ノリ子さん
サロンのお茶会から数日後、私は再び公民館の扉をくぐった。
佐藤のおばあちゃんの『また来てね』という言葉が、頭の片隅で響き続けていたからだ。
それに、ノリ子さんのことが気になっていた。彼女の噂を耳にしたあの瞬間、私の心に小さな波紋が広がった。同じ傷を抱える誰かと、ほんの少しでも繋がれるかもしれない。そんな淡い期待が、私の重い足を動かした。
今日は『百歳体操』の日。公民館のホールには、十数人の高齢者たちが椅子に座っていた。佐藤のおばあちゃんがラジカセのスイッチを入れると、軽快な音楽が流れ出す。
体操は、椅子に座ったままできる簡単な動き。腕を上げたり、足を軽く踏み鳴らしたり、肩を回したり。
参加者のほとんどが70代、80代なのに、皆、驚くほど生き生きと体を動かしている。
『これやってると、膝の痛みがマシになるんだよ』と、隣の田中のおじいちゃんが笑顔で呟いた。
私は薬の副作用で体が重く、動きについていくのがやっとだった。
双極性障害の薬に加え、肝疾患と甲状腺疾患の治療で、朝起きるだけでも一苦労。
それでも、皆の笑い声とリズムに引き込まれ、ぎこちなく腕を上げ下げしていると、ふと視線を感じた。
ノリ子さんだった。彼女は私の隣に座り、静かに体操を続けている。60歳そこそこなのに、どこか疲れたような目。
だが、その奥には、諦めとは違う何かが潜んでいるように見えた。
体操が終わると、皆が湯呑みを手に雑談を始めた。私は勇気を振り絞り、ノリ子さんに挨拶をした。
彼女は小さく微笑み
『体操、初めてだと疲れない?』と声をかけてきた。声は柔らかく、どこか懐かしい響きがあった。
『そうですね…でも、皆さんの元気がすごくて』
と、私は曖昧に答えた。
どうやって本題に切り出せばいいのか、頭の中で言葉がぐるぐる回る。彼女が精神科に通っているという噂。私の心の傷。話したいのに、喉が詰まる。
『このサロン、最初は気恥ずかしいけど、来るたびに楽になるのよ』と、ノリ子さんが先に口を開いた。
『私も……まあ、いろいろあってね。体操やって、皆と話してると、ちょっとずつ頭が軽くなるの』
彼女の言葉に、私は思わず顔を上げた。「いろいろ」という言葉に、どれだけの重みが込められているか、私には分かる気がした。
彼女もまた、笑顔の裏に何かを抱えている。私は一瞬迷ったが、思い切って口を開いた。
『私……実は、療養で帰ってきたんです。体調が……いろいろあって……』
〇〇さんは静かに頷いた。彼女の目は、まるで私の心の奥を見透かすようだった。
『そうなのね。ここ、噂は早いけど、みんないい人よ。体調を見ながら参加したらいいと思うわ』
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなった。彼女は私の病名を聞かず、詳しい事情を詮索しなかった。ただ、静かにそこにいてくれる。それだけで十分だった。
彼女もまた、精神科に通うことを誰かに囁かれながら、それでもこのサロンに来ている。その強さに、私は小さな希望を見た。
体操の後、佐藤のおばあちゃんが
『次はバスツアーよ! 温泉行くから、裸の付き合いしましょ!』と大声で皆を煽っていた。
私はノリ子さんと顔を見合わせ、くすっと笑った。彼女の笑顔は、まるで鏡のようだった。
私の傷も、彼女の傷も、この町の温かさの中で、少しずつ癒えるかもしれない。そんな予感が、公民館の古い床に響く笑い声と一緒に、心に刻まれた。