拝啓ご両親、人の逆鱗って何処にあるか分からないですよね
「要は運なんですよ」
からり、とグラスと氷がぶつかる音が響きました。隣に座っている先輩の手の中で、熱を吸った氷が崩れ、琥珀色の液体が波打つ。きっと、それを見つめている瞳は何時もの如く淀んで凪いでいるのでしょう。
業務用の死臭消しが混ざったシャンプーと甘いコロンの匂いに混じり、バニラが香る煙草の臭いが入り乱れる空間に僕はいました。前に先輩に連れて行って貰った、BGMの無い静かなバーのカウンター。けぶるような曖昧な光の中で、僕の手の中のウイスキーは寂しげに揺れていました。
あれからほんの11時間。強制執行業務と後処理で3時間の残業を終えた後のことです。
正直な話、引き金を引いた後の事はよく覚えていません。
後ろの方で外川氏が何度も反吐を吐きながらマスクを引き剥がしていたり、班長が撃鉄の間に指を挟みながら僕の手から銃を引っぺがしたり、顔に水ぶっかけられてふらふらと現場を引き上げたり断片的な記憶だけが残っています。
ただ、自分の電子署名が施された文書が、きちんと共有サーバーに提出されていたので仕事はしたのでしょう。どうやら、曖昧になっても僕の脳味噌は数ヶ月間で仕込まれたルーチンをしっかりこなしてくれていたようでした。
そして、先輩に引っ張られ、気がついたら此処でした。
「死ぬ死なないというのは、正しくそれです。私のような上等とは言えない人間が、今もこうやって呼吸しているのに、私より優れた執行官でも骨壺の中というのが良い例でしょう」
まぁ、意図は分かります。多分、というか確実に呆けて色々と拙い精神状態に陥っていると思われたようです。外川氏が緊張の閾値をぶっちぎった結果嘔吐・昏倒したのに対し、僕は色々と曖昧になる事で安定を保とうとしたのでしょう。
前回つれて来て貰った時との違いは、結構大きいですね。あの時はまだ、感傷に浸る余裕がありましたから。
……ええ、別種のショックは受けていましたが。
「また極論持ち出しやがって。ま、無事担ぎ出されたガキと、他の家族の差を考えると真理ではあるやもしれんが」
そして、前回と違うことがもう一つ。今回は班長もいらっしゃるのです。
ビールの缶か先輩のような洋酒が似合いそうな雰囲気に反し、班長は何やらオシャレなカクテルグラスを手にしていらっしゃいました。色の無い液体を湛えたそれからは、かなり強い酒精の匂いがします。
「だが後輩、お前はお前でやることやって死なないようにしてるだろ。それも運か?」
班長が咥え、愉快そうな言葉と共に躍る煙草は先輩と同じ物でした。甘いバニラの匂いに挟まれながら、何ともなしにこの二人は本当に先輩後輩なのだなと実感します。先輩は未だに慣れていないのか、班長に先輩と呼びかけていたりしますし。
「何処までやったって、死ぬ時は死にますよ。寝てるときに痰が詰まって死ぬ奴だっています」
「あー……あったな、んなこと。あの時は男子官舎全体消毒したから大騒ぎだったよな」
今なにかさらっと凄い事件が聞こえた気がしますが、気にしない気にしない……。
要は、ハードな実戦と緊張でゴチゴチになった僕のメンタルをどうこうしようとしてくださっているのでしょうし。ただ、それにしても持ち出す話題を何とかしてもらいたいものですが。
去り際に茫洋とした自分が書いた報告書――客観性を高めるため、参加した執行官全員が現場の調書を書くことが義務づけられています――を読む限り、事態は確かに僕の精神を疲弊させるに足る物でしたから。
一家の生存者は、末の娘が一人。メンタルケアの専門家兼聴取担当が来るまでに聞き出せた内容は、少女が語る訥々としたつたない内容でしたが、実に壮絶なものでした。
末娘である彼女は子供部屋ではなく、両親と寝ていたそうで、そこを夜に持病が元で頓死した祖母と、その祖母が真っ先に襲ったために再起した祖父に襲われたとのことでした。
父が貪られている間に目が覚めた母は、一階に部屋があった長女の元へ走り、三人で玄関から逃げようとしたそうですが、父を襲い終えた祖父が玄関へとやってきており断念。間を縫うようにして二階に逃げようとするも、そこで娘達を先に行かせた母が捕まってしまいました。
二人は母に行けと指示され、嫌がった妹を姉が抱えて二階へ。二階に逃げ込んだ姉妹ですが、そこに祖父から襲われている母をスルーした祖母が襲来。姉は妹を子供部屋へと押し込んで時間を稼ぐも……結果は、廊下で扉に蓋をするように果てていたそうです。
ドアの頑丈さを知らなかったのか、動転していたのか。一緒に逃げ込めば助かったのにと思わないでもありませんが、妹を守った姉の愛は、それでも尊いものです。
それからは、姉が最後に言いつけた助けが来るまでお部屋で待っていること、という言いつけを守ってカーテンに隠れていたそうですが、僕らが庭でワイワイやり始めたのに反応して、助けを呼びに廊下へ出て今に至ります。
どうしてそこで出て来たのか、とは言いません。怯える子共が助けようとしていると思しき大人の声を聞いたら、出て行きたくもなるでしょう。外を遠巻きに囲むマスコミの騒音ではなく、踏み入ろうとしている僕たちの声に縋るのは自然だと思えます。
外の声に惹き付けられて、祖母が廊下の出口へ向かっていたのは単なる幸運。そして、姉が祖母によって再起できぬほど貪られていたのも幸運……。
「でも、生きていることが幸運なんでしょうか……」
ただ、僕にはそれが幸運なのか分かりませんでした。
ぴたり、と僕を挟んで持論を展開していたお二方が黙るのが分かります。それでも、荒れた精神状態だったからでしょうか。普段なら逡巡して何も言えなくなりそうな物ですが、僕の唇は思ったままのことを吐き出してしまいます。
「あの子は本当に幸運だったんでしょうか……あんな状態で、あんなことになって……」
思わず口をついた言葉、というのは素直な偽りない感想だと言います。実際、僕も酷いことを言っていると思いますが、あれは、あれはあまりにも……。
「死んで何になるんですか」
「はい?」
振り返ると、そこには真顔の先輩がいました。いえ、真顔というよりも、心底不思議そうな物を見るような、心の底から理解できない何かを見るような目で僕を見ていました。
「後輩はあれですか、敬虔なカソリックだったりしますか? 或いは仏教徒だったり、なにがしか死後の世界を強く確信する宗教を信仰していますか?」
不思議そうな問い掛けに僕は否定の言葉を返しました。家は神道の家ですから、先祖が幽冥にて見守っておられる教えられてきましたけれど、基本的に今の価値観に見合ったゆるい無宗教、というより無関心です。
つまり、幽霊は居るか分からないけど怖いし、死ぬのも怖いからふわっと死後の世界を想像するのは避ける現代っ子の典型と言えましょう。
「死んで何があると思いますか? 私は、何も無いと思っています」
ウイスキーを大きく一口煽って、先輩はアルコール混じりの呼気と共に持論を吐き出しました。
「所詮、人の自我というのは薄っぺらい頭蓋の内側で、脳細胞が演算している化学現象に過ぎません。地獄も天国も、この内側にへばり付いている電位差の残り滓です」
「出たよSFオタ的発想……お前変な映画見てるだけじゃなくて、んな所まで拗らせたのか?」
班長が揶揄するのを無視して、先輩はもう一口でグラスを空けました。
「いいですか後輩、死ねば何もありません。自我は霧散し、知覚は失せ、他者の自我の片隅にへばり付く電気信号の一つに成り果てます。それに価値を見出して死んでいく人間も居るでしょうが、結局は“自分が安心して死ねるか”に尽きるのです」
宗教もそれによって発展してきたのですよ、と一部の人から凄まじい反論を受けそうなことを宣って、先輩はグラスをバーテンダーさんに押し出しました。そして、お代わりを受け取ると再び大きく一口。
「天に神はあらじ。ただ虚空だけが存在して、私達の自我は生きている脳細胞の間にだけ存在する……生きているから贅沢を言えるんです」
こつりと額に人差し指が添えられました。先輩の左手は親指と人差し指だけを伸ばす、銃の形を模しています。そして、機構を再現するように親指が落ちました。
「これで終わり、後は何も考えられなくなって消えるだけ。さて、これでまだ死んでいる方が幸せですか?」
こちらを覗き込む瞳は凪いでいますが……何というか、淀みが渦巻いているように思いました。今までのそれと違い、深く深く沈んでいた何かが浮かび上がってくるような…………。
「悪い絡み方してんじゃねぇよ後輩。別に深いこと考えて言った訳でもあるまいに」
「うぐっ!?」
いつの間にやら先輩の背後に回った班長が、その細い首に腕を回したではありませんか。そして、慣れた感覚で力を込め……小さな頭から力が失せました。
「すまんなービギナー。こいつ、こう見えて結構日々気ぃ張って生きてんだわ。パラノイア一歩手前のビビりでな、死ぬのが怖すぎるのさ」
からから笑う班長と、目の前で人間一人が絞め落とされたのに驚きもしない店長。何でしょう、話の内容も合わせてパニクっている僕がおかしいのでしょうか。
「だから、死を肯定するような言葉にゃえらく短気になりやがる。普段は抑えるが、酒が入るとどうにもな」
「死ぬのが怖い……ですか。なら、どうしてこんな仕事を」
「まーシンプルで分かりやすい問だわな。じゃあビギナー、お前は何で志願した?」
班長はオチた先輩の頭を優しくカウンターに横たえると、飲みかけのウイスキーを取り上げて残りを一息に飲み干しました。氷も殆ど溶けていないのに、頬が上気することも無く、鋭い美貌はいつものまま。本当にこの人も大概ですよね。
「僕は……家の事情ですよ。したくてした訳じゃなくて……」
「あー、この界隈に一人は血族を置いておきたいと。成る程成る程」
班長は超速で色々察してくれました。まぁ、僕の履歴書に目を通し、入局試験時に受けた身辺調査――業務が業務だけに皇宮警備隊なみにきついそうです――結果も知っているでしょうから、そういった血族の一員だと知っていたのでしょう。
「何というかね。最前線の方が弾は当たりづらいのさ」
「……と、言いますと?」
班長は、今は何も収まっていないジャケットの左脇を叩きました。
「覚えてるか? 最初に病院で非再起処置をした時の話」
忘れる筈が無いでしょう。病死した老婆に非再起処置を施し、それを見学した最初の現場。あの冷たい処置室の空気も食毒液の匂いも、そして与えられたビギナーというあだ名も強くこびり付いています。何をどうすれば、あれを忘れられるのでしょうか。
「そん時話しただろ。この狂った世界でこれほど恵まれた職業は無いと」
確かにそんな話を聞きました。死体が起き上がるなんて特大におかしな世界で、執行官という職業は恵まれた物だという持論を。
そして、それに続く狂った世界で健常者のフリをするのなら、僕自身が狂人だという指摘も。
「死体を壊しても、感染者を処理しても私らは罪に問われないし、その手段を国が金払って与えてくれてる。この国で銃器を保持できる人間がどの程度居ると思ってる?」
それは、殆ど居ないのでしょう。銃器の保持には面倒な手続きと許可が必要で、その上に携行可能なサイドアームはほぼ完全に所有が禁止されているような状態です。その縛りは強く、警察官であっても自宅に持ち帰ることはできず、僕らも仕事以外で局外に持ち出すのは御法度。
ただし、絶対に手にできない一般市民と比べれば、大きく差があるでしょう。
「パンデミックに備えて官舎の警備室には火器が備えてあるし、仕事中なら警察官と違って贅沢にも予備実包まで持って動ける優遇ぶりで、各事務局や出張所の備蓄弾薬はともすりゃ自衛隊の駐屯地並だ。警察官じゃよっぽど切羽詰まらないと発砲許可が下りない中、俺達は簡単な問答と強制執行! の一言で済む……さて、一番恵まれてるのは誰だ?」
言われてみれば、どうなのでしょうか。ただ、何かあった時、一番生き残る可能性が高いと言えば高いかも知れません。
ただ、僕らはその“何かあった時”を起こさないために働いているのだから、前提が破綻しているようにも思えましたが……。
「いいかビギナー、何か起こさないために自分がいるんじゃないかって面をしているが」
そして、そんな考えはあっさりと見透かされていました。多分、これが彼女の言う自称健常者な思考だからでしょうか。でも、僕は間違って、間違ってなどいないと思います。
「事故は起こるもんさ。どっかの機関車も声高らかに歌ってんだろ? 今は、辛うじて起こっていないだけで、人が想像しうるミスはどっかで必ず起こるのさ。そして、それが破滅的でないと誰が言える?」
にんまり笑う班長の口は、まるで三日月のように裂けて……酷く不気味でした。
それに、言葉に何かが滲んでいるのです。彼女の言う必ず起こるミスを、まるで愉しんで、待ち望んでいるような何かが……。
「おっと、悪いビギナー、ちっとスマホが……」
「あ、はい、どうぞ」
班長がカウンターに置いていた携帯が震えました。役付きは私用の携帯にも事務局のコールセンターやHQから電話が飛ぶようになっている、と以前愚痴混じりに聞いた覚えがありました。
「E-35だ。激務明けの酒盛り時に何の用だ? ……あ? ああ、マジか。そりゃ大変だ」
耳に引っかけたインカムで通話を取った班長は、言葉尻では大変だと言いながらもどうでも良さそうに返事をし、自分のカクテルを飲み干しました。そして、適当な返事と共にジャケットを羽織ると、懐から長財布を取り出します。この人、小物のセンスが一々男性っぽいのは何なんでしょうか。
「ああ、分かった、直ぐ出頭する……メンティは帰らせていいだろ? ん、了解した」
財布から諭吉さんを二人取り出すと、無造作にカウンターにおいて班長は通話を終えました。
「すまんビギナー、緊急案件だ。つっても、荒事でも言うほどの緊急でもない。お前は帰るなり呑み続けるなり好きにしろ」
「え? あ、はい」
「ここは奢りだ。まだ暫く呑めるだけあるだろ? マスター」
太っ腹な台詞に初老のマスターは静かに頷き、恭しく礼をして二枚の万札をレジへと収めました。
そして班長は、オちてカウンターに安置されていた先輩を軽く横抱きにして――お姫様抱っことも――出口へと向かいます。
「ま、ゆっくり考えろ。執行官で居る意味や、仕事をする意味、気が向いたらこの世界で生きる価値がどうとかもいいかもな。コイツみたく、色々固まりきってるより、まだ方向の修正が利くお前のが色々恵まれてるぜ。じゃ、私達は時間外労働としゃれ込むから、深酒しないようにな」
当然の様にドアを開けるマスターに見送られ、先輩は立ち去ろうとしました。僕は何か言わねばと思い腰を上げるも……結局、何と返せば良いのか分かりませんでした。
「あの、何があったんですか?」
何とかひねり出せたのは、そんな当たり障りの無い質問ばかり。僕が聞くべきは、主張するべきはそんなことではないはずなのに。
「ニアパンデミックだ」
「……え!?」
「家じゃねぇよ。アメリカだ、安心しろ。じゃあな、ビギナー。いい夜を」
何重もの意味で心が落ち着かなくなる言葉だけを残し、ドアは閉じられてしまいました。酷く虚ろな音を立てて。
「……何かご用意いたしましょうか?」
マスターの気遣いに答えられたのは、暫く経ってからのことでした…………。
暫くお待たせして申し訳ありません。次はまた、あまり間を開けずにやれたらいいのですが、如何せん豆腐メンタル故日々の業務に引っ張られ余力が。
10月末の宅建に向けて勉強もしておりますので、暫しごゆるりとお待ちいただけたらと思います。




