コトノハ_4
日も落ちきった頃、担当の店を回り終えたレノが集積所に帰ってくると、所内はどんよりと、それでいてどこか互いに探り合うようなぴりぴりとした空気が漂っていた。
訝しげに眉をひそめながら、レノは「ただいま戻りました」と周囲に声をかけながら馴染みの者たちの輪に加わった。
「レノ。お帰り」
気付いた男が声をかける。レノと訓練時代に同期だったジンだ。疲れ切ったように掠れた声だった。「ただいま」と応じ、レノは声を潜めた。
「何かあったのか?」
「ああ…まぁ、な…」
歯切れの悪い返答だ。いつもはっきりものを言う彼にしては珍しい。俯いて目を逸らす彼から視線を外し、レノは集積所内の仲間たちを見やった。
手許だけを見て、黙々と作業をする者、やけにハイテンションで軽口をたたき合う者、窓際でぼうっと煙草をくわえたある者は、火が消えていることにも気付かぬ様子で空を見上げている。
コトノハたちの様子の不自然さから重大な事案が発生したことはわかるが、それが“何か”は予想も付かない。会計の締めはまだ先だし、王族への報告事項のまとめもこの間済ませた。周辺諸国との関係も落ち着いているし、戦地が遠方に移り戦況も安定した今、軍からの報告や手紙に関しても急ぎのものはないはずだ。何も問題が起こり得ないタイミングなのだ。それなのに、一体何が…?
はあーーという音に振り返ると、レノと目を合わさないようにしていたジンが、溜め込んでいた息をすべて吐き出すように長く、嘆息していた。全ての息を吐き出して、そのまま呼吸を止めていたのではないかという沈黙の後、彼は吐息のようにぽつりと呟いた。
「クツァオが、死んだんだ」
「はっ…?」
冗談はよせ──そう言いそうになってレノは口をつぐんだ。彼はそんな質の悪い冗談を言う性格ではないし、何よりそんなことを冗談で言える空気ではなかった。ぎゅっと目をつぶり、ゆっくりと、深呼吸した。再び開けた目で改めて集積所の中をぐるりと見渡す。目的の影は見当たらない。
「…アザは?」
「ぼうっとして何の役にも立たねぇから、帰らせたよ」
いらだちを隠しもせずに、同じグループにいた別の男が吐き捨てるように言う。おい…と窘めるように声をかけた男にけっとそっぽを向いて、その男は下唇を噛んで手許の作業に没頭した。
「そうか。今は、それがいいかもな。ありがとう」
男の態度や言葉に腹を立てたようすも見せず、レノは静かに微笑んだ。そんなレノを気遣うようにちらりと視線を寄越しながら、ジンはぶっきらぼうに言った。
「…お前も、今日は帰っていいんじゃねぇの。人の何倍も一日に仕事してんだから」
「迷惑かけそうになったら帰るよ。でもしばらく一緒に作業させてくれ」
そう言いながらレノは手近な箱から手紙の束を取り出し、地域ごとに仕分けを始める。レノがいつも手伝うような仕事ではなく、頭を使わない単純な作業だ。ジンも、「だよな」と小さく呟き、同じくあえて簡単な作業に取りかかる。
レノとジン、そしてクツァオは訓練時代の同期だった。ここで輪になっている者たちも、同じ時期に訓練施設にいたような歳の近い者ばかりで、クツァオがどんな人間だったか知っている。そう簡単に、というか、そもそも死ぬようなヤツではなかった。
だからこそ、その報告が現実として心に重くのし掛かる。言いようのない苦みと、どうしてという無意味な問いが頭の中に渦を巻く。
黙々と作業を続けるレノの耳に、周囲のコトノハたちの声が届く。クツァオの死に、皆動揺しているのがわかった。彼は、この国に新たな文字を生み出した。クツァオの名を知らぬコトノハはこの国どころか、大陸にもいないのではないだろうか。それほどの功績だった。
彼の死について、詳しいことはまだ何も伝えられていないようだった。クツァオのいた後方支援部隊が全滅し、守られていたはずのコトノハも共に死亡。記録係のいなくなった戦地に新しい記録係を派遣せよ。伝えられた情報はそれだけで、余計に皆の不安を煽る。
コトノハは貴重な存在だ。王族であろうと、将軍であろうと関係ない。訓練を受け、資格を与えられたコトノハしか、文字は使えない。
それゆえ、戦地であれどコトノハの扱いは丁重だ。場合によっては指揮官以上に守られている。また、どの国も優秀なコトノハを欲している。たとえ戦いに負けたとしても、記録係を務めるほど優秀な者なら、殺されることなく敵国に連れて行かれるだろう。コトノハは死ぬはずがないのだ。
だが、クツァオは死んだ。後任を選出せよとの命令なのだから、誰かが行かなければならない。なら、誰が行くのか。喪に伏す空気以上に、その探り合いが露骨に現れていた。
「代わりっていっても…コトノハが死ぬなんて…」
「コトノハって戦地でも絶対安全なんじゃなかったのか?」
「俺、戦場に行くためにあんな必死になって文字覚えたんじゃないよ…」
「なぁ、あいつでいいんじゃないか?」
片隅で話していたグループの一人の小さな声が、驚くほど集積所内に響いた。ひそひそと押し付けあう声が一瞬、しんと止み、再び何事もなかったかのようにざわめきが戻ってくる。だが皆が彼らの会話に耳をそばだてていることは明白だ。しかし当の本人たちは気付かないようで、ひそひそと話を続けている。