須佐之男命と出雲
古事記や日本書紀には、様々な神様が登場します。伊邪那岐神と伊邪那美神が特に有名ですが、彼らを日本に使わした神がいました。「造化の三神」と呼ばれている天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神になります。
日本にやってきた伊邪那岐神と伊邪那美神の二人は結ばれて子供を産みます。最初に生まれた子供は不遇でした。手足が萎えた蛭のような姿であったため水蛭子と呼ばれ、なんと葦船に乗せられて海に流されてしまいます。その後も伊邪那美神は淡路島を始めとして日本の島を次々と産んでいき、更に子供やその孫を含めると100柱くらいの神様の母親になりました。ところが、火の神である迦具土神を産んだことで、その身が焼かれてしまい死んでしまうのです。
最愛の妻に先立たれた伊邪那岐神は、黄泉の国に堕ちた伊邪那美神に会いに行くことにしました。ところが、腐敗した伊邪那美神の姿に驚いた彼は、そこから逃げ出してしまいます。怒った伊邪那美神に追いかけられはしましたが、何とか黄泉の国から逃げ帰ってきます。黄泉国の穢れを落とすために、伊邪那岐神が禊を行なうと三貴神が誕生しました。それが天照大御神と月読命と須佐之男命になります。
ところで、この「穢れを祓う」という概念は、縄文時代には無かった大陸由来の概念だと考えます。同じように黄泉の国という世界観もそうです。このことに関する考察はこれ以上は展開しませんが、大和王権の始祖が大陸からやってきたことの痕跡だと考えます。
伊邪那岐神と伊邪那美神から誕生したこれら多くの神様は高天原で生活をしていて、天津神と呼ばれていました。高天原と黄泉の国の間にある葦原中国を治めるために、天照大御神は孫である瓊瓊杵尊を下界に向かわせます。これを天孫降臨といいました。その後、彼の子孫である神倭伊波礼毘古命が、東征して奈良に至り、その土地の王であった長髄彦を滅ぼして、自らが王の座に就きます。彼が神武天皇になるのですが、神武天皇は天津神には数えられません。
ところで、これら天津神とは異なるグループの神様もいました。これを国津神と呼びます。大国主を主宰神とする出雲の国の神様たちで、代表的な国津神として大国主の正妻である須勢理毘売命や最初の妻である八上比売、それから彼の子供たちである阿遅鉏高日子根神、下照比売、事代主、建御名方神等がおられます。他にも、天津神である瓊瓊杵尊の妻となった木花之佐久夜毘売や、その邇邇芸命の為に道案内をした猿田彦命も国津神に数えられます。
記紀の神話をざっと俯瞰すると、伊邪那岐神と伊邪那美神の国産みの話や、黄泉の国の話、因幡の白兎の話、それから八岐大蛇を退治する話なんかは現実感が無くどこかおとぎ話っぽいテイストなのですが、国譲りの話になるとちょっと政治的な駆け引きが加わり史実っぽくなります。天津神と国津神の分け方は国譲り神話に端を発しているようで、天津神はその後のヤマト王権の祖になるし、国津神はほとんどが出雲の国の神様たちでした。ただ、例外が少しあります。三貴神の一人である須佐之男命は、国津神に数えられていました。須佐之男命は、伊邪那岐神の子供であり天照大御神とは姉弟になります。出生からすると天津神でも良いはずなのに、どうして国津神に数えられているのでしょうか?
まずこれら三貴子は、それぞれに象徴とするものがありました。天照大御神は太陽を司る女神で、高天原を治めている主宰神になります。月読命は月を司る男神で、夜の国を治めているそうですが詳細は分かりません。須佐之男命は海原を治める神でした。この時点で、天上にある太陽と月、下界の海に分けることが出来るので、須佐之男命は国津神だ……と判断してもよいのですが、もう少し踏み込んで考えてみたい。
三貴子の中では影の薄い月読命ですが、なぜ月なんでしょうか。これは暦に関係していると考えます。現代は太陽暦を使いますが、古代は陰暦でした。つまり月を読むということは、時間を管理することになります。これは縄文時代にはない概念で、且つ王が管理すべき事柄になります。水田稲作を行う上で、暦は非常に重要でした。日本列島に稲作文化をもたらした大陸の民が、月を神様として尊ぶのは当然の帰結だと考えます。同じように、稲を育てる太陽も重要な神様として尊ばれました。そうした太陽と月と比較すると、須佐之男命の象徴である海は農耕と関係がありません。日本列島に水田稲作をもたらした神様が天津神で、稲作を知らない土着の神様が国津神なのでしょうか。ここで須佐之男命の事績について振り返ってみます。
伊邪那岐神の禊によって誕生した須佐之男命は、母である伊邪那美神に会いたいといって愚図る泣き虫でした。堪りかねた父の伊邪那岐神は須佐之男命を追放します。困った彼は、姉である天照大御神が治める高天原に向かいました。一悶着があったものの高天原に迎えられた須佐之男命でしたが、傍若無人な振る舞いを繰り返します。田んぼの畦を破壊して、水路を埋めて、さらには神殿に糞を撒き散らしました。堪りかねた高天原の神々が天照大御神に彼の悪行を報告するも、彼女は弟をかばいました。
しかし、須佐之男命の悪行はさらにエスカレート。女たちが働いている機織り小屋に、皮を剥いだ馬を投げ込みます。突然のことに女たちが逃げ惑うなか、一人の女が機織りの機械が体に刺さり亡くなってしまいました。血は穢れとして忌み嫌われています。天照大御神は恐れ慄き、天の岩屋に身を隠してしまいました。太陽の化身である天照大御神がお隠れになったことで、世界が闇に包まれます。思案した高天原の神々は、仮の神事を行い天宇受賣命に踊りを命じました。この事により何とか天照大御神を岩屋から引き出すことに成功しましたが、問題は須佐之男命の処遇になります。髯と手足の爪を切り、地上界に追放しました。
高天原を追われた須佐之男命は出雲に至り、美しい櫛名田比売に出会います。ところが、彼女は八岐大蛇の生贄になることが決まっていました。須佐之男命は、八岐大蛇を退治することを条件にして、櫛名田比売との結婚を申し出ます。退治するために、大蛇が首をいれるための八つの門を拵えました。その門の前に強い酒を用意させます。計画通り八岐大蛇は酒に酔って寝てしまい、須佐之男命はそれぞれの首を切り落としました。すると、退治した大蛇の尻尾から剣が出てくるのです。これが天叢雲剣またの名を草薙剣でした。後に三種の神器の一つに数えられる一振りです。
櫛名田比売を妻にした須佐之男命は、出雲にある須賀の地で新しい生活を初めました。ここは風光明媚な土地であったようで、須佐之男命の気分がすがすがしくなりました。そこから「須賀」と命名されたようです。また須佐之男命は、その清々しい気持ちを歌にしました。
――八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を
この歌により、八雲は出雲の枕詞になりました。その後、彼らの子孫である大国主は、出雲を豊豊葦原の水穂国へと発展させていきました。
気になったポイントを順番に考察してみます。まず、須佐之男命が訪れた出雲の国には八岐大蛇に生贄を捧げる風習がありました。これは縄文時代にはない概念だと考えます。なぜなら、縄文時代は神であるご先祖様と自分たちは同じ仲間であると認識していたからです。また人身御供という思想は、一族を守るために誰かを犠牲にする考え方でした。以前にも述べましたが、未来に利益を得るために今を犠牲にする概念には時間的な経過を含んでいます。これは農耕文化によって誕生した概念でした。また、櫛名田比売は稲田媛とも表記することから、出雲の国で水田稲作を生業にしていたのでしょう。つまり櫛名田比売の一族は、大陸から渡ってきた弥生人だったと考えられます。
出雲大社を訪れた過去の紀行文で考察したことがあるのですが、八岐大蛇は現実には存在しません。出雲に流れる斐伊川だと推測します。農耕民にとって、洪水を起こす斐伊川は米の収量に影響しました。また、その洪水によって人々が亡くなる事故もあったでしょう。須佐之男命は、八岐大蛇の退治のためにそれぞれの首に門を建設しました。これは水害を防ぐための治水工事だったかもしれないし、単に酒を奉ずるための祭壇だったかもしれません。どちらにせよ、八岐大蛇を退治するエピソードとは、水害との戦いだったのではないかと考えます。この水害を発生させる神様として八岐大蛇が想像されたのでしょう。
また八岐大蛇の尻尾から天叢雲剣が出てきますが、斐伊川上流の奥出雲には鉄を精製するたたら場がありました。弥生時代の出雲の遺跡からは、銅剣や銅鐸が大量に出土していますが、鉄がなかったわけではありません。鉄を精製するためには高い技術力が必要で、これは大陸の最先端の技術でした。つまり、弥生時代において出雲は進んだ技術を保持していたことになります。
弥生時代は北九州から始まりましたが、その後一大勢力として発展したのは出雲でした。弥生時代の方形の古墳も、出雲で建造が始まります。島根県出雲市斐川町にある荒神谷遺跡は弥生時代後期の遺跡で、銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個、合計380点もの大量の青銅器が出土しました。銅剣358本も凄いですが、注目すべきは銅鐸になります。何故なら、銅鐸文化は関西の弥生文化だったからです。出雲と関西がどのような関係にあったのかは分かりませんが、出雲の影響力の大きさが感じられます。
ところで、弥生時代において出雲がどこよりも大きく発展できたのは、なぜでしょうか? それは立地が関係します。この頃には、すでに交易が始まっていました。当時の先端技術は鉄になります。出雲では早い段階でタタラ場が建造されていましたが、鉄の原料は大陸からの輸入に頼っていました。この鉄を入手するためには、何かしらの交換財が必要になります。これが翡翠でした。大陸では玉と言えば翡翠のことで、とても珍重されていたのです。出雲は北九州と糸魚川の中間地点にあり、且つ島根半島と本州との間に広がっている出雲平野が船を寄せるのに好立地でした。
ただ、立地は良くても、交易をするとなればその橋渡しをする立役者が必要になります。糸魚川周辺は縄文文化圏で、出雲は弥生文化圏でした。文化も価値観も、両者は全てが違います。調和的な縄文人に対して、弥生人はかなり好戦的。その両者を取り持つ立役者が須佐之男命だったのではないかと、僕は考えています。
須佐之男命は、二度も追放という処置を受けていました。これは注目すべき内容になります。当時の世界観において、追放はこの世界から切り離されることに等しい重い罰だと考えます。通常であれば、これで人生は終わり。ところが、追放という処置は、個人の独立心を強制的に強化させる可能性があります。自分の身は自分で守らなければなりません。憶測で申し訳ないのですが、須佐之男命のそうした精神性が、出雲の国の始祖として遺憾なく発揮されたのではないでしょうか。水田稲作のための灌漑、交易による資本の強化、そして宗教的な権威、そした要素を高い次元で融合させ出雲の国を発展させたのが、須佐之男命の子孫である大国主だったと考えます。
ここで、須佐之男命はいつの時代の人物かを考えてみたい。出雲口伝によれば、秦の始皇帝の命を受け徐福が日本にやってきますが、この徐福が須佐之男命だというのです。これを信じるのはかなり難しい。何故なら、口伝は後世の知識が繁栄されているから。例えば、後世の人たちが徐福と須佐之男命を結び付けたい仮説が、そのまま口伝として残ったかもしれないからです。ただ、時代を考える材料としては一考の価値があります。秦の始皇帝は、紀元前221年に中国を初めて統一しました。これは日本列島においては弥生時代後期になります。これは、先ほどご紹介した荒神谷遺跡と同時代でした。弥生時代の出雲において最も隆盛を極めたであろう荒神谷遺跡は大国主の時代だと考えます。すると、須佐之男命は更に古い時代の人物になります。
ここで、更に穿った考察を披露します。須佐之男命の高天原での悪行は、水田稲作を否定した行動に感じました。つまり、大陸の思想に染まっていないと思うのです。また、須佐之男命の象徴は海ですが、これはかなり縄文的だと思いました。何故なら、縄文人こそが海洋民族でもあったからです。もしかすると、須佐之男命は縄文人だったのではないでしょうか。そうであれば、須佐之男命が国津神なのは納得がいきます。また交易におけるキーマンになりえたかもしれません。問題は、天照大御神と月読命と姉弟になっていることですが、これは異文化が習合したからでしょう。神道は様々な宗教と習合してきたから、それほど不思議ではありません。
弥生時代は、圧倒的多数の弥生人と少数派の縄文人の世界でした。ここに第三の勢力である神武天皇がやってきます。次回は東征について考えてみたい。




