一生になる刹那
どうしてこんなことになってしまったのだろう。冬花さんの唇が自分の首筋に触れるのを他人事のように感じながら、私は声に出さず繰り返す。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
冬花さん――浅見冬花さんは、旧姓、三島冬花、私の大学時代の先輩だ。長くてツヤツヤの黒髪。透き通るように色白の肌。きゅっとつり上がった気の強そうな目に、通った鼻筋。まさに美人とはこういう人のことを言うのだと、見た瞬間に思い知らされた。
「あなたが、佐久間はるちゃん? 初めまして。サークル長の三島です」
そう言った彼女は声さえも可憐で、田舎から出てきて、高校の時もやっていたからとなんとなく演劇サークルに入った私の小さな自尊心は、完全に粉砕された。
地元では可愛いと言われる方だった。演技もうまいと言われていた。ヒロインをやったこともある。しかし、冬花さんという圧倒的な存在の前で、私はただの、田舎の小娘でしかなかった。一瞬でそれを思い知らされるほど、彼女は絶対的だった。
今でも覚えている。冬花さんの卒業公演。演目は「ハムレット」だった。私は端役で、もはや自分が何をしていたかもよく覚えていない。ただ鮮明に焼き付いて離れないのは、冬花さんの狂いながら歌い沈んでいくオフィーリアだった。鬼気迫る、という言葉では言い尽くせないその姿は、私をぞっとさせた。こんな風に愛されたら、ハムレットだってのんきに「生きるべきか死ぬべきか」なんて言ってないで、すぐさま一緒に死ぬはずだ。そう思わせるような演技だった。
そんな冬花さんは、なぜか私のことをサークルに入った当初からとても気に入ってくれ、よく遊びに連れて行ってくれた。真っ昼間のお酒も、夜中にバーの隅で舐めるカクテルの美味しさも、全部冬花さんに教わった。オール明けのいっそ清々しい朝日も、なぜか食べられてしまう吉野家の朝定食も。
「ねえはるちゃん、このまま私と一緒に、どっか行っちゃわない? 関西とか、北海道とか。あ、いっそイタリアとかロシアとかでもいいなぁ。逃げちゃおうよ、一緒に」
冬花さんは深酒をして酔っ払うと、私の肩を抱いて、耳元でよくそんなことを言った。私はすんでのところで「はい」と動こうとする唇をとどめ、冬花さんったらまた酔っ払って、直秋さんが心配しますよ、と優等生の答えを返していた。そのたびに冬花さんは、つまんない、はるちゃんつまんない、私ははるちゃんが大好きなのに、はるちゃんはわかってくれない、と騒いだ。その声は、未だに思い出すと私の胸の奥をぐちゃぐちゃにかき乱す。叫び出しそうになる。じゃあなんで直秋さんなんかと付き合うのよ、と。
美しい冬花さんには、直秋さんという美しい恋人がいた。例の卒業公演でも、ハムレットを演じたのは彼だった。二人は私が大学に入学した頃にはもう同棲しており、彼女を家まで送るたびに、直秋さんが、佐久間さん、フユがいつもごめんね、と言いながら家の中へ冬花さんを連れ去るのを、胸を焦がしながら何度も見送った。
最初から、わかっていた。私は冬花さんに出会った瞬間、恋をしたのだ。高校生の頃にいた、とりあえず「彼氏」というアクセサリーが欲しいだけの――無論、相手も「ちょっと可愛い彼女」というアクセサリーが欲しいだけだ――適当な付き合いではしたこともない想いを、体ごと焼いてしまいそうな嫉妬を、私は冬花さんに教えられた。相手はどんなに美しくても女の人なのだ、と何度目をそらそうとしても、その気持ちは私を乱暴に掴んで揺さぶり続けた。だから、だからこそ、簡単に私のことを好きなんて言わないで欲しかった。そんなことをされたら、いつか私の右手が、あなたを掴んで、唇を奪ってしまう。そして吐き捨てるのだ。あなたの言う好きは、こういう好きじゃないでしょう、と。そうなったらもう、おしまいだ。
自分の中に渦巻く気持ちを必死に押し隠して三年ほど過ごした。私が入学した当時四年生だった冬花さんは、その年に卒業して就職したが、相変わらず休みの日には私を遊びに誘ってくれた。嬉しかった。冬花さんがそんな風に、就職してからも遊ぶ後輩は私一人だった。そんな風になって二年目。とうとうその日はやってきた。
「あのねはるちゃん、私、直秋と結婚するの。結婚式、出てくれるわよね?」
それは当然の決着だった。大学二年生の頃から付き合って、三年生から同棲して、お互いに就職して二年。そこしかないだろうというタイミングで、冬花さんは直秋さんの妻になった。
それでも、私の中で暴れる冬花さんへの想いは消えてくれなかった。悔しかった。あんなに私のこと好きって言ったくせに、結局結婚して、誰かのものになって、一人で帰る場所を手に入れちゃうんじゃない。妬ましかった。私のほうがずっとずっと、冬花さんのことを好きだという自信がある。大学時代、直秋さんがこっそり浮気をしていたことも、私は知っていた。それなのになぜ、男というだけで、ただそれだけで、あなたみたいな人が冬花さんの帰る場所になれるの?
結婚式の冬花さんは、最高に美しかった。銀の糸で刺繍のなされた、豪奢な白いドレス、それに映える黒髪、彼女の顔立ちに合わせた、優しいメイク。連れ去ってしまいたいぐらいだった。式場のドアを蹴破って、その結婚待った、と叫んで、彼女の手を取って逃げてしまいたいぐらいに。関西でも、北海道でも、イタリアでも、ロシアでもなんでもよかった。彼女が私のものになるなら、なんでも。しかしそれは、彼女が私以外の人のものになるための儀式であり、この三年、自制心の塊になって生きてきた私には何一つ、できないことだった。
「あの……冬花さん、おめでとうございます。すっごくきれいです。幸せになって……くださいね」
それ以上言うと涙が出てしまいそうだったので、それだけ挨拶した。彼女は私の両手を握って、ありがとう、と言った。冬花さんの手はいつもどおり、冷たかった。
「はるちゃん、ありがとね。あなたにきれいって言ってもらえるのが、一番嬉しいわ。幸せになるね」
そう言っていたのに。私はまた繰り返す。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
冬花さんの結婚を機に、短く切ってしまった髪を、冬花さんの冷たい手が撫でる。そのまま頭を押さえられて、唇が重なる。舌が絡まり、私は彼女の細い腰に腕を回して、どうにか流されて溺れないようにする。唇が離れると、銀色の糸がつう、と二人の唇を一瞬繋いで切れた。
冬花さんが結婚してから、私は冬花さんの誘いを断るようになった。もう忘れなければならないと思った。冬花さんはもう、直秋さんの妻なのだ。私のものにはならないし、私が手出しをしていい人でもない。それに、妻がたびたび大学の後輩と遊び歩いているというのも外聞が良くないだろうと、私なりに気を使ってのことでもあった。
それからほどなくして、私にも彼氏ができた。夏樹は一つ年下の男の子で、ただ、一年浪人していたので学年は彼のほうが二つ下だった。優しくてのん気で、私みたいに荒れたところがなくて、好きだった。その気持ちは冬花さんを思う気持ちには遠く及ばなかったけれど、少なくとも今まで付き合ってきた誰よりも気に入ったので、告白されたのを機に、付き合うことにした。その時、私は馬鹿正直に、ものすごく好きな人がいて、でももう結婚していて、それでも忘れられない、その人よりあなたを好きになることは、すごく難しい、というような話をした。すると、夏樹は少し寂しそうに笑ったあと、それでもかまわない、と言った。
「多分僕は、そういうところも含めてはる先輩を好きになったんだと思いますし……ほら、言うじゃないですか。女の人は、自分の一番好きな男より、自分を一番好きな男と一緒になった方がうまくいくって」
泣いてしまった。夏樹の優しさに。焦げ付いて取れなくなってしまった、自分の冬花さんへの想いに。何もかもがないまぜになって、ぐちゃぐちゃになって私は声を上げて泣いた。夏樹は自分のベッドで、何もせずに私が泣き疲れて眠ってしまうまでそばにいてくれた。朝目が覚めて、自分が服を来ていて、夏樹が自分を抱きしめたままだと気づいた時、私はこの人を裏切れないと思った。一番に好きになることはできない。でも、この人に誠実さに向き合わなければならないと思った。報いなければならないと思った。せめて、一番大事にしなければいけないと思った。しかし、そんな決意は、一番強い想いの前ではまるで、塵芥のように吹き飛んでしまう。
「ねえ、はるちゃん。最近全然遊んでくれなくなったの、なんで? 私はるちゃんに会いたいよ。お願い。今度の土日、泊まりに来てよ。直秋出張でいなくてつまんないの。ねえ、だめ?」
そんな電話をもらって、断れるわけがなかった。夏樹には、大学時代のサークルの先輩が、旦那がいなくて暇だから遊ぼうって言ってきた、と、本当だけれど嘘の話をした。彼はそれを聞いて、なぜかホッとしたような顔になり、久しぶりに遊んでおいでよ、と言った。
「最近はるちゃん、僕とばっかり一緒にいるから。友達とか先輩とか、全部僕のために切っちゃったんじゃないかって心配してたんだ」
私はどうやら、極端な人間であるらしい。諦めなければ、夏樹を大事にしなければと思った途端、夏樹以外と一緒にいるのを忘れてしまうような、そんな。
かくして、私は冬花さんと直秋さんの新居であるマンションに遊びに行った。冬花さんと会うのは実に、結婚式以来だった。
玄関を開けるなり、冬花さんは私に抱きついて、はるちゃんだあ、と嬉しそうに言った。
「さあ、入って入って。もう私ずーっとはるちゃんに会いたかったんだから! 今日ははるちゃんが遊びに来るから、お昼ごはんも頑張って作っちゃった。私のポテトグラタン、はるちゃん、好きでしょ?」
大学時代、冬花さんの家に遊びに行くと――それはたいてい直秋さんが不在の日だった――直秋の田舎からじゃがいもばっかり送ってくるの、と彼女が文句を言いながら作ってくれたメニューだった。ホワイトソースから手作りする冬花さんのポテトグラタンはびっくりするほど優しい味で、大好きだった。私は冬花さんの家に行くたび、ポテトグラタンをねだった。冬花さんがそんな小さなことを覚えていたことに、私は嬉しくなり、そして呼吸ができなくなるほど苦しくなった。夏樹は好きだ。でももし、夏樹が私の好物の話を覚えていたとして、こんな気持ちにはならない。昔から今まで、私が恋をしたのは冬花さん一人なのだと、痛いほど思い知らされた。
私たちはポテトグラタンを食べ、ついでに私の持ち込んだワインを昼から飲んで、ほろ酔いのまま居間のソファに向かった。来る前に冬花さんが、なんか映画でも借りてきて、胸焼けするぐらい甘ったるいイタリアの恋愛映画、とリクエストしてきていたので、それを見る予定になっていた。私がDVDをプレイヤーにセットするために立ち上がろうとすると、冬花さんが急に私の腕を引っ張った。とっさのことに、私は対処できずに、冬花さんに覆いかぶさるようにしてソファへ倒れ込んだ。その時だ。冬花さんの細い腕が、そのまま私の背中へ回された。耳たぶに、熱い息がかかる。
「ねえ、はるちゃん。やっぱり、このまま私と一緒に、どっか行っちゃおうよ。全部捨てて。大阪でも、札幌でも」
「……フィレンツェでも、モスクワでもですか」
真面目に答えた私に、冬花さんは笑って、下から足をかけてきた。世界が周り、今度は私が冬花さんに組み敷かれる形になる。
「女同士でも駆け落ちってことになるのかなぁ。でも私、はるちゃんなら形なんてなんでもいいわ。ねえ、はるちゃん、だめ?」
心臓がうるさかった。これはいつもの冗談だ、という声がどこかからした。夏樹の顔が脳裏をかすめた。直秋さんのことは思い出さなかった。それらすべてを、まるであの時、私の自尊心を粉々に壊したみたいに、冬花さんの声が、侵食し、壊していく。
「わかってるわ。あの時自分に素直になれなくて、はるちゃんが女の子だってことも怖くて、結局直秋と結婚する道に逃げた私が、今更何を言ったって遅いって。私にこの生活を捨てる勇気が無いことも、はるちゃんに私以外に大事なものがあるのも、全部わかってるの。でも、でもね……私、はるちゃんのこと忘れられなかった。結婚してから、何度誘ってもはるちゃんが遊んでくれなくて、すごくすごく寂しかった。寂しかったから……後悔したの」
そう言いながら、冬花さんの冷たい手が、私のブラウスのボタンを外す。いや、という抵抗の言葉は、もはや扇情のエッセンスにしかならない。
「後悔したのよ、人生で初めて。本当の気持ち……多分、私を手頃な結婚相手程度にしか思ってない直秋のことより何倍も、はるちゃんのことが好きだって、言わなかったこと。バカみたいでしょ? ごめんねはるちゃん、私、ずっとあなたとこうしたかったの」
私があなたを捕まえて、口付ける前に――彼女が私を捕まえて、口付けた。その間も、冷たい手の侵攻は止まらない。ブラウスのボタンはすべて外され、ブラのホックまでがいつのまにか器用に外されていた。そのまま、冬花さんは私の胸に触れた。その時、私の唇から、聞いたことのない甘い声が漏れた。
「はる……ちゃん?」
手遅れだ。もう手遅れだ。すべてがどこかへ遠のいていく。どこへも行かなくても、私はもう、戻れないところへ来てしまった。頬を伝う涙は汚れていて、誰にも見せられないその顔は、冬花さんのためだけのものだった。
「冬花さん……私も、一緒でした……一目惚れで……私、今までの人生の中で……恋をしたのは、冬花さんだけです。でも、でもこんなの駄目です。私たちは、私たちはもう……」
その瞬間だった。冬花さんが、今まで見たこともないほど妖艶に、傲岸に、怖気がふるうほどの、凄絶な顔で微笑んだのは。思い出したのは、あの時のオフィーリアだった。
「じゃあ、今日だけ、戻らなくていいじゃない。彼氏なんて、今日は忘れちゃってよ。その他のことも全部忘れて、私だけ見てて。私だけ感じてて。私も、直秋のことも、その他のことも、今日は全部忘れてはるちゃんだけ見てる。明日はるちゃんが帰っちゃうまで、私たちは二人きりだよ。知ってる? 女って、一番大事な刹那を一生にできちゃうんだよ。知らないなら、今日教えてあげる。これから一生、誰と一緒になっても、どこで生きてても、はるちゃんは一生私のもので……私は一生はるちゃんのものだよ」
その言葉は麻薬のように私を耳から犯していく。脳髄から麻痺していくような感覚。もう、夏樹の顔は思い出さなかった。ただ、目の前の美しい人を、一番愛した人を、そしてこれからも、何があろうと一番大好きな人を、貪ることしか考えられなくなった。
何度も何度も、唇を重ねるたびに、全てがどこかへ流れていく。冬花さんの唇が、冷たい指先が、体の何処かに触れるたびに、体中が熱くなっていく。そして私自身も、冬花さんが普通の奥さんらしく身につけていたエプロンを引き剥がし、柔らかなセーターの下へ指を滑らせた。フレアのスカートのファスナーをおろし、引きずり落とす。私のジーンズも、自分で脱いだか脱がされたか、いつの間にか床に落ちていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。その疑問さえもう浮かばない。私たちはただ、その刹那、お互いの中へ深く深く、落ちていった。長く甘く、一生になる刹那へ。
イメージ映像はまさみちゃんとふみちゃん。
まさかのマクドで一気書きした作品です。百合勢の方から感想いただけると嬉しいです。