執行官と管制官とレコードタイム
どこかねっとりした響きを帯びた幻聴が、一人の執行官の脳裏を過ぎった。
「E-35、ユニット2、状況開始」
通信機に呼びかけ、小柄な陰がパイプとシート、そして書き割りでできた仮想の市街地へ突っ込んでいく。小動物を想起させる疾走は、別にねっとりとした幻聴によって急かされた訳ではなかろう。
彼が飛び出した地の造りは雑なれど、自転車や鉢植えなど凝った小物を並べた街路はきちんと大阪の下町を再現していた。
これ以外にも廃車を並べて大通りを想定したフィールドや、きちんと工務店に立てさせた民家が数棟備えられるなど高槻市の山奥に作られたキルハウスは実に気合いの入った造りをしている。近畿、中国に九州の各出張所に散った執行官を鍛える為、WPSは相当の予算をここにつぎ込んでいた。
それもこれも、将来に備えて有望な執行官を養成し、動く死体によって世界が終わらないようにするための必要経費だ。多くのデザイナーがコントロールセンターでニアパンデミックケースから訓練内容を策定し、時にリアルな訓練を行うために賽子をふってハプニングを引き越すのも全て、人類文明を思いやってのことである。
だからこそ、陰湿で難易度が高い訓練を課し、それを無数のカメラで観察していたとしてもそれは決して娯楽ではないのだが……。
「よっと」
世の中には思惑から外れ、想像の斜め上を行く奴は幾らでもいるのである。
矮躯の執行官は民家――を模したシートの書き割り――の傍らに停めてあった自転車に目を付けると、馬蹄錠で施錠されていたそれを当然の権利のように手斧でたたき壊したではないか。任務執行時の緊急借用ということで違法ではないものの、ニアパンデミックのスケールⅣを想定したシチュエーションで迷わずやる者は少ない。
誰しもが訓練の前提、そして“訓練施設の備品を壊すのは拙くね?”という社会人的思想に捕らわれがちだからである。
そして今回の訓練ケースは孤立し、通信設備の不具合で情報が得られなくなった出張所への“徒歩”伝令任務だ。しかし、本来ツーマンセルで動く前提の強制執行官が単独行をしている辺り、のっけから定石を外してきている。恐らく、開始前に何らかの事故で上司が殉職したかはぐれたという状況想定なのだろう。
良くある話だ。複数で動くことが前提であるが故、一人では上手く動けなくなる執行官というのは一定数存在する。その悪い癖を正すため、一律で課されるシチュエーションなのだろうが……。
ただ、この男にさせてはいけないシチュエーションであった。
さっそく自転車に乗った執行官は訓練前に覚えた地図に従って自転車を走らせた。徒歩伝令・斥候任務の――徒歩で行くとは言っていない――要点は道を覚え、必要とあらば切り替えて進むことだ。それができなければ、早晩行き止まりの小路に追い込まれて死ぬことになるから。
そして、想定していた道が埋まっていて使えないなど、ニアパンデミックケースでは幾らでも考えられる事象である。自動車の事故で、火災で、警察の緊急封鎖の残滓で。
溢れ出してきた再起性死体で。
目的地までの最短ルートを取ろうとした執行官が道を曲がると、数メートルそこらの道を埋めるように書き割りが立ち尽くしてあった。群衆の形を模して雑に作られたそれは、群れを成した再起性死体の疑似標的だ。
数7~10と書かれた小規模集団は、訓練的には必要数の弾丸を叩き込めば撃破した想定にはなるが、一体2発は最低要求され、訓練の管制官が知る執行官の腕によってはミスショット判定を受ける事もあるので――無線の向こうで賽子が転がる音がした、という噂がまことしやかに囁かれているらしい――普通は無視推奨である。
が、しかし、執行官は迷いなくペダルを踏む勢いを強めて書き割りへと向かったではないか。腰を浮かせ、全力で両足を動かして生み出される速力は中々のものだが、当然人垣を吹き飛ばせるような代物ではない。
このまま書き割りをブチ抜いたとして、管制官は無情に殉職判定を下すことであろう。
だから執行官はトップスピードに自転車が乗ったと判断した瞬間、器用に飛び上がって自転車だけを突っ込ませた。自分は膝を畳みながら着地して、更に地面を数度転がることによって衝撃を殺し無傷で起き上がってみせる。
一方で乗り手に見捨てられた自転車は惰性で直進し、運動エネルギーの全てでもって書き割りをブチ抜いていった。
『え、ええ……?』
無線機から聞こえてくる管制官の呻き声。判定を報せる声が返ってこないことに焦れた執行官は、舌打ちを一つ零して恐ろしく常識的な管制官を急かした。
「トップスピードのチャリを密集した集団に叩き付けました。殆どの再起性死体は転倒したでしょう。気を付ければ背中を普通に踏んで通り抜けられます。如何に」
『あ、ああ、少し待て…………』
良いんですか? だとか、いやどうだろう、みたいなやりとりが幾つか躱され、何かが転がる音が聞こえた後、渋々と言った調子で執行官は通行の許しを与えた。
悠々を書き割りの間を走り去っていく執行官。訓練を俯瞰する者は、通常ならここで10分以上の回り道をするか、銃を弾倉一つ分以上は消耗するだろうと見ていた所を裏切られて頭を抱えた。今後の状況想定を大きく塗り替えねばならなくなったからだ。
急いでエキストラの配置を変更させ、書き割りを設置し、シチュエーションシートを更新する。裏側に待機する訓練所の職員が俄に忙しくなった。
その後、執行官は実に淡々と、しかしエグい手段を使って進行していった。
死者のエキストラを手斧と格闘術で打倒したかとおもえば、その懐を漁ってスマホを略奪し――近頃の若者なら普通に肌身離さないでしょうと主張――指紋認証であるのを良いことに最大音量でアラームを鳴らさせ想定されぬ誘引装備として活用してみせた。
また、別のエキストラを打倒した後、管制官にハラワタをぶちまけて良いかと眉一つ動かさず問いかけたではないか。撒き餌をして、一つ角の大集団を引き寄せショートカットしようというのだ。執行官がしっかり演技できたなら、と震え声で応えた所、彼は私物として持ち歩いていたツールナイフのナイフで見事な解体の仕草をしてみせた。
それこそ、巻き込まれたエキストラの顔が蒼白になるくらいの迫真度合いで。
通常であればどう小細工しても処理できない規模の集団を撒き餌で上手くやり過ごし、ショートカットをかました執行官は次いで遠方から聞こえてきた助けを求める悲鳴をガン無視した。この絶叫ならお食事真っ最中でしょうから、今から言って間に合うまいと吐き捨てて。
実際、悲鳴だけで“助けるべきか否か”を判断する訓練はカリキュラムに存在している。ニアパンデミックケースに飛び込むなら、そこは必ず阿鼻叫喚。釈迦の如き大きな掌を持たぬ執行官であるが故、得られる情報から最適な取捨選択をする必要がある。
とはいえ、悲鳴を聞けば立ち止まり助けられるか逡巡するのが執行官だろう。彼等も人の世のため公僕になった者が多く、そういった正義感を擽るイベントに弱い者が多い。現にデーターが殉職理由の二割ほどが、こういった正義感の陥穽に嵌まったが故であると示している。故に、このキルハウスの訓練項目でも多くの罠として採用されてはいた……。
が、この男は一瞬目線をくれただけであっさり切り捨てた。どうせ間に合わないだろうし、間に合ったところで重要な作戦事項を伝達する方が民間人一人より重要であると判断したのである。
事実この訓練であれば、仮に悲鳴が近くであり死を連想させなかったとして、重要事項を抱えているという任務を理解して先行するのが正解である。だが、この剰りの迷いのなさに訓練に評価を下すべき者達も困惑した。果たしてプラスに評価して良いものかと。
倫理観を試しつつ足を引っ張る障害も存在する。車両事故に巻き込まれ、下敷きになったという想定のエキストラだ。瓦礫に片足が挟まれたエキストラの中でも選りすぐりの美人の呼びかけに、執行官は見捨てず応えた。
しゃがみ込んで無事かと確認する彼に思わず管制官も安堵の吐息を零したが……次の瞬間に何を思ったかエキストラの額に拳銃を突きつける光景を見て唖然とした。
そして、引き留める間もなく引き金が絞られ、模擬弾が弾けスライドがブローバックした。ぽかんとするエキストラを見やりながら、さも当然の如く死亡判定はと管制官に問いかける執行官。
最早関係者全員が驚でも非道な行為に声を荒げるでもなく、最早憮然としてペンを取り落とすか盛大なミスタイプをすることしかできなかった。
『し、執行官、何を……』
「救助不能と判断した為、緊急時に適性と思われる処理をしました」
緊急時、適性、処理、という三つの単語がぐーるぐるとコントロールルームで訓練を観察している面々の頭蓋の内側を舞った。ピンボールの如く打ち合わされるそれを噛み砕くのに凄まじい労力を要しただろうが、何とか理解した彼等は執行官が関わる諸法を国内、国際共に丁寧に脳内で浚った所で、この行動が“一応は適性”である事実に愕然とした。
不可避の死が待ち受けているのであれば、苦しんで死ぬのと自分の死を知覚する間もなく死ぬ、そのいずれが慈悲ある対応かは論ずるまでもなかろう。
しかし、それは紙面の上で冷たく文字を手繰るからこそ冷静に、かつ合理的に判断できることであり、現実であれば実に難しい判断だ。
これも訓練と言えば訓練ではある。
だが、幾つもの訓練と現場の資料を飽きるほど眺めてきた訓練の管制官達には分かった。
この野郎は実地でもノータイムでトリガーを引くと。
「で、コントロール、判定は」
『あ、ああ……次の行動に移ってくれ……』
絞り出すようなゴーサインを受け、演技も忘れて「私何された?」とでも言いたげな顔のエキストラを遺して執行官は走り出した。多分、彼女の中では如何に哀れっぽく縋り付いて彼の足を止めるかというプランが練られていたのだろうが、残念ながらそれは効率という餌を食んで正しく暴走する畜生には通じなかったようだ。
余談だが、この対応に関する寸評への抗弁書として、彼はしっかり話は聞いて氏名を確認したし、この状態で死ぬほど貴重な銃弾を苦しまず逝けるよう一発消費した。あくまで訓練であったので省略したが、現実であれば遺髪と指輪の一つも可能なら持ち帰ったであろうとの内容を提出し更なる物議を巻き起こしたとか。
後に彼は更なる外道行為を積み重ねて、この訓練シチュエーションにおけるレコードタイムを打ち立てたのだが……局内において、参考記録として公式には掲載せず、模範資料としてもデーターベースに遺さなかった管制官達の苦悩は察してあまりあるものがあった…………。
繰り返す訓練はRTAではない、繰り返すRTAではない。
ちょっとしたおまけでございます。
効率厨のマンチにダンジョンハックをさせてはいけないという好例。
管制官にはゲームマスターとでもルビを振ってやって下さい。
私もよくやられます(白目)




