の工作員時代に愛用していた、闇に溶けるための黒装束だ。

 顔を覆う布の隙間から、白く濁った息が漏れる。


(……危なかった)


 走りながら、私の思考はつい先ほどの主とのやり取りを反芻していた。  

 北壁で立ち尽くしていたリリアーネ。その瞳には、いつもの知的な光がなく深く澱んでいた。

 

『――片付けられないかしら』


 その言葉を聞いた時、背筋が凍った。  

 彼女が殺しを命じたからではない。彼女が「思考停止」して、安易な手段に逃げようとしたことが怖かったのだ。


 リリアーネは領主だ。冷徹な計算の上であえて泥を被る覚悟を持っている。  

 だからこそ私は彼女に従うと決めた。


 けれど、あの瞬間の彼女はただの怯える十六歳の少女だった。

 責任の重さに押し潰され、一番安易で、一番汚い「暗殺」という手段で楽になろうとしていた。


 ――あなたがそれを命じちゃいけない。  

 そう告げた瞬間の、あのホッとしたような表情。  

 あの表情が、彼女の素なんだ。

 いつもしたたかで、頭脳明快で、大胆な発想で私やみんなを驚かせる女領主。


 でも、それは彼女がそうあれかしと自分を律しているだけで、本当のリリアーネはもっと――弱くて、怖がりなのかもしれなかった。


(……滑稽なものね)


 リリアーネが抱える苦しみの片鱗を垣間見た一方で、私の人生の惨めさに自嘲の笑みが漏れる。

 私は――ユースティア・ゲオルギエヴナ・ヴァリャーグィナ。

 かつて東の大国を統べたヴァリャーグ帝国の、正統なる血を引く最後の皇女 。


 本来なら皇族として帝王学を学び、言葉と権威で国を動かす術を身につけているはずだった。  

 リリアーネが今、必死に足掻いている「領主としての苦悩」や「政治的な駆け引き」こそが、私が生まれながらに背負うべき責務だったはずなのに。


 今の私には、彼女を政治的に助ける術が何一つない。  

 交渉術も、法律の知識も、民を導く言葉も――何も持っていない。


 あの日、革命の炎が私の全てを焼き尽くした 。

 生き延びるために泥水を啜り、名を捨てて工作員として磨き上げたのは、ただ“効率的に人を殺す技術”と“誰にも見つからずに忍び込む技術”だけ 。


 皮肉な話だ――お父様やお兄様たちは、その優しい気質ゆえに革命の波に飲まれた。

 けれど私だけは違った。ヴァリャーグの歴史に名を残す、武勇誉れ高き血統。

 その血をもっとも色濃く受け継いでしまったのが、末娘の皇女だった私だなんて。


 思えば、幼いころ人形遊びよりも練兵所で兵士の訓練を眺めるのが好きだった。

 食い入るように訓練風景を見ていた私に、指南役の兵士長は戯れに木剣を持たせてくれた。

 私は見よう見まねで訓練している兵の動きを真似てみた。


 すると、温かい目線で私が木剣を振るう姿を眺めていた兵士長がギョッとした顔に変わった。

 そして「……殿下は筋がよろしいですね」と驚いた。


 結局――そのことがお父様の耳に入ったのか、お父様は苦笑しながら「皇女は淑やかにするものだよ」と言った。

 中途半端に聡い私はそれ以後、兵士たちの訓練を覗くことを止めた。


 そのような出来事は工作員の訓練時、如何なく発揮されてしまった。

 過酷な訓練を私の体は恐ろしいほど順応してしまった

 人を殺すことに躊躇いを覚える前に体が動き、気配を消す術を呼吸をするように習得した。


(……恨めしいわねこの血は)


 この才能が「政治」や「統治」に向いて、お父様の補佐ができていたら――帝国は滅びなかったかもしれない。

 ……いや、無理か。あの帝国は末期だった。私一人程度じゃ、どうにもなりようがないほど老いていた。


 あるいは、今こうしてリリアーネの隣でもっとまともな助言ができたかもしれない。  

 けれど、現実は残酷だ。

 英雄の血は、私をただの優秀な人殺しに仕立て上げただけだった。


(……いいえ。今はそれでいい)


 私は夜気を肺いっぱいに吸い込み、感傷を断ち切るように脚に力を込めた。  

 私は政治家にはなれない。リリアーネの隣で、光ある道を共に歩くこともできないかもしれない。  

 けれど――彼女が道に迷いそうになった時、その足を泥沼から引き上げるための「暴力装置」にはなれる。


 リリアーネが「綺麗な領主様」でいられるなら、私は喜んでドブ川を這いずり回ろう。  

 それが、何者でもない私に生きる意味をくれた彼女への恩返しだ。


 ※


 ヘルマンシュタイン軍の陣地は、浮足立っていた。

 篝火が無数に焚かれ、見回りの兵士が神経質に行き交っている。

 しかし――その警備体制は『穴』だらけだった。

 指揮官の焦りが伝播しているのだろう。兵士たちの視線は散漫で、ただ闇雲に数だけを揃えているに過ぎない。


(……ザル警備)


 私は影から影へと滑るように移動する。

 地面を踏む音も立てず、篝火の明かりが届かない死角を縫って陣の中枢へと近づいていく。

 最も大きく、豪華な天幕。その影に身を潜め、中の様子を伺う。


「ええい、役立たず共め!!」


 中から、ガラスが割れる音と共に怒鳴り声が聞こえた。  

 ローマン・ヘルマンシュタイン伯爵の声だ。


「なぜあんなちっぽけな砦一つ落とせん! 虎の子の魔導兵もあっけなく無力化されよって……!! 修道院に向かった『鉄の牙』傭兵団はどうした!」


「まだ何も報告はありません……」


「何のために高い金を払って雇ったと思ってるんだ! 我らにできぬ汚れ仕事も進んでするという触れ込みだったではないかッ!!」


「そ、それは――」


「言い訳など聞きたくない! いいか、明朝だ! 夜明けと共に全軍で突撃する! 何人死のうが構わん、私の前にあの小娘の首を持ってこい!!」


 ヒステリックな絶叫。聞いていられない。

 自分の失策を棚に上げて、部下たちに死を強要する。リリアーネとは大違いだ。

 彼女はたった十数人の部下の死に心を痛め、吐き気を催すほど苦しんでいたというのに。

 そして――この小物は、負けが込んだら確実に領内の兵を総動員するのを確信した。


(……こんな男のためにリリアーネの手を汚させるわけにはいかない)


 私はナイフの柄を握りしめ、冷たい殺意を抑え込む。

 今すぐに飛び込んで首を掻っ切ることは簡単だ。でも、それはオーダーじゃない。

 この男を停戦交渉のテーブルに引き摺り出し、徹底的に敗北を分からせる


 ――数時間後。

 天幕の明かりが消えた。

 周囲の警備兵も、寒さと疲労で注意力が散漫になっている。  

 今だ。


 私は音もなく天幕の布を裂き、内部へ滑り込んだ。  

 酒の臭いが充満している。奥の寝台では小太りの伯爵が大の字になって高いびきをかいていた。  

 ――なんて無防備な姿


 私は枕元に忍び寄り、冷たい刃を彼の喉元に突きつけた。


「……ん、ぐ……?」


 喉元に当てられた冷たい金属の感覚で、伯爵がうっすらと目を開ける。

 その視界に映ったのは、喉元に輝く銀色の刃と、黒装束の私。


「――ッ!?」


「喋るな」


 叫ぼうとした彼の口を、空いている手で強く塞ぐ。

 喉元のナイフをわずかに食い込ませると、赤い血が一筋流れた。恐怖で目を見開き、凍りつく伯爵。


「動けば殺す。……リリアーネ様がお呼びよ」


 耳元で囁くと、彼はガタガタと震え出した。  

 私は手際よく彼を気絶させると、近くにあった毛布でぐるぐる巻きにし、ロープで拘束する。

 ずしりと重いが、運べない重さではない。


「……さて、荷物をお嬢様にお届けしなくちゃね」  

 

 私は“荷物”を肩に担ぎ上げると、再び闇の中へと消えた。  

 東の空が白む前に、主の元へ最高のお土産を届けるために。


 ※


 ステラが任務に赴いてからの時間は、永遠のように長く感じられた。  

 私は司令室に戻り、ただじっと待った。


 外はまだ暗い。けれど、東の空がわずかに白み始めている。夜明けは近い。  

 敵が総攻撃を仕掛けてくるとすれば夜明けと同時だろう。タイムリミットは、あとわずか。


 ――間に合うか。  

 千の軍勢の中枢に潜入し、人間一人を攫って戻るなんて常識で考えれば不可能なミッションだ。  

 けれど、私は信じた。私の最強の共犯者を。


 その時。

 コツン、と小石が司令部の窓を叩いた。私は弾かれたように駆け出す。

 窓から顔を出すと、そこにいたのは――漆黒の装束の忍び。

 その肩にはぐるぐる巻きになった荷物。


 ドサッと、荷物が窓から放り込まれ床に転がる。  

 そして、ひらりと小柄な人影が軽やかに室内に入って来た。


「お待たせ。お土産持ってきた」


 その声を聞く前に――私はステラの小さく華奢な身体を抱き締めていた。  

 彼女の身体は、外気をたっぷりと吸って冷え切っていたが、表情一つ変えず床に転がる大きな荷物を顎で指した。

 毛布でぐるぐる巻きにされ、芋虫のようになった物体がうめき声を上げて蠢いている。


「お疲れ様ステラ。……受け取りのサインはどこにすればいいかしら?」


「ん、別にいらない」


 ステラが毛布の結び目を解くと、中からゴロンと一人の男が転がり出た。  

 猿ぐつわを噛まされ、手足をロープで縛られた寝間着姿の男。

 ローマン・ヘルマンシュタイン伯爵、その人だった。


「ンー! ンググーーッ!?」


 伯爵は充血した目で何かを喚こうとしているが、猿ぐつわのせいで言葉にならない。  

 目の前にいる私と、自分が置かれている状況――敵の砦の真っ只中であること――を理解し、その顔色が怒りから恐怖へと急速に変わっていく。

 私は椅子に深く腰掛け、冷徹な支配者の顔で彼を見下ろした。


「ごきげんよう閣下。……朝早い訪問ですね」


 伯爵がビクリと震える。ちょうどその時、扉がノックされ伝令の兵士が入ってきた。


「リリアーネ様! ってえええッ!?」


「あー、ごめんなさい。このことはまだ内密にしててくれる? もうちょっとしたら広く喧伝するから。で、ご用は何?」


 ヘルマンシュタイン伯爵を発見して悲鳴を上げかけた兵士を宥め、私は本題に入る。

 気を取り直した兵士はそっと私に耳打ちした。

 その内容に私は笑みが零れるのを隠せなかった。なんというタイミングだろう。


 私は猿ぐつわをされた伯爵の耳にも聞こえるように、はっきりと言った。


「エルベ修道院の方で動きがあったみたいよ? 修道院の制圧に向かった傭兵団五十名は全員投降し武装解除されたそうよ」


「――ッ!!??」


「閣下、うちの教区にいる司教様を知らないのかしら? リュシア・バルディーニ、かの聖銃騎士様は避難民を守るべく傭兵団を無血で降伏せしめたそうよ。さすが傭兵団プロの判断ね。千の兵をも殲滅する聖銃騎士相手に無茶な戦はしない、懸命な判断だわ」  


 伯爵の目から、光が消えた。  

 自分の置かれた状況が「詰み」であることを、完全に理解した絶望の表情。    

 私は懐の扇子を開き、口元を隠して微笑んだ。

 ――最高に性格の悪い、悪役令嬢の笑みで。


「さて、閣下。……これより、和睦の条件について話し合いましょうか」


 夜が明ける。

 エルベ谷に差し込む朝日は、私たちの勝利を告げる凱歌のようだった。

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