うちの裏ミス・キャンパスが女性と一緒にラブホからでてくるのを見てしまったから折角だからと脅してみた話
さみしがりやとめんどくさがり
飲み会の帰り道は決まって寂しさに押し潰されそうになる。
私の周りにはなにもないのに押し潰されるというのもおかしな話だけど。
たぶん『なにもない私の周り』以上に、私の中身がからっぽなのだろう。空のペットボトルを持って山にのぼるとべこべことヘコんでしまうように、私の心は空気にすら呆気なく潰されてしまうのだ――なんて益体も取り留めもないことを考えてしまうのは、私が酔っていて、なおかつふて腐れているからだ。先ほどまで一緒になって飲んでいた大学の同期たちは、
『明日はバイトがあるから』とか、
『明日は一限から講義があるから』とか、
『明日はカレシとデートだから』とか、
そういったつまらない理由で散りぢりになっていった。
――私だって一限から講義だっての!
だけど明日の講義より、今の寂しさを埋め合わせるほうが、どう考えても重要だった。
だってほら、ひとりでいると、どうしようもなく、泣きそうになるじゃん?
そんな虚しさをごまかすように悪足掻きをしてたら終電を逃してしまった。最後まで残ってくれた友だちに縋りつくような眼差しを向けると『私、カレシん家に泊まるから』と告げて、さっさと行ってしまった。いや、なんで私の終電がなくなるまで粘ってたの? 嫌がらせ? なんて思ったけど、要は『近くで飲んでたんだけど終電なくなったから泊まらせて』という言い訳に使われただけらしい。律儀に居酒屋で終電を逃す理由があるのかは謎だったけど。
やっぱりただの嫌がらせだったんだと思う。
そんなわけで私はひとりで足を引きずるようにして帰路についているのだった。
友だちは『そんなにひとりがイヤなら彼氏でも作れよ』と軽々しく口にするけど、私からしてみれば『なんだよ、作るって』という感じだ。大学構内に男子でもいれば話はてっとりばやいんだけど、我らが鈴蘭女子大学は名前の示す通り女子大で、男といえば講師か教授くらいしか存在しない。大学に入りたてのころは高校生のころから付き合っていた恋人がいたけど、あの男は半年もしないうちに同じ大学で別の恋人を作りやがった。どうせバレないと思っていたのか、別の恋人とキスをしたその口で私に愛を囁いてきたので、思いきり殴ってやった。去り際に『もげろ!』と叫んだ気がするけど、私は清楚なので『なにが』とは言わなかった。
……あーあー、ひとりでいるとイヤなことばっか思いだす!
頭を振って気持ちを切り替えて、空元気を体現するようにスキップをしてみる。
私を元気づけるようにシャッフル再生にしていた音楽が軽妙な音楽を流し始める。おっ! わかってるね! なんて気分になりながら、もう勢いだけでくるくると回転したりする。そんなことを二曲、三曲と続けていると、先ほどの勢いはどこへやら、弱々しくて女々しいばかりの恋愛ソングが流れ始めて、私のテンションも一気にさがって、途端に冷静になってしまう。
……ここどこだ。
いや、べろんべろんに酔っ払ってはいなかったから、完全に明後日の方向へ歩いていたわけではない……と思う。方向はあっているけど、考えなしに歩いていたせいで、よく知りもしない路地に入ってしまったようだ。まあ、このまままっすぐ進んでいけば問題はないだろう。
そう思って歩みを再開しようとした瞬間だった。
「あっ」
口から小さな――私にしか聞こえない驚きの声が漏れた。
と言うのも、ちょっと先にある建物からふたり組の女がでてきたからだ。
角度的にふたり組のうちの片方しか見えなかったけど、その女には見覚えがあった。
「奥花先輩だ」
同じ学部の四年生である奥花先輩。
名字で呼ばれることが多いから名前は知らないけど、彼女はそれなりに有名人だった。大学の学校祭で毎年おこなわれているミスコン。投票でミス鈴蘭を決定するわけだけど、毎年『なんでこの女が?』というやつがミス鈴蘭に選ばれることが多い。と言うのも、システム的に『ミス鈴蘭に立候補する』という高い壁があるわけで、『どんだけ自分に自信があるんだよ』と思われてもかまわない! という強心臓の持ち主だけがミスコンの参加者になれるのだ。
もしくは自他ともに『ネタじゃん(笑)』と言えるようなやつだったり。
だから毎年、ミスコンの参加者は微妙を極めると言われているんだけど、奥花先輩は『もしも立候補とか関係なく全生徒を対象にした自由投票制だったら、いいところにいけるんじゃないか?』とまことしやかに噂されている――いわゆる美女というやつだった。だから奥花先輩のファンを自称する下級生は枚挙にいとまがなかったりする。そのくせ、大学では図書館に入り浸って勉強をしていて、だれかと一緒にいるところを見たやつはほとんどいないらしい。
――そんなに独りでいて寂しい空気に潰されちゃわないかな?
と精神的弱者である私なんかは心配してしまうわけだけど、私と違って、奥花先輩は自分の中にいろいろなものを詰めこんでいるから、空気なんかに潰される心配もないんだろう。
そんな先輩がだれかと一緒にいるのを目撃した!
それは身内にだけ通用する小さなスクープだった。
……まあ、家族かなにかだろうな。
と思いつつ、彼女たちがでてきた建物を一応チェックしてみる。
そして私は絶句した。
いや、先ほどとは違う『大きな驚きの声』が飛びでそうになったから、慌てて両手で口を塞いだのだ。そんな喜劇役者みたいなバカ仕草をしていた私の目の前には看板があった。
そこに書かれていたのは、
『休憩三時間=三〇〇〇円より ご宿泊(最大十六時間)=六五〇〇円より』
という文字だった。
「ラブホやんけ」
混乱のせいで謎の関西弁がこぼれてしまう。
まあ、奥花先輩だって人間だし、あの顔なんだから恋人のひとりやふたりいたって不思議ではないし、恋人がいるなら、そりゃあラブホぐらいで驚いたりはしないんだけど……でも。
……相手のひと、女だったよな。
一瞬、奥花先輩のあとを追跡したいという最低で最悪でゲスな好奇心が湧いてくる。それをなんとか理性で制止できたのは、驚きのせいで酔いが一気に覚めてしまったせいだろう。私は先ほどの勢いを完全に失ってしまい、自宅を目指してとぼとぼと歩き始める。ただ、私の中に一滴の『謎』が落とされたおかげで、寂しさに押し潰されるような感覚は薄れてくれていた。
○
次の日、当然のように一限に間に合わなかった私は、食堂で昼食をとってから、大学の構内をうろついていた。目的なくさまよっていたわけではなく、とある人物を探して、だ。
案の定、私は図書室で目的の人物を見つける。
図書室の奥にあるブースに彼女の姿はあった。
机の上に付箋だらけの教科書やプリントを広げ黙々と文字を追っている女――
「奥花先輩」
突然話しかけられ、奥花先輩は肩をわずかに震わせる。
私を見あげる奥花先輩の目には、露骨な警戒が滲んでいた。
だけどそれは一瞬のことで次の瞬間には先輩の顔は無表情になっていた。
……ほとんど無表情なのに美人なのって凄いな。
表情と言えばわずかに吊りあがった眉くらいで、目尻や口元、頬は微動だにしていない。そりゃ、それなりにキツい印象も受けるんだけど、それ以上に美人という印象が上回っていた。
確かにこれはファンクラブもできるわなと納得してしまう。
「……なに?」
見惚れて言葉を失っていたら、先輩は警戒を強めたようだった。先輩からしてみれば、いきなり話しかけられたと思ったら、見つめられた状態なんだから、そりゃあ警戒もするだろう。
「あー……」
私も私で、勢いで話しかけたものの、どうやって話題を切りだすべきかと悩んでいた。しかし先輩の顔を見ていて、遠回りをしても警戒心を深めるだけな気もしたので単刀直入を選ぶ。
「先輩、昨日の夜十二時ごろってなにしてました?」
先輩の表情を覗いながら問いかける。
十二時という時間帯を聞いて、過去を振り返るように、先輩の瞳が揺れる。
「私、ちょうど飲み会の帰りだったんですけどね、先輩っぽいひと見かけたんですよ」
私が言い終わるころにはすでに『昨日の十二時』を思いだし終えていたのだと思う。
だって先輩の瞳には私を責めるようなトゲが混ざっていたから。
「私のこと脅すつもり……?」
答え合わせをするまでもないと考えているのか、先輩は小さな声でそう尋ねてきた。ただ、その声には思ったほどの険はなくて、淡々――と言うか、やはり無表情に近い気がした。
もう少し慌ててくれると思ったんだけど。
まあ、話が早くて助かると言えば助かる。
……だけど『脅す』って大袈裟だな。
私はただ『ラブホから女の人とでてくる奧花先輩を見かけただけ』なんだけど。先輩みたいなひとからしてみればそれは立派な脅迫材料なのか。相手が女性だったというのも、その価値観に一役買っているのかもしれない。ともあれ私はその価値観に乗っかっておくことにした。
「いやいや、勘違いしないでくださいよ。脅すつもりなんて毛頭ありません。ただまあ、言い触らすってわけじゃないですけど、やっぱり私ひとりの胸に留めておくには、それなりに衝撃的な光景だったわけで、つい反射的に友だちに話してしまわないともかぎらないわけじゃないですか。だからここはお互いケジメをつけるという意味でも、ひとつお願い事がありまして」
「お願いって……それを脅しと呼ぶんじゃないの?」
「だから金をせびろうとか思ってるわけじゃないですって。私はただ――」
飲みに行く仲間が欲しかっただけなんですってば。
そう明け透けに語ると、先輩は理解不能だとでも言いたげな表情を浮かべてみせた。そんな表情すら絵になるのだから、私もファンクラブに入ってみようかななんて思ってみたりした。
思ってみただけだけど。
○
と言うわけで私の前には日本酒をちびちびと傾けながら私を睨む奥花先輩の姿があった。たぶん睨んでるわけじゃなくて、微妙に酔いが回って目つきが悪くなってるだけだろうけど。
場所はどこにでもあるチェーン店の居酒屋。
店内はこれまたどこにでもある喧噪で満ちている。だれかと共に夜を過ごすことを是とする人びとの空気が、当然ながら私は好きだった。私はひとりじゃないんだって思えるから。
「……私なんかと飲んでて楽しいの?」
痺れを切らしたように先輩がそう尋ねてくる。
「正直、日本語さえ通じれば相手なんてだれでもいいんですよ」
私の回答に先輩は表情を顰めながら、蛸わさを齧って、日本酒をやっている。
「あと綺麗な顔が日本酒と蛸わさやってるのを見るだけで酒がうまくなる」
まあ、私が飲んでるのはカクテル系なんだけど。
それでも先輩みたいなひとが目の前にいると本当に酒が美味しく感じるから不思議だ。あと先輩は私の友だちにはいないタイプなので、話は盛りあがらなくても単純に退屈しなかった。
動物園が退屈しないのと同じだ。
先輩は酒に強いのか、けっこうなペースで日本酒を飲んでいるのに、顔色ひとつ変える気配がない。ただ、目つきだけがアルコールが混ざったようにジトッとしていたけど。やっぱりスイスイと酒を飲まれると、それだけで楽しくなってしまって、私まで酒が進んでしまう。
「先輩、昨日の女の人と付き合ってるんですか?」
ほどよく酔いも回ってきたので、本題と言うか、気になっていたところを確認してみることにした。私の問いかけに先輩はスッと目を細めて、日本酒をグッと喉へと流しこんだ。
「付き……合ってるよ」
一瞬、言葉が濁ったのは、日本酒で喉が焼けてしまったからだろうか。それとも、同性と付き合っている事実を見ず知らずの後輩にカミングアウトすることに迷いが生じたのだろうか。私も飲んでいたカクテルが空になったので、会話の間を持たせる意味もこめて店員を呼ぶ。私たちはそれぞれ、先ほどと同じ飲み物を注文して、それが運ばれてくるまで黙っていた。
運ばれてきた日本酒で再び喉を焼いてから先輩は口を開く。
「じつを言うと私自身はべつにビアンだってことを隠そうとしてるわけじゃない。だから私がビアンだって言い触らされること自体は、べつにかまわなくて……だけど、向こうの……私の恋人がどう思うかわからないから、やっぱり、周りには黙っておいて貰えるとありがたい」
「図書室でも言ったけど、私、悪意を持って先輩に話しかけたわけじゃないんですって」
こうして酒を酌み交わしている時点で私の目的は達成されている。
だから先輩がこれ以上、無意味な心労に苛まれるのは、私の望むところではなかった。
「先輩もレズビアンだって話してくれたんで、私も正直に話しますとね? じつは私、ひとりが苦手なんですよ。なんか、無性に寂しくなって、潰れそうになっちゃうんです。それがイヤだから、できるだけ友だちと一緒にいたくて。でも、最近ちょっと、友だちの付き合いが悪くて。カレシができたとか、ゼミがどうこうとか言って。で、寂しい思いをしてたところに」
「……私というオモチャが現れたと?」
その言葉自体は皮肉めいていたけど、やっぱり先輩の声が無表情なせいで、その言葉が悪意のこめられた皮肉なのか、それとも酔いが生んだ軽い冗談なのか、判断がつかなかった。
「だからそういうのじゃないですって。出会い方はどうあれ、こうやってお酒を酌み交わしてるんだから、私たちはすでに盟友ですよ! それに互いの胸の内もさらけだしたんですから」
「だから私は秘密にしてたってわけじゃ――」
「じゃあ、うちの大学で先輩がレズビアンだってこと知ってるひといるんですか?」
「……私の恋人くらいだけど」
「あっ、先輩の彼女さんってうちの大学のひとなんだ」
私の追撃に先輩は表情を曇らせた。
自分の話をしているときはわかりづらかったそれも、件の恋人の話になるとわかりやすいほどの狼狽を示していた。ああ、そんなにその彼女さんのことが好きなのね? って感じだ。
「先輩が話すつもりないなら無理に探ろうとも思ってないんで心配しないでくださいよ」
そう告げてみても、先輩はどこか安心しかねる様子だった。
○
飲み放題のラストオーダーを注文してから、店員に急かされないのをいいことに二時間以上も店内で粘っていた。たぶん週のなかばで席がそこまで埋まっていないからだろうけど長居しすぎた。さすがにこれ以上は申し訳ないという話になって、奥花先輩と一緒に店をでる。
スマホで時刻を確認すると十一時時を回ったところ。
今から駅に向かえば終電には充分に間に合う時間だった。
友だち相手ならカラオケに行ったり、居酒屋をハシゴしたり、ワガママを言ったりするんだけど、初対面の先輩にそこまで求めるのは酷だったから、おとなしく引きさがることにする。
「そしたら私は電車なんで……」
駅に向かいますけど先輩は?
そう告げようとした私の目を、先輩がグッと覗きこんでくる。奈落みたいにどんな光でも吸いこんでしまいそうな瞳が私の呼吸も言葉も飲みこんでしまう。それにしたって顔が近い。呼吸が混ざってひとつになってしまいそうで、それを意識したら息ができなくなってしまう。
急に呼吸をとめたせいで、クラクラしそうになっていた私に先輩は言った。
「それ、寂しそうな顔なの?」
「えっ……私、そんな顔してます?」
「うん。なんだか、物欲しそうな顔してる」
物欲しそうなって……言葉選びが最悪だ。それじゃあ、なんだか私が発情してるみたいじゃないか。そんなことを思ってしまって、二の句を継げないでいた私に先輩が追撃してくる。
「うち……くる?」
それから「ひとりでいるの、潰れそうになるほど寂しいんでしょう?」とつけたされる。先輩の言葉を理解した私の頭は、返事を考えるより先に「いいんですか!?」と、反応を示していた。酔っぱらいの頭に理性なんて上等なものは存在せず、私は本能の趣くまま口を動かす。
「だったらコンビニ寄ってきましょうよ。お酒、追加しましょう、お酒」
「……悩んだりしないんだね」
「どうしてですか? せっかくの先輩からのお誘いなんだから無下にはできませんよ」
それに先輩だって私が『寂しいのが苦手』ということを知った上で誘ってくれてるのだ。
勢いよく乗っかる理由はあっても、断ったり悩んだりする理由なんて見つからなかった。
「先輩の家、ここから近いんですか?」
「うん。ちょっと路地に入ったところ。こっち……って先に買い物、行くんだっけ」
近くに二十四時間営業のスーパーがあると言うので、コンビニではなくそちらに向かう。
これから終電に乗るひとか、それとも帰宅途中のひとかはわからないけど、スーパーは疲れた顔をした大人や、私たちみたいにほんのり顔を赤らめた人びとで、そこそこ賑わっていた。
その熟れすぎた鬱屈さの中を私はスキップでもするように闊歩していく。
「あっ、先輩、パック寿司残ってますよ! しかも半額!」
半額の憂き目に遭っても売れ残っているパック寿司を掲げて先輩に見せびらかす。
「居酒屋でだいぶ食べてたと思うけど……まだ食べるの?」
「居酒屋で最後に食べたの三時間近く前じゃないですか。お夜食ですよ。お・や・しょ・く。でもお寿司だけってのも味気ないですね。しょっぱいものが食べたいな、しょっぱいもの!」
「……なんでそんなテンション高いの」
疲れた大人とも違う独特のダウナー加減を引っさげながら、先輩が私をじとじと見つめる。
「なんか他人様の家に行くのってワクワクしません?」
「わからないけど……独りが苦手だから、そういうのを求めてるのかな」
「難しいことはわからないですけど、独りじゃないって気がするのは確かなんですよね」
なんて会話を交わしながらカップ麺をふたり分、サンゴーの発泡酒の六缶パックを買った。
先輩の家はスーパーから五分ほど歩いたところにあるアパートだった。
部屋自体はどこにでもあるワンルームで、廊下にキッチンがあるタイプ。
しかし先輩の部屋を見た私は絶句してしまっていた。だって、
「先輩の部屋、なんもないじゃん!」
リビングの中に置いてある家具と言えばベッドとテーブルだけで、テレビはおろか、タンスもない。棚らしきものも置いてないから、教科書や参考書は床に平積みされている始末。
そんな私の混乱などかまわず、先輩はカバンから教科書を取りだしたりしてる。
「ふ、服とかどうしてるんですか」
「服は洗面所のほうに置いてあるから」
言われ、洗面所のほうを覗いてみると、洗濯機のそばにハンガーラックが置いてあって、そこに上下二着ずつ衣類がかけられていた。下着と靴下もそれぞれ二セット。いま着ている分も合わせて三ローテで回しているらしい。いや、なにを冷静に分析しているんだ、私は。
廊下にあるキッチンに小さめの冷蔵庫は置いてあるけど中身はボトルの麦茶だけだった。
「……どうやって暮らしてるんです、これで」
「物が多いとそれだけで管理とか掃除とか面倒だし」
「それはそうですけど……これは極端すぎますって」
「あと物が多いとぬーぼーが迷子になっちゃうから」
「ぬーぼーってなんですか? あっ、もしかして先輩の飼ってるペット?」
迷子になっちゃうって言ってたから、もしかしたら小動物を放し飼いにしてるのかもしれない。だとしたら前もって言っておけよと思うけど、まあ、無粋なツッコミはやめておこう。
「なに飼ってるんですか?」
尋ねると先輩は部屋の隅を指さした。ちょうど積みあげられた本で死角になっている位置だったので回りこんでみる。するとそこに隠れていたのは丸々とした体を持つ黒い物体だった。
「いや、先輩、これ」
「ぬーぼー」
「なにルンバに名前つけてるんですか」
丸々とは言ってもそれは球ではなく円形で、表面に『iRobot』と印字された掃除ロボットだった。ルンバは『お? 呼んだか?』とでも言うように、稼働を始めたので巣に帰らせる。
「みんなルンバに名前つけないの?」
「つけませんよ。つけませんって言うか、周りがルンバ持ってないんで知らないですけど」
もしかしたらルンバを持っているようなお金持ち(?)の方々は律儀にルンバに名前をつけて慈しんでいるのかもしれないけど。残念ながら私の身近にはそういう金持ちはいなかった。
「クッションひとつしかないから、イヤじゃなかったらベッドに座ってて」
いつまでも突っ立って部屋の中を行ったり来たりしていた私に先輩が告げる。たぶん落ち着かないから座れと言いたいのだと思う。言われた通りベッドに座って、発泡酒を開けた。
「これだけ物がないと、なんか寂しくないですか?」
私の部屋は真逆で雑多すぎて足の踏み場すらなかったりする。そんなんだから同期の溜まり場にも使えないくらいなんだけど、この部屋はこの部屋でいろいろ問題がある気がしてくる。
だって物が少なすぎて、肌寒さすら感じそうなほどだったし。
「私には寂しいって気持ちのほうがよくわからないんだけど」
教科書の整理を終え、自分もまた缶を開けながら、先輩は言う。
「……そういうの面倒臭くない? 寂しさを紛らわせるためにたくさんの友だちを作って、それを維持するためにたくさんの時間を使って、全部……投げだしたくなったりしないの?」
ごくり。
とふたりの喉が発泡酒を流しこむ。
それは同時に互いの価値観の差を、なんとか飲みこもうとする音でもあった。
「確かに面倒臭さはありますけど、それって必要経費って言いますか……べつに人間関係にかぎった話じゃなくて……それこそ物を大切に使ったりするのも面倒だし、勉強するのも面倒だし、美味しいものを食べたり、だれかとお酒を飲むためにでかけるのも、面倒と言えば面倒じゃないですか。そう言えば昔、ネットで『呼吸をするのも面倒』とかだれかが言ってるの見かけたけど、究極、生きてくのって面倒事の連続なんだと思うんですよ。だから、私はただガマンしてるだけです。だって面倒だっていう理由で、楽しいことを投げだすのはイヤだから」
「強いんだね」
私の言葉に納得したのかしないのか、しみじみとした調子で先輩は言った。
その回答がどこかズレているような気がして、私も一瞬、言葉に詰まりそうになる。
「強いって言うか……ただ、そうしなきゃ自分のやりたいことも、できなくなるってだけ」
「私は真逆。『やりたい』とか『欲しい』とか『好き』って気持ちより、どうしても面倒だって気持ちのほうが勝っちゃう。だから面倒な気持ちを抑えこめるのは、やっぱり強いんだよ」
先輩は缶に残っていたアルコールを飲み干す。
やっぱりこのひとは酒を飲むペースが速い、と思っていると先輩は立ちあがった。トイレにでも行くのだろうかと動向を見守っていると、先輩は迷いのない足取りで私に近づいてくる。
……えっ、なに? あ、私じゃなくてベッド?
アルコールのせいで眠くなってしまったのかもしれない。
しかし先輩は私の想像を裏切るように私の目の前に屈みこんでみせた。ベッドとテーブルの隙間にすっぽりと収まった。アルコールのせいか先ほどより潤んだ瞳で見あげられる。
なんだ、この状況。
「な、なんですか、先輩」
そのまま先輩は私に顔を近づけてくる。
「もう喋るのも面倒だな……って」
作り物みたいな睫毛、きめ細かな陶器みたいな肌、食んだら甘い蜜が溢れそうなぷっくりとした唇――唇――紅い唇。その隙間から温い呼吸が漏れ、私の唇をかすかに湿らせる。
それほどまでに先輩の顔が近づいていることに私はそこで気がついた。
先ほどと同様に私の呼吸はそこでとまってしまい、意識が朦朧とする。
私の唇と先輩の唇が触れるか触れないかというところで――彼女は退いた。
離れてゆく吐息、唇、顔――私を襲っていた緊張と強張りが抜けてしまう。
立っていたら、間違いなく崩れ落ちていただろう。
それぐらい、見事なまでの脱力だった。
――と言うか、なんだ、今の。
からかわれてたのか?
それとも私が踏みこみ過ぎたから、怒ったか、なにかの警告のつもりなのか。
なにか言ってやりたいんだけど、脱力が喉や舌まで浸透していて、うまく言葉を紡げる自信がなかった。まあ、どうやら事態は収束したらしいし……と思っていた私の太ももが濡れた。
「ひゃん!」
生温いナメクジが這ったような感覚。
慌てて下を見ると、視界から消えていた先輩が、私のスカートの中に頭を入れていた。
「ちょっ、ちょ、ちょっと先輩、なにやってるんですか」
脱力したり、強張ったりを繰り返した可哀想な舌で、しどろもどろになりながら尋ねる。
「ビアンだって理解した上でうちにくるから、てっきりこういうのを期待してたと思ってた。寂しそうな目してるとか、物欲しそうな顔してるとか言ったときも、強く否定しなかったし」
これは口止め料みたいなものだから気にしないで、と先輩はよくわからないことを言う。
「いや、なんですか、そのクソ男みたいな理論――って、うわっ!」
ナメクジが太もものつけ根を目指して這いあがってきて辺な声が漏れる。
「クソ男の理論がなんなのかわからないけど……あんな目で見るのはダメだと思うよ」
「あんな目って……」
……どんな目だよ! という言葉は吐息に飲まれて消えた。
だってナメクジがとうとう脚の付根に到達してしまったから。
「つーか……先輩、これ、浮気なんじゃ……先輩、彼女いるでしょ」
「私、ネコだから。そっちを許すのは、あのひとだけ」
「えっと……先輩、ネコって……なんですか」
「ウケ……いや、される側って言えばいいのかな」
つまり男役と女役……ということだろうか。
で、先輩は普段される側だから、自分がするのはセーフだと。そういう理論であるらしい。やっぱりクソ男のそれじゃねぇかと思うものの、思考はすでに、その行為自体に向かってしまっていた。だって、あの無表情な先輩が、今の私がされてるみたいに、恋人にあそこを舐められて感じてるわけで……先輩のそんな姿なんて、微塵も想像することができなかったから。
余計に妄想が捗ってしまう。
「やっぱりイヤとは言わないんだね」
「えっ、は? イヤって、あっ――」
そう言われるまで自分がきちんと拒絶の言葉を口にしていなかったことに気づく。
しかしそうと気づいたときにはすでに遅く――奥花先輩は本格的にそれを始めていた。
言葉にすることすら憚られるような行為の数々――ただひとつ言えるのは、ベッドに座っている状態でよかったということ。もしも立っていたと思ったら、正直ゾッとしてしまう。
そもそもこのひとは、どんな顔をして私のスカートの中に頭を突っこんでいたのだろう。
自分のスカートなのに、捲って、それを確かめるのが恐ろしい。
だってその表情を見てしまったら最後――
――最後、なんだ?
なんだか私のほうまで頭を働かせるのが面倒になってきた。
これはきっと、アルコールで理性が溶けているせいだろう。
私はただこのまま海の底に沈んでしまいたいと強くそう思った。
そして気づくと私の両手は先輩の頭を抱えて、自らの腰元に強く押さえつけていた。
○
「美依、ゼミ決めた?」
同じグループの女子が私に尋ねてくる。
三年生は今週末までにゼミの希望を提出することになっていた。私たちのグループの他の女子は奈良島ゼミという卒業にあたって論文を書きあげる必要すらない底辺ゼミに希望をだしているはずだ。私も当初はその予定だったんだけど、未だに希望用紙を出せずにいた。いや、入りたいゼミはすでに決まっていて……それを同じグループのやつらに告げられずにいたというだけ。まあ、いつまでもぐだぐだやっていても仕方ないと、私は自分の希望を口にした。
「あー、金子ゼミにしようかなって」
「金子ゼミって……なに、留年の言い訳でも探してるわけ?」
「ちげーよ」
明け透けな友人の言葉に、苦笑しながらツッコミを入れる。
「じゃあ、なんでよ。確かに大原ゼミほど厳しくないらしいけど、基本的に院志望のやつが行くゼミじゃん、あそこ。美依が行っても場違いなだけだって。一緒に奈良島ゼミ行こうよ」
「まあ……せっかく大学きたわけだし……ゼミくらいはちゃんとやっとこうかなって」
「なに急にマジメぶってんの? 私たちにフラれまくったから拗ねてんのかー?」
ちょっと付き合い悪かったのは謝るからさー。
と軽い口調で告げられてもなにも思うところはなかった。
私は単に金子ゼミに行ってみたいと思う動機ができてしまっただけ。
なにを隠そう、あの奥花さなが所属しているのが、その金子ゼミなのだった。
ゼミの志望動機なんてそれだけ。
だけど単純がゆえに、他のゼミで私の希望を叶えることは不可能だった。
――二ヶ月前、私と奥花先輩の関係があの日で終わることはなかった。
あの行為の次の日、私は先輩と話すために再び図書室を訪れていた。彼女は前日よりもさらに驚いたような表情を浮かべながら私を見あげていた。私との関係は、あれで完全に終わったものだと思っていたらしい。そんな先輩に対してなぜか私は、こんなことを口走っていた。
「先輩……昨日のあれ、口止め料って言ってましたよね? ぜんぜん……あんなんじゃ満足できなかったんで、もう一回お願いします。そうすれば……私も、黙っていられると思うんで」
そう告げた私を部屋に招き入れた先輩は、前日の晩のようにスカートの中に頭を入れた。
そして行為を終えた先輩は私に、
「また脅されたりしたら面倒だから先に言っとく。寂しくなったら……うちにきていいよ。知ってそうだけど、講義ないときは図書室にいるし、夜の七時には、だいたい部屋にいるから」
抑揚のない声――それこそ心の底から面倒だとでも言いたげな口調でそう告げた。
なんだよそれ、と思ったけど、なぜか私は先輩の部屋に入り浸っていることが増えた。
この二ヶ月で私が知ったのは先輩が病的な面倒くさがりで、料理ができないとか以前に調理器具すら部屋に置いてすらいないということ。そのくせ洗濯機は入れるだけで乾燥までしてくれる優れ物で――要は洗濯物を干すのすら面倒なのだ。あとテレビがないせいか世事に疎い。最後にテレビを見たのが小学生のときと言ってたから今から十年前になるらしい。そのせいで友人と交わしてる会話がことごとく通じず、祖父母と一緒にいる気分になることが多かった。
あとはもうひとつ。
私はけっこうな頻度――多いときで週に五日とか、そんなレベルで先輩の部屋を訪れているのに、先輩が私のことを拒絶したことは一度もなかった。この二ヶ月でたったの一度も、だ。
つまりこの二ヶ月、私は先輩の恋人と鉢合わせることが一度もなかったのだ。
それを偶然だと片づけてしまうのはいささか乱暴に思えた。
あとはたぶん恋人関係だと思うんだけど、先輩はときどきスマホを見つめて寂しそうな顔をする。スマホをギュッと握りしめ、唇をグッと噛んで、なにかに耐えているような表情を浮かべるのだ。その表情が意地らしくて、なぜかこちらまで胸が引き絞られそうになるのだった。
奥花さなという個人に興味を持ち始めた私は――彼女の所属するゼミに入ることにした。
ただ先輩のことを知りたいという一心で、だ。
○
ゼミの顔合わせの席で、その場にいた三年生が全員、意外そうな顔で私を見つめていた。
まあ、不真面目で通してきた私がいきなり院志望の多いゼミに現れれば、そういう反応にもなるだろう。ゼミの三年は講義で最前列に並んでいるような面子がおもで、対する私は最後尾に並んでいる人間なわけで――私は彼女たちの顔より後頭部のほうが何倍も見覚えがあった。
で、四年生の中にも意外そうな表情を浮かべている女子がひとりいた。
他ならぬ奥花さなが、驚いたような表情で私を見ていた。
普段まったく揺るがない無表情が今だけは私に対して歪みを見せていたのだ。
それだけで私はこのゼミに入った甲斐があったと思った。
自己紹介とゼミの志望動機を順繰りに語ってゆく。さすがにその場しのぎのウケ狙いで切り抜けられるとは思っていなかったから、前もって用意しておいた手堅い内容の自己紹介をつらつらと語った。もしかしたら他の子は『工藤さんって意外とマジメなのかも?』と思ってくれたかもしれないが、自己像と掛け離れた自己紹介に他ならぬ私自身が笑いそうになっていた。
……しっかしゼミ生の中に先輩の恋人がいると思ってたんだけど。
わかりやすいスキンシップやコミュニケーションはおろか、それらしいアイコンタクトも存在しない。先輩の視線は話をしている金子先生に注がれており、私を含む他のゼミ生に向くことはなかった。だから私は『ゼミ生の中に恋人がいる』という可能性をさっさと切り捨てた。
○
顔合わせから二週間後、ゼミの親睦会と言う名の飲み会が行われることになった。
飲み会には学生の他、院生や卒業生も何名か参加するらしい。そちらにも先輩の恋人がいる可能性はあったし、元より私は飲み会が大好きな人間だから、参加しない理由はなかった。
しかしそれが過ちであったことに私はすぐに気づいた。飲みの席であっても先輩の視線は基本的に金子先生に注がれていて、他の生徒も交えてマジメな話ばかりしていたのだから。
……つまんない飲み会。
ゼミ生のほとんどが院志望のせいか、酒のツマミとして語られるのは当然のように大学や論文関連の話だったものだから私は飲み会を盛りあげるという目標を早々に諦め、酒に逃げた。
……と言うか、先輩と席が離れてるのが気にくわない。
私の席は長テーブルの角で、先輩は対角線側に座っている。私が先輩に話しかけたりしたら、何事かとテーブル中の会話を中断させてしまうことになるだろう。私としては、場の空気がどうなろうとかまいはしなかったんだけど、面倒くさがりの先輩に要らぬ心労を背負わせるのはイヤだった。そんな感じでだれと話すでもなく適当に相づちを打ちながら酒を飲んでいると、あっという間に酔いが回って、私は無言で対角に座っている先輩を見つめてしまっていた。
……マジで無駄に綺麗な女。
こんな美人が私のあそこを舐めているのだということを思いだし、周りの目があるというのに、妙な気分になってくる。自分が気持ち悪い表情を浮かべていることを自覚してしまって、頭をガシガシと掻きむしりながら、グラスに残っていたカクテルをひと思いに飲み干した。
通りかかった店員に追加のカクテルを注文して、先輩に視線を戻したとき違和感を覚えた。
先輩の頬がほんのりと朱色に染まっているように見えたのだ。
どれだけ日本酒を呷っても顔色ひとつ変えなかった先輩がだ。
先輩は視線の先にいるだれかと楽しげに喋りながら――とうとうその顔に笑みすら浮かべてみせた。先輩が笑みを浮かべているのを見るのは、この二ヶ月で初めてのことだった。
そんな先輩の視線の先にいるのは――
――金子先生じゃん。
つまりそういうことなのだと、私はすぐに納得した。
先輩はずっと、人目を憚ることなく、自らの恋人を注視し続けていたのだ。
私が先輩から視線を逸らせないでいたように。
結局、奥花先輩は私の視線に気づくことなく、自らの恋人に笑みを向け続けていた。
○
七時半に始まった飲み会は九時半にお開きとなった。
それぞれ帰宅する者と二次会に行く者で別れ始める。意外なことにゼミ生たちは二次会に乗り気らしいが肝心の金子先生は帰宅してしまうと言う。当然、奥花先輩も帰宅するらしい。
自分が歓迎されていないのはなんとなく理解できた。だけど恋人と仲良く帰宅する奥花先輩を見たくはなかったし、なによりそんな状態で独りになってしまったら、普段より強い孤独感に苛まれてしまうのは目に見えていたから、私は二次会のほうの流れに、なんとなく乗ることにした。二次会組で帰宅者たちを見送る段になって、おのおの適当な別れの言葉を口にする。
しかし金子先生と奥花先生は別々の方向を目指して歩き始めた。
一度別れたフリをして、あとで合流するのだろうかと、そんな考えが頭をよぎるが――
――いや、どう考えてもそんな顔してなかったでしょ。
先輩は飲み会中の表情が夢幻の類であったかのように、普段の無表情――いや、それよりさらに薄暗い――今にも死んでしまいそうな表情を浮かべて、足を引きずるようにして帰路についていたのである。その後ろ姿から漂う哀愁を、私には見て見ぬフリなんてできなかった。
先輩が駅の構内から抜けだして、その姿が見えなくまで待ってから、
「ごめん、私、用事思いだしちゃったから行くね!」
そうとだけ告げて、先輩を追って走りだす。
言い訳を考えてる時間すら惜しかった。
先輩はかなり足取りが重たかったのか、まだ駅の目の前を歩いていた。不安気な子どもみたいな足取りには、思わずうしろから抱きしめたくなるような、そんな雰囲気が漂っている。
しかし私には先輩を抱きしめる資格なんてないから、その背中にそっと声をかける。
「先輩、家に帰るならJRに乗るべきだと思うんですけど、どこに行くつもりですか?」
初めて私に話しかけられた日のように、先輩はわずかに肩を震わせてから振り返った。
「……歩いて帰ろうかなって。そっちこそ、二次会に行くんじゃなかったの?」
「先輩が薄暗い顔してたから心配になって、慌ててあとを追ってきたんですよ」
「ヘンなの」
そう呟いて、先輩は踵を返すようにして歩き始めた。
ここまできて引きさがるのもおかしく思え、私もその横に並んで歩き始める。駅の周りにはビルが建ち並んでおり、それが星の代わりに私たちの足元を照らしてくれる。だけどしばらく歩くにつれて駅前の喧噪が遠ざかるように、そうした灯りも星の瞬きのように遠退いてゆく。
最終的に残ったのは、ぽつり、ぽつりと点在する電灯だけだった。
なにを話そうかと悩むフリをしてみる。
だけど遠回りが苦手な私は、単刀直入を選ぶしかなかった。
「先輩の恋人って金子先生だったんですね」
「……………………」
いきなり踏みこんだせいか、先輩は反応らしい反応を示さないまま、足を動かし続ける。
「でも今どき先生と生徒の恋なんて、そこまで徹底して秘密にしなくちゃいけないとも思いませんけどね。中学生とか高校生とかなら未成年だし問題でしょうけど、先輩はもう二十歳超えてるじゃないですか。まあ、先輩は面倒くさがりですから、噂の種になるのはイヤなん――」
「べつに先生だから秘密にしてるわけじゃない」
そうと呟く先輩の声は無表情を取り越して、温度すら感じさせないほど冷たいものになっていた。油断するとそのまま沈黙に逃げてしまいそうになるけど自分をなんとか奮い立たせる。
「じゃあ、どうして……ってのは聞いてもいいんですか?」
私が問いかけると同時、先輩はおもむろに足をとめた。
そして揺らめくようにして私へと向き直り、ぎりッ……と唇を噛み締めてから、
「あのひとが既婚者だからよ!」
周囲に響き渡るような声で、そう叫んだ。
それは先輩が私に対して初めて露わにした激情だった。
そのせいで私は、先輩の言葉をすぐに理解することができなかった。
「既婚者って……えっ、それって、つまり――」
グッと至近距離まで顔を近づけてから、先輩は出来の悪い子どもを諭すように言った。
「あのひとには夫がいるし子どもいるの。シズクの研究室、行ったことないの? 机の上に家族四人で撮った写真が飾られてるよ。だから私たちの関係はだれにも知られちゃいけないの」
そう。だれにもね。
そうと呟く先輩の声は――泣いていた。
「先輩……」
端正な顔を怒りでクシャクシャにゆがめ、その目からぼろぼろと涙をこぼしていた。そんな彼女を見ていた私は、美人はこんな表情ですら絵になるんだなと、そんなことを考えていた。
「ごめん。今日は家にこないで欲しい」
最後にそう言い残し、先輩は早足で歩きだす。
その背中は先ほどまで怒り狂っていた人物のそれとは思えないほどか細く、ともすれば、そのまま夜の暗闇の中に溶けて消えてしまいそうなほど、覚束なく、心もとなかった。
少なくとも一度拒絶された程度で放っておけるような背中ではなかった。
だから私は、先輩の背中を追って、再び走りだしていた。
「やっぱり……先輩についていってもいいですか」
「……今日はしてあげられないよ?」
涙の浮かんだ顔のまま、先輩は横に並んだ私に、そんなすっとんきょうなことを言った。
「なっ……」
先輩に悪気がないのはわかったけど、そのセリフは、あまりにもあんまりだった。
「そ、そんなんじゃない! 奥花先輩、私のことなんだと思ってるわけ!?」
「ひとの弱味に付け込んで、性行為を強要してくる後輩……?」
「ち、違うっての! そもそもアレは、奥花先輩が先に始めたことでしょう! だから私はべつに、あんなことされなくたって、かまわないんですよ! そこんところわかってますか?」
まるで体目的のセフレのように扱われたことが気にくわなくて今度は私が叫んでしまう。
「じゃあ……どうしてついてくるの?」
「だから、そんな顔した先輩を放っておけないって言ってるんですよ!」
「どうして……?」
なぜ?
どうして?
そう尋ねたがる先輩は、すべてに理由を求める子どもに似ていた。
だから私は不安気に揺れる瞳を安心させてあげられる言葉を与えたくなってしまった。
「どうしてって……先輩が……先輩がそんな寂しそうな顔してるのが悪いんですってば!」
感情が高ぶり、声を抑えきることができない。しかし私がそうと告げても、先輩は納得がいかないように、寂しげで、それでいて不思議そうな眼差しで、私のことを見つめ続けていた。
涙で潤んだ瞳、感情を示すように赤らんだ頬、意地らしい表情。
――もう口で説明するのが面倒になってきた。
なんだか、いつか、どこかで、そんなセリフを聞いた気がするけど、奥花さなという人物に言葉でなにかを伝えようとすることが面倒すぎて、私は恥と外聞をかなぐり捨てた。
で、そんな私が先輩になにをしたのかと言えば――
「そういうこと……しないんじゃなかったの?」
――奥花先輩の唇を奪っていたのだった。
先輩の唇を見たときに抱いたイメージのような甘い味はしなかった。その唇は、涙のせいかほんのりとしょっぱくて、酒臭かった。情緒もクソもありはしなかったけど、べつに雰囲気をだしたかったわけではないのだから、キスの中身や内容なんてクソほどどうでもよかった。
「いや……だから、今のは、そういうことじゃなくて……」
どういうこと? と問いかけてくる先輩。この期に及んでなにを言いやがるという感じだったけど、ここまできたら、もうなにをしようと一緒だろうと、私はその言葉を口にする。
「たぶん私は、ただ……先輩のことが好きなだけなんですよ!」
叫ぶと先輩はポカンとした表情で私を見つめてから、なにも言わないまま歩き始めた。
「え、あ、ちょっと! なにか、その、言うこととかないんですか!」
こんな状態で放置されたら堪ったものではないと慌てて先輩に追い縋る。
「私は……あなたに好かれる価値のあるような人間じゃないよ」
「それって……どういうことですか」
「だって私は、シズクの家族を不幸にするかもしれないってわかってるのに、今の関係性を断つことができないんだもん。私が退けば……それで全部丸く収まるって、わかってるのに」
「その……ふたりの関係性について、金子先生は、なんて言ってるんですか?」
「私のことが本気だとは言ってくれてるよ」
自虐的で投げやりな口調で、先輩がその言葉を信じていないことぐらい容易に理解できた。
「でも、先生には家族がいて……それを、どうこうできるんですか……?」
「離婚してくれるとは言ってるんだけど……まあ、それは嘘って言うか、そういうことを言って、盛りあげてくれてるだけってのは、わかってるんだけど……それでも、嬉しいんだ」
今度は自嘲するような笑みを浮かべながら先輩は続ける。
「じつは私ね、先生の子どもにも会ったことあるんだよ。ふたりともすっごい可愛くて。この子たちを不幸にはできないなって、思ったりしたんだけど、それでも先生が私のために……たとえ口先だけでも、この子たちを捨てるって言ってくれたことに喜んじゃってる私がいてさ」
そんな……どうしようもない最低なクズ女なんだよ、私は。
その歩みと同様に淡々とした口調で先輩はそう吐き捨てた。
だけど最愛の相手から、そんな餌をぶらさげられて、そんなのは間違っていると拒絶できる人間がどれくらいいるだろう。おおいに贔屓目が入っているだろうけど、私には家族がいながら、都合のいい言葉で先輩を繋ぎとめておこうとする先生のほうが、どう考えても悪いように思えてしまった。先生には先生なりの事情があるのだと言われれば、それまでだけど。
「そんなに先生のこと好きなら……早く別れて私と一緒になってって、言えばいいじゃん」
「だから……シズクには家族がいて――」
「その先生は家族のこと捨ててくれるって言ってるんでしょう? だったら急かすわけじゃないけど、先輩がそれくらい本気だって知らせないと、いつまでも今のままだと思うけど」
「だって私……面倒な女になりたくないし……」
「面倒なって、そんなことで面倒だって感じるなら、そもそも恋人なんて――」
そんな私の言葉を遮るように、先輩のスマホが着信を知らせた。
先輩はちらりと私を見やる。
「……でていいですよ」
そう答えると、先輩は私から三歩分の距離を置いて、通話に応答した。
「う、うん。駅でたところ? うん、大丈夫だよ。うん、うん。わかってるって」
口調と表情の柔らかさ、それに電話のタイミング的に相手はどう考えても金子先生なのだろう。ただ通話をしているだけなのに、先輩の横顔は、先ほどとは違う明るさを帯びていた。
それが堪らなく悔しくて、私の胸の内に言いようのないどす黒いものが広がってゆく。
「うん……だから大丈夫だってば。ひさしぶりに一緒にお酒飲めただけで嬉しかったから」
しかし次の瞬間、先輩の横顔にクシャリと罅が入った。
罅の入った表情のまま、先輩は頻りに「大丈夫だよ」と口にしている。
その声が震えていることに電話の向こうにいる先生は気づいているのだろうか。先ほどの先輩の話しぶりを聞くに、もしも気づいていたとしても、見て見ぬフリをしていそうだった。
それが堪らなくて悔しかったから――私は気づくと、電話中の先輩に近づいていた。
「なんにも大丈夫じゃないじゃん!」
そして私は空気を読まずに叫んでいた。
先輩はまん丸に見開いた目を私に向けている。
理性が赤信号をだすけど、アルコールで勢力を増した本能が、アクセルを踏みこんだ。
「なんで本当のこと言わないの? あんな飲み会なんかじゃ満足できなかったんでしょう? もっともっと二人きりで一緒にいたかったんでしょう? そもそも先輩、この二ヶ月で何回先生と会ってるんですか? もしかして一回も会ってないんじゃないの? なのにひさしぶりの飲みがこれで、飲み会が終わったらさっさとお別れって、寂しくないわけないじゃん! そういうのも全部、面倒だからって切り捨てちゃうの? それってなんかおかしくない?」
勢いをそのままに先輩の手からからスマホを引ったくって通話口へと叫ぶ。
「それにアンタもアンタだ。先輩が面倒って言葉で全部を飲みこんじゃうような都合のいい性格してるからって甘えてんじゃねぇよ! 寂しがってることぐらい、恋人なら声を聞いてればわかるだろ! なんだ、教授だか助教授だか知らねぇけど、そんなこともわからねェで――」
パンッ!
と乾いた音が鳴り響いて、私の言葉がとまった。
続いて鋭い痛みが頬にひた走り、私の手からスマホが奪い返される。先輩に頬を張られたのだと気づいたときには、先輩は怒りでまっ赤に染まった目を、私へと向けていた。
「だ、だれが、そんなこと言ってって頼んだの!」
右手に握りしめられたスマホ。
どうやら通話はすでに切断済みであるらしい。
なによりも優先すべきなのはやはりそこなのかと仄暗い気持ちになる。殴られたことより怒鳴られたことより、なによりそこを気にする自分もまた、相応に気持ち悪かったけど。
「頼まれてなんかないですよ。だけど先輩がいつまでも『面倒臭い』なんて言葉に逃げてるから、ちょっと腹が立ってきたってだけです。結局……ただの言い訳じゃないですか!」
「うるさい! どうして……そんなこと言われなくちゃいけないの」
「だからそれは……私が先輩のことが好きだから!」
ガリッ……と先輩が唇を噛む。
あまりの強さにそのまま唇の皮膚を破ってしまわないか心配になるほどだった。
「ああ、もう! 面倒臭い……あなたがこんなに面倒臭い女だとは思わなかった。私は……私は、今まで通りで充分だったのに……あなたのせいで……全部、全部台無しになった!」
逃げだすように小走りで歩きだす先輩。
その背中を追おうとすると、
「ついてこないで! 今はもう、あなたの顔も見たくない!」
そうピシャリと叫んで、その言葉を体現するように、先輩はその場から走りだした。
ここまで明確な拒絶を示された上で追い縋れるほど、私は強い心臓をしていなかった。
ただ路上でひとり取り残された私は、どうしようもなくなって、思わず空を仰いでしまう。
「じゃあ……そんな最低な女のことが好きな私は、どうすればいいんだよ」
残念ながら私には『面倒臭い』なんて言葉ですべてを飲みこむことはできそうになかった。
○
次の日、構内のどこを探しても先輩の姿はなかった。
その次の日も――そして、その次の日に至っては、ゼミの集まりにも先輩は顔を見せなかった。週末になって痺れを切らした私は直接、先輩の部屋に足を運んだけど、応答はなかった。
そんな日々が二週間ばかり続いた。
飲み会の帰り以来、先輩と顔を合わせていない私は、もしかしたら家に帰る途中で事故にでも遭ったか、誘拐でもされてしまったのではないかと、本気で心配してしまっていた。
焦れに焦れた私は金子先生の研究室に足を運ぶことにした。
いきなり部屋にやってきた私を、金子先生は意外そうな表情で出迎えた。
「えっと……工藤さん。どうかした? 論文についての質問?」
「違いますよ。論文のことなんてどうでもいいんです」
確かに課題で出されていた論文の読みこみはまったく進んでいなかったけど、そんなこと心底どうだってよかった。だって私は奥花先輩の顔を見るために、このゼミに入ったんだから。
「奥花先輩のこと解放してあげてくださいよ」
だから私は単刀直入に金子先生にそう告げた。
「解放って……なんのこと?」
先生はピクリと眉を動かしたけど、さすが年の功が違うのか、動揺を見せはしなかった。
「隠そうとしなくていいですよ。私、先生と奥花先輩の関係、私はもう知ってるんで」
私がそう告げてやると、金子先生は『先生』であることを諦めたようにため息を吐いた。
それから色濃く疲労の滲んだ瞳で私を見つめた。
「やっぱり……こないだの電話で叫んでたのはアナタだったのね。工藤さん」
金子先生が年長者特有の、絡みつくような粘着質な視線で、私を睨め回してくる。こちらの人間性の是非を品定めされているようで気分が悪かったが、私は真正面から見返してやる。
「そうですよ」
私の肯定に金子先生は嘲りを一匙含んだ笑みで応えた。
「でも、やっぱり『解放』は意味がわからないよ。それじゃあまるで、私がさなのことを縛ってるみたいじゃない。『金子先生に束縛されていて迷惑してる』って、あの子が言ったの?」
「言いませんよ。だって先輩は本当に金子先生のこと、大好きみたいでしたから」
だけど、それとこれとは話が別だ。
「でも、だけど、私が横からとやかく言うことではないのかもしれないけど……大好きだからって、つらくないわけじゃない。大好きだからこそ、今の状況に……先輩はメチャクチャ苦しんでるんですよ。それを、面倒臭いって言葉で全部飲みこんで、ただ、ガマンしてるだけなんですよ。私は……先輩のそういう性格の上にアグラをかいてる先生のことが本気で許せない」
怒鳴ってしまいそうになるのを、理性でなんとか押さえつける。
だけど内側に溜まった想いはどうしようもなくて、私は思いきり机を叩いた。バァンッ! と鈍い音が響いて、手のひらがビリビリと痺れる感覚に襲われ、私は冷静さを取り戻す。
「私だって……いつまでも、このままでいられるとは思ってなかったよ。私にとって……」
そう語り始めようとした口を金子先生は噤んだ。
そして悲しげな瞳で私を見つめた。
「……言いたいことがあるなら言ってくださいよ」
「いや、私がなにを語っても……それはもう、言い訳にしかならないよね。ただアナタの言う通り、私はズルい大人で、さなの好意を利用してた。それだけは確かなんだと思う」
金子先生が思いのほか素直に『自分の非』を認めたことに少なからず私は驚いていた。
肩透かしにも似た張り合いのなさに、私は胸に抱えていた想いのやり場に困る。
「でもね、もう手遅れなの」
そんな私などおかまいなしに、先生はそっとブラインドの隙間から覗く空に視線を移した。
……いや、手遅れって。
その含みしかない物言いに、私の頭には『最悪の可能性』が思い浮かんでしまう。だって奧花先輩は二週間も顔を見せず、学校にもきていないのだ。そこから導きだされるのは――
「手遅れって……どういうこと? 先生は……先輩が学校を休んでる理由、知ってるの?」
その言い方じゃあ、まるで、先輩が――
――だけど、あの先輩にかぎって、そんなこと有り得るだろうか? いや、あんな先輩だからこそ、ふらりと、どこかにでかけるような調子で、トンデモないことをやらかしたり――
――そんな思考が泡のように浮かんでは弾けてを繰り返す。
わかりやすい混乱と狼狽に襲われていた私に金子先生はその回答を与えた。
「だって私はもう、さなにフラれたあとだから」
「フラれたって――え?」
「さっきのは言い方が悪かったわね。べつにさなは自殺したとか……そういう話じゃないわ。ただ『面倒臭いけど……前に歩いてみることにする』って、そんなことを言われたのよ」
その言葉は先輩にしては珍しく、わかりやすいまでに前向きの言葉だった。
だけどその言葉と二週間の音信不通という現実が、どうにも合致しない気がした。
「それ……いつの話ですか」
「今から二週間くらい……ちょうど飲み会があった週の金曜日……だったかな」
つまり先輩は飲み会があった二日後にはすでに金子先生のことを振っていたのだ。それから二週間近く、あのひとは自分の部屋にも帰らず、いったいどこでなにをしているというのか。
「じゃあ、先輩は今……どこにいるんです?」
「さあ。私が連絡してもでないから、てっきりアナタの所にいるんだと思ってた」
元恋人にそう思われていたことに一抹の優越感を覚えないでもない。
だけど、今はそんな些細なことで喜んでいる場合でもなかった。
今は形振りなんて構っていられなかったから、私は恥を忍んでその言葉を口にした。
「先生……奥花先輩の電話番号、知ってます?」
「……それを私に聞くの?」
決して快くとは言いがたかったけど、先生はなんとか私に、電話番号を渡してくれた。
○
校舎の外にでてすぐさま私は先生に教えられた番号に発信する。
登録されていない番号からの着信を、あの先輩が受け取るかどうかは賭けだった。
一回……二回……とコールが重なり、手汗でスマホが滑りそうになる。
六回……七回……そして八回目のコールが鳴った直後、通話が繋がる音がした。
『もしもし。奥花です』
電話の向こうから、警戒で固くなった先輩の声が聞こえてきた。その声に一抹の懐かしさを感じる。たぶん、警戒心丸だしの声とは裏腹に、顔のほうは相変わらずの無表情なのだろう。
私は通話が繋がった喜びと驚きでスマホを取り落としそうになりながら応答する。
「もしもし、私です。工藤美依です」
「……………………」
通話の向こうから反応が返ってくることはなかった。
たぶんだけど私からの連絡であることをなかば予期しながら電話を取ったんだろう。そうでなければあの先輩が見ず知らずの番号からの電話に応答するとは思えなかったから。だけど、だとしたら先輩は私の電話になにを求めているのだろう。想いを手繰るように言葉を選ぶ。
「先輩……今どこにいるんですか?」
『実家』
だけど先輩が発した答えが予想外すぎて、私は一歩目で足を挫いてしまう。
しかしそこで休憩を挟むわけもいかず、私は先輩という秘境を掻き分けて進む。
「実家って……先輩、もしかして大学辞めるつもりですか?」
私は緊張と共にそう尋ねたつもりだったんだけど、
『えっ? どうして?』
返ってきたのは、そんな気の抜けるような言葉だった。心の底から、どうしてそんなことを聞かれるのか理解できないとでも言うような、そんな声色だったから私はさらに混乱する。
「いや……だって先輩、二週間も大学休んでるし」
石橋を叩いて渡るような調子で、私は一言ずつ確認しながら言葉を紡ぐ。
「それに……金子先生のこと振ったんですよね? で、前に歩くとか、言ってたって」
『ああ、うん……それ、シズクに聞いたんだ……? そうだよ。それで……ちょっと、心の整理したくて、実家に帰ってきてるんだけど……思ってたより、いろいろ、大変な感じでさ』
両親となにかあったのだろうか。
学期の途中でいきなり戻ってきた娘を心配しないとも思えないし、そこでなにか問題が発生したのかもしれない。まさか大学の先生と不倫をしてたなんて話をするとも思えないけど。
『そうだ。あなた……免許持ってる?』
そんなことを大真面目に考えていた私に、先輩はさらに明後日の方向に質問をぶん投げた。もはやそこに一貫性なんてものは感じられず、私のことを弄んで楽しんでいるんじゃないかと訝しんでしまいそうになる。めんどくさがりの先輩にかぎってそれはなさそうだったけど。
「えっと……一応持ってますけど」
『私のこと、迎えに来て欲しいんだけど』
「迎えにって……べつにいいですけど、先輩の実家ってどこですか?」
そういうことならと私は安請け合いをしてしまうけど、
『帯広』
「帯広!?」
先輩の発した回答に私はやっぱり驚愕するしかなかった。
驚きながらも、私の頭は札幌から帯広までの所要時間を計算していた。たぶん高速を使って三時間、使わなければ五時間弱……軽々しく提案するには少しばかり距離が開きすぎてる。
「えっと了承しておいて何なんですけど……JRで帰ってこれないんですか?」
『JR使えるなら、もう帰ってるから』
そりゃあ、そうなのかもしれないけど。
先輩の言葉がたりなすぎて、いったいなにが問題点なのか、まったくわからなかった。だけどここで問い質したところで、先輩が相手では一歩も前に進めないような気がした。
「クルマじゃないとダメな理由があるんですね?」
「うん」とやはり電話越しの先輩は軽い調子で答える。
――あー! もう! 惚れた弱みだ!
そう心で叫んでから私は先輩に明日の朝、そちらに向かうと告げる。先輩は「ありがと」と告げて電話を切った。詳しい住所もなにも教えられてなかったので私は電話をかけ直した。
○
レンタカーを前日予約して、次の日の明朝に札幌を出発した。
高速はあまり使ったことはなかったけど、慣れない下道を走るよりはマシだと高速を飛ばして、普段ならまだ眠っているような時間に、先輩の待っている帯広に到着したのだった。
その家は住宅街の一軒家で、先輩はジャージ姿で私を待っていた。
……たぶん高校のジャージだよな、あれ。
それは絶妙にダサいデザインのジャージで、胸元に『奥花』と印字されていた。
めかしこんでおけと言うわけではないけど、なんとなくナメられてることだけはわかった。
「ホントにきたんだ」
クルマからおりた私に、先輩はそんな失礼なことを言った。
このひとは私のことを苛つかせたいのだろうか。だとしたらその試みは成功しているから、惚れた弱みとか関係なく、とりあえず一発、頬を叩いてやりたかった。それはそれとして、
「いや……迎えにこいって言ったの先輩じゃないですか。なにか事件でも起きてるんじゃないかと思って心配してたんですけど……思いのほか元気そうで、よかったです……?」
「私は元気だったよ。ちょっと足止めくらっちゃってたってだけだから」
はいこれと言われたので、わけもわからぬまま手を差しだすと、なぜか軍手を渡された。
「えっ、なんですか、これ」
しかもこれ、滑り止めの黄色いイボイボのついたやつだ。混乱しつつも軍手を身につけた私を今度は玄関口へと連行していく先輩。通された玄関には段ボールの塔が聳え立っていた。
段ボール箱が三つ積み上げられた塔が二つ――合計六つの段ボール箱。
「……もしかして、これを運べとか、そういう話ですか?」
私が怖ず怖ずと問いかけると、先輩は無表情で頷いた。
言いたいことは山ほどあったけど、ここまできて引き下がるのもマヌケすぎるので、仕方なく先輩と協力して六つの段ボールをクルマの荷台へと積み込む。私が五つで、先輩が一つ。
どんだけ貧弱なんだ、このひと。
そうこうして段ボールを運び終えると、先輩はさっさと助手席に乗りこんでしまう。
「……もう出発する気ですか?」
私を休ませる気とかないのか、この女は。
「そうだけど。ダメ?」
「べつにダメってわけじゃないですけど……なんか、親に挨拶とかしないのかなって」
「親はふたりとも仕事に行ってるし、今日、出発するってのはすでに言っといたから大丈夫。少し休憩してからにしたいって言うなら、うちに寄ってからでもいいけど……どうする?」
「まあ、ご飯にはまだ早いですしね……途中、サービスエリアで休憩でも挟みましょうか」
先輩が早く出発したがっているのはわかったから、さっさとクルマを走らせてしまうことにする。走りだしたクルマの中で、先輩は積まれた荷物と同じように、黙りこくっていた。
前から無口なひとではあったけど、今日は普段より纏っている空気が固い気がした。
「で……どうしてこんな大荷物なんですか? 引っ越しでもするつもり?」
「ううん。部屋は変わらないよ。ただ……家に置いてきたものを取りに戻っただけ」
「取りに戻っただけって……この大荷物、どうするつもりだったんですか?」
うしろに積んである荷物をちらりと見やりながら尋ねる。
「お父さんに運んで貰おうと思ってたんだけど、仕事で忙しいから無理だって言われて」
「……そんな理由で二週間も立ち往生してたんですか?」
「さすがにそれだけじゃないけどね。大学に入ってからほとんど帰省してなかったから、親ともいろいろ話をしたし……放置してた物とか……気持ちとか、整理する時間が欲しかったし」
そうと語る先輩の横顔は、確かに、今までで一番晴れやかな表情をしている気がした。
「でも……どうして四年生になっていきなり、実家の荷物を運ぼうと思ったんですか? 物とか増やしたりするの、面倒だからイヤだって、そう言ってたような気がするんですけど?」
私が踏みこむと、先輩は吐息を漏らす。
どう言葉にするべきか迷うような間があった。
「今の部屋だと……ちょっと寂しいなって思ったから」
「寂しいって……先輩がですか?」
「うん。シズクとの関係とか……物がない部屋とか……なにもない自分とか」
そこで先輩は言葉を句切って、呼吸を整えてから続けた。
「そういうの、ずっとずっとガマンできてたのに、あなたのせいで耐えられなくなったの。つらくて、くるしくて、どうしようもないくらい息苦しくて、寂しく感じるようになったの。面倒臭さは前とぜんぜん変わらないんだけど……それ以上に、ガマンだけが、できなくなった」
だから面倒臭くても前に進みたいって思ったの。
先輩は普段の無表情とは違う――熱に浮かされたような声で、そう呟いたのだった。
「私が先輩に告白したってこと……忘れてないですよね?」
「忘れてないよ」
「そんなこと言われたら……私、勘違いしちゃいますけど」
「いいよ。勘違いでもなんでもないから」
その言葉に熱っぽい吐息が混ざっているように感じられたのは私の気のせいだろうか。
「あー……先輩? 私、サービスエリアまでガマンできそうにないです」
「また舐めて欲しいの?」
「いや……だから違いますって」
やっぱりこのひとは私のことを色情魔かなにかだと勘違いしているのではないか。
いや、ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけムラッときてしまったのは確かなんだけど。
「先輩は恋人にしか、自分がされるの、許さないんですよね? だったら今度は私が先輩にしてあげたい。私も……先輩が感じてる顔を見てみたい。自分のものにしてみたいんですよ」
「……………………」
しばらく思案に耽るような沈黙を挟んでから先輩は小声で「いいよ」と囁いた。
ちらりとその横顔を見やると、ほんのりと頬が朱色に染まっていた。先輩にそんな顔をさせているのだという実感が、私の心を今までにない勢いで盛りあがらせてしまった。
このままでは本当に事故ってしまいそうだった。ただ、このままだと性欲に支配されてるみたいで釈然としなかったので、もう少しきちんと、言葉を紡いでおくことにした。
「私、責任とります。先輩がガマンできなくなった分の埋め合わせはしますから」
「……まだえっちの話してるの?」
「だから違いますって!」
このひとはどうしてすぐにそっちに話を持ってきたがるんだ。
もしかして私よりもこのひとのほうがよほど性欲が強いんじゃないか。
「そうじゃなくて……私は先輩に寂しい思いはさせないって、そういう話ですよ」
「ああ、そっち」と、先輩は相変わらずの小声で呟いた。
それからハンドルを握っていた私の左手に先輩は自身の右手を重ねた。
「私の手……離さないでね。一緒にいてくれないと……イヤだから」
そう弱々しい声で囁かれて、私は自分の理性がどこまで保つか、不安で堪らなかった。
いつも評価やブックマークありがとうございます。
作者の綾加奈です。
この短編はpixivで開催されていた『百合文芸』の再録になります。
他の高校生百合についてはKindleで配信されている『エスプレッソ 大学生百合短編集』という書籍で読むことができますので、今作が気に入った方はそちらも覗いてくださると嬉しいです。
下にある表紙画像をクリックすると詳細ページに飛べます。
それから『私は君を描きたい』という高校生百合の長編小説をなろうで連載しています。
こちらもラブコメ百合です。
今、物語が佳境に入ったところなので、導入だけでも覗いていってくださると嬉しいです。
綾加奈でした。