推薦_1
起きた時点で、出勤時間は大幅に過ぎていた。さらに、フタバが出ていってから充分に時間が経ってから家を出るようにと強く念押しされていたため、アザが集積所に着いたのは昼の時間もとうに過ぎた後だった。
「…おはようございます…」
遅刻するのは初めてで、何と言って入ればよいのか分からない。アザは小さな声でいつも通りの挨拶をしながら室内に入った。
「よす、アザ」
いち早く気がついたジンが手をあげる。手招きを受けてアザがジンたちのグループに近づくと、外回りが多いレノが輪に加わっていた。
「おはようございます」
驚きを飲み込み、声をかける。笑顔で応じてくれる者、ちらりと視線を返すのみの者…いつも通りの反応が返ってくる。そんな中、
「おはよう、アザ」
レノがいるのはやはり新鮮で、少し戸惑ってしまう。アザの心中を見透かしてか、レノは笑う。
「しばらく、中の仕事を回してもらうようにお願いしたんだ。町の店の方は、ずいぶん巻きで集計していたしね」
「そうなんですか」
返事をしながら、アザはレノの少し力が入った笑顔に、正直ほっとしていた。
昨日あれだけざわめいていた集積所内は落ち着きを取り戻し、まるで何事もなかったかのようだった。…クツァオの死に、そしてその後の出来事に自分だけが動じている気になりかけた。
レノの表情のおかげで、仲間たちが皆無理やり平静を装っているのだと気付けた。
「配達依頼、けっこう溜まってきたけど、僕が行こうか?」
手紙の束を差し出しながら心配そうに声をかけてくれた先輩にアザは首を振る。
「いえ、行ってきます。配達は俺の仕事ですから」
脳裏に浮かんだフタバの誇らしげな表情に、カラリと笑うクツァオの顔が重なった。自然と、アザも笑みを浮かべていた。
「そっか。いってらっしゃい」
ほんのりと温もりを感じる手紙を受け取った。送り出してくれる仲間に再度「行ってきます」と声をかけ、入ってきたばかりの扉に向かう。…妙に皆の視線を感じる。首を傾げつつも扉に手を伸ばしたが、アザが開けるよりも先に扉が開く。
「わっ!」
「これは失礼」
驚いて飛び退いたアザに低い声がかけられた。バクバクとなる心臓を落ち着かせながら、アザは声の主を見上げた。
壮年の男性が扉の向こうに立っている。細身で、背もそう高いわけでもないが、鍛え抜かれた鋼を思い起こさせる。扉が開けられるまで気配を一切感じさせなかった。
厳めしい顔をした彼は、口許は笑みを形作っているのに目はまったく笑っていないという不気味な表情でアザを見下ろした。
「君が、アザくんだね?」
「は、はい…そうですけど…」
男の気配に気圧されて、答える声は小さくなる。アザだけではない。集積所内の他のコトノハたちも、作業の手を止めて男に釘付けになっている。
「あの、どなたでしょうか。手紙の依頼であれば、表の受付の方に回っていただきたいのですが」
レノだけがいち早く平静を取り戻し、アザのすぐそばに来て男に向き合った。珍しく警戒するように硬い口調だ。少しだけ目線が下の男を油断なく見据えている。
「ああ、失敬」
男はそんなレノの態度を気にするようすもなく、室内に入って扉を閉めると、流れるような動作で敬礼した。
「私はユルド。軍の者で、今回の作戦では後方支援部隊の隊長を務めている」
詳しい所属を明かさなかった男――ユルドの一分の隙もない身のこなしからは指揮官だと言われた方がしっくりくるが、それ以上にコトノハたちはその所属にざわめきを漏らす。
「リツリの後方支援部隊のことは、すでに連絡があったと思う。私が来たのは、その件についてだ」
口許に笑みを浮かべた男は,感情の見透かせないガラス玉のような目でアザを見下ろし,ゆっくりと口を開いた。
「次の記録係として、私はアザくんを推薦する」
「えっ…」
頭が真っ白になる。何を言われたのか理解できなかった。呆然とするアザの両肩を誰かが掴んだ。
「待ってください!アザはまだ見習いです。それに、記録科ではなく手紙科です。記録係なら――特に戦地の記録係なら、記録科を修了し略字を扱える者でなければいけないのではないですか!?」
守るようにアザの肩を抱きながらレノが声をあげる。小さな声で賛同の意を示す他のコトノハたちをキッとにらみつけ、レノはユルドを真っ向から見据えた。こんなにも必死なレノの表情を見たことがあっただろうか。肩を支えられたまま、アザはレノの顔を見上げた。
そんなレノをちらりと見やったユルドは、再びアザに向き直る。相変わらず、口許は笑っているのに、目の奥はまったく笑っていない。微笑みをたたえたまま、不気味なほど優しい口調で話しかける。
「君は確かに手紙科卒業になっているが、略字を、使えるそうだね」
その言葉に、集積所にいた全員が凍り付いた。