さっそくのお客さま。
実家に戻って数日も経たないうちに、私の帰省は町中に広まっていた。
田舎町の噂はSNSよりも速い。
子どもの頃、近所のばあちゃんたちに
『ちょっと買い物に行く』と言うだけで、夕方には町の反対側まで話が届いたものだ。
今もそのスピードは変わらないらしい。
朝、台所で兄貴と味噌汁をすすっていると、玄関のチャイムが鳴った。
『やあ、久しぶりだね、元気だったかい?』
玄関に立っていたのは、近所の山田のおばちゃんだった。
子どもの頃、よくお菓子を分けてくれた人だ。
白髪が増え、背中が少し丸くなったけれど、目元の笑い皺は昔のまま。
手に持ったビニール袋からは、採れたての大根とネギが覗いている。
『これ、さっき畑で取ってきたやつ。食べて元気出しなよ』
と、笑顔で差し出された。
私はありがたく受け取りながら、胸の奥でざわつくものを感じた。
彼女の優しさは本物だけれど、私の事情をどこまで知っているのだろう。
その日の午後、さらにもう一人、顔見知りがやってきた。
地区の婦人会であり、高齢者サロンの会長を務める佐藤のおばあちゃん。
80歳を過ぎても背筋はピンと伸び、眼光は鋭い。
子どもの頃、駄菓子屋で万引きした同級生を一喝した姿を今でも覚えている。
彼女はソファに腰を下ろすと、開口一番、こう切り出した。
『仕事……辞めたって聞いたけど……。都会は厳しいもんね……。体はどうなの?』
私は一瞬、言葉に詰まった。
会社でのパワハラやセクハラ、双極性障害や適応障害の診断、さらには肝疾患や甲状腺疾患まで。
私の体と心は、まるで古い家のようにあちこちが軋んでいる。
けれど、それを正直に話す勇気はなかった。
町の人々の好奇心は優しさと表裏一体だ。
噂が広まるのを恐れ、私は口ごもりながら答えた。
『ちょっと……療養のために、帰ってきたんです』
佐藤のおばあちゃんは、じっと私の目を見た。その視線に、子どもの頃のいたずらがバレた時のドキドキを思い出した。
彼女は小さく頷くと、にっこり笑って言った。
『なら、ちょうどいいかもしれないわね。月に二回のサロン、来なさいよ。
みんなで話して、笑って、元気になるわよ。貴子ちゃんの顔を見たら、みんな喜ぶから』
高齢者サロン。公民館で開かれる、町のお年寄りたちが集まる場所。
子どもの頃、夏祭りの準備で公民館に行った時、笑い声とトランプの音が響いていたのを思い出す。
あの場所に、私が?
精神疾患を抱え、薬の副作用で体が重い私には、笑顔で輪に入る姿が想像できなかった。
だが、佐藤のおばあちゃんの目は、言葉の柔らかさとは裏腹に、断ることを許さない力強さがあった。
『考え…ておきます』
私はそう答えるのが精一杯だった。
彼女は満足そうに頷き
『じゃあ、来週の水曜、来れたら来てね』と、圧を残して帰っていった。
夕方、兄が仕事から帰ってきても、私はソファに座ったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
町の人々の温かさは、確かに心に染みる。
だが、同時に、私の傷を隠し続けることへの疲れも感じていた。
サロンに行けば、笑顔の裏にある高齢者たちの本心や、人生の重みを垣間見ることになるかもしれない。それは、私自身の傷と向き合うきっかけになるのか。それとも、ただの気休めで終わるのか。
外では、夕暮れの風がカーテンを揺らしていた。私は立ち上がり、佐藤のおばあちゃんが置いていった手作りのおにぎりを手に取った。
『これ、佐藤のおばちゃんから』と、兄にも渡す。
塩の味が、なぜか子どもの頃の夏を思い出させた。