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幕間 老執事はただ、静かに見守ることを選ぶ

 アッシュフィールド伯爵家の執務室には、このところ強い香りがうっすらと残るようになった。

 麦を肉と野菜で煮込み、香草で風味を付ける奇妙な料理――リリアーネが“かれえ”と呼ぶ料理である。先日教会の厨房で振舞われた後、リリアーネは屋敷の厨房でそれを再現を試みているようだが上手くいかない。

 高価な香辛料を使わずに比較的安価な香草でも代用できないかと、試行錯誤しているらしい。


 結果、塩味でやたらハーブの匂いがきついだけの麦の肉粥が出来上がるの繰り返しとなっていた。

 リリアーネはしばしば暇をみては“かれえ”を再現すべく、自ら厨房に入り作っている。その味の評判は決して良いとは言えないものだった。


 全く食べられないほど酷い味ではない。香草のせいで少々癖が強い味がするという程度の代物だ。味見をしたメイドの感想によれば、「疲れて何でもいいから胃の中に流し込みたいときなら喜んで口にする」味だそうだ。


 そして謎粥を作っているリリアーネだが、今日は鍋の前ではなく執務机の前で領主本来の職務である事務仕事に追われていた。

 

「……次に増員が必要なのは港湾倉庫の書記官ね。人手は足りてるけれど、帳簿の質が追いついていないわ。イリヤのところの若い衆たちも頑張ってるけど帳簿経験はまだまだ教育が必要でしょうから」


「帳簿を付けるには相応の経験が必要ですからな。なかなか募集をかけた程度で希望に添った人材が得られるとも限りませぬゆえ」


 机の端には、一冊の厚い帳面が開かれている。

 アッシュフィールド領で伯爵から直接雇用されている労働者の氏名と経歴が記載されている人事台帳だ。

 新たな雇用や配置換えのたびに、ヴェルナーが自らの手で書き加えてきたものだった。


「うーん、人材が自転車操業ね……どこもかしこも慢性的な人員不足。力仕事ならグレイハウンド商会の若い衆から引っこ抜いて来てもいいけどさあ。頭を使う部門はそういうわけにはいかないから、困ったもんね」


「ですな。しかるべき教養を身につけ、読み書き算術に堪能なものとなれば、なかなかに限られてしまうでしょう」


 リリアーネが順調に領地を運営していることで、このアッシュフィールドは発展の兆しを見せ始めたものの、人材育成という長期スパンが求められる部分が追いついていけず、今後の課題と成りつつあった。


「ところでお嬢様、今日は厨房での料理研究はなさらないので?」


「そーしたかったんだけど……最近料理してばっかりでお仕事がたまっちゃったからなー。今週は執務に専念しないとなあ……」


「して、例の香辛料を使った肉粥の再現の進捗はいかがですかな?」


「全然ダメ、手詰まりよ。香辛料が安くならない限り、あの香りを再現できないわ……」


 短い雑談の間にも、彼女のペンは止まらない。

 港の整備、穀物の買い付け、教会との折衝。

 若すぎる伯爵令嬢の机の上には、次から次へと決断と指示を求めて書類が舞い込んでくる。


 その執務机から少し離れた部屋の隅に、もう一つの影があった。

 白と黒のメイド服に身を包み、壁際で静かに控える白狼の娘。視線は真っ直ぐ扉の方角と窓の外との間を行き来させ、ただの一度も無用な動きを見せない。


 ――ステラ。

 リリアーネの付きメイド兼護衛と、少なくとも表向きはそういうことになっている娘だ。

 ヴェルナーの視線の先に人事台帳が開かれている。

 

 ステラ・エクレール

 採用年月日:聖歴1089年〇月✖日

 年齢:21歳

 紹介者:グスタフ・アッシュフィールド

 前職:地方貴族家奉公


 老執事は台帳に記された人物の経歴に眉を潜ませた。

 先代が亡くなってからこの屋敷も随分と様変わりしたように思える。

 病状に臥せった先代が咳き込む声はもうしない。代わりに後を継いだ女伯爵の笑い声と、部屋の隅で静かに立つメイドの気配が、日々の風景として染み込んでいた。


(……グスタフ様が、あの娘を連れてこられた日のことは、忘れようとしても忘れられませぬな)


 ペンを走らせるリリアーネの横顔を視界の端に留めながら、ヴェルナーは静かに過去を思い返した。


 ※


 先代伯爵が床に伏せがちになってから、屋敷は常に手薄だった。

 病床の伯爵に付きっきりの者、港の整備や穀物倉庫の手配で走り回る者。

 老いぼれである自分も、かつてのように細かなところまでは目が届かない。

 その隙間を縫うようにしてあの日、グスタフが現れた。


「兄上の容体はいかがですかな、ヴェルナー」


 玄関ホールで外套を脱ぎながら、彼はいつものようにねっとりとした笑顔をこちらに向けた。  

 衣服は派手で、香水の香りは強い。最近賭け事で大きな借金を作ったとの話も耳に入っていた。

 何とも言えない気持ちに、老執事は僅かに顔を顰める。

 爵位継承を巡る昔日の騒動を知る者なら、アッシュフィールド家の者が彼をどう見ているか、察するのは容易かった。


「安定はしていますがあまり良いとは――」


 形式的な応対をしながらも、ヴェルナーはその背に控える一人の影に目を留めた。

 グスタフに付き従うように現れた銀髪の娘。控えめなメイド服の裾を整え、深く頭を垂れている。

 獣の耳と尻尾を持つその姿は、この多人種の王国では決して珍しくはない。


 だが、珍しいのは――その佇まいだった。

 常に一歩を踏み出せるように立ちながらも、無用に力む様子はない。

 視線は俯きながらも、長い睫毛の隙間から周囲の出入り口と人の位置を正確に測っている。


 メイドというより、護衛。あるいはそれ以上に――

 老執事は内心で僅かに息を飲んだが、表情は崩さなかった。


「……そちらの方は?」


「王都の方でな、少々縁があって連れてきた娘だ」


 グスタフは少女の肩を軽く叩き、いかにもらしい口調で言った。


「病人の看病に長けており薬草にも通じているようでな。兄上の病も長引いておられると聞いて少しでも兄上のお役に立てばと思い連れてきたのだよ」


 その言葉に、寝台の上で待つ主君の顔が思い浮かぶ。

 日ごとに痩せ細り、それでも娘の将来を案じて書類に目を通し続ける、あの顔だ。

 看護の人手が足りていないのは事実だった。昼夜問わず働く使用人たちの疲れもヴェルナーはよく知っている。


(……怪しい)


 心の中で、短い言葉が浮かぶ。

 爵位継承の争いに敗れ、領民からの評判も芳しくない弟が、今さら兄の病を案じてメイドを連れてくる。

 しかも、その立ち居振る舞いのどこをどう見ても“ただのメイド”ではない娘だ。


 だが、老執事という立場で、口にできる言葉は限られていた。


「それは……ありがたいお申し出にございます。旦那様の看病は、何かと手が足りぬので」


 この場で使用人が「お引き取りを」と言える家など、存在しない。

 主君の権限を勝手に越えることはできないのだ。


「兄上もきっとお喜びになりますよ。なあ?」


 グスタフは振り返り、娘に目を向ける。


「自己紹介しなさい」


「……ステラと申します。前の奉公先では、病床の旦那様の身の回りをしておりました」


 頭を下げる声は、やや硬いが礼儀に沿っている。言葉の端に遠い地方の訛りが少しだけ混じっていた。

 だが、その眼差しは――やはり、使用人のそれではなかった。


(……口ぶりは田舎の小さな家に仕えた娘。しかし所作は――)


 この違和感を、その場で口にすることは許されない。

 ヴェルナーは主人の居室へと客人を案内しながら、心の中でただ一つ決意した。


(ならば、見張らせていただきましょう。一介の執事が貴族を疑うことはできずとも、使用人に目を光らせることは、私の職務にございます)


 ※


 それからしばらくの間、ヴェルナーの目は、ステラの一挙手一投足を逃さぬよう努めた。

 夜の廊下。寝室前の薄暗い空間では、彼女の黒い姿が壁に溶けるように立っている。

 足音はほぼ無音。声をかけると、すぐさま礼儀正しいメイドの顔に戻るが、その変化は一瞬だ。


 薬棚で瓶を扱う手つき。煎じ薬の分量を量る時の迷いのなさ。包帯を巻く速さ。

 どれも、少しやり慣れている程度ではない。


 そして他のメイドとは近くもなく、遠くもなく。一定の距離を保って交流を続けている。

 ヴェルナーは一度家中のメイドにステラについて探りを入れたことがある。


「ステラさんですか? 良い人だと思いますよ、礼儀正しくていろんなお仕事もこなしますし」


 良い人、礼儀正しい、仕事をそつなくこなす。

 誰に聞いても答えは似たり寄ったりの、良くも悪くも“平均値”に紛れる評価。

 一方で、伯爵の容体はステラの看病が加わったことで、目に見えて安定した。

 夜の咳は軽くなり、息が繋がるようになる。栄養状態もいくらか持ち直した。


 怪しくて、有能。

 背筋に寒気が這うような組み合わせだ。


(履歴書の出身地。教会に残っている孤児名簿。前の奉公先とやらの記録……)


 ヴェルナーは、手の空いた時間を見つけては、地道に裏取りを試みた。

 教会に照会を出し、小貴族の系譜をひも解き、ステラの言う前職が本当に存在したのかを確かめた。

 結果、記録上は確かに彼女の言葉と矛盾はなかった。

 没落した地方貴族、その家で使われていたらしい白狼の娘、雇い主の病死。


 嘘ではない。だが――それが真実のすべてとも、限らない。


 ※


 その後に起きた出来事は、屋敷の誰もが忘れようとして忘れられない。

 先代の死。葬儀の準備で慌ただしくなる中での、伯爵令嬢毒殺未遂事件。

 そして、その騒動の果ての首謀者グスタフの断罪。


 表向き毒の出所は、グスタフが外から持ち込んだものとされた。

 実際、それが最も自然な筋書きだろう。

 だが、老執事の目にはどうしても拭えぬ影がいくつか残った。


 伯爵令嬢はいつ毒を盛られた? あの場でグスタフの息のかかった者がいたとしてどのように?

 結局グスタフはリリアーネの命によって何も語らぬまま処刑された。


 そして――その後のステラの振る舞い。

 事件後、彼女はリリアーネと急に打ち解けた様子を見せた。

 先代が病死する前、リリアーネがステラに何度も強く当たっていたのをヴェルナーは知っている。

 ヴェルナーにも我儘な振る舞いで彼を困らすことも多々あった。


 それが先代の死後、突然変わった。リリアーネはこれまでの傲慢な振る舞いを改め、領民に対して真摯な態度を示し始めた。

 そして、ステラを傍に置いて離さなくなった。


(……お嬢様とあの娘の間で、あの日、何が交わされたのか)


 知りたいと思わなかったわけではない。

 むしろ、老いぼれの好奇心は、何度もその問いを意識の表面に押し上げた。

 だが、リリアーネは語らない。ステラも語らない。

 仕える主が秘するものを執事風情がこじ開ける道理はない。


(お嬢様が敢えて語らぬことに、私情で手を伸ばすのは不敬というものでございましょう)


 そう自らに言い聞かせ、ヴェルナーはただ、これまで通り目を光らせ続けることを選んだ。


 ※


「ヴェルナー?」


 ふと、現実へと意識が引き戻された。

 台帳の上に影が落ちる。顔を上げると、リリアーネが不思議そうにこちらを見ていた。


「どうかしたの? 人事台帳、そんなに面白い読み物でもないでしょうに」


「失礼いたしました。少々、昔のことを思い出しておりました」


 苦笑を浮かべて頭を下げると、リリアーネは「ふうん」と肩をすくめ、ペンを置いた。


「そういえばステラの経歴欄、そろそろ書き換えた方がいいかしらね。お父様が亡くなってからは仕事内容もずいぶん変わったでしょうし」


「現在のご担当をそのまま記すと……『アッシュフィールド伯爵付きメイド兼護衛』……でしょうか」


「んー……まあそんなところかな」


 “護衛”ということばにリリアーネの狼の耳がぴくりと動き、一瞬だけステラの方を見る。

 その会話を、ステラは壁際の定位置から静かに聞いていた。表情は変わらない。


 扉の方から、小さなノックの音が聞こえる。


 ステラの身体が、すっと動いた。

 背筋を伸ばし、一歩進み出てノブに手をかける。その動きの滑らかさと速さは、やはりただのメイドのそれではない。


 ヴェルナーは静かに人事台帳を閉じる。

 グスタフはもはや、この家に害をなすことはできない。彼が連れてきた娘もまた、今や()()()()()()()()()()()()使用人の一人になった。


 完全な安心など、老いた心にはもう訪れないのかもしれない。

 それでも――少なくとも今は、この光景を信じていいのだろう。


「……本日のご執務も、そろそろお仕舞いになさってはいかがでしょう、お嬢様」


 束ねた書類を整えながら、ヴェルナーは静かに言った。


「領主にも、休息は必要にございます」


「まだもう少しだけ。ここの計画は、今週中に片付けておきたいのよ」


 リリアーネはそう言いつつも、目元には確かな疲れが滲んでいる。

 ペン先がわずかにふらついたとき、ステラが音もなく近づいた。


 彼女は何も言わず、薄いショールをそっとリリアーネの肩にかける。


「……ありがとう、ステラ」


「お疲れのご様子です、お嬢様。温かいお茶をお持ちしましょうか」


「お願いするわ。ただし、今度は毒抜きのをね」


 冗談めかした言葉に、ステラの狼耳が一瞬だけぎこちなく揺れた。

 そのやり取りに、ヴェルナーは気づかぬふりをする。


(怪しい娘は、怪しいまま。それでも――お嬢様が彼女を信じ、傍に置かれたのなら)


 老執事は静かに目を伏せた。


(私の役目は、その選択が報われるよう、陰から支え続けることだけでございます)


 そう心の中で結びながら、彼は新たな書類の束を整え、小さく咳払いをした。

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