初めてのサロン
数日間、実家のソファでぼんやり過ごすうちに、佐藤のおばあちゃんの『来週の水曜』という言葉が頭から離れなくなった。
心は重いままだが、このまま部屋に閉じこもっていても何も変わらない。
散歩がてら、気分転換になるかもしれない。そう自分に言い聞かせ、私は公民館へと足を向けた。
公民館は子どもの頃の記憶そのままだった。色褪せた木の看板、軋む床、窓から差し込む柔らかな光。
サロンの日は、月に二回、午後のひとときを町内の高齢者たちがここで過ごす。
佐藤のおばあちゃんに手を引かれるように中に入ると、すでに十数人のおじいちゃん、おばあちゃんたちが集まっていた。
皆、笑顔で私を迎え入れ、子どもの頃のあだ名で呼ぶ人もいた。懐かしさと気恥ずかしさが胸の中で混ざり合う。
『あら、タカちゃん』
『幸ちゃん(私の父……幸治)の葬儀以来だね』
『よく来たね! ほら、座って座って!』
佐藤のおばあちゃんは私の背中を軽く叩き、丸いテーブルの席へ促した。
テーブルには湯呑みと煎餅が並び、今日は『お茶会』の日らしい。
サロンの活動は多彩で、全国的に広がっている『百歳体操』という座ってできる体操や、日帰りバスツアー、講師を招いてのハンドメイド教室などがあると、隣に座った田中のおじいちゃんが得意げに教えてくれた。
『体操はな、膝が悪い私でもできるんだよ。動きながら笑って、頭もスッキリするんだ』
と、彼は目を細めた。
その笑顔には、老いを受け入れつつも前向きに生きる力が宿っているように見えた。
私は、薬でぼんやりする頭と、肝疾患で重い体を抱える自分を思い、羨ましさと自己嫌悪が胸を刺した。
お茶をすすりながら、会話は自然と町の噂話に花が咲く。
誰かの息子が都会で結婚したとか、隣町のスーパーが閉店したとか。
サロンは、ただの集まりではなく、町の情報源でもあるのだと気づいた。
子どもの頃、母が近所のおばちゃんたちと井戸端会議で交わしていた会話が、形を変えてここにある。
だが、その軽やかなおしゃべりの中で、ふと耳に刺さる言葉が聞こえてきた。
『ねえ、ノリ子さん、精神科に通ってるんだって。』
声は、テーブルの向こう側から、ひそひそと漏れてきた。
ノリ子さん。彼女は、我が家とは離れているから、直接の付き合いは無いけれど、自己紹介の時の時の印象は、静かで控えめな感じ。おまけに、私よりひと回りしか違わない年齢。サロンの中では、私を除けば、一番若い。
彼女は控えめに微笑み、多くを語らない。端の席で静かにお茶を飲んでいる。私は彼女の横顔をちらりと見た。穏やかな表情の裏に、どんな思いを抱えているのだろう。
私の心臓が早鐘を打つ。精神科。私も同じだ。双極性障害と適応障害の診断を、誰にも明かせずにいる。
ノリ子さんの噂を耳にした瞬間、まるで自分の秘密が暴かれたような恐怖が走った。
だが、同時に、奇妙な安心感も芽生えた。この町には、私と同じように心の傷を抱える人がいる。サロンの笑顔の裏には、そんな本心が隠れているのかもしれない。
お茶会の終わり、佐藤のおばあちゃんが
『次は体操の日だから、また来てね』と笑顔で言う。
私は曖昧に頷きながら、ノリ子さんの背中を見つめていた。彼女と話してみたい。いや、話さなくても、ただ同じ空間にいるだけで、何かが見つかるかもしれない。そんな予感が、私の心に小さな灯をともした。