一章 2
「……やっぱり畑仕事は気持ちがいいわ。お母様ったら、エラの試験が終わるまで、畑仕事をしちゃだめだ、なんて悲しい事を言うのよね!」
「……イオニアお嬢様は、畑仕事がお得意なんですか」
「普通のご令嬢と言われる人たちよりは得意よ? ふふ、ネリネはさっきから、眼鏡の奥で目玉がこぼれそうな位見開いているわよ、そんなに意外?」
「……まあ、意外です。お嬢様と言われている人たちは、土にまみれるのをお嫌いになる事が多いですから」
「こんな山の中腹に暮らしているとね、暇つぶしがほかに見つからなくなる事も多いのよ。ネリネも覚えたらいいわ。都会に戻った時、植木鉢で香草を育てられれば、ごはんもさらにおいしいものになってくれるわよ」
私は意外な事を聞いていた。そして見ていた。畑仕事に近寄らないと思っていたイオニアお嬢様は、実は土いじりが大好きで、畑仕事が得意だというのだ。
実際に、農具を操る手は迷いなく動き、にこにこと嬉しそうな顔をしている。
「この時期の青菜はみずみずしくて柔らかくって、私大好きなの」
「……青菜は苦いだけですよ」
「何言っているのネリネ、本物のとれたてはおいしいのよ? オーレリアなんか、お腹を壊しちゃうくらい食べるんだから」
「……こうやって聞いていると、イオニアお嬢様と、オーレリアお嬢様に対する考え方が変わりそうです」
「そう? でもエラはちゃんと、畑仕事もしているみたいね。色々試験のために一人でやらせているから、畑まで手が回らないと思っていたのに、畑がちゃんと維持されているもの。感心、感心」
言いつつ、イオニアお嬢様が、間引く青菜をざるいっぱい入れていく。
「あとでジャーナに持って行きましょ。あの人野菜が高額だって、いつも言っているってエラが話していたし」
「……イオニアお嬢様、土が顔に」
ネリネさんはそう言って、そっと、イオニアさんの顔についた土を、ハンカチで拭った。
「……日よけの帽子も、被った方がよろしいですよ。あなたの綺麗なお顔にシミが出来たら、きっと悲しむ男性がいますから」
「そうね! 今年の舞踏会シーズンには、正式に出席できそうだから、今からとっても、殿方との出会いが待ち遠しいわ! 好みの合う、身の丈に釣りあう素敵な殿方がいいの。畑仕事に理解がある旦那様って素敵よね!」
そう言ってイオニアさんは花のように笑った。
ネリネさんは、女の人にしては少し高い背丈で、彼女を少し見下ろすように見て、何とも言えない優しい顔をしていた。
分厚い眼鏡の奥の、金色の瞳は、ネリネさんの優しい気質を示すように、柔らかかった。
「……イオニアお嬢様。今度は山の開けた場所に、ピクニックに行きましょう。オーレリアお嬢様と、エラお嬢様と、それから侍女の皆さまも連れて。通りすがりの猟師の男性が、良い花畑がある、と言っていましたから」
「そうね、それも楽しそうだわ! その時は、ジャーナにご馳走を作ってもらわなくちゃね。侍女の皆も、たまには外に出る方がいいわ。日焼けしたくないって言って、閉じこもりがちなんだもの」
そう言っている矢先に、一人の少し年上の女性が、日傘片手に走り寄ってきた。
「お嬢様、イオニアお嬢様! 帽子もかぶらず、そんな土まみれになる事をなさらないでくださいませ! ネリネ! お前も見ているのではなく止めなさい!」
「あら、カナリア、怒ったら皺が増えるわよ?」
「そういう話のそらし方をしないでください! イオニアお嬢様、そういう、美を損ねる事は、未婚の女性にはふさわしくないのですよ」
そう言った侍女の人は、カナリアさん。名前通りに、声がとてもきれいな人だ。
そのきれいな声に叱責されて、イオニアさんが首をすくめる。
「だって、中で出来る事ってもう飽きてしまったのだもの。もう一年以上、エラの試験で、何もできなかったのよ? お母様が、早く判定を出してくればいいのに! でもエラが不合格だったら、一年エラはお母様の監督と指導の元、外に出かける事も出来ないで、みっちり教え込まれるのよね。エラはまだ十五だし、舞踏会に初めて参加する令嬢は、たいてい十六だから、まあ一年は大丈夫だけど。その間も、私もオーレリアも、覚えた色々な大事な事をできないのよ? 少しくらい気晴らしをさせてちょうだいよ」
「イオニアお嬢様の気晴らしは、気晴らしという範囲を超えているから言うのです!! 早く部屋の中にお戻りください。その白磁の肌にシミが出来たら、このカナリア、悲しみのあまり泣き崩れそうです」
「あら、それはいけないわ、あなたを泣き崩れさせるなんて。……じゃあ、ネリネ、この青菜、厨房に持って行ってちょうだいね」
「……わかりました」
ネリネさんに、青菜のざるを渡したイオニアさんは、そう言ってカナリアさんに連れられて去って行った。
ネリネさんはそれを見送り、厨房の方へ戻って行った。
間引いた青菜は、ジャーナさんをとても喜ばせたみたいで、今日のハムステーキの付け合わせになるらしかった。
いいなあ、ハムステーキ。私も皆の半分くらいの大きさでいいから、食べたいなあ。
ジャーナさん、絶対に私の食べられそうな物、残しておかないんだもの。お家に持ち帰っちゃうんだもの。
そんな風に思いつつ、私はネリネさん以外忘れ去っていた、外に干されていた洗濯物を回収して、洗濯室に戻し、慌ててやってきたネリネさんが、それらを畳んだりするのを確認してから、表の庭が汚れていないか確認のために、箒を持って外に出た。
外に出た時、郵便の馬車の車輪の音と、馬のいななきが聞こえてきたから、私はまた急いで庭の木の上に飛び乗り姿を隠した。
門扉の前で、郵便を告げる郵便屋さん。それに、シャルさんが応対する。
そして不思議そうに、綺麗な紅の封蝋が付いた封筒を見て、郵便屋さんにお礼を言う。
郵便屋さんは、何か念押しをしていた。唇の動きから察するに、絶対に女主人さんに目を通してほしい、という感じの事を言っている。
いかにも高価そうな封筒だし、封蝋だし、高位貴族の招待状かな、と私は思っていたけれど、それ以上の相手からのお手紙だった様子だった。
何故かって? その日のうちに手紙を読んだアニエスさんが、娘たち三人に、本格的な入浴をするように指示を出したから。
本格的な入浴って言うのは、湯船にお湯をたっぷり沸かす、贅沢ちゅうの贅沢な入浴の事である。
普段の入浴は、午前中に簡易シャワーブースにお湯をためて、体を綺麗にするだけの行為で、本格的入浴って言うのは、美女になる近道って言われているけれど、薪代も馬鹿にならないし、水を運ぶ使用人たちも苦労するから、一か月に一回入ればいい方なのだ。
その、超贅沢を、しろって言うアニエスさん。普段なら考えられない発言だ。
「どういう意味ですか、お母様」
「入浴はうれしいですけど、突然すぎません? 薪は足ります?」
「うれしい! お義母様、ありがとう!」
「理由はきちんとあります。……明日、我が家の所有する山に、高貴なお方たちが、狩猟に来るのですよ」
「高貴な方々とは何名ですか?」
「それなりの数です。国王陛下はさすがにいらっしゃいませんが、鷹狩が好きだというお話の王子様たち、公爵家のご令息、侯爵家のご令息、我が家とは比べ物にならないほどの身分の方々が、おいでになるという事です」
アニエスさんの言葉に、オーレリアさんが指摘した。
「急すぎませんか?」
「そうでもありませんよ。前日に知らせが来ているのですから、連絡は早い方でしょうとも。書かれた日付はおとといですからね。大方、配達人を経由した結果、ぎりぎり今日になったという事でしょう」
そこで、ちらりとアニエスさんが、エラさんを見た。
「エラ、あなたが“試験”に合格できる技量だと示すために、この方々のもてなしをなさい。無論私に相談する事も、イオニアやオーレリアに助言を求める事も問題ありません。ここできちんと、上の身分の方々をもてなせたならば、合格とし、今年からあなたも、舞踏会への出席を許します」
「頑張ってちょうだい、エラ!」
「腕の見せ所よ、エラ!」
「はい! 必ず、王子様たちが気持ちよく過ごせるように努めます!!」
二人の義姉さんたちから言われて、エラさんはぐっと手を握って、気合いを入れていた。