第一幕 「ハッピーバースデートゥーミーⅠ」
《キャラクターがかわいそうですね》
初めてついたコメントがこれだ。
かわいそう?
かわいそう?可愛そう?
可哀想?
河合荘?
可愛い。
「なんだそれ」
これまで、気に入った話をマークするハートは1つもなかった。小説の投稿サイトで2年間書き続けて、ようやくついたコメントにドキドキした。自分の作品を読んでくれた、読者がついたようで嬉しかった。朝起きて、眠い目をこすりながらサイトを開く。ルーティーン化されたログインのパスワードを打つ。マイページの掲示板は、今日も相変わらず空欄のまま…
「コメントが一件あります。」
ではなかった。
眠気が一気にふっ飛んだ。栄養ドリンクを信じない僕は、覚醒した、という言葉を生まれて初めて使った瞬間だった。布団を跳ね除け、床に正座した。そして、一言だけ添えられたその言葉を何時間も見つめた。たった15文字のコメントだった。文字のとめはねまでに目がいった。何度読んでもわからなかった。
《キャラクターがかわいそうですね》
はあ。これは僕が作った作品だ。僕が作った小説だ。僕が生んだキャラクターだ。僕が望んだ物語なんだ。いったい何がわかる。
慣れていない他人の批評を飲み込めない醜い自分がいた。遠くのにある姿見が目に入る。そこには見慣れた、眉間にしわを寄せた野郎が写っている。
「一度口の中に入れたものを噛んで、噛んで、よく噛むのだが、よくわからない味になり、ペッと吐き捨ててしまう。僕の悪い癖だ。いくら相棒に注意されても治らないこともあるものだ。間違えた。僕に相棒なんかいないんだった。気づかせてくれたこのコメントに祝福をあげたい。ありがとう。ありがとうございます。これがきっかけで僕は生まれ変われたんだ。ハッピーバースデートゥーミー」
口に出して文を読み上げ、エンターキーを勢いよく叩いた。ふうっと息をつく。パソコン画面から顔をあげると、目の前に立っている妹と目が合った。
「おかあさーん。この人また壊れたー。おかあ」
「ごめんごめんまじでごめん。もうしないから母ちゃん呼ばないで」
「へえ?」
目を細めてこちらを見ている。ジト目は可愛いと聞いたのだが、どうやら違うみたいだ。僕は完全に、蛇に睨まれた蛙だった。蛇さんは、残念だが仲間になりたそうには見えない。僕は人差し指を口の目に立てた。
「頼むから…」
「じゃあ、はい」
妹は僕の目の前に手のひらを見せる。
「はい?」
「分かるよねえ?」
ニッコリスマイルをくれた。僕もお返しに、と精一杯の笑顔を送る。
「これでどうかなあ」
「ッチ」
舌打ちはよく聞こえ、耳に突き刺さった。僕は目を伏せ、ポケットから一枚の紙幣を彼女の手のひらに置いた。蛇、ではなく妹様は再び笑顔を取り戻した
「お兄ちゃんダーイスキ!」
妹は両目をつぶって言った。それはウインクのつもりだろうか。ここ二年の第二次反抗期により金まで求めるようになった妹だが、ここだけは変わらない。僕はこのウインクもどきを見るためにバイトをしていると言っても過言ではない。もっとも、今はやめてしまったけど。
「はあ。疲れる」
素に戻ってしまった。急に目に力がなくなっている。
「じゃあね」
妹はカバンを持って玄関に向かう。
「ああ」
「今日バイトあるから遅くなる」
「はいよ」
「先なんか食べてていいから。あとでまた夕飯つくるけど」
「うん」
兄弟の素のやり取りは恥ずかしいのでこれくらいにしたい。ふと、玄関で靴を履いている。妹を横目で見る。隣にはたくさんのストラップがついている通学用カバンが置いてあった。その中の1つと目があった。見慣れたオレンジのくまだ。…お前、もう古参アピできるぞ。二歳差の妹だが、近頃はどちらが年上かわからないほど大人びてしまった。
「じゃあ、お母さんいってくるね」
そう言ってこちらを見た。いや、ぼくのもっと奥だ。今ではあまり使われていない客間。そこには黒い仏壇が置かれている。妹は遠くを見るように、少し目を細めた。それは僕に向けた軽蔑の目ではなかった。よく見えないと、人は目を細めるのはなぜだろう。
「行ってきます」
「いってらー」
バタン、ガチャリと音がした。コツコツとアパートの階段を下る音が消えていった。外から閉められた鍵を僕は開けられるのだろうか。
室内にはピコピコポコポコというポップなゲームミュージックが響いていた。場違いに聞こえたその音を、僕はただ聞いていた。
ピンポ~~~ン。
玄関の鐘が鳴った。気のせいか、普段より音がのんびりしていた気がする。僕はオプションボタンを押し立ち上がる。なんか注文したっけな…うちのインターホンが鳴ることは少ない。あるとしても熱帯雨林の業者くらいだ。ああ、妹が忘れ物でもしたんだろ。ナイス推理。周りを見回したが、それらしきものはない。
友達が何人来てもいいように、と母はぼくら兄妹に10畳の部屋を借りてくれた。後になって、何年もの家賃が払われていたことを知った。興味のなかった最新ゲーム機も買ってくれた。今はテレビ台でホコリを被っている。僕がやるのはいつでも一人用のゲームだった。
僕はインターホンに耳を傾けた。
「どうした忘れ物か?鍵持ってるだろ」
「あなたは、今に満足していますか~?」
速攻で切った。
どこかの新興宗教だろうか。最近声をかけられたキリスト教のひとは親切だった。聖書を断っても「お時間取らせてすいません」と謝っていた。ビバキリスト。そんな事を考えていたらまた音がする。僕はイライラしていることを隠さず言う。
「あんまりだと警察呼びますよ」
「すいません、すいません!」
すごい勢いで頭を上下させている。そう言うと、黒白の世界に映っていた彼女が顔を上げた。
「あの~…ちょっとでいいんで出てきてくれませんか~?」
天使は涙ながらに言っていた。誰だよ泣かせたの。
「かわいい」
「え?」
「なんでもないです。すぐ行きます」
とても可愛かった。それだけで男は動くから情けない。ツルツルとしたフローリングに滑りながら玄関まで走る。床がギシギシ鳴る。下の人ごめんなさい。しかし、今回ばかりは許してくれ。インターホン越しに見た彼女は今にも消えてしまいそうなくらい儚かった。
鍵を開けようとして手を止めた。不思議と、もとから鍵は開いていた。妹が閉めた音は空耳だったようだ。ドアを開けると眩しい光に目をつむる。そこには、彼女を射す灯りが灯っていた。
「こんにちは~」
かわいいな
「…かわいいですね」
声に出していた。もう止められない恋の暴走機関車。
「え?いや今日はですね~あなたを~」
「かわいいですね」
「えええ!?」
目の前に神はいた。こんなに身近にいたとは思わなかった。オン眉というのだろうか。前髪は眉上に並べられ、肩で切りそろえられた後ろ髪は、彼女がちょこちょこと動くたびにはらりと揺れる。顔を赤くして手を頬に当てていた。
「かわいい…かわいいかぁ~」
何やらブツブツつぶやいている。残念ながら難聴ではないので全部聴こえている。
「いやいや!そんなことではなくてですね」
彼女は頭をブンブン振って言った。
「あなたは今、現実に満足していない。違いますか~?」
思わず目を見開いた。やっぱアブナイわこの人。僕の第六感がビンビンと知らせてくる。関わったらだめだ。
「いやー全然大丈夫なんです」
「そうですか?」
「そうなんです。だから宗教なんか…」
「でも、もう45日も学校、お休みされていますよね~?」
「ええ、まあそうですね」
この手の質問には淡々と答えられる。ここは丁重にお断りしてから連絡先を…
「ん?」
ヨンジュウゴニチモオヤスミサレテイマスヨネ?
なんで、知っているんだ。こいつは、誰だ。見ず知らずのやつが自分のことを知っている、映画やドラマで見たことのあるシチュエーションだ。だが現実に起こった今、拭えない不安が襲ってきた。
「そんなにお休みしたら大変じゃないですか~?」
「いや、なんでそのことを」
「えっ、だってこれ~」
彼女は自分のスカートを指さした。よく見たら、この人、制服だ。高校の制服だ。俺の学校の制服だ。白いシャツに学校指定の灰色のニットに緑と赤のチェックのスカート。男のズボ…パンツと同じ柄だ。周りからは年中クリスマス高校と揶揄されている。そんな、クリスマスも近づく12月1日だというのに、僕の身体は火照っていた。脇汗は滝のように下に落ちていく。
「あっ、わたし怪しくないですよ全然」
彼女は手をブンブン振るって言う。
「それ、怪しい人が言うセリフだろ」
そう言ったら、彼女はハッとして、おろおろしてから俯いてしまった。失言に築いたのか。…なんか小動物をいじめているみたいだ。僕が悪いみたいじゃないか。
「いや、ごめんなさい。僕のほうが怪しいですよね」
「へ?」
彼女は小首をかしげる。
「いや、俺なんかもう1ヶ月も登校してない不登校なりかけの奴だし」
「いやいや、45日ですってば~。盛らないでくださいよ~」
やんわりと、はっきりと否定されてしまった。口調はやんわりのはずなのにはっきりと胸に届いた。彼女の口はまだ動く。
「いやいやいや、盛ってないですよ…減らしたんです」
「あ~。なんで“盛る”の反対はないんですかね。話を盛るって、あれもほぼ造語じゃないですか~。逆盛りとか言ったらいいんですかね~。なんなら、すりきり一杯とかですかね~」
「何いってんだ…」
最初の天使はどこか行ってしまった。僕が下手に出たのがまずかったのか。彼女は調子を取り戻してしまったようだ。フンッフンと鼻息荒くなっている。
「今日は来たのは他でもなくですね~」
彼女は、自信満々の顔で僕の目を見た。
「あなた、世界を救いませんか」
ああ、転生したくないなあ。