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第37話 闇に沈みかけた主と影の誓い(前編)

 夜の帳が下りたエルベ砦は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。  

 ただ、鼻をつく硝煙の臭いと、どこからか聞こえる負傷兵のうめき声だけが、ここが戦場であることを雄弁に物語っていた。


 私は一人、北壁の端に立っていた。  

 そこは昼間、敵の攻城魔法が直撃した場所だ。


「……何もない」


 城壁の一部が抉り取られたように崩れ、大穴が開いている。  

 散乱する瓦礫ばかりで、ここにいたであろう人たちの肉片はおろか血糊すらも残ってはいない。  

 高密度の魔力による爆発は石壁ごとそこにいた人間を消滅させてしまったのだ。  

 ユーリ・クライチェク隊長を含め十数名。


『――承知いたしました! この命に代えましても!』


 ふと、ユーリの言葉を思い出す。

 言葉を交わしたのは数度でしかない。それも事務連絡のような会話ばかりだったというのに。

 もう二度と言葉は交わすことはなく、あの声も、表情も、永遠に失われたと思うと胸に鈍い痛みを感じずにはいられなかった。


 ――私がもっと早く魔導兵に気づいていれば。  

 ――私がもっと上手く立ち回っていれば。


 後悔の念が、冷たい楔となって私の胸に打ち込まれる。

 これが戦争。これが領主の責任。

 でも私は泣くことも、崩れ落ちることもできない。

 まだやることが残っている。やらねばならぬことがいくつも残っている。


「……リリアーネ」


 背後から、音もなくステラが現れる。  

 彼女は私の背中にショールをかけてくれた。夜風が冷たいことに、私はそこで初めて気づいた。

 もう三の月の終わりで、春は目前に迫っているのに。


「斥候からの報告。数の利は向こうだけど、切り札を失い攻勢が上手く行ってないことに敵軍はかなり焦れてるみたい」


 私は眼下の闇を見下ろす。谷の入口に陣取るヘルマンシュタイン軍の陣地では、無数の篝火が揺れている。


「ヘルマンシュタインはどう出ると思う? 諦めて帰ってくれれば……」


「……それは絶対にない。だって依然として総兵力は向こうが上。仮にヘルマンシュタインが帰る気になっても配下は絶対に納得しない」


 この初戦のぶつかり合いで、私たちは敵の切り札である攻城魔法を封殺することに成功し、彼我戦力の差も銃と弓の波状攻撃をもってすればひっくり返せることを証明した。このまま守りを固めるだけで時間は確実に私の味方になってくれる。

 その代わり、ヘルマンシュタインの軍勢は負けが決定的になるまで無謀な攻めを繰り返し、敵軍も死者が積み上がっていく。


「後詰の可能性は?」


「ん、五分五分。こんな領主同士の諍いに兵を総動員をかけるなんて普通に考えると馬鹿げてる。でも――負けが込み始めた時、相手がどう出るのかは読みきれない。負けを認めて手打ちを図るか、それとも――」

 

 全力の攻勢に出てしまうか、だ。

 小娘相手にプライドを傷つけられ、領内の兵を総動員。

 ただの領主同士の小競り合いが、そこまでいくと立派な内戦に化けてしまう。

 そうなると王家も動き、ヘルマンシュタインもただでは済まなくなるだろう。


 だが、王家が動く前にヘルマンシュタインが全軍で――エルベ谷を死体で埋め尽くすほど数に任せて攻め立てるようなことでもあれば、私たちは一溜まりもなく全滅してしまう。


「どちらにせよ――明日になれば、また人が死ぬのね……」


 私の声は震えていた。敵の兵士たちも、こちらの兵士たちも。


「早く、早く……終わらせなきゃ……」


 じりじりと思考が焦燥によって焼け付いていくような感覚。

 このままではいけない。これ以上、誰も死なせたくない。  

 そのためなら――手段を選んでいる場合じゃない。

 変に暗くぼやけた視界の中で、私は振り返ってステラを見た。


「ねえ、ステラ。……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 私の言葉に、ステラの琥珀色の瞳が揺れた。  

 彼女は眉をひそめ訝しげに私を見る。


「……片付けるって、どういう意味? 言っておくけど、リリアーネ――“暗殺”の命令は聞けないから」


 かつて、「殺そうか?」と冗談めかして言っていた彼女からの、明確な拒絶。  

 私は縋るように彼女の腕を掴んだ。


「どうして? あなたなら簡単でしょ? あの男がいなくなれば指揮系統は崩壊する。明日の無謀な突撃は止まる。そうすれば、みんな助かるじゃない……!」


 合理的だと思った。  

 一人の悪党が死ぬことで、数百人の命が助かるならそれは正しいことだと。

 けれど、ステラは私の両肩を強く掴み、真っ直ぐに私の瞳を射抜いた。


「できる、できないの話だったら“できる”。でもそういう問題じゃない。あなたがそれをそれを命じちゃいけないって言ってるの」


「ステラ……!」


「思い出してリリアーネ、ヘルマンシュタインを殺したら戦の収拾がつかなくなると言ったのは、あなた自身でしょ?」


 ――ッ!

 頭を殴られたような衝撃が走った。そうだ。私は開戦前、確かにそう言った。

 殺してしまえば、向こうの家臣は「弔い合戦だ」と暴走し泥沼の戦争になる。


 ヘルマンシュタインを生かして勝敗を決しなければ、この戦そのものの停戦交渉が行えない。

 どちらかが勝とうとも、停戦文書にサインする者がいなくては誰も矛を納めてはくれない。


「恐怖に負けて、一番安易な『血』に逃げないで」


 ステラの静かで厳しい声。  

 私はハッとして、自分の手を見た。震えていた。

 私は()()()()()()という美名のもとに、()()()()()()()を選ぼうとした。

 それこそが泥沼に繋がっていると、知っているというのに。


「……っ」


 膝から力が抜けそうになるのを、ステラが支えてくれる。  

 危なかった。私は、取り返しのつかない一線を越えるところだった。


「……ごめん。覚悟してたつもりだったけど、いっぱい人が死んだのを目の当たりにして……私、おかしくなってたみたい」


「ん。戻ってきた?」


「ええ……ありがとう、ステラ。あなたがいてくれてよかった」


 私は大きく息を吐き、自分の頬を両手でパンと叩いた。  

 痛みが、私を現実へと引き戻す。  

 私は領主だ。悪役令嬢だ。

 感情で動いてはいけない。どこまでも冷徹に計算高くあらねばならない。


「訂正するわ。暗殺はなし。……その代わり、新しいオーダーよ」


 私は遠くに揺らめく篝火を指差した。

 さっきと違ってずっとクリアな視界だった。


「ヘルマンシュタイン伯爵を“拉致”して、ここに連れて来て」


「……は?」


 さすがのステラも、目を丸くしてポカンとした顔をした。


「拉致して、私の目の前に連れて来て、この戦いに勝ち目がないことを分からせる。……できる?」


「……ふふっ」


 ステラは呆れたように、しかし嬉しそうに口角を上げた。


「リリアーネったら……殺すより、何倍も難しいオーダーだけど?」


「あら、誰に言ってると思ってるの? ――アッシュフィールドの“狼”でしょう? あなたの牙と爪を信じてるわ」


「……任せて」


「潜入に必要な人員の手配は?」


「ん、一人でいい。そのほうが動きやすい。でも、さすがにこのメイド服では無理ね。着替えたらすぐに出る」


 そう言い残すとステラの姿が夜の闇に溶けるように消えた。  

 風のような、あるいは影のような気配だけを残して。

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