【短編怪談】何もしてない
8月の夜にしては、ひどく涼しかった。
小野田拓未は、大量の試験とレポートを終えた解放感に浸りながら帰路に就いていた。
大学二年生の夏休み ──人生でいちばん自由な季節。
ここ数日はポーカーサークルの仲間と昼夜を忘れて遊んでいた。
京王井の頭線を降り、渋谷駅のJR改札へ向かう長い通路を進む。
右手には、岡本太郎の「明日の神話」の大壁画。
人波がぶつかり合い、飲み会帰りのサラリーマンや、外国人観光客の笑い声が耳に残る。
今日も、いつもと変わらない、何の変哲のない夏休みの一日。
涼しいはずなのに、背中に張り付く汗は冷たく、ゆっくりと這い上がってくるようだった。
スマホの画面に目を向けると、8月2日 22:03と表示されている。
指で通知を払って顔を上げたそのとき、視界が勝手に「ある一点」を選び取った。
そこに、いた。
人混みの中で、ひときわ背の高い女。いや、違う。
──首が、長い。
肩から生えた、人間の骨格ではあり得ない長さのそれが、不自然に二度三度と揺れている。
髪は濡れた紐のように張り付いて、青白い頬は痩せこけている。
その大きく見開いた目に、一瞬だけ知っている誰かの顔が重なった。けれど、すぐに思い出せなかった。指先がじっとりと湿る。
薄汚れた白いワンピースに身をまとった女は、ゆらゆらとこちらの方向へと歩を進めてくる。
彼女の周囲だけ、目に見えない水のように人の流れが割れていた。
小野田は、胃の奥がひっくり返るような感覚に、顔をそむけた。
あれは、人間なのか。そうじゃないのか。
瞬時に判断はつかなかったが、これ以上見れば、二度と日常に戻れない気がした。
振り返ることは決して出来なかった。
鼓動の数を数えるうちに、ひどく現実離れした「見間違い」という言葉が、便利に脳裏に浮かんだ。
帰宅しても、涼しさは皮膚の裏側に残っていた。
シャワーで熱めの湯を浴び、冷蔵庫の麦茶を一気に飲む。
ベッドに横たわって、天井の模様を眺める。
閉じた瞼の裏で、あの首が揺れていた。
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「こないだの帰り道、渋谷駅に首が異常に長い女がいた。」
ポーカーサークルの集まりで、小野田がそう切り出すと、若槻怜士は眉をひそめた。
「首が長い女?」
「そう。普通の倍はあった。顔も青白くて……明らかにおかしかった。」
若槻怜士は小野田と高校からの友人で、放送部仲間でもあり、成績も常に競い合った。
友人の少ない小野田にとって、若槻は唯一といっていい親友だ。
だからこそ、若槻には、小野田がくだらない嘘をつくとは思えなかった。
「首が長い女って、こんな感じ?」
若槻はスマホの画像検索の画面を見せた。
立島夕子の《あたしはもうお嫁にはいけません》──女の首が異様に伸びた絵だ。
「うわ、まじでこんな感じ。もっと無表情だったけど…。てか、何でこういうのすぐ出るんだよ。」
「昔から、ホラー系は好きだったからさ。でもこんなのがいたら、さすがにみんな騒ぐだろ。」
「それが、誰も気にしてなかったんだよ。見えてないみたいだった。」
「え、お前にだけ見えてたっていうのか?霊感なんてないだろ?」
「ない。一回も見えたことない。」
「見間違いじゃなくて?」
小野田は指先をこすり合わせる。冷たい汗がまだ残っていた。
「そう思いたいんだけど…多分、ガチで見ちゃった。幽霊かも。」
「ふうん。ま、次のコラムのネタくらいにはなるかもな。」
若槻は小さい頃からメディアに興味があり、今は新聞記者を目指して、とある新聞社にインターンをしている。
最近は少しずつ腕も上達してきて、ちょくちょく新聞の小さいコラム欄も任せられるようになった。
「お前、信じてないな?他に見た人がいないか、若槻のリサーチ力で調べてくれよ」
「分かった分かった。今度渋谷駅行ったら注意してみるよ。」
面白い記事になる可能性もなくはないと、若槻は軽く笑い飛ばした。
その笑い声は、妙に遠く響いていた。
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翌日、若槻のスマホが震えたのは、深夜23時を過ぎた頃だった。
「……まじでヤバい」
電話口の向こうの声は、切羽詰まり、途切れ途切れだった。
「今度は、俺んちの近くのコンビニだ。……あの女がいた」
結局その夜、小野田は若槻宅に泊まることになった。
「…本当にあの女だったのか?」
「間違いない。あれは絶対にそうだった」
グラスを握る小野田の手が、わずかに震えていた。
視線は落ち着かず、床と天井を行き来している。
プライドの塊で、滅多に弱みを見せない小野田がここまで取り乱すのは若槻も初めて見る光景だった。
──そして、そんな彼を目の前にして、不謹慎ながら胸の奥に「嘲笑」に似た感情が芽生えてしまった。
「なぁ、他に見かけたって奴いないのか?」
「それなんだけどさ。この投稿みてよ。」
若槻が差し出したスマホの画面には、Twitterの呟きが表示されていた。
小野田は食い入るように画面を覗き込む。
《ありえないくらい首が長い女が家の近くにいたんだけど怖すぎ、何なの?》
──投稿は、約2週間前。それを最後に、更新は途絶えていた。
「…俺以外にもあれを見た奴を見つけたのか?しかも2週間前?誰なんだよ、これ……どこで見たんだ?」小野田のあまりの必死さに、若槻は口元が歪んだ。
「友利真琴って覚えてる?これ、あいつのアカウントなんだよ。」
その名前を出した瞬間、小野田の顔に影が走ったのを若槻は見逃さなかった。
友利真琴──高校時代の同級生だ。明るく社交的で、誰からも好かれる「一軍女子」。自分たちとは接点のなかった存在。
「友利って、あの友利か?どういうことなんだよ?」
「それは分からない。だけど、もし俺の記憶が正しければ、友利は地元の大学に通っていたはずだ。」
「ってことは…山形であの女を見たのか?」
「多分な。こいつは2週間前には山形にいたことになる。」
「意味が分かんねぇ…。なんで今、東京で、しかも俺んちの近くで…」
小野田は思わず声を荒げた。背中に冷たい汗が伝う。
「とりあえず、落ち着け。他にも色々SNSを調べてみたんだけど、見つけたのはこの1件だけだった。今分かってるのは──お前と友利が『首長女』を見かけたってことだけだ。…なぁ、何か他に思い出せることとかないか?」
小野田は視線を落とし、しばらく黙り込んでいた。
「…実はさ。最初にあれを見たとき、どこかで見たことがある気がしてたんだ。その時は思い出せなかったんだけど…。今なら分かる。比留間歩だ。」
「比留間?」
若槻は記憶をたぐった。──比留間歩。友利と同じく、高校時代の同級生。ただ、こちらは地味で目立たない大人しい女子で、若槻は話したこともなかった。
「いや、当然別人なんだけど…あのぎょろっとした目とか、比留間にそっくりだった。」
点と点が不気味に繋がり始める。これは偶然なのか、それとも──。
「比留間って、たしか高3で転校したよな?」
「…そうだったっけ。あんまり覚えてないな…」
比留間の話になってから、小野田の口数は急に少なくなった。
何かを隠しているように。
若槻がさらに追及しようとしたその時、「わりぃ…ちょっと気分が悪い。……今日はもう寝るわ」
小野田はそう言って、そそくさと布団の中にくるまってしまった。
若槻はその背中を見つめた。
薄暗い部屋の中で、布団の形がほんのわずか、細かく上下に揺れていた。
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その日は朝から雨が降っていた。あの女を見た日と同じ、ひどく涼しい夏の夜だった。
──どういうことだよ。俺は関係ないだろ。
小野田は、傘もささずに自宅へと急いでいた。
若槻が見つけ出した2つの新聞記事。
そこには、知りたくもなかった事実が並べられていた。
目を逸らしたいのに、文字は皮膚の裏に焼き付くように消えない。
それを読んだ瞬間、理由もなく「帰らなければ」という衝動に駆られ、ポーカー仲間との集まりを途中で抜け出していた。
納得できない。俺は関係ない。
──あいつらはともかく、俺は何もしてない。
そう言い聞かせた途端、脳裏にあの女の目が蘇った。
誰か、誰でもいいから助けを。
絶望の底で、それでもなお一縷の望みにすがりつくような目。
そして、ただ笑っていた自分の声の残響が響く。
小野田は全身を震わせた。
俺は、何もしてない。何もしてないんだ。…何もしてないんだから。
人通りの少ない商店街を早足で進んでいく。
なぜ、こんなに急いでいるのか、自分でも分からない。
ただ何かに引き寄せられるように、自宅へと向かっていた。
商店街を抜け、薄暗い路地を曲がると、アパートの外灯が雨に滲んで見えてきた。
とにかく部屋に入りたい。鍵を閉めてしまいたい──その一心だった。
エントランスのオートロックを抜け、階段を上る。
心臓の鼓動が耳の奥で響く。ポケットの鍵を指先でなぞりながら、廊下を進む。
──その時。
自分の部屋の扉の前に、人影があった。
薄汚れた白いワンピース。細く伸びた腕。痩せた肩。
背筋が氷に触れたように硬直する。灯りの下で、女はじっと立っていた。
あの、長い首。
肩から上が、あり得ない角度で前に突き出ている。
まるで、扉に耳を当てて中の音を聞いているかのように。
呼吸が乱れた。肺が酸素を受け入れない。
足が一歩も動かないのに、鼓動だけが速くなる。
“逃げろ”という声が頭の奥で響くのに、視線がどうしても離せない。
女がゆっくりとこちらに顔を向けた。
長い首が、軋むようにねじれる。
目が合った瞬間、喉の奥から声にならない音が漏れた。
あの時と同じだ。あの女の、助けを乞うような──あの目。
いつの間にか、膝が勝手に折れ、地面に額が吸い寄せられるように落ちた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
俺は…何もしなかったんじゃない。
何もしてあげられなかったんだ。
だって、知らなかった。
そんなことになるなんて、思ってもいなかった。
だって、そんなの、よくあることじゃないのか。
今さら何を謝っても、何を言い訳しても、もう遅い。
気づけば、喉に冷たい圧力がかかっていた。
それが女のものなのか、自分のものなのかは、もう分からなかった。
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《アパートに二人の女性遺体 首絞められ窒息死 殺人事件で捜査―山形県》
22日、山形市旭ヶ丘のアパートの一室で、住人の大学生・友利真琴さん(20)と同市在住の大学生・水田響子さん(20)が死亡しているのが見つかった。司法解剖の結果、いずれも首を絞められたことによる窒息死で、山形県警は殺人事件として捜査本部を設置した。
捜査関係者によると、友利真琴さんは21日夜、アルバイトを終えて帰宅。その翌日午後3時頃、友利さんの母親が友利さんの自宅を訪れて遺体を発見した。水田さんは21日夜、「今夜は友人の家に泊まる」と家族に伝えていた。二人は高校時代からの同級生だった。
発見時、二人に目立った外傷はなかったが、互いに首を絞め合うような体勢で倒れていたという。
※「2年D組の安否確認」の手書きメモ有
《東京都足立区自宅で女性が死亡しているのが見つかる》
20日午後2時ごろ、東京都足立区花畑の集合住宅で「娘が首を吊って倒れている」と母親から110番通報があった。倒れていたのは同区在住の無職女性(20)で、その場で死亡が確認された。
室内には遺書が残されており、高校時代のクラス全体によるいじめを示唆する記述もあったという。警視庁は詳しい経緯を調べている。
関係者によると、女性は山形県内の高校に進学したが、2年生の時に同級生からの嫌がらせで不登校となり、3年時に都内の高校へ転校。その後大学受験に二度失敗し、現在は都内の予備校に通っていた。
東京都では、心に悩みを抱える人のため、電話相談窓口を設けています。