四章 3
「そうねえ、断るのもどうかと思うわ。せっかくここまで来たのだから、面接くらいはしましょうかしら」
そう言ったアニエスが、執務室の椅子から立ち上がり、階段を降りていく。
そしてジルに、その採用希望者に、とある小部屋に行くように伝えるように言い、そのまま階段を降りていく。
アニエスがちらりと見やった階段は、少しばかり以前と比べると、埃が目立つ気がする。
「ネリネの言ったとおりになるなんて」
アニエスは小さな声でそう言い、ネリネという妖精の事にわずかばかり詳しい料理人兼メイドの言葉を思い出す。
「……このお屋敷は、おそらくそのブラウニーによって、かなりいい水準に維持されているはずです。ブラウニーがいなくなったら、このお屋敷は多少は荒れるでしょう」
ネリネは、妖精を招待する方法を言った後、少しの沈黙の後そう言った。
それがとてもアニエスには意外だった。その妖精だけで、それだけの違いがあるなんて思えなかったのだ。
多少は荒れる、とネリネが推測する理由は何処なのか。
アニエスの視線を受けて、ネリネが淡々とした、いつも変化のない声で言う。
「……ブラウニーという妖精は、ある意味家事などの家を維持する技術に置いて、一級を越えた能力を有する事が多い妖精です。そしてこのお屋敷に来ていたブラウニーは、あらゆるものが達人級の能力を持っているでしょう。そんな妖精がいなくなれば、多少は問題が発生する事など目に見えています」
「あなたはそれに詳しいのかしら」
「普通の人々よりは、少々知識がある程度ですが、私は過去に数回、ブラウニーがいるお屋敷や豪農の家、といった場所で働いていましたので、共通点を知っているだけです」
「共通点?」
「はい。……ブラウニーがいるお屋敷は、きらきらした銀の粉が、時折廊下や洗濯ものについているんです。それから、香水よりも華やかな、妖精の香り、と呼ばれる匂いが、漂っている物なんです」
アニエスは意外な気持ちになった。それを彼女は女主人なのに、知らなかったからである。
「私はそれらを嗅いだ事もないし、見た事ありませんよ」
「……それらは、ほとんどすぐに消えてしまうものなんです。ブラウニーが通り過ぎた時や、洗濯物を取り込んだ時に、それらに少しついている程度で、でも、分かっていればはっきりと認識する、そんな物なのです」
ゆえにここのお屋敷には、その妖精がいる、とネリネは断言し、一瞬黙ったのちに続ける。
「……奥様、どうなさいますか。王子殿下の招待状にある、茶色の働き者のお嬢さんは、そのブラウニーですが」
ネリネはそう言い、妖精が招待された時に必要な道具一式をそろえるか、と問いかける。
アニエスはそれに頷いた。
「ええ、ネリネ、とっておきのものを用意してちょうだい。銀のボタンは、わたくしの持っている一番いい銀のボタンを用意しましょう。働き者の素敵な妖精には、それ位の特別扱いが許されるでしょう」
ネリネが頷き、退室する。
そして事態が一変したのは、翌朝の事で、ネリネが足早にアニエスの寝室に入り、まるで騎士か何かのように膝をつき、寝台に寝ていたアニエスにこう言ったのだ。
「……誰かが、昨晩の話を聞いていた様子です。……ブラウニーは洋服を与えられて、去ってしまった様子です」
「なんですって? 私達はそのブラウニーがいなければ、王子殿下からの招待状をどうにもできないではありませんか!! 王子殿下直々のご招待をそんな事で蹴ってしまっては」
「……王子殿下に急ぎ、手紙を送るべきですが……果たして王子殿下が、この事実を理解していただけるかどうか」
「あなたはそれを信じてもらえないと思うのですね、ネリネ」
「……王子殿下は、妖精の行う奇跡を、見た事がないと聞きます」
アニエスはふと、ネリネがこんな風に王子の事に詳しいのは何故か、と疑問を抱いたが、それ以上に今、王子殿下直々の招待がかなわないという、とんでもない事実に頭を悩ませる事になっていた。
「またブラウニーが来てくれる可能性は」
「……どれくらいの良いお洋服を、渡したかによります」
「というと」
「……彼ら彼女らは、良いお洋服を与えてくれたお屋敷に、戻ってきた李、新たなブラウニーがやってきたりすると聞きます。実際、とある豪農の家で、小さくて誰も着られなくなった、古い花嫁衣装をブラウニーに渡したところ、その後に来たであろうブラウニーの技能は、それをはるかにしのいだとか」
「そう、お給金がよければ希望者が殺到するのと同じ状況ね……」
アニエスが小さな声でそう言い、仕方がない、と顔をあげる。
「ネリネ、私は急ぎ王宮へ手紙を送ります。招待状への返答とあれば、王子殿下もきっと目を留めるはず。王子殿下直々の招待状を、盗み見る不届きな役人もいないはず」
ネリネはそれを聞き、立ち上がる。片膝をついた姿勢からなめらかに立ち上がる所作は、一国の優れた騎士にも似た動きで、女性としては上背のあるネリネがそれを行うと、驚くほど見事なものに映った。
はて、ネリネの履歴書によれば、水車小屋、パン屋、それから田舎の豪農、田舎の領主のお屋敷、といった場所で働いていたわけだが。
この立振る舞いを、ネリネは何処で身に着けたのだろうか。
だがそれ以上に、この招待状の相手を追い出してしまった状況を何とかしなければ。
アニエスはそう思い、ネリネが退室した後に身支度を整えて、手紙をしたためる事になった。
そんな事があってから十数日、確かにブラウニーの能力は高かった、とアニエスもわかるほど、あれこれが滞っている状況だ。
ジルとシャルもよく働くが、家畜の世話の経験がないから、あまりやりたくない様子であるし、洗濯物など、手を荒らす仕事の半分が、以前と同じ時間には終わらなくなっている。
二人が頑張っている事は十分わかっているし、心を改めた、とアニエスが見ても思うため、お給金にわずかばかりだが、心づけを渡し、年に数回ある祝祭日の際には、何かよい余所行きの衣装を仕立ててやろうと考えているわけだが。
以前と同じだけの速度で物事は進んでいない。
誰かしらを雇わなければ、家の事がうまく運ばないという状況であり、アニエスは夫に連絡し、夫の方はと言えば暢気なものでこう言った。
「お前の娘たちや、働き者のエラが手伝うに決まっているじゃないか」
そのエラが、全く働かなくなったのが。アニエスはそれを伝えたものの、夫ウィリアムは納得せず、手紙の中でもこう言っている。
「働き者の立派な心根のエラが、お前の多少ずぼらな娘たちよりも働かないなんてありえないだろう。何かの勘違いか、使用人たちがさぼっているだけだ」
それを読み、アニエスは早々に、エラを叱る事を夫に頼む事を辞めた。話が通じないのだから。
そして我が娘たちは、働こうにも、侍女たちに文句を言われて、以前と同じだけは動けない。
侍女たちは貴族の女性らしく、と言った事をうるさくいい、イオニアもオーレリアも、それに対して言い返しても、なかなか決着はつかないのだ。
イオニアは畑仕事をやるが、家畜の世話まで手が回らない。
オーレリアは、食料の調達のために、魚を釣るし山にも入るため、家畜の世話や庭の手入れまでできない。
エラは優雅に侍女とおしゃべりをしたりする事を優先している。
そんななか、田舎にやっと届いた求人広告を見て、こんな山の中腹まで、やってきた採用希望者がいるというので、アニエスはなかなか骨がある、と予測して、その採用希望者に会いに行く事にしたのだった。




