温泉の帰り
サロンのバスツアーは、佐藤のおばあちゃんの『温泉で心も体もほぐれるから!』という言葉に後押しされて参加を決めた。
久しぶりの外出に、億劫さもあったものの『温泉』という誘惑には勝てなかった。
もう、何年も温泉……いや、旅行にさえ行っていない。
バスは朝早く、公民館前から出発した。
目的地は山間の小さな温泉地。車窓から見える新緑の山々と、田んぼに映る空が、都会の灰色の景色とはあまりにも違った。
温泉に着くと、柔らかな湯気が立ち込め、湯船に浸かった瞬間、体の軋みが溶けていくようだった。
疾患が治ったわけではないのに、心まで軽くなるような不思議な心地よさが、温泉にはあると思う。
昼食は道の駅で。
山菜の天ぷらと地元牛のステーキ定食は、素朴なのに深い味わいだった。
田中のおじいちゃんが
『これで、100歳まで生きれるぞ!』
と笑い、皆がどっと沸いた。
私も、久しぶりに心から笑っている自分に気づいた。
ノリ子さんは私の隣で、静かに箸を進めながら、時折小さく笑みをこぼしていた。彼女のそんな姿に、私はホッとしていた。
だが、帰りのバスで空気が一変した。
副会長の藤田のおばちゃん……
サバサバした性格で、いつも皆を引っ張る行動力のある人だが、デリカシーに欠けるのが玉に瑕……
が、調子に乗った声で話し始めた。
彼女はバスツアーの楽しさに浮かれ、冗談のつもりだったのだろう。だが、その言葉はあまりにも軽率だった。
『ノリ子さん、ほんと真面目よねえ。精神科通ってるってのも、性格が細かくて考えすぎるからじゃない? もっと気楽に生きないと!』
バスの中が一瞬で凍りついた。
ノリ子さんの顔が、みるみる青ざめるのが分かった。
彼女は窓の外に目をやり、唇を噛んで黙り込んだ。佐藤のおばあちゃんが
『藤田さん、ちょっと!』とたしなめたが、藤田のおばちゃんは『冗談だって!』と笑いながら取り繕った。
……が、その笑い声には、誰も反応しなかった。
私は言葉を失った。ノリ子さんの傷を、まるで軽いゴシップのように扱うその無神経さに、怒りと同時に自分の無力さを感じた。
私も同じ傷を抱えているのに、何も言えなかった。
ノリ子さんはその後、バスの中で一言も発さず、公民館に着くとそそくさと帰ってしまった。
次のサロンには、ノリ子さんは姿を見せなかった。佐藤のおばあちゃんが
『体調が悪いって言ってたけど……』と心配そうに呟いたが、私はあのバスの中の出来事が原因だと確信していた。
藤田のおばちゃんは相変わらず明るく振る舞い、誰もその話題に触れようとしなかった。
だが、私は気づき始めていた。サロンの笑顔の裏に、時に無神経な言葉や、他人を慮らない本心が潜んでいることを。
田中のおじいちゃんは、いつも優しいが、噂話を楽しむ癖がある。
佐藤のおばあちゃんはサロンをまとめるリーダーだが、問題を丸く収めようとするあまり、深い対話から逃げる所がある。
藤田のおばちゃんの行動力は、時に他人の心を踏みにじる。
他のメンバーさん達も、問題に対しては、コソコソと話すが、ハッキリ言う人はいない。
そして、私自身もまた、自分の傷を隠しながら、他人と本当の意味で向き合えていない。
公民館の窓から見える夕暮れが、いつもより重く感じられた。私はノリ子さんのことを思い、彼女に連絡を取ってみようかと考えた。
だが、その一歩を踏み出す勇気が、まだ私にはなかった。サロンの温かさは本物。
だが、その裏に隠れる人間らしい脆さや、傷つける言葉の軽さもまた、この町の真実だ。