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坂の街についた日

作者: てんちょう
掲載日:2025/12/21

今後の参考にしたい為、コメントにてご指摘お願いします

熱海駅の改札を抜けた瞬間、私は思ったよりも強く息を吸い込んでいた。胸が広がるというより、肺の奥まで湿った空気が押し込まれる感じがした。潮の匂いとも、温泉の硫黄とも違う。長く使われていない布団の中に顔を埋めたときのような、古くてぬるい匂いだった。


 田舎から出てくると、街はいつも騒がしい。人の声が重なり、音が跳ね返り、落ち着かない。しかし熱海の駅前は、人が多いはずなのに、なぜか音が沈んでいた。観光客の笑い声も、キャリーケースの転がる音も、地面に吸い込まれていくようで、耳に残らない。


 私はキャリーケースの取っ手を握り直した。手のひらが少し汗ばんでいる。

 この旅行は、誰かに背中を押されたものではなかった。職場の人にも、実家にも詳しくは言っていない。ただ「少し出かける」とだけ伝えた。理由を聞かれるのが、面倒だったからだ。


 本当の理由は、自分でもよく分かっていなかった。

 ただ、このまま家と職場を往復するだけの生活を続けていたら、何かが少しずつ削れていく気がしていた。それが何なのかは分からない。ただ、戻れなくなる前に、どこかへ行かなければいけない気がした。


 駅前の通りを抜けると、すぐに坂が始まった。地図で見てはいたが、実際に立つと想像以上に急だった。観光案内の看板が、どれも斜めに設置されていて、水平なものが一つもない。町全体が傾いているように見える。


 坂を登るにつれて、人の姿が減っていった。派手な土産物屋は途中で途切れ、シャッターの降りた建物が増えていく。色あせたホテルの看板、割れた窓ガラス、カーテンのない部屋。使われていない建物が、使われていないまま、ただ並んでいる。


 私はスマートフォンの地図を何度も確認した。

 表示は間違っていない。予約した旅館は、確かにこの先にある。


 坂の途中で、ふと足が止まった。

 背中に、視線のようなものを感じた。


 振り返っても、誰もいない。

 坂の下には、駅前の明るさが遠くに滲んで見えるだけだった。人の声も、車の音も、ここまでは届かない。


 「気のせい」


 小さく呟いた声が、思ったより近くで返ってきた気がした。自分の声なのに、耳元で囁かれたような感触が残る。私は首筋をさすったが、当然、何もなかった。


 歩き出すと、空気が変わった。

 温度でも湿度でもない。もっと別の、言葉にしにくい違和感だった。肌に触れるものが、空気ではなく、薄い布のように感じられる。何かに包まれているような、逃げ道を塞がれているような感覚。


 旅館は、坂の途中にあった。古いが手入れはされているようで、玄関の暖簾だけが新しい色をしていた。中に入ると、受付には誰もいなかった。呼び鈴を鳴らしても、返事はない。


 しばらくして、奥から女将が現れた。年齢は分からない。顔には深い皺があるのに、目だけが妙に若い。私を見ると、名前を確認し、淡々と鍵を差し出した。


 「夜は、あまり外を歩かないほうがいいですよ」


 それだけ言って、女将はそれ以上何も説明しなかった。

 理由を聞く間もなく、帳場の奥へ消えてしまった。


 部屋は三階だった。廊下は静かで、畳の上を歩く自分の足音だけが、やけに大きく響く。障子を開けると、窓の外には坂の町が見えた。屋根と屋根が重なり、その隙間に、黒い影が溜まっている。


 夜になったら、景色はきっと見えなくなる。

 代わりに、何か別のものが、こちらを見る気がした。


 私はカーテンを閉めた。

 そのとき、部屋の隅で、畳がきしむ音がした。


 誰もいないはずなのに。

夜になると、旅館は急に狭くなった。


 昼間は気にならなかった廊下の幅が、照明を落とすと縮んだように感じられる。非常灯の緑色の光が畳に染み込み、壁の木目が歪んで見えた。空調の音はない。代わりに、建物そのものが呼吸しているような、微かな軋みが続いている。


 部屋に戻ってから、私はしばらく動けなかった。畳のきしむ音が、気のせいではなかったことが分かっていたからだ。あれは確かに、私が立っていない場所から鳴った。今も、耳を澄ますと、一定ではない間隔で、畳の奥から小さな音が返ってくる。


 ぎし。

 ……ぎし。


 誰かが、体重をかけたり外したりしているような音だった。


 布団を敷く気にはなれず、私は座卓の前に正座したまま、テレビをつけた。音量を少し上げる。だが、番組の内容は頭に入ってこない。画面の中の人たちの動きが、どこか不自然に見えた。会話の間が、ほんの少しだけ長い。笑顔が、遅れて貼り付く。


 時計を見ると、まだ九時前だった。

 こんなに早い時間から、こんなに静かなはずがない。


 廊下で、足音がした。


 一歩。

 少し間を置いて、もう一歩。


 畳を擦るような、素足の音だった。スリッパの音ではない。旅館の廊下を、裸足で歩く人などいるはずがないのに、その足音は、確実にこちらへ近づいてきていた。


 私は息を止めた。

 足音は、部屋の前で止まった。


 障子一枚隔てた向こう側に、気配がある。

 立っている。動かない。ただ、そこにいる。


 声をかけられる気がした。

 あるいは、戸を開けられるかもしれない。


 だが、何も起きなかった。


 数秒後、足音はそのまま、来た方向へ戻っていった。

 私はようやく息を吐き、喉の奥に溜まった空気の冷たさに気づいた。


 その夜、私はほとんど眠れなかった。布団に入っても、目を閉じるたびに、部屋の隅で畳がきしむ音が聞こえる。音は次第に規則正しくなり、まるで誰かが、そこに座っているかのようだった。


 朝になっても、疲れは取れなかった。


 朝食は一階の広間で取ることになっていた。宿泊客は私を含めて三組ほどしかいないようだった。高齢の夫婦と、若い男女の二人組。誰も大きな声では話さない。食器の触れ合う音だけが、やけに響いている。


 女将は、私の前に味噌汁を置くと、少しだけ視線を落とした。


 「……眠れましたか」


 問いかけは、心配というより、確認に近かった。


 「少し……」


 そう答えると、女将はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、箸を持つ私の手元を、一瞬だけ見た。


 その視線に、理由の分からない寒気を覚えた。


 朝食を終え、外に出ると、町は明るかった。昼間の熱海は、普通の観光地に見える。坂道も、古い建物も、ただの景色だ。夜に感じた違和感が、嘘だったように思えてくる。


 私は海の方へ歩いた。

 潮の匂いが、少し安心させてくれる。


 だが、海に着いても、落ち着かなかった。波の音が、均一すぎる。打ち寄せて、引いて、また寄せる。その繰り返しが、何かを数えているように聞こえた。


 砂浜に、足跡があった。

 一人分ではない。だが、どれも同じ幅、同じ歩幅で続いている。


 私は立ち止まり、その足跡の先を見た。

 足跡は、途中で消えていた。

 波にさらわれたわけではない。乾いた砂の上で、急に途切れている。


 背後で、声がした。


 「……その跡、見ちゃいました?」


 振り返ると、誰もいない。

 だが、確かに聞こえた。耳元ではない。背中の後ろ、少し離れた場所から。


 私はその場を離れた。

 足取りが、自然と早くなる。


 旅館に戻ると、女将が帳場に立っていた。私を見るなり、少しだけ眉を寄せる。


 「外で、何か……見ましたか」


 私は首を横に振った。

 嘘をついたつもりはなかった。ただ、何を見たのか、自分でも分からなかった。


 女将は、それ以上追及しなかった。

 ただ、低い声で言った。


 「夜は、戸を開けないでください」


 その言い方は、忠告というより、もう決まっていることを告げるようだった。


 その夜、私は障子の前に、キャリーケースを置いた。

 意味がないと分かっていても、何かを挟んでおかずにはいられなかった。


 消灯後、また音がした。


 今度は、畳ではない。

 障子の向こうで、爪が引っかくような、かすかな音だった。


 引っかいている。

 内側からではない。

 外側から。


 私は、目を閉じた。

 開けたら、何かと目が合ってしまう気がした。


 そのまま、朝が来るのを待った。

夜が明けても、爪で障子を撫でる音は耳の奥に残っていた。旅館の朝は規則的で、廊下の端から端まで同じ匂いがする。味噌汁と濡れた木と、洗剤の甘さ。けれど私の部屋だけ、どこか湿った布の匂いが抜けない。畳に鼻を近づけると、冷たい土の匂いがした。ここは三階なのに。

 女将は朝食の盆を置くとき、昨日よりも近い距離で私を見た。目が合うとすぐ逸らす。逸らし方が「見てはいけないものを見た人」みたいだった。

「昨夜…戸は開けませんでしたね」

 確認だった。私が頷くと、女将は小さく息を吐いた。

「なら、いいです。今日は晴れますから」

 晴れる。天気の話をしているのに、声色が葬式みたいに低い。


 私は外へ出た。昼の温泉街は観光客で賑わっている。プリン屋の前に行列ができ、坂道を浴衣姿がゆっくり上っていく。私はその群れに紛れれば、昨夜の音を忘れられる気がした。

 だが、群れの中でだけ、妙に寒かった。人と人の隙間から風が入る。いや、風ではない。誰かがすれ違うときに残す体温の欠片が、逆に熱を奪っていく。


 坂を下り、商店街の端まで来たとき、古い地図看板が目に入った。色褪せた案内板には、今は閉鎖されたホテルがいくつも載っている。そこに、私の旅館の名前が書かれていなかった。

 見落としたのかと思い、もう一度探す。ない。私が泊まっている場所だけが、地図から抜け落ちている。

 胸の奥が冷たくなる。私は隣の案内板へ向かった。そこにも、ない。旅館そのものが、最初から存在しないみたいだった。


 写真で確認しようと思った。昨日、玄関の暖簾を撮ったはずだ。スマートフォンを開き、カメラロールを探す。ある。けれど、暖簾の文字がぼやけて読めない。ピントが合っていないのではない。文字だけが、濡れた墨のように滲んでいる。

 指で拡大すると、滲んだ部分が少し動いた。波紋みたいに。私は画面から指を離し、息を止めた。動いたのは、動画だったのか。いや、静止画のはずだ。念のためもう一度開くと、今度は普通の写真に見える。ただ、旅館名の部分だけが黒い塊になっていた。


 背後で、紙を擦る音がした。振り返ると、観光客がパンフレットをめくっているだけだった。けれど音だけがやけに近い。耳元で紙がめくられたように感じる。私は無意識に耳を押さえた。

 その瞬間、肩に軽く触れられた。すれ違いざまの接触。私は反射的に「すみません」と言って振り返った。そこには誰もいなかった。人は皆、ちゃんと前を向いて歩いている。私だけが立ち止まっている。

 肩に、指の跡みたいな冷たさが残った。冷たさは肌の表面ではなく、骨のほうに残る。


 気分を変えようと思い、私は海へ向かった。潮の匂いがすれば、現実に戻れる気がした。だが浜辺に近づくほど、耳が詰まる。波音が均一すぎる。寄せて、引いて、また寄せる。その繰り返しが、何かを数えているように聞こえた。私は波を見ないように視線を逸らした。見たら数えてしまう気がした。

 砂浜には足跡があった。一人分ではない。けれど、どれも同じ幅、同じ歩幅で続いている。まるで型押しされたみたいに同じ。私は足跡の先を見る。足跡は途中で消えていた。波にさらわれたわけではない。乾いた砂の上で、急に途切れている。


 背後で声がした。

「その跡、見ちゃいました?」

 振り返っても誰もいない。声は確かに聞こえた。耳元ではなく、背中の後ろ、少し離れた場所から。私は心臓が跳ねるのを感じ、砂を蹴って歩き出した。


 温泉街へ戻る途中、私は小さな食堂に入った。人のいる場所に座っていれば、何かが薄まる気がした。カウンターでアジフライ定食を頼む。店主らしい男は、私の顔を見るなり一瞬だけ口を閉じた。それから「はいよ」と短く答え、視線を鍋のほうへ戻した。

 隣の席の老夫婦が小声で話している。聞こえないふりをしていたのに、言葉だけが耳に入った。

「…空いてるとこに入るからね」

「…数えると増えるんだよ」

 私が箸を止めると、老夫婦は会話をやめた。やめたのではない。口を閉じたまま、同じ表情で咀嚼を続けた。まるで電源を切られたみたいに。

 定食が出てきた。私は食べた。味は普通だった。なのに喉を通るとき、油の匂いの中に、濡れた布の匂いが混じっていた。旅館の部屋の匂いだ。胃がゆっくり重くなる。


 会計を済ませて外へ出ると、坂道の途中に小さな路地があった。土産物屋の裏、看板もない細道。私はそこへ吸い寄せられるように入ってしまった。入ってはいけないと思ったのに、足が勝手に曲がった。

 路地はすぐ暗くなり、足元が湿った。外の喧騒は壁に遮られ、音が薄くなる。湿りは雨ではない。湯気の湿り。地面が温かいのに、空気は冷たい。


 突き当たりに、閉じたままの共同浴場があった。入口に「本日休業」と札が下がっているが、札の文字は滲んで読みにくい。扉の隙間から、熱い湯の匂いが漏れていた。休業なのに、湯は張ってあるのだろうか。私は扉に手を伸ばした。

 触れた瞬間、内側からも手が触れた気がした。薄い板一枚越しに、指先が重なるような感触。冷たい。濡れているのに、冷たい。私は反射的に手を引いた。扉は動いていない。誰も出てこない。


 背後で笑い声がした。子どもの声。私は振り返った。路地の入口に、女の子が立っている。小学生くらい。髪が濡れていて、浴衣の裾から水が滴っているのに、足元が濡れていない。

「お姉さん、入っちゃだめ」

 女の子はそう言った。声ははっきりしているのに、口の動きが遅れて見えた。

「ここ、あとで溢れるから」

「…溢れる?」

 問い返すと、女の子は首を傾け、笑った。笑い方が、息を吸わない笑いだった。

「溢れて、戻るの。戻って、また溢れるの」


 意味が分からない。分からないのに、背中の皮膚が勝手に理解してしまう。私は路地を出ようとした。だが入口が、さっきより遠い。数歩しか進んでいないのに、出口が伸びている。空気が、伸びる。距離が、増える。

 女の子が近づいてくる。濡れた髪が頬に貼り付き、目の中が暗い。瞳の奥に、湯気みたいな白いものが揺れている。

「旅館に戻るとき、数えないでね」

「…何を?」

 女の子は答えない。代わりに私の耳元へ顔を寄せ、囁いた。

「段、段、段。最後の段だけ、ないから」


 私は耳を押さえた。囁きは皮膚の内側に残り、こすっても消えない。私は走った。路地を駆け出すと、出口は急に近づき、私は商店街の明るさへ転げ出た。

 息が切れていた。誰も私を見ていない。観光客はソフトクリームを食べ、写真を撮っている。私は一人だけ、湯の町の裏側を見てしまったみたいだった。


 旅館へ戻る坂道を上りながら、私は階段の数を数えそうになった。女の子の言葉が耳に残っている。数えないでね。段、段、段。最後の段だけ、ない。

 玄関に入ると、女将が立っていた。私を見るなり、目を伏せた。

「行きましたね」

 責める声ではない。事実を述べる声だった。

「どこに…」

「裏へ。あそこは、行く人を選びません。選ばれた人が行きます」

 私は説明を求めたかった。でも女将は、説明をしないほうが安全だと知っている顔をしていた。

「今夜は、湯に入らないでください」

 女将の声は、私の背中を押すように低く響いた。私は頷くしかなかった。


 夜。私は布団に入った。灯りを消した瞬間、廊下の奥から素足の音がした。昨日と同じ。部屋の前で止まる。気配が、障子の向こうで呼吸している。

 障子に影が映った。人の形ではない。縦に細長い影が、ゆっくり揺れる。濡れた髪が垂れているみたいに。

 影は障子に手を当て、紙を少しだけへこませた。次の瞬間、爪が紙を撫でた。ぎり、ぎり、と。私は声を出せなかった。布団の中で指先だけが冷たくなる。


 影は桟の隙間に指を差し入れ、わずかに持ち上げた。開く。私は布団を強く握った。開いたら終わる。根拠もなく、そう思った。

 だが障子は開かなかった。代わりに隙間から何かが落ちた。濡れた紙が畳に貼り付く音。ぺたり。

 私は目を開けた。薄暗い畳の上に、紙切れが落ちている。紙には墨で「数えるな」と書かれていた。文字の周りに、指の跡みたいな黒い滲みがある。


 紙切れを拾おうとして、私は手を止めた。触ったら、指に移る。移ったら、私の中に残る。女将の言い方を思い出し、私は紙を見ないようにして布団を被った。

 それでも眠れない。目を閉じると、さっきの影の輪郭が裏側から浮かび上がる。私は耐えきれず、洗面所の灯りを点けた。鏡の前に立つ。そこにいるはずの自分の顔が、少し遅れて映った。瞬きをすると、鏡の中だけ瞬きが遅い。遅れているのは一拍ではない。二拍、三拍。まるで鏡が、私を覚え直しているみたいだった。

 背後のドアが、きい、と鳴った。私は振り返らなかった。振り返ったら、鏡の中の私が先に振り返ってしまう気がした。

朝、目を覚ましたとき、私は自分がどこにいるのか分からなかった。天井の木目が、昨夜見た鏡の裏側みたいに歪んで見える。しばらくして、旅館だと思い出した。思い出した瞬間、体の奥がひやりと冷えた。


 布団から出ると、畳の上に昨夜の紙切れはなかった。女将が片づけたのだろうか。それとも、最初から存在しなかったのか。私は考えるのをやめた。考え始めると、数えてしまう気がした。


 洗面所の鏡は、今朝は普通だった。瞬きも遅れない。だが安心はできなかった。昨夜の違和感は、消えたのではなく、私の内側に移った気がした。


 朝食の席で、女将は私に温かい茶を出した。湯気が立つ。その湯気が、途中で止まっているように見えた。上へ昇らず、空中で溜まっている。私は視線を逸らした。


 「今日は、階段を使わないでください」


 女将は唐突に言った。

 「三階から下りるときも、廊下の奥の、あの階段は使わないで」


 理由は言わない。私は頷いた。理由を聞くと、段を思い出してしまう。


 旅館を出ると、坂道が昨日よりも急に見えた。坂の途中にある段差が、増えている気がする。私は足元を見ないようにして歩いた。見たら、数えてしまう。


 温泉街はいつも通り賑わっていた。昨日と同じ店、同じ人、同じ匂い。なのに、配置が微妙に違う。プリン屋の位置が少し右にずれている。ベンチが一つ増えている。増えたのではない。戻ってきたのだ。そう思った。


 私は観光案内所に入った。誰かに、この旅館のことを聞きたかった。カウンターの女性に、旅館の名前を告げる。女性は端末を操作し、首を傾げた。


 「……こちら、そのお名前の宿は、現在登録がありません」


 言い方は丁寧だが、困惑している様子はない。よくあることのようだった。

 「昔は、あったんでしょうか」

 私が聞くと、女性は曖昧に笑った。

 「昔は、いろいろありましたから」


 それ以上は教えてくれなかった。


 案内所を出たとき、背後で誰かが私の歩幅に合わせて歩いている気がした。振り返らない。振り返ると、後ろの段を数えてしまう。


 昼過ぎ、私は坂の下にある公衆浴場の前に立っていた。昨日見た、あの閉じた浴場とは別の場所だ。ここは営業している。人の出入りもある。私は意を決して中に入った。湯に浸かれば、現実に戻れる気がした。


 脱衣所で服を脱ぐと、鏡があった。鏡の中の私は、少し痩せて見える。肩の位置が下がっている。私は自分の肩を触った。骨が、近い。


 湯船に浸かる。湯は熱く、肌がひりつく。その感覚が、ありがたかった。だが数分もすると、湯の中で足が何かに触れた。人ではない。段差だ。私は反射的に足を引いた。


 湯船の中の段を、数えそうになった。

 一段、二段――。


 私は目を閉じ、数を途中で切った。胸が苦しい。湯気の向こうで、誰かがこちらを見ている気配がした。


 浴場を出ると、脱衣所に誰もいなかった。さっきまで人がいたのに。床に、濡れた足跡が残っている。足跡は、途中で消えていた。乾いていないのに、消えている。


 旅館に戻ると、女将が玄関で待っていた。

 「湯に入りましたね」

 責める声ではない。確認だ。

 私は頷いた。

 女将は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。

 「では、今夜は……増えます」


 増える。何が。私は聞かなかった。聞けば、数えてしまう。


 夜、部屋の灯りを消すと、すぐに気配がした。廊下の奥から、素足の音。昨日よりも多い。二人分ではない。三人分でもない。数えられない。


 障子の外で、影が揺れる。縦に長い影が、いくつも重なっている。まるで、何人もが一つの体を共有しているみたいだった。

 影の一つが、紙を落とした。ぺたり。

 床に落ちた紙には、何も書かれていなかった。白いままなのに、見ていると文字が浮かびそうになる。


 私は布団の中で、息を殺した。

 影の一つが、低い声で言った。

 「……数えた?」


 私は答えなかった。

 答えなければ、まだ戻れる気がした。


 影はしばらくそこにいた。呼吸の音。濡れた髪が畳に触れる音。やがて、ゆっくりと離れていく。


 その夜、私は夢を見た。

 坂道を下りている。段がある。数えないようにしているのに、足が勝手に覚えている。最後の段が、ない。踏み出した足が空を切る。落ちる瞬間、下から誰かが私の足首を掴んだ。


 目が覚めると、足首に冷たい感触が残っていた。

 掴まれたままだった。

足首の冷たさは、朝になっても消えなかった。触れても、跡はない。赤くもなっていない。ただ、骨の内側に氷を差し込まれたみたいな感覚だけが残っている。私は靴下を履き、強く引き上げた。意味がないと分かっていても、境界を作りたかった。


 朝食の広間には、昨日より一組多く客がいた。若い女が一人、窓際に座っている。髪が長く、濡れているように見えた。私は一瞬、あの路地の女の子を思い出したが、年齢が違う。視線を逸らした瞬間、女の姿が見えなくなった。消えたのではない。最初から、数え間違えていたのだ。


 女将は何も言わない。増えたことを、当然のように受け入れている。私の前に置かれた茶碗の位置が、昨日より少しだけ遠い。距離が、増えている。


 外に出ると、坂道がいつもより長かった。歩いても歩いても、同じ景色が続く。店の看板、電柱、段差。私は意識して足元を見ないようにした。見れば、増えた分が分かってしまう。


 昼、私は再び海へ向かった。逃げ場は、広い場所しかないと思ったからだ。だが浜辺には、人が少なかった。波打ち際に、同じ形の影がいくつも落ちている。人の影ではない。縦に細長く、揺れている。太陽は雲に隠れていないのに、影だけがある。


 影の一つが、私の方へ伸びた。伸びたというより、距離が縮んだ。私は後ずさる。砂に足を取られ、よろけた瞬間、背後で声がした。


 「戻るよ」


 女の声。低く、濡れている。

 影が、私の足元に集まる。足首に、あの冷たさ。私は叫びそうになり、歯を食いしばった。叫んだら、数えてしまう気がした。


 気づくと、私は坂の途中に立っていた。いつの間に戻ったのか分からない。時間が、抜け落ちている。手には、旅館の鍵があった。鍵の金属が、体温より冷たい。


 旅館の玄関で、女将が待っていた。

 「……増えましたね」

 私が何も言えずにいると、女将は続けた。

 「数えない人が減って、数えた人が増えるんです」


 意味は分からない。でも、理解してしまった。私はもう、境界のこちら側ではない。

その夜、湯の音がした。旅館のどこかで、湯が溢れている。水音ではない。もっと重い、粘ついた音。私は布団の中で耳を塞いだが、音は体の内側から聞こえてきた。


 廊下に出ると、床が濡れている。だが水ではない。足裏に張り付く、ぬるい感触。私は一歩踏み出すごとに、何かを踏んでいる気がした。柔らかい。沈む。


 階段の前で、立ち止まった。女将に使うなと言われた階段だ。だが、他に道はない。私は数えないように、視線を上げたまま下り始めた。


 途中で、段が消えた。

 踏み出した足が、空を切る。


 落ちる瞬間、背後から抱きとめられた。濡れた腕。冷たい。耳元で、声が重なる。


 「戻った」

 「また溢れる」


 気づくと、私は浴場に立っていた。閉じていたはずの共同浴場だ。湯船から、湯が溢れている。溢れた湯の中に、人の形がある。顔がない。数えられない数の体が、湯の中で揺れている。


 その一つが、私を見た。見た、と思った。目はないのに、確実に。


 私は逃げなかった。逃げられなかった。湯に足を入れると、冷たかった。熱いはずなのに、冷たい。湯の中で、足首を掴まれる。私は沈んだ。

目を覚ますと、私は自分の部屋にいた。布団は乾いている。何もなかったように見える。だが、壁の木目が、人の背骨みたいに並んでいる。


 女将が来た。

 「ここは、選ばれた人の部屋です」


 説明はそれだけだった。私は聞かなかった。聞けば、戻れなくなる。


 夜、障子が自然に開いた。誰もいない。だが畳の上に、影が座っている。影は私と同じ形だった。影が、口を開く。


 「田舎から来たでしょう」


 私は頷いた。

 「ここは、戻れない人が溜まる町です」


 影が私に重なる。冷たい。境界が、消える。

朝、熱海駅はいつも通りだった。観光客が行き交い、土産物を選んでいる。その中に、私の姿はない。


 旅館の坂の途中、空いた部屋が一つ増えた。誰も気にしない。地図にも載らない。写真を撮っても、文字が滲む。


 夜になると、旅館の廊下で素足の音がする。数えられない足音。障子の前で止まり、爪が紙を撫でる。


 中にいるのは、田舎から来た娘だ。

 数えなかった娘。

 数えてしまった娘。


 その部屋は、まだ空いている。

 次に来る人のために。


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