一章 5
ネリネさんは、私がいる方に向ってそう声をかけた後、全くこっちを見ないで、作業を始めた。
酵母の位置なら知っているし、私は使われないと知りつつ、マシューさんが残した酵母のお世話もしていたから、酵母は元気だ。
だからそれを、調理台の上に置く。
そしてかまどの火を調整する。
ネリネさんは、私が見えていない、という感じで、パン造りをこなしていく。
物すっごく手慣れている。発酵の事とか、皆わかっているみたい。
私はそんなネリネさんに協力するべく、サンドイッチ用のお肉の用意と、お野菜の用意と、調味料の用意とかをこなしていく。
ネリネさんは、その間一切合切、私の方を見なかった。
どうしてだろう。
……私みたいな妖精の事を、知っているのかな、ネリネさんも。
パン屋には、結構な頻度で、かまど妖精がいるし。
そんな風に、二次発酵まで終わらせて、かまどにパンを入れたネリネさんは、ふうっと息を吐きだして、お湯を沸かし始めた。
そこで、ジャーナさんが戻ってきた。私はその音を聞いて、物陰に隠れた。
ネリネさんは、絶対に私がいる方を見なかったから、さっきまで空いていた樽の上に座って休憩してたの。
「なんであんただけなの」
「……パンを焼いております。二人とエラ様は、表の調整で、今少し前に、出たばかりです」
それを聞き、ジャーナさんが目を丸くした。
「あんた、パンを焼く特技なんか持ってたの」
「……パン屋で多少働いていた事がありますから」
「なら、さっさと教えてくれればよかったじゃないの! 町で高いパンを買わなくても、あんたに作らせりゃよかったんだから」
「オールワークスメイドに、パン焼きの仕事は入ってなかったので」
「御託はいいから! にしてもいい香りじゃないの」
「はい。この家の酵母が、とてもいい状態だったからでしょう」
そう言ってネリネさんは、お茶を入れて、ジャーナさんに差し出した。
でもジャーナさんは、手を振ってそれを止めた。
「私は帰る事にしたの」
「どうしてですか?」
「天気が怪しいのよ。さっきオーレリアお嬢様が、心配そうに
『天気が酷く崩れるわ、ジャーナ、帰れるうちに帰った方がいいわよ』
何て言う物だからね、お言葉に甘えて」
「……わかりました、気を付けてお帰り下さい。エラ様には私から、今言われた事を伝えておきますので」
「助かるわ」
ジャーナさんはそうして、今日は朝ご飯しか作らずに、さっさと帰って行った。町から通勤しているから、帰れるうちに帰すっていうのは、仕方がない事だと思う。
彼女が去った事をちゃんと確認すると、ネリネさんは、そっと、お茶と、何と太っ腹な事に、角砂糖の入った箱を、私が座っていた樽の方に置いた。
無論、こっちをほとんど見ていない。
「……誰か知りませんが、どうぞ」
わーい! ブラウニーは甘党が多いの! 角砂糖だいすき!!! やったあ!
というわけで、私は角砂糖を二つ口の中に入れて、うきうきしながらお茶も飲んだ。
そして休憩を少しして、パンの具合を見て、いい感じになったからかまどの温度を調整して、
そんなうちに、エラさんたちが戻ってきたから、即座に物陰に身を隠した。
「ネリネ、一人で準備したの!?」
「……いえ、二人で」
「え? じゃあ、ジャーナさんが戻ってきたんですね」
エラさんが驚いた顔をしつつ、二人というからジャーナさんが戻ってきて作業したのだと合点する。
私なんだけどね。そこは言わないし主張しないし、ネリネさんも言わない。
「……そういうわけで、パンが焼けて冷めたら、サンドイッチを作ります。ジャーナさんは、オーレリアお嬢さまが、天気が酷くなる前に帰った方がいい、とおっしゃるから帰る、との事です」
「えー、お夕食は誰が作るの!」
ジルさんが言うと、ネリネさんが淡々と返した。
「……本来、夕食なども、私達オールワークスメイドの職分の一つですから。三人で知恵を絞れば、何かしら作れますよ」
今日なら、アニエス様達も理解してくださいます、とネリネさんは続けた。
そして香ばしい香りとともにパンが焼きあがり、それを冷まして、皆はせっせとサンドイッチを作り、出来上がってジルさんたちが食堂にそれらを運び終わったら、タイミングよく、お貴族の男の人たちが帰ってきた。
そして、物凄くたくさん作ったサンドイッチは皆無くなり、サラダも空になったし、何ならお茶は三回もおかわりという事になった。
食事が終わった頃、オーレリアさんが、一応お客様たちに
「天気が崩れますから、お帰りになった方がよろしいかと」
そう言って進めたんだけど、彼等はこんなに空が晴れているのにそんなわけがないと言って、狩猟を続けることにしてしまった。
そして、雨が少し降り出してきた頃、彼等は帰ってきた。本当に雨が降ったとか言っていたけど、オーレリアさんの天気の予測は、凄腕狩人のおじいちゃんに教えてもらった物だと、ここで判明した。
その彼女が、真顔でこう言った。
「早く帰った方がいいです、これから、雨が強くなります」
それを聞き、彼等は帰る準備をして、しかし。
仕留めた獲物の処理をしているうちに、ざんざかと強く雨が降り出してしまったのだ。
「危険だから早く帰ろう」
「危険だからここに留まろう」
彼等の意見は二分されて、帰ると決めた人たちは、そのまま帰ってしまった。
残ると決めたのは、王子様とその友人の公爵家の令息で、従者を一人ずつ連れていた。
「以前、こうなったら山を早急に下りるのは危険だと、知り合いが言ってたので」
すみませんが、雨が落ち着くまで滞在させてください、と彼等は申し訳なさそうに言って、アニエスさんが大丈夫ですとも、と頷いた。
「こういう時はありますよ。お気になさらないでください」
「ありがとうございます」
結果、翌朝彼等が、下山しようとして、大変な事が分かった。
昨晩降った雨が、このお屋敷に続く橋を、流してしまっていたのだ。
帰れない、となったため、アニエスさんはこういう時のために、橋を架ける職人さんたちに伝書鳩で手紙を送り、いつも通りなら一週間もあれば、橋が元通りになると、王子様たちに説明した。
……でもどうする。私はちゃんと知っている。
「このお家に、今、買い置きの食料はほとんどないという事実を……」
でも、私が作る予定のハムとベイコンと、育てた野菜はある。
「一週間ならなんとかなるかな……?」
そうである事を私は祈った。