崇神の宗教改革
前回は、東征と水田稲作の関係性から、大和王権の素性について考察しました。東征した神武天皇の始祖は雲南省の出身だったのではないか……という仮説になります。ただ、具体的な神武東征については割愛します。冒険譚としては面白いのですが、有名ですし僕が解説することもないと思うからです。ただ、気になっていることが一つありました。
神武天皇と対峙した長髄彦は、饒速日命の配下になります。饒速日命は、神武よりも先に東征を行っていたとされ、大阪府交野市にあるの河上哮ケ峯に降臨したあと大和を治めていました。ここで先に東征を行った饒速日命と後から来た神武天皇とが、共に天津神の子であることを示す天津瑞を見せ合うシーンがあります。どちらも本物であったので両者は共に天津神の子であることが証明されたのですが、長髄彦は納得がいきません。戦いをやめない長髄彦に対して、饒速日命は自らの手で成敗してしまいます。その後、饒速日命は、神武天皇に帰順の意を示して配下になり、彼の子孫が物部氏として大和王権を支えていくことになりました。
ところで、天津瑞とは何でしょうか。日本書紀 では天羽々矢と歩靱と書かれてます。物部氏の事績に詳しい先代旧事本紀では、十種神宝と表記されていました。内容に違いはありますが十種神宝を参考にすると、鏡が2種、剣が1種、玉が4種、スカーフのようなものが3種になります。大和王権における三種の神器は、八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉でした。つまり、両者の神宝には類似性が見られるのです。ここから類推するに、天津神の子とは、道教的な宗教によって王族の権威が担保された集団と見ることが出来ます。また神武天皇は長髄彦に対して「天神の子は多い」との一言も残していました。ということは、神武天皇や饒速日命だけでなく、他の天津神も存在していたのでしょう。
ここからは僕の勝手なイメージを語らせていただきます。当時、大陸から日本に渡ってくる集団が、複数存在していた。宗教的には道教をベースにしており、彼らが東へと向かう動機は宗教的な信仰心だったと考えます。太陽は東から登ります。主神として崇める太陽神に近づきたいという直接的な動機、またそこに広がるであろうユートピアへの渇望があったのではないでしょうか。リーグ戦のように多くの天津神が東を目指して争うなか、最後に覇権を手にしたのが神武天皇だったと考えます。また、勝者は敗者に対して、思想的な上書きを行いました。
国譲り神話は、天津神が国津神を従えるために必要なエピソードになります。記紀には出雲の国津神の話が多く取り上げられていますが、武力で平定した後に、今度は思想面でも相手陣営を従えさせる必要がありました。記紀に示されている神話は、伊邪那岐神と伊邪那美神から神武天皇までの血脈の正当性を伝えています。当時の世界観で神の血統というブランド力は、人々を従えさせるための重要な権威でした。神話とは、敗者の神々を取り込み混ざり合い習合していく中で出来上がったのでしょう。ただ、大和王権が覇者に成れた要因はそれだけではありません。思想的な大きなジャンプ。宗教改革があったと考えます。そのことを考察するために、第10代崇神天皇の事績を振り返ってみます。
初代天皇である神武天皇は「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれています。初めて国を治めた天皇という意味になります。ところが、崇神天皇も「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれているのです。このことから、神武天皇と崇神天皇は同一人物だという説があったりします。崇神天皇は、神武天皇と同じように「神」の字を冠した天皇になります。神武天皇は、武功によってその地位を築きました。では、崇神天皇はどうでしょうか。崇神の「崇」の字は、高くそびえる山をあがめるという意味になります。漢字だけを見ると、「神をあがめる」という意味なのですが、崇神天皇にはもう一つの側面がありました。「崇」という漢字とよく似た漢字に「祟」がありますが、崇神天皇は祟る神でもあったのです。彼の事績を振り返ってみます。
崇神天皇が即位して5年目に疫病が流行しました。その影響で人口の半分が亡くなったとされます。当時の日本列島の人口は弥生時代に59万人だったのが、古墳時代に入り540万人となんと9倍に膨れ上がっていきました。近畿では20倍の増加との試算もあり、大和王権が樹立された後の繁栄は目を見張るものがあります。その背景には、水田稲作による食料自給力の強化があったわけですが、大陸から渡来してきた人も100万人はいただろうと推定されています。崇神天皇は3世紀後半に活躍した人物だと考えられているので、この疫病は古墳時代の始まり、つまり人口爆発が始まる直前に流行しました。正確ではありませんが、10万人からの人々が疫病により亡くなったのかもしれません。とんでもない災害だったわけです。
この疫病の流行に対して崇神天皇の最初の行動は、三種の神器の一つである八咫鏡を穢れた土地から忌避させることでした。大王の娘である豊鍬入姫命に、八咫鏡を持たせて離宮させます。その後、鏡は第11代垂仁天皇の第四皇女の倭姫命に託され、理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、およそ90年かけて伊勢神宮に辿り着きます。
大陸由来の穢れの概念から神器の忌避は行いました。次なる政策として大王はパンデミックを収める必要があります。崇神7年、巫女の倭迹迹日百襲姫命に占わせたところ、大物主という神が憑依しました。
「我を敬い祀れば、必ず国中に平穏が訪れるであろう」
お告げに従い祭祀を行いましたが霊験が現れない。そこで崇神天皇が沐浴をすると、崇神の夢の中に大物主が現れました。
「こは我が心ぞ。大田田根子をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」
崇神天皇は、大田田根子を探し出し三輪山をご神体とした大神神社を創建しました。このことによって、やっと国が平穏になるのです。因みに、この大物主という神は大国主と同一だと解釈されており、出雲の神でした。大和の国において、天照大神は忌避されて出雲の神が祀られるという、この一連の出来事についてどのように解釈すれば良いのでしょうか。
そもそも「疫病の原因は俺だ」と大物主は告げました。つまり「祟り神」になります。何とも迷惑な神様でして、自ら国を乱しておいて、それを収めるために自分を祀ることを強要しているのです。ただ、人格神的な神の存在を僕は信じていないので、これは大和王権側が出雲の神を恐れていたと解釈しました。つまり、出雲の神から祟られるくらいのことを大和王権が行ったから、出雲の神を祀ってその怒りを鎮める必要があったのです。
その理由について国譲り神話にヒントを求めました。魏志倭人伝に倭国大乱と表現された日本列島でしたが、国譲り神話はどこか長閑なやり取りに感じます。高天原から派遣された建御雷神と大国主の息子である建御名方神の戦いはありましたが、最終的には話し合いで決着がつきました。ただ、それは本当でしょうか? 国譲り神話とは、大和王権が創作した言い訳だったのではないでしょうか? 想像ですが、凄惨な戦が行われたと考えます。
戦によって出雲族を従えた大和王権でしたが、その権威は非常に不安定だったと考えます。大王は、自らが神の血統を引継ぐものであるという神話を創造しましたが、現代のようにネットや新聞はありません。広く啓蒙することは難しかったでしょう。また、大和王権が樹立される前から、大和周辺には出雲族の痕跡が見られました。葛城には出雲系の神社がありますし、紀伊半島の奥に出雲系の熊野本宮大社がありました。ひょっとすると国譲り神話の舞台は大和だったのではないか……とも考えるのですが、そのような大和王権の治世に疫病が流行するのです。このパンデミックを乗り切るためには、多数派の出雲族を納得させる必要があったと考えます。その手段として、大物主が祀られた。
ここでキーパーソンになるのが、倭迹迹日百襲姫命になります。彼女には、箸墓伝説が残されていました。パンデミックが収まった後、百襲姫は大物主神の妻になります。ところが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼には姿を見せません。百襲姫が姿を見たいと願いでると、翌朝、大物主神は小蛇の姿で現れました。驚いた百襲姫が叫んでしまったので、恥じた大物主神は三輪山に登ってしまいます。後悔した百襲姫が腰を落とすと、箸が陰部を突いてしまい、百襲姫は死んでしまいました。
この伝説には、二つの意味があると思います。一つは、大和が出雲に巫女を差し出して婚姻させたこと。つまり、大物主への供養になります。インドのバラモン教的な世界観に神殿巫女という風習がありました。穢れのない少女を、神様の妻として捧げるのです。想像にはなりますが、日本の神道における巫女の存在は、この影響を受けていると考えています。その後、百襲姫命は死んでしましました。これは罰を受けた姿と、見ることが出来ます。これが二つ目の意味でした。
アニミズム的な原始宗教は、神を創造しましたが、神といっても自然現象の具象化でした。神が人間に何か特別な影響を及ぼすことはありません。この世界を認識するために神を創造したと考えます。農耕社会で発展した宗教は、神と人間の間に取引関係が生まれました。その影響として功徳と罰という概念が誕生します。崇神天皇の治世で発生した疫病の流行は、神罰として受け止められました。つまり、祟り神の誕生です。
恐怖を根底にしたこの祟り神の概念は、創造された神話と違って、瞬く間に日本各地に伝播したでしょう。当時の人々は、理由も分からずに次々と死んでいく仲間を見ながら、出雲の神の神威に恐れおののいたのです。普通であれば、責められるべきは大和王権ですが、その祭祀を制度化したのも大和王権でした。祟り神を祀ることによって、この世を治世するという、全く新しい統治概念が誕生したのです。
大田田根子を大神神社の祭主に据えて祭政一致の政策を強く推し進めたあと、崇神天皇は、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言しました。四道将軍とは、王族である大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命になります。それぞれの将軍は、北陸、東海、山陽、山陰に進軍しました。将軍たちは崇神天皇より「教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つように」と厳命されています。新しく誕生した宗教的概念を利用して、日本の平定を行いました。因みに、吉備津彦命は桃太郎のモデルだとされています。
実は、この四道将軍が進軍した経路を見ていくと、前方後円墳が建造されているのです。纏向遺跡から始まった前方後円墳のモデルが、日本全国に広がっていった背景に、当時の疫病の流行は無関係ではない。その根底には祟り神への畏怖があったのでしょう。日本を恐怖に陥れた疫病という大災害ではありましたが、崇神天皇はその災害を逆手にとって、宗教改革を成功させたと考えています。