二章 1
「すみません、まさか橋が落ちるなんて思いもよらず」
申し訳なさそうな顔をするのは、王子様らしき人である。王子様がどんな顔をしているのかとか、全く分からないけれど、一番身なりが立派だから、この人が王子様なのだろうと思う人でもある。
彼の側には、何とも言えない表情の従者さんが控えていて、さっきオーレリアさんに持ってきてもらったこのあたりの地形図を広げている。
「一週間も、このような下級貴族の家に滞在する事になるとは、とても申し訳ありません」
この対応は、とてもじゃないがエラさんでは無理だから、アニエスさんが直々に対応している。
そのそばには、娘三人が控えている。彼女のあれこれから、学ぶ事が多いからだ。
「いいえ、そんな事はちっとも思っておりませんよ。あなた方も想定外だったのですし」
王子様がそう答えた時、後悔しきりの声で、いいとこの令息っぽい人が言う。
「最初に、オーレリア嬢のご忠告通り、山を下りて帰る支度をしていればよかった、という後悔はあります……一週間も家を空けると、兄が何をしでかすかわかったものではなく…… うちが爆発しなければいいんだが……」
「公爵家のフィーリオ様の火薬好きは、知られたものですからね……」
へえ、このいいとこの令息っぽい人のお兄ちゃんは、火薬が好きなのか。花火が趣味なのかな。大変な趣味を持っているみたいだ。なんとなく令息さんの苦労が感じられる。
「普段は私が見張っているんですが……一週間もいないとなったら、どこでどう火薬をいじりだすかわかったものではなく、……この前なんて与えられていた南の領地の離れを吹っ飛ばして、それで社交界シーズンだからちょうどいいから戻ってこい、と父上が呼び戻したわけなのですが……跡取りである自覚をいい加減に持っていただきたい……」
自覚のない跡取りなら、この令息さんが代わりに跡を継げばいいのにって思うのは、よく分かってないブラウニー心理の結果だろう。
令息さんの従者の人は、さっきから地図を見て、ああだこうだと指でたどっている。
何してるんだろう……
「アニエス様、一つお伺いしたいのですが、よろしいですか」
「何でしょう?」
従者さんが声をかけ、アニエスさんが答える。従者さんは強縮の極みみたいな声で言う。
「この地図によれば、抜け道がいくつもあるはずなんですが……」
「ああ、それならオーレリアの方が詳しいですよ。オーレリア、答えてあげてちょうだい」
「はい。……抜け道ってこれとこれかしら? お勧めしないわ。この抜け道の三つは、途中で水位が低い川を抜けていく道なの。だから、橋が落ちるほど水位が増した川があるのに、この三つの抜け道を通って山を下りようなんて、考えるだけ命が足りないわ」
「そうなんですね」
「そうよ。それにこっちの抜け道は、去年熊が縄張りにしちゃったから危なくて進めた物じゃないわ。腕利きの猟師のおじい様たちだって、何人かで組まなくちゃ、ここは通らないの。あなたたち、熊と戦えないでしょう?」
「そんな道なんですね……ではこれは?」
「これは冬の間に土砂崩れがあって、道がなくなっちゃったわ。だからここも通れないの」
オーレリアさん何気に山の事にとっても詳しいね!? あ、この前来た、猟師のおじいちゃんから、そういう話を仕入れてきたんだね。そういう事か。
私は物陰でふむふむと聞いてたけれど、そろそろ燻製の様子を見に行かなくちゃいけないから、その場をそそくさと後にしたのだった。
燻製の方が、王子様たちの帰り道より私にとって大事だしね。
私は通る道の埃とか大きなゴミとかを、さっと払ったり拭ったりしながら、誰にも気付かれないように階下へ降りていって、裏庭に入る。そこには、マシューさんのお手製の燻製気があって、これは大きなうろを持った立木が枯れた時に、上に屋根をつけて、蝶番式のドアを作って、お手軽に作った燻製器で、私でも仕組みがわかるものだ。
そこの煙の確認。肉の脂が燃えて、燻製ではなくて焼肉になっていないかのチェック。よしよし順調って感じでいい感じ。
私は煙を増やすべく、いい匂いのする木っ端を増やした。
私が今日やるのは、燻製の中でも、五日くらいの日持ちがする温燻ってやつ。
直ぐにできるのは熱燻って言って、あんまり時間をかけなくていいけど、これは長期保存には向いてない。
他にも冷燻って言う手法があって、そっちは長期保存に向いているから、必要そうだなと思ったらやっちゃうけど、今はジビエがそれなりにとれる季節だし、肉にそんなに困らないから、問題ない。
ちなみに、ジェーナさんが行商から買い求めるハムとかベイコンとかは、冷燻の長期保存可能食品だ。だから冷暗箱の中にしばらく入れておいても問題がないってわけ。
木っ端を増やしてから、私は燻製器の中にてをつっこんで温度を確認する。温度もそこまで下がらないから問題なし。
燻製って、意外な程温度管理が大事だって、教習でやったんだよね!
そう考えると、マシューさんって偉大だったんだな、と思っちゃう。
私は煙の調整を終わらせて、そのままそそくさと、家畜小屋の方に移動する。家畜小屋の方では、裏庭に放牧されている家畜たちが、私を見て、ごはんかなってわらわらとやって来るから、彼等にごはんをあげて、家畜小屋の中の卵の回収をする。卵は今日は五つ採れた。よしよし。
余談だけど、このお屋敷の鶏は、全部で十匹。雄鶏は一匹だけど、雌鶏は九匹もいるのだ。それもこれも、卵を手に入れるため。ついでに、必要なら〆てお肉として食べちゃうけどね。
家畜の世話をして、お馬さんの体にブラシをしてあげてから、私は王子様たちのお馬さんたちのお世話もするべく、ブラシとか、いろんな手入れの用品の確認をして、王子様のお馬さんの方に近寄った。
王子様のお馬さんも、同じ家畜小屋に入れてあげたのだ。
他に、お馬さんが入って雨風をしのぐ場所がなかったからともいえるけどね。
王子様のお馬さんに近寄って、……私はさすがに突っ込んだ。
「何しているの、あなた……」
突っ込んだ相手は、それはそれは素敵なお馬さんの見た目をしているけれど、お馬さんじゃない妖精仲間……ケルピーだ。
ケルピーは、私を見てにやりと笑って、笑い方がとっても馬っぽくないけど、こう言った。
「しょうがないだろう? 前に王子様の従者の内臓を狙ったら、頭のいい従者が、水の中にいる馬は馬勒をつけた方がいいって言って、さっさと私に馬勒をつけてしまったんだ。それ以来私は、王子様の忠実な名馬ってわけだ」
ケルピーは、しょうがないじゃないか、と言いたそうな声で言う。
「よくまあ、馬勒をつけさせたね」
「大人しい名馬のふりをすると、馬勒をつけさせざるを得なくってね。ちょうどいいから、外してくれないかい」
「だーめ。ここ私のお屋敷だから、ここであなたを解き放って、このお屋敷の女の人たちに危害が加えられたらだめだもの」
「さすが家守り妖精ってだけはあるか。たいていブラウニーにそれを頼むと、だめだって言われるんだよなあ」
しょうがないかって笑うケルピー。何気に楽しそうだから、私は思わず聞いていた。
「王子様の名馬って楽しいの?」
「そこそこ。いろんな人間を見られるしね、馬の世話をする奴たちから、面白おかしい人間の愚痴っていうものも聞くし。やろうと思えば厩舎から出て行くのも簡単だしね」
「ふうん」
「ただし、名馬だと勘違いされて、種馬にされそうになるから、それは怖いな」
「そっちかー」
私は笑いながら、ケルピーに聞いた。
「ブラシかける? かけない?」
「かけてくれるならよろこんで。この見た目だと、自分にくしを入れられないんだ」
「わかった、きれいにしてあげる」
そういうやりとりをして、私はケルピーの体に丁寧にブラシをかけて、一緒にいた本物のお馬さんにもブラシをかけてあげて、蹄の確認もしてあげて……馬蹄と蹄の間に石が挟まってた、痛いよね……綺麗にきれいにしてあげると、お馬さんは嬉しそうに私の体に頭をこすりつけた。
私は、お馬さんとの会話ってできないんだよね。出来る子もいるけどさ。素質ってものがある。
ちなみに私は狼とは会話が可能だ……こんなのできてブラウニー的に何になるんだろうって思うけど……から、狼たちと協定を結んだりできちゃうわけ。
そんな風にお馬さんのお世話をして、ブラシとかいろんなものをバケツに入れて、立ち上がった時だ。
「誰かそこにいるのかい? 話し声が聞こえたみたいだけど……」
という声がしたから、私は慌てて、派手にバケツをひっくり返した状態で、わらの中に飛び込んだ。
ケルピーとのお喋りが楽しくて、周りの気配に気をつけなかった、失敗だ。
わらの中から様子をうかがうと、王子様と従者さんが、怪訝そうな顔で中に入ってきて、散らばったお馬さんの手入れ用のブラシとかを見て、
「誰かいたらしい……」
「ですが、誰でしょう? 馬番がこのお屋敷にいないのは、昨日の時点でわかっていましたし……」
「この家のメイドたちは、町育ちだというから、馬の手入れを知っているとも思えないしな……」
そういう話をして、王子様がケルピーに
「ごめんな、しばらくこのあたりに滞在するから、運動不足になりそうだったら、そのあたりを散歩できるようにするから、機嫌を悪くしないでくれよ」
とケルピー相手に大事そうに言って、彼等は去って行った。
私は彼等が十分に去って行ったのを確認して、彼等が親切な事に拾い集めてくれていた物を一式抱えて、見つからないように、そそくさとお屋敷の物置の方に戻って行ったのだった。