異世界ホテルの事情(2)
「ホテル業界からは撤退しろということですか」とマイルズが言った。
「ねえマイルズ。正直僕は、このホテルがどうなろうとどうでもいいんだ」櫛森はそう言うと珈琲を啜った。
「今回僕がこっちに来たのは、ヴァネッサが不穏な手紙を寄越したから様子を見に来ただけで、このホテルをどうにかするためじゃない。どうにかするのは君たちの仕事さ」
マイルズとヴァネッサは気まずそうに、そして不甲斐なさそうに顔を見合わせた。
「少しくらい協力してあげても」と僕が言うと「じゃあ君が協力してあげるんだ」と、まるで意に返さない様子だ。
僕は万国共通だと思っていることが二つある。一つは溜息の音と、もう一つは時計の秒針がうるさく感じる空間の気まずさだ。それは異世界でも同じだった。
この部屋にも大きな時計があり、秒針が1秒進むごとに僕らを煩わしさの深みにはまらせていった。まるで泥んこに足を取られるみたいに。蟻地獄に飲み込まれていくみたいに。そんな空間の中で、櫛森はつけた指輪でカップを触れ合わせた。音は鈴を鳴らすみたいに部屋全体に広がっていく。
「ヴァネッサ、もういいじゃないかな?」
「──何がですか?」
「現実に帰る時じゃないかな?」ヴァネッサさんはうついた。その視線は夢見がちな少女の目をしていて、まだ手付かずのカップに注がれている。
「でも私、立派なホテル経営者になりたいんです。ずっと。お祖父さんの話を聞いてから、私の夢なんです」
「そうやって、いつまでも夢の中で生きるのかい?」
顔を上げたヴァネッサさんは目を瞬かせた。
「実のところ、僕がヴァネッサを異世界に連れてきたのは、夢を諦めさせるためだよ」彼の口ぶりには、温もりも冷たさも感じ取れなかった。まるでエスプレッソみたいに合理性のみを抽出したような、そんな話し方だった。
「どういうことですか?」
「ホテルとはいえここは異世界だ。現実世界じゃないホテルで学んだところで、現実で活かせる部分は少ない。現実世界に冒険者はいないし決闘もない。減価償却とかデッドクロスとか、顧問弁護士も税理士もいらない、整っていない世界でホテル経営を学んで何になる。君だって分かっていたはずだ。だけど分からないフリをしていた。動いていれば夢に近づいていると思い込もうとしていた」
「櫛森さんは私の応援をしてくれていたんじゃないんですか?」
櫛森は笑って答えた。「応援はしてるさ。これまでだって僕にできることはしてきただろう。君が出来る出来ないはまた別問題だよ」
「そんな言い方」と言ったところで、櫛森からの冷たい視線を感じた。彼の視線には刃渡10センチくらいの鋭さを感じる。
ヴァネッサさんはまたさらに目を瞬かせた。目は目一杯見開かれ、瞳孔も開いていった。体がカタカタを音を立てる。まるで爆発寸前のぬいぐるみ爆弾みたいだった。
櫛森が合図をすると、橘さんがヴァネッサさんを羽交締めにし、彼女は気絶した。僕が彼女を抱き上げ、橘さんと一緒にヴァネッサさんが寝泊まりしている部屋にまで運び、ベッドに寝かせた。
「精神的苦痛には肉体的苦痛が効くんだと、主人様から仰せつかっていたんです」と橘さんは言った。
部屋は質素なもので、あるのはキャビネットとベッドと工場とかに置いてありそうなミシンだけだった。キャビネットには幾つかの瓶と、把手のないコーヒーミルが置いてある。ミシンは何か作業の途中で放られたままになっていた。それ以外には窓にかかった麻のカーテンくらいで、窓を開け放つと気持ちの良い異国の風が入ってきて、カーテンを膨らませた。
気絶した彼女はなかなか目を覚まさなかった。
「お仕事の不安から、なかなか寝付けなかったのではないでしょうか」確かに彼女は少しやつれ気味に見えていた。髪もボサボサで唇も乾燥していたところを見ると、身だしなみにまで意識がいかなかったのだろう。
彼女が目を覚ましたのは夕方になってのことだった。
「ごめんなさい。私また助けてもらってしましました」
彼女は羽交締めされたことを責めるのではなく、助けてもらったと言った。ヴァネッサさんが人形になる──櫛森は人形化現象と言っていた──のを防ぐことに繋がる行動だったのかもしれないが、その辺のことは僕にはまだ予測の域を出なかった。
「そんなこと言わないで。私たちの仲じゃないですか」
「でも……」
橘さんはベッドに腰掛け、ヴァネッサさんに寄り添った。
「私ね、主人様に言われたことがあるの」




