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六畳一人  作者: 緋色ざき
4/4

先輩

 六時半。

 仕事が片付き、上がろうとしたところで声をかけられた。声の主はといえば、入社時の僕の教育係であった先輩。

 いまは別の部署にいて、交流はほとんどない。いや、そもそも当時だってまれにお昼や夜ご飯を一緒に食べるくらいで周りと比べればはるかに浅い関係ではあったが。

 さて、そんな先輩が一体全体僕に何の用だろうか。あまりいい予感はしなかった。

 先輩は僕に近づくと、あたりを確認し、それから声を潜めて言った。

「なあ、今夜泊めてくれない?」

「いやです」

 僕は即答した。先輩は社会人である。そして僕よりも上の地位に就き、結婚もしている。だからこそ、家に帰ればいいし、何か事情があるならホテルでも何でも借りて泊まればいいのである。それに、何より神聖な六畳間に先輩を入れたくない。

「そこをなんとかさあ、頼むよ」

 にへらと笑みを浮かべる先輩。先輩ではあるが、別段上からものをいうでもなく、柔和な態度を崩さない。そして、多くの人から好かれるのである。僕とは対極に位置する人物であり、正直そんなに好きなタイプではないのだ。それもまた、六畳間に先輩を入れたくない理由である。

 ただ、先輩が僕に頼むということは、何かしら切羽詰まった事情があるということは察することができた。そして、それに対して僕は好奇心を揺すられていた。

「理由を教えてください」

「おっ、教えたら部屋に入れてくれんの?」

「いや、それはないですけど」

 ひどいなあ、と先輩は笑う。それから、

「とはいえ、ここで話す内容でもないし、ちょっくら飲みにでも行かね?」

 今日の夜ご飯の準備は何もしていなかったはずだ。だから、僕はその誘いに頷いた。


 夜の町は金曜日ということもあってかいつもより賑やかだった。僕らは、先輩が最近見つけたリーズナブルかつすいているお店に向かった。

 道中、仕事の話になった。どうやら先輩は最近新しいプロジェクトに携わっていてそこそこ忙しいみたいである。僕は先輩ほどではないことを話すと羨ましがられた。

 そんな他愛もない話をして歩くこと十分。お店に着く。中華料理屋だった。外観はボロボロであり、すいている理由がまざまざと伝わってきた。

「でもここ、安いしうまいんだよ」

 そういって、先輩は店内に入っていく。あとについて僕も店内に入る。内装は外と比べれば綺麗ではあったが、特筆する点はないといったかんじであった。

 ビールと先輩のおすすめのチャーハン、ラーメンを頼み乾杯した。考えてみれば、先輩と夜ご飯に行くのは実に五年、いやもっと久しいのかもしれない。そして、会社の同僚と行くのもだいぶ久しいものであった。

「それで、なにがあったんですか?」

 ビールを一口あおり、そのままの勢いで尋ねた。

「おー、いきなりつっこんでくるなあ」

 先輩はジョッキを置いた。いつものにへらとした顔つきが少し真面目なものになる。

「いやさ、別に大した話ではないんだよ。少し家族と離れた時間が欲しいと思ったんだ」

 大した話だと思った。単身赴任などを除けば、それは基本不和によってもたらされるものである。

「喧嘩でもしたんですか?」

「いや、していない。とくに諍いが起こっているわけじゃないんだ」

 先輩は淡々とそう答え、ビールを飲んだ。

 そんな先輩の顔は、困っているようなそれでいて困っていないような、そんなかんじだった。

 僕は仕事終わりの働いていない脳で、いろいろと考えてみた。喧嘩ではないが、距離を置きたい心境。

「他に好きな人でもできたとか?」

 先輩はふっと微笑みを浮かべた。

「別にそういうわけでもない。たしかに、浮気とか不倫のような男女の関係によって距離を置くケースはありがちだけどな」

 その言葉を聞いてふと思い出す。そういえば、先日うちの会社でも別居を始めた男性社員についてどうやら不倫が原因じゃないかという噂がささやかれているのを聞いた。会社で仲のいい人がほとんどいない僕にも流れてくる話なのだから、当然先輩もそれを知っているのだろう。

「だがむしろ、その方がわかりやすいのかもしれないな。いいか悪いかは別にしても、自分の気持ちも定まりやすい」

 先輩はそう呟き勝手に頷いた。どうも、僕は彼がどんな問題を抱えているのか理解できなかった。それはもしかしたら人生経験に起因するものかもしれないが、とにもかくにも曖昧でもやついたものに対して僕はむず痒さを感じずにはいられなかった。

「結局のところ、先輩はどういう問題を抱えているんですか?」

 そう切り出すと、先輩はグラスをゆっくりと机に置いた。

「いや、すまない。つい冗長にしゃべってしまった。まあ端的に言うと、そうだな、マリッジブルーというやつかもしれんな。結婚八年目にして」

 そう言った先輩の顔は当時僕が隣で見ていたものよりもずっと弱々しいものだった。


 その後、なんとなく居心地の悪さを感じた僕はあえて話題を変えた。仕事のことやプライベートのことなどいろいろと話したと思う。でもそれは、ひどく無意味な時間にも思えた。やるべきことをやらずにゲームをして、それが終わったあとに感じる虚無感に似た感覚かもしれない。そしてきっと、先輩は僕以上にそんな感覚に浸っていたのだろう。

 僕らがお店を出る頃には、九時を回っていた。

「奥さんとお子さんは家にいるんですか?」

「うん?あー、子ども二人は妻の実家にいるよ。妻は家で一人だ」

 そうですか、と頷いてそれから僕らの間に静寂がおとずれる。

 夜の町はサラリーマンや学生たちによって賑わっていて、熱を持っている。僕はそんな騒がしさが今日は煩わしく感じた。

 駅の改札を通過したところで、先輩は足を止めた。 

「お前、たしか下りだったよな」

 僕はそれに頷く。僕が下りで先輩は上り。

 以前、一緒にご飯に行ったときはいつもここで分かれていた。

「今日はいろいろと聞いてくれてありがとな。やっぱ、帰るわ」

 それから僕に背を向け、ゆっくりと歩き出す。その背中から目を離せないでいた。

 なんというか、先輩のいまの姿はあの家出少女に通ずるものがあるように思えた。そして、僕はいつの間にか走り出していた。前を歩く先輩に追いつくと、その肩に手を置いた。 振り向いた先輩の顔はひどく驚いたものだった。

「あの、今日泊まっても大丈夫です」

 こうして、先輩は少女以来の入居者となったのであった。


 その後、同じ電車に乗り先輩は僕のあとをついてきた。こういった構図は初めてのもので少し新鮮さを感じていた。僕らは移動中とくに言葉を交わしはしなかったが、先ほどの静寂とは異なり、別段それを嫌だとは思わなかった。 

 僕の家の廊下に足を踏み入れたところで先輩は口を開いた。

「まさか本当に入れてくれるとは思わなかったよ。お前、少し変わったな」

「そうでしょうか?」 

 僕は変わったのだろうか。そして仮にそうだとして、何が僕をそうさせたのだろう。答えは一つだ。この六畳間で一人ではなかった時間。それが僕を変質させたのだ。

 スライムは人の手によって形を歪められる。僕と入居者の関係はさしずめスライムと人の手の関係と同じなのかもしれない。そして、その歪みがどう働いているのかは、自分ではわからないことである。

「俺はいい変化だと思うよ」

 先輩はそう言った。先輩がそう言うのだから、きっとそうなのかもしれない。

 それからシャワーを浴び、僕の服を先輩に貸し、布団を敷いた。少女のために買った布団がこんなところで役に立つとは、全く世の中はわからないものである。先輩は僕が二人分の布団を用意していたことに驚いていたが、親がたまに来るんですと適当なことを言ってごまかした。

「もう少し飲みますか?」 

 僕は冷蔵庫からビールを取り出した。

 先輩はじゃあ、頂こうかなと言ってビールを手に取った。

「「乾杯」」

 缶のぶつかる音が静寂な六畳間にこだまする。

 ぐびっと口を潤わせたところで、僕は自分の中で引っかかっていたことを口にした。

「どうして僕にそんな相談を持ちかけたんですか?」

 先輩であればもっと親しい人はいるはずだ。僕である理由がわからなかった。

「そうだな。なんというか、お前は少し俺と距離があるだろ。だからかな」

 僕は首を傾げた。あまりその説明では理解できない。

「つまりだな、距離が近すぎるからこそ話せないこともあるってことだよ」

 それでなんとなく理解した。たしかに、それはあるのかもしれない。

「僕と先輩は距離感がありますからね」

「いや、別に仲が悪いとかそういう話ではないからな」

 僕が嫌味と取ったと感じたのだろうか。先輩はそう訂正した。僕はそれにわかってますよと笑う。

「もちろん友人にも話したんだ。でも、あまり真剣に聞いてはもらえなかった。俺のキャラもあったのかもしれないけど」

 たしかに、先輩のキャラだとあまり重く受け止められないかもしれない。それに、先輩の相談自体に表立った不和はない。だからこそ、捉えにくいのだ。

「ただ、いま思えば俺はしっかりと自己開示できていなかったのかもしれない。友人に対して過剰さを見せるのが、なんというか怖かったのかもしれない」

 僕はそれに曖昧に頷いた。あまりわからない感覚だ。親友だからこそ打ち明けられるのではないだろうか。

「あまりピンとこないか?」

「そうですね。僕にはいままで親友と呼べる存在がいなかったので」

 そうかとだけ先輩は言った。その言葉はありがたかった。変にそこで謝られていたらとても不快に感じたはずだ。

「いまの話をまとめると、つまり、距離感があるからこそ、親密ではないからこそ真剣な悩みを打ち明けられるっていうことですね」

「あー、そうなるかな。ネットの掲示板で匿名だからこそ悩みを打ち明けられるのと同じ感覚かもしれないな」

 まあ、やったことがないからわからないがと付け加えて先輩は笑った。その例えに僕は納得した。それこそ匿名の相談サービスなんてものもあるが、だからこそ打ち明けやすいのだろう。でも、そうであるなら親友とはなんなんだろうとも思ってしまう。

「それで、お前はどう思う?」

 先輩の問いに僕は頭を捻る。漠然と感じる将来への不安。

「そうですね。僕はなんというかそういう類いの経験が大幅に不足していて、すごい羨ましい悩みには思えてしまいます。ただきっと、どうなったとしても悩みは尽きないのかもしれないですね。えーっと、それでですね……」

 要領を得ない言葉の羅列。脱線してしまった列車のようである。しかし、先輩は僕を急かすことなく、その先で紡がれるであろう言葉を待っている。

 僕は焦りを覚えながら視線を巡らせる。そして、ふと机の引き出しに目がとまった。あの中には家出少女のあかねからもらった手紙が入っている。手紙……。

 僕はふっと小さく息を吐いて先輩を見た。

「その、なんというかそのままだと自分の気持ちが曖昧なままだと思うんです。だから、えーっと例えば奥さんに手紙とかを書いてみるといいのかもしれないです。いまの自分の気持ちを文字にすると、何を思っているのかが相手に伝わると思います」

 言い終えてから、そうは言ったけれど僕は全く手紙を書いたことがなかったなと思った。 先輩は手紙かと小さく何度か呟いて、それからありがとなとお礼を言った。そういうところで素直にお礼が言えるのは、さすがだと思った。


 次の朝、目覚めると先輩はいなかった。そして、そこには置き手紙があった。

 昨日のお礼と服は洗濯して返すという内容がそこに書かれていた。お礼としてか、手紙の上には一万円札が置かれていた。

 それを見て、うれしさと先輩への尊敬の念が生まれた。

 こうしてまた僕は一人になった。


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