お玉杓子の恋
おたまじゃくしのこい
亡き人と 逢い戯れる お盆かな…
学校が夏休みに入り、お盆になると孫たちが遊びに来てくれます。
しかし孫たちは、いつも私にせがむのです。
お爺ちゃんプールにいこうよ…
でも私は子供のころから金槌で、今も水泳は全くだめなんです。
お爺ちゃんは泳げないからなぁ
じゃあピアノを弾いてあげるから…
ピアノなんて つまんないよ…
私は少しだけピアノが弾けるので、それで孫に許しを乞うのです。
純真無垢な孫たちをみていると、あの夏の日の記憶が走馬灯のように蘇ります…
小学生の頃の私には、水泳の時間は嫌いというより苦悩の時間でした。
平泳ぎをしても少しも前に進まず、ただもがくばかりの私は級友たちから「金槌の蛙」と呼ばれていたのです。
ある夏休みの出校日、「金槌の蛙」はまた水泳の時間に恥をかいてました。
男子も女子も全員端まで泳ぎ切ったのに、私一人だけが手足をバタバタさせ必死に水と格闘していたのです。
その滑稽な姿に女子たちまで笑いだし、私は悔し涙を水で誤魔化してました。
するとまだ春に着任したばかりの学生の雰囲気がのこる若い女の先生が服を脱ぎ水に入ったのです。
私に寄り添い、泳ぎながら励ましてくれる蒼い水着の先生は、まるでコバルトブルーに輝く人魚のようでした。
頑張るのよ
あなたなら必ずできるから…
先生の優しくも厳しい言葉に導かれ、泳ぎ切ることができたのです…
水泳の授業も終わり掃除も済んで、あとは帰るだけとなりました。
しかし私は級友たちから離れ、音楽の教室のそばの池に泳いでるお玉杓子や鯉を見つめていたのです。
石で囲まれた池には水草が生い茂り、蓮の花が咲いていました。
僕もあんな風に泳げたらいいのに…
蓮の葉のうえの小さな蛙が
「けろっ」と返事をしてくれました。
すると教室の中からピアノの音が聞こえたのです。
少し開いている教室の窓から中をそっとのぞきました。
水の中で私を助けてくれたあの女の先生でした。
その表情は青春の豊香を発散させるように情熱的で、しかも老成した深淵を思わせる穏やかなものでした。
授業では決して見せることのないその絵画のような表情に幼心がときめきました。
先生の心の中を泳ぎたい
先生と一緒に…
欲望に駆られた私は、先生を見つめ観察したのです。
すらりとした体型とは裏腹に、その胸は官能的なほどに豊満で、百合の花の様に白いワンピースの胸元で、懸命に甘い奔流をせき止めている小さなボタンに嫉妬しました。
先生が弾いていたのはあの「エリーゼのために」……
濡れた髪を振りほどいた先生は、ときに目を閉じてメロディーの流れに身をまかせ、ときに生徒を叱りつけるように鍵盤を叩いてました。
すると先生は急にピアノを弾く手を止め、目を閉じて静かに深く息を吸い、ゆっくり吐息をもらしたのです。
そのときの胸の膨らみを、今も鮮明に憶えてます。
そして先生は何かを察知したように瞳を開いたのです。
二人の視線が重なりました…
幼心に生まれた欲情を見透かされ、私はうろたえ、覗き見を叱られることを覚悟、いや期待していたかもしれません。
彼女と見つめあった、そのほんの一瞬のひと時は、まるでダイヤように私の記憶の中で結晶したのです。
一瞬の静寂のさなか、池で「ぽちゃん…」と水の跳ねる音が響きました。
鯉がお玉杓子をのんだのです。
すると彼女は私に微笑みました。
そんなとこにいないで教室に入ってらっしゃい…
彼女の前に立つと私の瞳から涙が溢れ、また彼女は微笑みました。
泣かなくてもいいのよ
怒ってないから…
彼女はワンピースのポッケから芳しい香りのするハンカチを出し私の涙を拭いてくれました。
少年は涙が溢れるわけも知らぬまま彼女に抱きつき、白いワンピースを濡らしたのです…
これが私の初恋の記憶です。
今日は予定があるので恥ずかしい話はこれで終わりです。
今日は午後から亡き妻の墓参りに行き、夕方に迎え火を焚くのです。
そして妻を迎えたら、彼女が愛してたあの曲を彼女のために弾くつもりです。
おわり
蛙なく 校舎の池の 水の藻に 白き幻影
過ぎりてはきゆ… München
かはづなく まなびやのいけの みづのもに
しろきまぼろし よぎりてはきゆ…