夏色の日々
サークルの企画作品です、文章は難しい
オレンジ色に染まったいつもの商店街。先を歩いていく彼女の後ろを赤とんぼが追いかける。この夏期講習からの帰り道だけが彼女と一緒に居られる時間だった。それももう終わりだ。最終日も何もなく終わり、彼女との最後の時間をかみしめようと思った。でも彼女は、電車で帰る道のりを歩いて帰ろうと言った。
僕も彼女も何も言わず無言のまま。いつもの帰り道ならもっと話しているし、でも何か話すような雰囲気でもない。彼女の後ろ姿を見つめながら僕は何も言えない自分を悔やむ。もう彼女の家の近くまで来てしまった。いつもよりは遅い時間、なのに彼女の家に明かりは点いていない。彼女は急に立ち止まった。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
こっちを見ることもなくそう呟く。僕は別に気にしてないと伝えても彼女は反応しない。そのままポケットから家の鍵を取り出して彼女は中に入ろうとする。無意識に引き留めようとして僕は彼女の制服の裾をつかんでいた。
「だめだよ。もう遅いし、親御さんも心配しちゃうでしょ」
声が震えている彼女は初めてこっちを振り返った。薄暗くなった住宅街、それでも僕は彼女の目に浮かぶ涙に気付いてしまった。ここで抱き寄せる勇気があれば僕は僕じゃなかっただろう。どうしようもなく僕は立ち尽くすだけだった。
「私はもうこんなところにいたくないよ」
ゆっくりと彼女は制服のスカートを持ち上げた。一瞬、驚いて目をそらした。でも何か気になって視線を戻す。普段なら見えない場所、真っ白な太腿の上に幾つもの火傷痕と紫色になった痣があった。
「なんでこんな風になっちゃったのかな。昔は……っ…」
「あら~、お友達?それとも彼氏かしら?」
彼女が急に怯えはじめ小さく震えている。急な声に振り向くと派手な服を着たおばさんが立っていた。どうやら母親のようだ。僕を押しのけて彼女に近づく。
「帰ってくるの遅かったわね、私を避けているの?」
「ご、ごめんなさい。そういうわけじゃ…きゃっ」
母親は急に彼女を思いっきり叩いた。倒れこんだ彼女の元に駆け付けると口の中を切ったのか血が出ている。なんて声をかければいいか迷っていると、彼女は大丈夫大丈夫と取りつかれたかのように繰り返し呟いている。
「受験生でしょうが、何やってんの?それとも私たちに心配かけて反抗してるつもり?」
母親の怒りは収まらないようで座っている彼女を何度も踏みつけたり、蹴りつけたりしている。そのたびに彼女は耐えるように小さな悲鳴やうめき声だけを上げていた。止めようと立ち上がった時、彼女に手を捕まれた。
「やめて、すぐに収まるから。母さん、もうお仕事が」
「あら、もうこんな時間、家片づけておいてよ?帰ってきたら説教だから勝手に寝んな?」
「……はい」
母親はパタパタと足音を立てて歩いていく。その先に高級車が停まっていてそれに乗り込み去っていった。さっきまで静かだった鈴虫が一斉に鳴き始めた。そんな感傷に浸れる状況でもない。落ち着きを取り戻した彼女を連れて近くの公園に向かった。近くにあったベンチに並んで座る。家には遅くなるとメールも送った。
「見られたくないとこ見られちゃったかな。あはははは」
小さな公園に乾いた笑い声が響く。そんなウソ、小学生でもわかる。わかるけど…僕はこんな時に掛ける言葉を持ち合わせていない。いつから繋いでいただろう彼女の手をぎゅっと握りしめることしかできなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ。ずっとこれでやってきたんだもん」
その「大丈夫」が僕にとっては怖かった。今にも壊れそうな壁に自分で杭を打ち込んでいるような感じがした。どう考えても、いやどんな人に聞いたって助けてあげなきゃいけない状況なのに、なぜか僕にはどうしようもないと理解してしまった。
「君との時間は楽しかったよ、この時間が終わらなかった良いのにって」
僕も楽しかったです。そう言った。なんて自分が情けなくてみじめなんだろう、彼女はこんなにも強いのに。いや、弱いのかもしれない、でも強く見せようとしているのに。僕にとってやっぱり彼女は高嶺の花だった。
「でももうおしまい。夏期講習も終わったし、もう君とかかわることもないよね」
すっと立ち上がった彼女は切れた雲間から降りてくる月明かりに照らされた。その表情は何かを決意した表情でとてもりりしかった。夏の夜、もう夏まつりも花火大会も全部終わってしまった悲しげな時間。でも僕にとってこの公園が、今だけは、幻想的な空間になっていた。
「だから最後に言うね」
僕は息をのむ。なぜかこれが最後の最後だと思った。覚悟を決める。
「私は君のことが好きだったんだ。ううん、今も好きなのかもね。だから……」
だから、の続きは聞こえなかった。何を言ったのかもわからない。でも言い終わった彼女は笑っていた。きっと明るい言葉だったのだろう。何か言葉を返すこともなくただただ頷き、彼女を家まで送って帰路についた。帰り道、空に浮かんだ満月は一度も雲から出てくることはなかった。
まだ夏の暑さが残る8月の終わり。進学校でもあるうちの高校は他校よりも早く始業式があり、その日から授業が始まる。朝でもまだ日差しは強く額に浮かぶ汗をぬぐいながら登校したとき、校庭が騒がしかった。みんな上を向いている。つられて僕も校舎を見上げる。
そこには彼女がいた。
彼女は僕に気付いた。あの時のような明るい笑顔を浮かべ、紙飛行機をこっちに向かって飛ばした。すーっと飛んでくる紙飛行機に目が取られゆっくりと追う。それに合わせるようにして何かを決意したような表情で、彼女は両手を広げて空に飛んだ。周囲で起きたであろう悲鳴など耳に入らず、美しく放物線を描く彼女をずっと目で追った。ここで目をそらしてはいけないと思ったのだ。小さな紙飛行機が僕に当たった。羽に「だから」と書かれている。何も考えずに中を開く。あの時聞こえなかった言葉の続きが書かれていると直感した。
〈だから、君は生きていてね〉
ただ一言、そう書かれていた。もうあの時、彼女は死ぬことを決意していたのかもしれない。なんでと思わない。これが彼女にとっての最初で最後の反抗なんだ。でも……
「僕も今でも好きなんですから、生きていてくださいよ」
僕はそう呟いた。雲一つない空から夏の日差しが降り注ぎ、肌を焼く。何も聞こえなかったはずなのに、蝉の大合唱だけが耳にこびりつく。気が付けば膝から崩れて涙を流していた。
「今日も来ましたよ、確か好きだって言ってましたよね」
大きな向日葵の花を手に僕は病室を訪れた。もう何を言っても何をしても反応はしてくれない。でも彼女はここにいて、ここで生きている。
「大丈夫、僕はずっとあなたと一緒ですよ。僕だけが……」
彼女の家族はもういない、いや僕だけが君の家族だ。大丈夫、絶対に守って見せるから。
「仕事行ってくるね。また来るから」
あれから5年が経っていた。今年の夏も彼女の病室には毎日のように向日葵が飾られる。彼が去った後、陽を追いかけて俯いた向日葵を見つめていた彼女は、一筋の涙を流していた。 (終)