第32話 敗北を死で償うのは、ただの逃げである
すでに日は落ちて、エルベ谷は夜闇に覆われていた。
遠くで風が唸る音、見回りの兵たちの足音が微かに響く以外は静まり返っている。
エルベ修道院に詰めていた兵士たちは全員砦に移動させている。リュシアの建前を守るためにはアッシュフィールドの兵と言えども、修道院の敷地に滞留することはできないからだ。
修道院に残っているのは避難民とリュシアを含む教会関係者、そして一応は民間人であるイリヤたちグレイハウンド商会の面々のみだ。
――おそらく明日にはヘルマンシュタイン伯爵の軍勢が到着し、事態は動くだろう。
決戦の刻が迫っていた。
私はというと司令室の卓上に広げられた地図を睨みながら、ステラが指し示した赤い線を指でなぞる。
それは砦の裏手から断崖を昇り、人が通るとは思えない山中を抜けるルートだった。
「……これが、撤退ルート?」
「ん。そう」
ステラは淡々と、いつもの調子で答える。
「エルベ砦が落ちそうになった場合、裏手に回ってこの山道を昇る。ほとんど獣道だけど」
彼女が指したのは、地図上には道としてすら記されていない、険しい等高線の密集地帯だった。
「地元の猟師ですら冬場は避ける獣道。足場は最悪、滑落すれば即死。その代わり、大部隊は絶対に入って来れない。私とリリアーネ、二人だけなら抜けられる」
「……」
「万が一、砦が落ちて守備隊が全滅するようなら、私がリリアーネを背負ってここを走る。泥だらけになるのは覚悟して」
あまりに現実的で、冷徹なプランだった。
兵士たちが命を賭して前線で時間を稼いでいる間に、総大将である私だけが獣のように泥にまみれて逃げ延びる。
ズキリ、と胸が痛んだ。
昼間、砦で見かけた兵士たちの顔が脳裏をよぎる。
彼らは私を信じていた。「領主様のために」という言葉を口にした彼らは、このプランには含まれない。
「……やっぱり却下よ。そんな計画、認められない」
私は地図をステラの方へ押し返した。
「みんなは私を信じて戦ってくれているのよ。それなのに総大将の私が、彼らを囮にして一人で逃げるなんて……そんなことできるわけがない」
「できる、できないの話じゃない。そうなった場合は絶対にやるの」
「ステラ!」
「じゃあ聞くけどリリアーネ。あなたがここで綺麗な悲劇の領主様として死んだら、誰が喜ぶの?」
「……っ!」
ステラの声が、一段低くなった気がした。
いつもなら「ん」で済ませる彼女が、私を真っ直ぐに見据えて言葉を紡ぐ。
「ヘルマンシュタインが喜んで、後継者のいないアッシュフィールド家は取り潰し。領民たちは路頭に迷うか、新しい領主に搾取されるだけよ。……あなたの死は、領民全員への裏切りだわ」
ステラの言葉は鋭い刃のようだった。
正論だ。頭ではわかっている。
けれど、前世の――平和な日本で培われた倫理観が叫ぶのだ。自分だけ助かろうとする卑しさを許せないと。
私が言葉に詰まり、唇を噛み締めていると、ステラはふっと視線を外した。
窓の外、どこまでも続く暗闇を見つめるその瞳は、ここにいない誰かを見ているようだった。
「……十年と少し前、東の国に一人の馬鹿な男がいたの」
唐突な昔話。けれどその声色は、いつもの“無垢な狼”を演じる幼い響きではなかった。
落ち着いていて、知的で、そして――どうしようもないほどに悲痛な、大人の女性の声だった。
「その男は、根腐れを起こし斜陽に向かうしかなかった大国の皇帝だった。……でも中身は、どこにでもいる凡庸で優しいただの善人だったわ。傾いた帝国を立て直すことなんて到底できないただの凡人」
名前を言わないが、間違いなくその男はステラの父――旧ヴァリャーグ帝国最後の皇帝のことだろう。
「国はもうガタガタだった。特権階級は腐敗し、民は飢え、あちこちで暴動が起きていた。側近たちは徹底的な武力鎮圧を進言したけれど、男は首を縦に振らなかった。『彼らもまた、余の愛する民だ』って」
ステラは自嘲気味に口元を歪める。
「そして――運命の日、膨れ上がった暴徒が宮殿に押し寄せたわ。近衛兵たちは男に『お逃げください』と懇願したわ。逃げて地方の軍と合流して再起を図るべきだと。……でも、男は逃げなかった」
「……その人はどうして?」
「『話せばわかる』と思ったのよ。自分は民を愛している。だから誠心誠意語りかければ、暴徒たちもわかってくれると本気で信じていた。それが私が見た最後の姿」
脳裏に浮かぶのは、側近の制止を振り切り民との和解に臨んだ愚直な男の背中。
ステラにとってそれは、どんな気持ちを伴う光景だったのだろうか。
「後は伝聞。“赤い眼”時代に記録で読んだことだけれど――男は武器を持たずに、暴徒の前に立った。対話を求めて手を広げた。……返ってきたのは対話の言葉じゃなかったそうね。無数の罵声と、怒号と、嘲笑と、石つぶて」
ステラの声が、わずかに震える。
「宮殿になだれ込んだ民衆は、男を引き倒し、袋叩きにした。男は無抵抗で、されるがままに殴られ、蹴られ……顔の形がわからなくなった襤褸の塊になるまで嬲り殺しにされ、最後はとっくに動かなくなった死体が絞首台に吊るされたそうよ――同じ目に遭った家族と共々にね」
「……っ」
あまりに救いのない最期。
悪逆非道な暴君が倒されたのではない。
ただ、時代に対応できなかっただけの、善良で愚かな皇帝はその善意ゆえに惨死した。
「私は、あの男が嫌い。皇帝としての自覚も危機感も足りなかったあの人が――」
ステラは私の方を向き、その琥珀色の瞳で私を射抜く。
その眼差しは私がよく知る白狼の従者ステラではなく、歴史に翻弄された亡国の皇女だった。
「……でも、大好きだった。私を膝に乗せて絵本を読んでくれた優しいお父様が」
その瞳には涙こそ浮かんでいなかったけれど、慟哭にも似た感情が渦巻いていた。
「父が死んだあの日、私は名前を捨てた――捨てざるをえなかった。ユースティア・ゲオルギエヴナ・ヴァリャーグィナ。そんな仰々しい名前は、逃亡生活においてはただの命取りになる呪いでしかなかった。だから私はその名をドブ川に捨てて、ただの薄汚い孤児出身の使い捨ての工作員として『ステラ』となった」
彼女が過ごした過酷な日々は、私の想像を絶するものだっただろう。
皇女としての誇りも尊厳も、何もかもをドブの底に沈めて泥水をすすりながら生きてきたのだから。
実年齢二十代でありながら、十代半ばに見えるその幼い容姿さえ、過酷な環境による栄養不足の結果なのだろうか。
「皮肉なことに、ヴァリャーグの歴史に名を残す英雄帝たちの血を色濃く受け継いでいたのは、お父様でもお兄様たちでもなく、私だったみたい。“赤い眼”の過酷な訓練にも耐えられてしまった。誉れ高き武勇の血の末路が、汚らわしい裏工作屋の始末人なんて笑えるでしょう?」
自嘲気味な笑みの裏には、諦めとも悲観ともつかない感情が垣間見えた気がした。
「でもね、リリアーネ……不思議なものよ。名前も過去もドブの中に捨てはずなのに――この身体に流れる血だけは、嘘をつけなかった」
その瞳の奥に、暗く――けれど決して消えることのない妄執の灯が揺れていた。
「私が生きている限りヴァリャーグの皇統は途絶えていない。どれだけ落ちぶれようと、泥水を啜って這いつくばろうと……私が呼吸をしている限り、帝国はまだ『死んでいない』って」
「ステラ……」
「心のどこかでまだ燃え滓が残っているの。いつか、あの雪の都を取り戻せるんじゃないかっていう……身の程知らずな夢が。馬鹿げた復讐心と、再興への妄執が。あの帝国はとっくに寿命を迎え、滅びるべくして滅びたにすぎないのに」
それは彼女が初めて見せた、裸の感情だった。
クールなスパイでも、幼く天然な白狼の従者でもない。
国を失い、家族を失い、それでもなお自らの血が持つ妄執に苛まれる亡国の皇女としての業。
「正統な為政者は、何があっても生き続けないといけない。生きて、種火を守り続けないといけない」
ステラが私をじっと見据える。
その視線は、同じ“背負う者”としての業の自覚を私に問いかけているように思えた。
「リリアーネ、あなたも同じよ。アッシュフィールド伯爵家という『国』は、あなたそのものなの。あなたが生きている限り、領地を焼かれようが屋敷を奪われようがアッシュフィールドは終わらない。でも、あなたが死ねば……すべてが終わる」
彼女がなぜ、あれほどまでに私の生存に執着するのか。
なぜ、泥にまみれた獣道を選んででも逃げろと言うのか。
それが単なる契約や友情だけでなく、彼女自身の生き様――『為政者は泥水を啜ってでも生きろ』という、血塗られた哲学に基づいていることを、私は痛いほどに理解した。
「敗北の責任を死んで償うのは簡単。でもそれは残された人に全部押し付けてるだけ。あなたは本当にそれがしたいの?」
私は唇を噛み締める。ステラの言葉が深く胸に突き刺さる。
「それにね。私は“ユースティア”としてじゃなくて、“ステラ”として、リリアーネに生きててほしいの。アッシュフィールドのためでも、領民のためでもなく、私個人のワガママとして言う。死なないで。絶対に」
為政者が背負うべき業としての生存。
そして、友人としての願い。
それを理解できないほど、私は子供ではないし――愚かでもない。
「……わかった。逃げるのはまだ好きになれないけど――私だけの命じゃないっていうのはちゃんと覚えておく。だからステラ。逃がされる覚悟、ってやつもちゃんと持っておくから。あなたはその時になったら遠慮なく私を引きずってでも連れて行きなさい」
私はステラの手を強く握り返した。
彼女の冷たい手が少しだけ熱を帯びているように感じた。
私の答えを聞くと――ステラの瞳から、大人の女性の色がすっと引いていく。
張り詰めていた空気が緩み、いつもの幼く無機質な、けれどどこか愛嬌のある表情へと戻った。
「ん、いい子」
ステラは私の頭をポンポンと軽く叩く。
その表情はもう皇女ユースティアではなく、私の共犯者としての“ステラ”の顔に戻っていた。
「まあ、そうならないように勝てばいいだけの話。リリアーネならきっとできる」
「ふふっ、違いないわ」
重苦しい空気は消えた。
今の私たちにあるのは悲壮な覚悟ではなく、勝利への渇望だけだ。
「明日にはヘルマンシュタイン軍が谷やって来るはずよ。……ここが正念場だわ」
「ん。みんな準備はできてる。後は勝つだけ」
「ええ――」
私は小さく頷き、窓の外の暗闇を見つめる。
まだ見ぬ敵影に向けて、宣戦の声を上げた。
「さあ――勝つわよ、ステラ。絶対に!」




