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ゲクトストーリー

サクラソウ

作者: 谷兼天慈

 中二の夏休み、彼はこの土地にやってきた。移り住んだ家からすぐ近くのこの大きな川の土手で、流れる川の水はそれほど多くなく、せせらぎの音がする程度の流れだった。それはしょうがない。今はまだ真夏。冬が過ぎて春になる頃には大量の水も流れ込むだろうが、今はそれほど多い水量ではない。

「…………」

 土手の草の上に体育座りをして川の流れを見詰めていたら思わず涙が出てきてしまった。と、そんな時。

「少年、何を泣いてるのかな?」

 ふいに女の人の声が近くで聞こえた。まったく気配も感じてなかったのに。振り返るとほっそりとした女性が立っていた。年のころは二十歳前後、彼女を見上げている彼よりは間違いなく年上という風体だった。

「………」

 彼は恥ずかしそうにはにかんでから腕で涙を拭った。その姿を微笑んで見つめる女性。彼女は彼の隣に座った。ふわりと微かな消毒液の匂いがした。それに気づいた彼は奇妙な胸騒ぎがして言った。

「お姉さん、どこか病気なの?」

 彼のその言葉ににっこり微笑むと彼女は胸に手を当てた。

「心臓がちょっとね」

「出歩いて大丈夫なの?」

「ほんとはダメなの。でもね、どうしてもここの景色が見たくて」

 彼女は川の流れを目を細めて見詰めた。彼もそれに倣って見詰める。

 川の向こうには見渡す限り山の緑が広がり、建物は何もない。彼の座る土手の上も山が広がっているが、ポツポツと人家は点在していた。そのうちの一つが彼の移り住んだ家でもある。

「お姉さんの家も近くにあるの?」

「あそこが私の家」

 彼女が指差したのは点在する家々から少し外れた場所に建つ洋風な家だった。

「俺、ついこの間ここに引っ越してきたんだ。だから近所にどういった人が住んでるか知らない。なんて名前?」

「笹木っていうの。笹木扶美子」

「俺、神楽覚」

「中学生?」

「うん。中ニ」

「そっか。若いわねえ。私は今年二十四になるの。ここまで生きたのが不思議なくらいよ」

 扶美子はそう言うと笑った。その笑顔を眩しく感じた覚だった。なんて優しそうに笑う人なんだろう。

「また明日もここに来る?」

 彼は思わずそう言っていた。自分でもまるでナンパしてるみたいだと恥ずかしくなる。

「そうね。また来ようかしら」

 そう答えて彼女はまたにっこり微笑んだ。覚はまたこの笑顔を見たいと強くそう思った。


 次の日は雨だった。さすがに雨の日に土手に行くのは憚られる。彼女も来ていないだろう。だが、何となく彼女が来ているような気がして、彼は傘をさして土手へと出かけた。

「扶美子さん!」

「覚くん」

 彼女は赤い傘を持って土手に立っていた。それほど激しい雨ではなかったが、それでも多少濡れてしまっている。

「雨なんだから駄目だよ、出てきちゃ」

「うん。でもね、雨の景色も見たかったから。どんな景色も記憶に焼き付けておきたいと思ったから」

「扶美子さん?」

「私、心臓の手術をすることになったの。ここからずっと遠い場所で。外国の偉いお医者さんに手術してもらうことになったの。だから、手術の前にどうしてもここの景色を覚えておきたくて」

「…………」

 雨が止んだ。彼女が小さく見えた。覚は思わず手を伸ばして扶美子の身体を抱きしめた。最近すっかり背が高くたくましくなっていたので、それほど身長差はなく、同じくらいの身長の彼女を抱くには十分だった。

「きっとよくなるよ。絶対大丈夫だよ。俺も祈ってる。あなたが良くなって帰ってくるのを。だから、あなたも手術が成功するって信じて。お医者さんを信じて」

「覚くん…」

 覚の唇に自分の唇をそっと重ねた扶美子は照れた顔をして「ありがとう」と呟いた。


 それから何日かして彼女は手術のために旅立っていった。彼女が旅立つ前に二人は川の土手で少しの間話をした。彼女は、初めてここで彼に逢った時に、彼がどうして泣いていたのかたずねた。中学生の男の子があんなふうに泣くなんて、もしかしたら学校で苛めにあってるのかと思ったらしい。

「転校する前の学校で、どうしても気持ちが伝えられなかった女の子がいたんだ。すごく彼女が好きだったというわけじゃないんだけど、でもそれなりに好きだった。そのことを考えて川を見詰めていたら、なんでか泣けてきて」

「きっと、本当はすごく好きだったのよ。君が気がついてないだけで。手紙でも書いてあげたらいいのに。きっと彼女待ってるわよ。でも、ちょっと羨ましいわね。私もいなくなったらそんなふうに泣いてくれる人がいるかしら」

「俺がいるよ!」

「覚くん」

「彼女のことはもういいんだ。明るく人気者な女の子だったから、きっとすぐに彼氏ができると思うし」

 それから彼は強く言った。

「俺、あなたが好きだよ。だから、元気になって戻ってきてよ。待ってるから。手紙も書くから、手術が終わったら連絡して」

「………」

 彼女は微笑んだ。それは儚い笑顔だった。


 彼女は親子三人で、父と母二人とも一緒に彼女と外国に移り住んでいった。なので、その後の彼女の消息はわからなかった。彼女の手術は失敗したというような噂も聞かれたが、覚は信じなかった。いつか必ず彼女から連絡があると信じて疑っていなかったから。

 あれから一年近く過ぎ、五月の新緑の中、二人が初めて出逢った川辺一面にピンク色のサクラソウが咲き乱れていた。話に聞けば、ここでサクラソウが咲いたのは初めてだそうで、どうして今年はサクラソウが咲いたのか、地元の人々は不思議がっていた。

 覚は一人土手に立っていた。足元にはサクラソウがユラユラ揺れていた。このサクラソウの群生を、彼女と一緒に見たかった。十も年上の彼女だったが、まるで自分と同い年のようなそんな幼さのある彼女を女性として好きになってしまうのはしかたないことだったろう。

「このサクラソウのような人だった。俺は信じてない、手術が失敗しただなんて。絶対に彼女は元気になったんだよ!」

 そう言う彼の目から、なぜか涙が流れた。泣かないと誓ったはずなのに、どうしても流れてくる。

「少年、何を泣いてるのかな?」

「!」

 驚いて振り返る。そこには彼女が立っていた。一年前とまったく変わらぬ姿で。

「扶美子さん!」

 覚はそう叫ぶと彼女に抱きついた。温かかった。ちゃんと生きてる。ああ、手術は成功したんだ。

「違うわ」

 彼女はそっとやさしく彼から離れる。不思議な微笑を見せて彼女は彼を見詰めた。

「違うのよ。覚くん」

「な、何が違うの? 扶美子さん?」

 彼女は彼の言葉に答えず、周りの景色を眺め渡した。その視線は限りなく優しくて、見ていると泣きたくなるくらいだった。まるで聖母のような表情で。

「最後の願いを叶えてもらったの」

「え?」

「サクラソウの神話を知ってる?」

 彼女は語りだした。花の女神の息子の恋人が死んでしまい、やがてその恋人を追うように息子も死んでしまったこと。それを嘆いた女神が息子をサクラソウに変えてあげたという話を。

「覚くんにはそんなふうになってほしくない。私がいなくなっても、それでもまた新しい誰かと出逢って、そして私の分もいつまでも生き続けてほしいって思ったの。そのためには私の行く末を伝えたいと思ったの」

 彼女の話では、彼女とその親は無事に目的の外国までは辿りついたが、病院に向かう途中に事故に遭い、三人とも死んでしまったのだそうだ。彼らの親類はいなかった。なので、三人の消息を覚に知らせる術がなかった。このままでは、覚はいつまでも自分に囚われてしまうと死の直後に思った彼女は、神に祈った。どうか、彼にこのことを伝えたい、と。

「そして、奇跡は起きたの」

 彼女の魂はこのサクラソウに変わり、ずっとこの土地で生きることとなった。毎年何度もこの時期に咲いては散る運命へと。幸い、覚は霊感のある人間だったので、こんなふうに彼に言葉を伝えるために姿を見せることもできた。

「私を好きになってくれてありがとう。私のために泣いてくれてありがとう。忘れないでほしいという気持ちはあるけれど、できれば私の分もいろいろな人と心を通わせてほしい。私が生きるはずだった人生を、君に託すわ。強く生きてちょうだい。強く」

 そう彼女は言うと、そっと彼に口付けた。温かかった。一年前に触れ合った温かさとまったく同じだった。突然涙が溢れ出す。

「私の姿はもう二度と見れない。でも、私はここにいるわ。ずっと。この花が咲き続ける限り。覚くん、強く生きて。それが私の願いよ」

 彼女の姿がだんだん薄くなって消えていく。だが、覚は動けなかった。言葉も発することもできず、ただ泣いて彼女を見送っているだけだった。その彼を見て、彼女が泣きそうな顔をしたので、彼は慌てて叫んだ。

「生きるよ! あなたの分も。好きだよ! あなたが大好きだったよ!」

 消える瞬間、彼女が微笑んだ。とても幸せそうな笑顔だった。そして、咲き乱れるサクラソウが風もないのに一斉に揺れた。

(生きるよ。あなたの分も。これからもずっと)

 彼は同じ言葉をもう一度呟いた。


そっと囁いて

好きですと囁いて

そっと口付けて

照れずに口付けて

サクラソウのようなあなたに

僕の心を捧げた

初めて出逢ったあの頃に

戻れたら最高だけど

時は止まってはくれない

なくしたものは戻らない

けれどあなたはいつもここにいる

清水の流れる川辺に

そよそよと咲き乱れるサクラソウが

あなたのように微笑んで

僕を手招いているよ

サクラソウのあなたが


 五月になると、ゲクトはかつて子供の頃に住んでいたその土地にやってくる。その土手に咲き乱れるサクラソウに逢う為に。そして、この歌を歌うのだ。「サクラソウ」を。彼女のために作ったこの歌を。もうあれから二度と扶美子の姿は見えないが、彼には感じられた、彼女がここにいる、と。彼が「サクラソウ」を歌うと風もないのに花が揺れるのを知っているから。

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