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道教と卑弥呼

 古代史を調べるとき中心となる資料は古事記と日本書紀になります。これらは日本で現存する最も古い歴史的資料でした。ただ、漢文で書かれた原書を読むのはかなり大変。僕は学者ではありませんし、記紀を勉強するだけでもかなりの時間を要します。なので学者が解説している文献を読んでいました。すると、色々な史料批判があることを知りました。


 第2代綏靖天皇 から第9代開化天皇までの天皇は存在していないとする欠史八代とか、初代神武天皇と第10代崇神天皇の称号がどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読めるのでこれは同一人物だとか、天皇家は万世一系ではなく崇神王朝、応神王朝、継体王朝の3王朝が存在していたとか……になります。このような史料批判は、明治の歴史学者である津田左右吉から始まったようです。


 古代史を勉強し始めた頃、これら史料批判に対して僕は否定的でした。特に「聖徳太子は存在しなかった説」は僕にとって驚天動地の学説で、安易に史料を批判するのは学者の傲慢な姿だと思ったりしていました。確かに、聖徳太子の伝説には、一度に十人の声を聞き分けたとか、生まれながらに言葉を話すことが出来たとか、黒駒と呼ばれる馬に乗って空を飛び富士山に登ったとか、信じられない欲説があります。そうした尾ひれがついた超人伝説を信じることは出来ませんが、実在しなかったは言い過ぎだろう……と、勉強を始めた頃は学者の史料批判に憤りすら感じていました。


 ところが歴史の勉強を進めていくと、古事記と日本書紀をそのまま鵜吞みにしてはいけない……と、僕も考えるようになりました。聖徳太子の存在は信じていますが、欠史八代についてはその通りかもしれません。何故なら、現代はDNAの研究が進んでおり、古墳から出土される人骨から当時の人々の属性を知ることが出来るからです。


 紀元前1,000年くらいから始まったとされる弥生時代は、現代においては黄河流域から朝鮮半島を経由して稲作が伝来されたと考えられています。その根拠は、弥生人の人骨から中国河北省や朝鮮半島に多いハプログループO系統が検出されたからでした。その頃の中国では、殷王朝が滅び周王朝の時代が始まっていました。これら王朝が存在した場所は現代で言うところの山東省に該当し、黄河流域を地盤にした王朝になります。大陸から日本列島に人々が渡来する原因として、もしかすると王朝交代による戦争が直接に影響したのかもしれません。


 ヤマト王権の萌芽とみられる奈良県桜井市にある纒向遺跡は、2世紀末から建造が始まりました。時代区分ではこの頃から古墳時代になり、また魏志倭人伝に記録されている卑弥呼もこの頃の人物になります。当時の中国の王朝は、後漢末期に差し掛かっていました。後漢の衰退を象徴するのが黄巾の乱になります。黄巾賊は太平道の創始者である張角を頭首にした反乱軍に成長し、腐敗した後漢の政治に抵抗しました。この黄巾賊の討伐を切っ掛けにして、曹操や孫権、それに劉備が立ち上がり三国時代が始まります。ここで注目したいのが太平道になります。これは道教の一派でした。


 道教は老子の思想を根本にしていますが、不老長寿を求める神仙術やインドから渡ってきた仏教と混ざり合った宗教になります。後漢が衰退を始めた2世紀ごろに、太平道や五斗米道といった道教思想が隆盛を極めました。同じ頃に起こったこれら道教の二派ですが、起こった地域が違います。太平道は中華の中心地である華北で起こりましたが、五斗米道は四川省の蜀の辺りで誕生しました。ここで五斗米道について考察してみます。


 四川省は、稲作の起源である雲南省と長江を挟んで北側に位置しており、中央から見れば辺境でした。五斗米道を創始した張脩は、信者から五斗(=500合)の米を寄進させたそうです。宗教的な教義までは分かりませんが、五斗米道という命名から稲作と深く関わっている様子が伺えます。ところで、後に表される魏志倭人伝には、卑弥呼について次のように紹介していました。


 ――事鬼道、能惑衆


 意訳すると「鬼道という呪術シャーマニズムを実践し、その力で多くの人々を統治・支配した」になります。僕はこの鬼道が、道教の五斗米道ではないかと考えています。この五斗米道を信仰した人々が日本列島に渡り大和王権の始祖になったのではないでしょうか。これは僕の推論になりますが、そのような結論に至った状況証拠を幾つか挙げてみたいと思います。


 道教には神仙思想が混ざり合っています。目指すべき理想として、不老不死である仙人への願望がありました。孫悟空が桃を食べたことで寿命が延びた話は有名ですが、この不老長寿をもたらす仙果として道教は桃を珍重したのです。また他の効用として、桃は邪気を払うものとも考えられていました。


 古事記に、イザナギが死んでしまった妻のイザナミに会いに行く物語があります。あの美しかったイザナミが、黄泉の国で蛆がたかる醜い姿に変化していました。それを見たイザナギは酷く驚きました。その場から逃げ出してしまいます。怒ったイザナミは、イザナギを捕まえようと追いかけました。この物語の中で、イザナミは穢れの象徴になります。イザナギはそうした穢れを祓いたい。そこで、イザナギは仙果である桃を投げつけて穢れを祓い、黄泉の国から逃げることが出来たのです。


 古事記に登場するこの桃ですが、纏向遺跡からは大量の桃の種が出土していました。桃の原産地は中国であり、日本において大量の桃を食べるとなると、大陸から種を持ってくるだけでなく、その栽培技術や桃に対する強い執着があったことが考えられます。道教的な思想を背景にした大陸由来の人々が纏向遺跡に関係したのではないでしょうか。


 奈良県の古墳からは、500枚を超える多数の三角縁神獣鏡が出土していました。その名が示す通り、鏡には神仙思想の仙人である西王母と東王父、霊獣である龍と虎が対で描かれています。また、出土数こそ少ないものの法華経のモチーフである二仏並坐を表したものまでありました。つまり三角縁神獣鏡は道教の影響を強く受けた祭祀道具であったことが分かります。魏志倭人伝には、中国から卑弥呼に100枚の銅鏡が送られたことが記されています。その動機についてあまり語られていませんが、卑弥呼の鬼道が道教だったから……とは考えられないでしょうか。


 現代ではあまり感じられませんが、宗教は国家統治に必要なアルゴリズムでした。現代の法治国家が法律を遵守するのと構造は同じなのです。大和王権が主導的な立場で西日本を平定していった背景には、道教が大きく影響した。また三角縁神獣鏡とは、道教による国家統治を後押しするための重要なアイテムだったのではないでしょうか。


 同じような理屈で、前方後円墳もそうです。前方後円墳とは、不老不死になった大王が神として生活する住居だと考えます。詳細は省きますが、大王の為に埴輪によって現実世界と似通った仮想空間を用意しました。また、古墳の建造は宗教的な権威を担保するだけでなく、何千人もの多くの人々が動員されることによって、経済的な交流と発展を促したと考えます。


 また道教と直接に関係はありませんが、麹文化も見逃せません。麹の起源をたどると、雲南省の辺りから発生したと考えられています。東アジアを中心にして利用されている麹ですが、麹には大きく二種類ありました。一つは麦へんの「麹」で、もう一つは米へんの「糀」になります。


 麦へんの麹はその字のごとく、主に麦を原料にしています。東アジアで一般的に利用されており、麹によってデンプンをブドウ糖やアミノ酸に分解します。この分解された糖を発酵させることで、酒を醸造することが出来るのですが、ひとつ問題がありました。大陸由来のこの麹は、毒も一緒に生成するのです。その所為だと思いますが、東アジアでは醸造した酒をそのままでは飲みません。火を入れて蒸留します。東アジアの酒文化は紹興酒をはじめとして蒸留酒が一般的でした。その文化は、沖縄の泡盛にも受け継がれています。


 米へんの糀は、日本の食文化を支えてきました。日本酒をはじめとして、味噌や醤油の醸造に不可欠です。正式名称を「アスペルギルス・オリゼー」と言い、ほぼ日本にしか存在しません。原料は米を使いますが、その最たる特徴は毒を生成しないことなのです。日本における酒文化は、甘酒に始まり日本酒へと発展していきましたが、火を入れないでそのまま飲めるのは「アスペルギルス・オリゼー」を使っていたからです。では、雲南省に米を使った糀の文化が有ったのか、無かったのか?


 発酵デザイナーの小倉ヒラク氏は、東アジア地域に米の糀文化を探しに行きます。結論として、インド・マニプール州で生活しているメーテー族にその痕跡を見つけました。マニプール州はバングラディッシュの更に東、ミャンマーと隣接したインド最東端の地域になります。メーテー族は、米の糀からどぶろくを醸造するだけでなく、日本における神饌の直会と同じ儀式が残されていました。では、ここが糀の発祥地かというと、それは違います。メーテー族の起源をたどると、どうも雲南省に行きつくようなのです。


 中国において平野部は都市が形成され、歴史的に力が強い部族によってその覇権が争われてきました。平野部において栽培される穀物の中心は麦になります。対して米を作る一族は少数派で、多くは山間部に追いやられました。ただ、そのことによって水田稲作が発展したのです。水田稲作の利点は、施肥を行わず栄養を含んだ川の水を使うことによって、毎年同じ土地で米を育てることが出来ました。この水田稲作に必要な土地の条件が、山間部の川の流れを利用した棚田になります。つまり、五斗米道は、水田稲作を取り入れた道教だったのでは……と考えています。


 最後に巫女について一言。インドやネパールで信じられているヒンドゥー教には、神殿に少女を捧げる風習がありました。月経を迎えていない少女が選ばれ、神と結婚をするのです。少女は巫女としてシャーマンとして神の信託を民衆に伝えました。この巫女の風習も、道教と混ざり合ったのではないかと考えています。雲南省は、山岳地帯という地理的な特質から周りから隔絶された地域でした。中国からもインドからも影響を受けつつ、独自の文化風習が形成されていったのではないでしょうか。そうした道教を背景にした一族が、どのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは分かりませんが、この流れが卑弥呼へと続くと考えています。


 昔から言われていることですが、邪馬台国は大和国で、卑弥呼は日ノ巫女と考えて良いと思います。漢字が違っても音が似ているというのは、重要な証拠だと思います。邪馬台国の場所にしても、北九州か大和かで争われていますが、奈良の纏向と考えるのが自然でしょう。次回は、大和王権が誕生するまでの日本列島について、僕の考察を述べてみたいと思います。

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