東征と水田稲作
記紀において東征と言えば、神武東征を思い浮かべる方が多いと思いますが、東征はそれだけではありません。東征は、東に向けて征服すると書きます。そもそも北九州から始まった弥生文化が東へと伝播していく様子は、全て東征だと考えます。ここで縄文時代と弥生時代の概念的な大きな違いを確認しておきたい。
狩猟採取で生きてきた縄文人は、食料を確保するために移動しながら生活をしていました。生食できる果実は四季を通じて南から北へと移動していきます。その果実を求めて、渡り鳥のように夏になれば北を目指し、冬になれば南に移動したのが縄文人だったのではないでしょうか。また狩猟にしても、陸の獣よりも魚や貝を中心に食べていたと思われます。そうした縄文人が定住するようになったのは温暖化が原因でした。縄文時代中期から定住し始めた縄文人は、時間という概念も獲得したと思われます。なぜなら栗の植樹の痕跡があるからです。そのまま発展しても良さそうなものですが、寒冷化により弥生海退が始まりました。縄文人の人口が急速に減少していきます。
弥生時代に入り、水田稲作という新しい文化が北九州から起こりました。水田を作るためには土地が必要になります。この土地を所有するという概念は、移住を繰り返していた縄文人にはありません。僕の想像になりますが、定住が始まった縄文時代中期以降でもその感覚は同じだったと考えます。なぜならその精神が山岳信仰に見られるからです。
以前に縄文的な思想について、ご紹介したことがあります。縄文人は海洋民族として、沖縄から北海道まで広く交易を行っていました。その証拠として、沖縄の貝、長野の黒曜石、糸魚川の翡翠が貴重な交易品として日本各地で見つかっています。この縄文にルーツを持つであろう古い民話が、日本の沿岸に残されていました。物語の構成はパタ―ン化されていて、おおよそ次のような内容になっています。
――海洋民である男神が、愛しい女神に会いたいために山を登りました。ところが、男神は女神に追い返されてしまいます。なぜなら、山の上は死後の世界で、女神は既に死んでいたからです。生きている男神の入山を、女神は拒んだのでした。
この古い民話が山岳信仰のルーツだと考えています。山岳信仰において、山は神域であり人が亡くなると山の上に魂が登ると考えれられていました。また同時に、山は生命を生み出す場所でもあったのです。山は、木や水それに獣が生み出され、人々の糧になります。その万物を誕生させる働きから、山の神は女神だと考えられていました。この概念は、山頂と下界という2点間の往復運動になっています。つまり循環。これが縄文時代の思想を形成していたのではないでしょうか。定住が始まってからも土地は神様から借りているもので、所有しているという感覚はなかったと思われます。
そうした縄文時代的な定住に対して弥生時代の稲作は、水田に適した好立地を所有するために、部族間で争いました。ここに大きな違いがあります。倭国大乱とは大陸からやってきた新しい概念を持つ弥生人の歴史で、北九州から始まった水田稲作が東へと伝播していく様子とは、その土地を征服していくことに他ならない。これは一度ならず何度も東征が繰り返されたと考えます。このような縄文時代と弥生時代の概念的な違いはまだあります。
水田稲作は、田植えから収穫まで決まったプロセスがあります。そのプロセスは、多くの人々に正確に作業を行わせる必要がありました。そうでないと一定の収量が望めないからです。村から国へと人口が増大するにつれて、その管理の難しさは飛躍的に増大しました。現代社会に生きる人々の愚痴に「会社の歯車にはなりたくない」がありますが、水田稲作とは、正に人々を農業の歯車にすることなのです。
アルゴリズムというコンピューター用語があります。問題を解決したり特定の目標を達成したりするための、明確に定められた手順や計算方法のことを意味します。弥生時代とは、農耕的なアルゴリズムを人間社会に導入することによって、食料自給力を強化しました。またこのアルゴリズムはパソコンのOSが次々とバージョンアップしていくように、時代を経るごとにバージョンアップを繰り返していきます。より新しいアルゴリズムの導入は、部族をより繫栄させました。
ところでこのアルゴリズムは簡単には駆動しません。なぜなら、パソコンの部品と違って人間には自由意志があるからです。駆動させるためには、二つの方法が考えられました。一つは力による外圧的な強制、もう一つは信仰心からの内発的な動機づけになります。力による強制は、人間社会にヒエラルキーな階層社会を作り出し、トップダウンで命令を守らせる体制を作りました。最下層は奴隷として使役します。
もう一つの信仰心は、「なぜ農業に従事するのか?」という意味を人々に与えました。その内容は多岐に亘ります。ハラリ著作「サピエンス全史」では、認知革命が紹介されました。認知革命とは、目に見えない概念を仲間同士で認識し合う行為になります。これは動物では考えられない革命的変化でした。その最たる概念が神の創造になります。
原初の神とは、アニミズム的な精霊信仰でした。この世界にある、太陽、月、星、海、火、水、雷、山、木、稲、酒、生、死といった様々な物理的対象や変化、それに愛、勇気、真心、慈悲、憎悪、喜び、悲しみ、素直、嫉妬、闘争といった概念的な心の作用を認識するために、それぞれのモチーフを投影した神もしくは精霊が創造されと考えます。このような概念は神話として体系化され、古代の人々がこの世界を認識するための教科書として機能したのではないでしょうか。
この延長線上に、亡くなった人々の霊も含まれます。先祖崇拝という信仰は、同じ血を分けた家族に対して強い同族意識を生み出し、先祖をトーテムとした強固なコミュニティを形成しました。この同族意識は、農業を従事させるうえで特に重要な内発的な動機づけになります。農作業の為には多くの人々の協力が必要なのですが、ここで様々な神を束ねる更に偉大な神が創造されました。つまり神様にも、人間社会と同じようなヒエラルキー的な階級付けが行われたのです。信奉する神のランクは、部族間における上下関係にも影響したでしょう。
アミニズム的な原始宗教と、農耕社会を駆動させた新しい宗教の間には、決定的な違いがありました。それが神の奇跡になります。アニミズム的な信仰は、神様が空気のようにただ存在しています。人々に、神が特別な作用を起こすことはありません。対して、農耕文化における神様は、人々の生き方に大きく影響しました。それが奇跡なのです。奇跡は「功徳」と「祟り」の二種類があります。
功徳とは、神を信じることによって得られる現世利益のことをいいます。呪術や祈祷によって、農耕による実りの最大化を求めました。また現人神である王は、人々を農業に従事させる対価として、食料や酒といった現世利益の享受を約束します。その影響力の大きさをより強固にするために、様々な儀式や儀礼が生み出されました。このように現世利益は、農耕的アルゴリズムを駆動させるための内発的な動機づけになったのです。
以前にもご紹介しましたが、ここに神と人間との取引関係が誕生したと考えます。この関係性は現代にも続いており、宗教的な世界だけに留まりません。封建社会、律令制度、法治国家、資本主義経済、社会主義も同じ構造から生まれた社会システムになります。また、この構造は人間の幸福観にも大きく影響しました。この点に関しては語りたいことが山ほどあるのですが、テーマから大きく逸脱するのでやめます。もう一つの奇跡である「祟り」に関しては、崇神天皇を紹介する時に考察したいと思います。
記紀に描かれる東征は、神武天皇の東征が有名ですが、出雲の国譲り神話も東征と考えます。ただ、国譲りは神話なので、その信憑性が問われます。国譲りを指揮した天照大御神は高天原にいましたが、この高天原にしても、その所在地が様々に論議されてきました。葛城・金剛山説、 宮崎県高原町説、宮崎県高千穂町説、阿蘇幣立神宮説、長崎県壱岐市説等です。また高天原はこの地上ではなく空の上に存在するという、天上説もありました。この天上説に至っては、史学でも歴史学でもなく、そのことを信じる宗教になります。天上説については言及しません。
明治天皇の玄孫である竹田 恒泰氏は、自身の動画の中で「神様は人間ではない。染色体があると思いますか?」と語っていました。信仰ですから人間を超越した神様を信じても良いのですが、僕の考察では、神様は古代の人々が創造した世界観だと考えています。なので神様は存在しないことが前提になっています。ただ、創造された神様や神話を馬鹿にしているわけではありません。宗教は古代社会において必要なアルゴリズムであり、現代の社会構造の基礎を作ったと考えています。今後も、記紀における神様は人間として実在していたことを前提にして考察していきます。
そうした僕の立場からすると、高天原は地上にあったと考えます。ただ、その正確な場所についてはあまり関心がありません。それよりも、なぜ高天原と表記したのかが気になります。水田稲作は大陸から伝来しました。この伝来に二系統があると僕は考えています。一つは弥生人であり、もう一つが大和王権の始祖になります。
弥生時代の有名な遺跡に、吉野ヶ里遺跡、登呂遺跡、池上曽根遺跡、安満遺跡、唐古・鍵遺跡等があります。これらはどれも環濠集落でした。集落の周りには深い堀が巡らされ柵まで設けられています。集落の中心に物見櫓を建てている遺跡もありました。外部からの襲撃に対して警戒した構造になっています。水田は集落の周りに広がっていました。ここで注目したいのは、これら弥生時代の水田は平地に作られていたことなのです。
対して、古墳時代の始まりである奈良県桜井市にある纏向遺跡は三輪山の山裾にありました。初期に大和王権の宮があったとされる葛城も飛鳥も山裾になります。水田は山の斜面を利用した棚田でした。平地の水田と、山裾の棚田。同じ水田稲作と言いつつも、土地の選定基準が全く違います。ここに大和王権を考えるうえでの鍵があります。
以前に、道教と卑弥呼の関係について考察したとき、水田稲作の起源は雲南省である話を紹介しました。雲南省は山岳地帯で平地が少なく、一見すると稲作に不便な場所に感じられます。ところが、平地にはない利点がありました。山の斜面に作らた棚田は、上から順番に栄養分が含まれた水を落とすことが出来ます。このことによって連作が出来ないという稲作の欠点を克服し、毎年、米を収穫することが出来ました。この棚田での水田稲作は、弥生時代には見られない技術になります。
記紀の高天原の描写では、水田稲作が行われていました。高天原とは山の上のことで、稲作も棚田による水田稲作だったことが推測されます。つまり、古墳時代の始まりとは、棚田による水田稲作の始まりでもあったのでしょう。その技術は大和王権の始祖たちによって日本にもたらされたと考えます。更に、その出身地を辿ると、雲南省のあたりだったのではないでしょうか。ここで、古代史自説の最初に紹介した卑弥呼の話と繋がります。
大和王権の特徴について考えてみると、思想的には道教の影響が見られます。古墳の建造についても、道教的な神仙思想をベースにしているのでしょう。水田稲作は棚田で行われ、雲南省の稲作技術に通じました。2世紀ごろに米に関係した五斗米道という道教が四川省で興りましたが、大和王権はこの道教思想に影響を受けていたのではないでしょうか。その道教の巫女として、卑弥呼が存在したと考えています。
ここで時間的な経過を整理したいのですが、纏向遺跡は2世紀末に建造が始まりました。卑弥呼も2世紀末の人物になります。卑弥呼は、倭国大乱を治めたあと大陸と積極的な外交を何度も行っていました。大陸に人を送るとなると、小国では無理です。国としてある程度の発展を遂げていないと、かなり難しい。そうなるとそれなりの規模の施設が建造されていたはずです。時期的にも、場所的にも、纏向遺跡は卑弥呼が治めていた国である可能性がもっとも高い。また、この頃の大王は第10代崇神天皇ではないかと考えています。今後はこのような前提で話を進めていくのですが、この考察には欠点があります。時代の整合性が取れないのです。
時系列では、神武東征は崇神天皇が誕生するよりも古い事績になるわけですが、それだと道教の興隆が始まっていません。このような理由から、第2代綏靖天皇 から第9代開化天皇までの天皇は存在していないとする欠史八代の説を僕も支持しています。
また高天原に棚田があったと考察しましたが、僕は道教と棚田をセットで考えています。なので、高天原もあまりに古いと存在のしようがありません。国譲り神話に関しては大国主の時代になるので、纏向遺跡の誕生から300年から400年は古い話になります。そうなると、高天原とは雲南省のことか? とも考えてしまうのですが、実際の所は分かりません。
これまでの考察の根底には、日本人の二重構造モデルを更に発展させた、理研グループの三重構造モデルが切っ掛けになっています。ただ、理研は「縄文系」「関西系」「東北系」の三重構造ですが、僕は「縄文系」「北東アジア系」「南東アジア系」の三重構造になります。ミトコンドリアDNA的には、理研の三重構造なのでしょうが、「縄文系」と「東北系」は同じ時代に属しており、共に縄文時代から続くご先祖様になります。それよりも、水田稲作の技術面から、大陸系を二系統に分けて考えました。次回は、崇神天皇について考察する予定です。