二章 8
「どうして川に来たのに私は熊を担いで歩いているんだろう……」
ずるっ、ずるっ、と熊の巨体を引きずって山を登りながら、私はさっきの出来事に思いを巡らせた。
せっかく川でそれなりに釣っていたのに、熊と鉢合わせして、咄嗟だったから、眉間に拳を叩き込んでしまったのだ。
別に武闘派ブラウニーってわけじゃないけど、私ブラウニーの一般基準よりも、腕力とか脚力とか高めなんだよね。力持ちって事で、便利に家事を手伝えるから、自分の腕力と仮想言うのを、厭う気持ちになった事は一回もない。
でも、さすがに、思わなかった。魚を盗まれて、ちょうどいいと思われて、襲われて、一撃を入れたら、熊を倒しちゃうなんて……
でも熊を倒したからって、その場に放置ってわけにもいかないし、お肉がないのはちょうどいいから、私はそれを引きずって、山道を歩いている。
知ってる? 熊のお肉っておいしいんだよ。脂がね、たまらないんだ……でも春だから、そこまで脂肪を蓄えているわけじゃないけど。
私、熊のお肉も大好き。でも熊ってなかなか猟師さんたちも取ったりしないから、滅多に出てこないジビエお肉なんだ。
脂身が赤身の中に散ってて、とろける感じでねっとりしてて、もう、めちゃくちゃ美味しいんだよね。
マシューさんも、熊が取れたって聞いたらすぐに、肉の質をみて、買ってたくらい。
そんな熊を、私は一人で、よいせよいせと背負って歩いている。
ちょっと疲れたな、なんて思いながら、私は単身お屋敷に戻って、厨房の在る区画に熊を置いて、解体できる小屋に入るべきか悩んだ後、解体する事にした。あ、放血は済ませてあるよ、放血を怠ると、体の中でない出血を起こして、食べられなくなちゃう箇所が増えるからね。
解体小屋の中で、熊を解体する事に熱中してた私は、その時、解体小屋の窓から、誰かが呆気にとられながら、私の作業を見ていた事に気付かなかった。
本当に気付かなかったのだ。
そして、冷蔵室に自力で運べるくらいに切り分けて、毛皮を確認して、おお……いい毛皮……これ寝床に入れたらいい夢を見そう……なんて思った私は、まずお肉を冷蔵室に入れて、今日の夜のために、まずは味見と称して、じっくり熊のお肉を炭火で網焼きする事にした。
もうね……匂いがね……脂がちりっとしてね、……ぽたぽた炭に滴ってじゅうっという音がして……早く食べたいって思っちゃうけど、熊のお肉は我慢比べ。じっくりじっくり火をいれて、最高の感じで食べるのが最強。
そんなわけで、私は誰も入ってこない厨房で、一人熱心に熊の肉を三十分くらいかけて焼いて、塩をぱらっと振って、あーむ、と口を大きく開けてかみしめた。
うう、自分で採ってきた事もあって、苦労して運んできた分、染み渡るように美味しい。
これ、お屋敷の皆さんにも食べてほしいな。そうだ、ネリネさんに焼き加減のメモを置いておけば、ネリネさん出来ないかな。
ネリネさんがいるなら、私あんまり表に出て仕事できないし、きっとジルさんもシャルさんも厨房に入って来るし。
そうしよう。
私はそういうわけで、あまり上手じゃない文字だけど、熊の背中のロース肉を焼く加減の事をメモ用の黒板にチョークで書いて、他に仕事がないか、屋敷内をひっそり歩き回る事にしたのだった。
「ねえ、絶対へんよ!」
そう言っているのは、屋敷の中の窓を磨いていたジルさんだ。
彼女が喋っている相手は、シャルさん。
彼女は黙りこくったまま窓を拭いている。
「シャルだって変だって思うでしょ!? ネリネだけで、あれだけのお料理を、あんな短時間で作り出せるわけがないわ!! 絶対に誰かいるのよ!」
「でも、そうしたら、本当にこのお屋敷に誰も知らない誰かがいる事になるでしょ、きっとネリネが戻ってきて何も支度されていないから、直ぐに用意したのよ」
「いくら考えても納得できないわ、ネリネが山に行く格好で出て行ってから、山から下りて、着替えて? 綺麗に美成を整えて厨房に入るまでの時間も考えたら、あんなに色々作れないわよ!」
「だ、だったら私達、何者かもわからない相手の料理を食べてるって事じゃない! そんな怖い事ってないでしょ?! 何を盛られているかわかったものじゃないじゃない!」
引きつった声のシャルさんだ。そうなのかな、私にはよくわからない感覚だ。
作ってもらえているんだから、感謝する感じにならないのかな。
うーん、わかんない。
「それに、もしもそうだったとしたら、私達は王子様や公爵家のご令息に、得体のしれない相手が作ったものを食べさせたって事でしょ、黙ってましょうよ、そんな事が明るみになったら、私達物理的に首がはねられちゃうわ」
シャルさんが、ブラウニーの感覚ではとても恐ろしい事を、身を震わせて言う物だから、ジルさんもそれに思い当たったみたい。
大きく身震いして、渋々、といった感じで頷いた。
「言われればそうよね……黙っていれば誰もわからないし、変な物が入っている事も今まで一回もなかったし、大丈夫よね」
自分に言い聞かせている感じだったから、私は複雑な気持ちになりながら、その場を後にした。
そうしてやってきたのは玄関ホールの方で、ちょっと埃っぽかったから、私はそこを軽く掃除する。埃を落してさっと箒で集めて、空気の入れ替えをするわけだ。
それが終わったら、私は洗濯室に入って、綺麗に乾いた洗濯物を集めて、洗濯室にある、炭を使ったアイロンで、丁寧に皺を伸ばしていく。
炭を銅とか鉄の容器に入れて、その熱と重みで皺を伸ばしていく道具だ。結構昔からある道具で、私も見慣れているし、使い慣れている物でもある。
それで鼻歌を歌いながら洗濯物を、ぴしっと皺なく整えて、畳むものは畳んで、置いておく。
そしたら……次は……裏庭の家畜たちの世話かな、そろそろ厩舎に戻す時間だし。
そんな風に、私の今日は過ぎてゆき、お夕飯は熊のお肉のローストの、一寸焦げちゃったものを分けてもらって、今日もお肉が食べられて幸せって感じで、私は眠りについたのだった……
「一週間近い間、大変お世話になりました」
橋が直ってやっと、王子様と公爵家令息さんと、その二人の従者さんたちが帰る事になっている。
さすがに一週間という期間お世話になっていたから、王子様はとても丁寧なお礼を言っているし、令息さんも丁寧だ。
従者さんたちは、彼等と帰れる事にほっとしている様子だ。そりゃあこの一週間、彼等の世話をするのは自分達だけで、気が気じゃなかったんだろうなあ。
私は物陰というか、寝床の木のうろからそれを眺めている。
王子様はアニエスさんやエラさんに挨拶をして、イオニアさんやオーレリアさんにも、彼女たちの気遣いに感謝して、迎えに来た人たちと一緒に、帰って行った。
「やっと気が抜けるわ……」
彼等が完全に見えなくなって、声も届かなくなってから、オーレリアさんが息を吐きだした。
そうかもしれない。これまでお屋敷のお嬢さまたちは、格が上の人たちの前だから、定義作法として、飛び切りのいい衣装を常に着ていなくちゃいけなくて、それらは矯正下着とかが含まれているから、窮屈だったんだろう。
一週間も、余所行きに匹敵する良い衣装を着ていたわけで、そんな事は滅多に起きない問題のはずだ。
「これでコルセットなしで日常生活ができるわ!」
そういってオーレリアさんがぐっと手を握る。そうだよねえ、オーレリアさんって、結構な頻度でコルセットなしの簡易衣装で、日常を過ごしていた人だもの。
いつもそれなりにぴしっとしているイオニアさんや、常に身なりに気を配っているエラさんよりも、窮屈だっただろうしね。
「……私はちゃんと王子様たちをおもてなしできていたでしょうか」
不安げな顔をするエラさん。彼女は王子様たちのおもてなしが、合格点かどうかで、今年の夜会に参加できるかどうかがかかっていて、かなり真面目な問題だったんだろうね。
「エラ」
そこで、アニエスさんが、厳しい声を上げた。
「はい!」
「この一週間、あなたはよく頑張った、と言いたいのですが、そうも言っていられません」
「……え?」
「あなたはこの家の試験の、合格点を満たしません。よって今年も、あなたを夜会やお茶会に招待させるわけにはいきません」
「どうしてですか!!?」
エラさんが悲鳴に似た言葉を叫ぶ。エラさんの侍女のカメリアさんが、一礼して、発言の許可を取ってから問いかけた。
「奥様、エラお嬢さまはとてもしっかりと、王子様たちをおもてなしいたしました、それなのに不合格の結果を告げるとはいささか」
「エラは厨房の管理が全くできていません」
「なんでですか?! なにも滞りなくお食事を用意させていました!」
「まだ気づかないのですか? ジャーナの持ち出し行為に」
「持ち出し行為……」
エラさんがアニエスさんの言った事を繰り返すと、イオニアさんが、ぼそりと言う。
「やっぱり起きていたのね」
「おかしいと思っていたわ、マシューよりも豚肉を購入している計算なのに、食事にそれが反映されたりしないから」
オーレリアさんが思っていた通りだ、という声で同意する。エラさんは二人を見た。
「お義姉様たち、気付いていたなら教えてくださっても!」
「これは試験なのよ、エラ」
「私達は黙って見守る事しかできないの。それに、もしもお嫁に行った後そういう事をされても、私達は口を出せないわ。これはあなたが他の家に嫁いだ後の事を考えて行われる試験よ。試験を受けている人間が気付かなきゃいけない事なの」
エラさんは呆然と立ち、それからわっと泣き出した。
「やっと色々な事に参加させていただけると思ったのに!! 皆さん、私が商家の生まれだから、そんなひどい事をおっしゃるんですね!!」
「ひどい事じゃないわよ、あなたに身に着けてほしい事を順番に、お母様は教えていったわ、その成果を発揮する試験なのに、ひどい事って言わないでよ」
「お義姉様たちだって合格できる試験なのでしょう!!」
「そりゃあ、私は備蓄系は特に入念に確認していたし」
「こう言った環境で、備えの物を確認しないのは、ただの怠慢なのよ、エラ。ここは町中じゃないのだから」
エラさんはそのまま泣き出して、駆けだしてしまった。
「あ、ちょっと、エラ!」
オーレリアさんが追いかけようとするのを、止めたのはイオニアさんだ。
「オーレリア、この屋敷の令嬢になった時点で、エラも私達と同じなのよ。それにエラはまだ温いわ。私達には侍女もいなければ、オールワークスメイドの一人もいない状況で、同じ水準の事を試験させられたでしょう」
「でも……」
「その通りなのですよ、オーレリア。ウィリアムの言う通りに、人を使う事を学ばせるという点を、エラの試験では重点的に見ましたが……あれだけの食料の横流しに気付かないのはあまりにも水準を満たしません。あれでは使用人たちにいいように家の財産を使われて終わりになります」
……このお屋敷の基準って、すごく厳しいというか、現実的な物で、これに合格しないと社交界に出せないって言うのは、このお屋敷の規模や格からして、仕方がない事だったんだな、と私は感じ取った。