(2):谷を抜けた日
アルハは谷に広がる草原を歩いた。
谷は間道と草原と、それを取り囲む岩壁でできていて、一般の谷と比べると大きい。外界とは谷川を挟んでおり、小さく古い吊り橋で繋がっている。谷川には川淀と呼ばれるところがなく、常に急流。また、この谷は世間から隔絶された環境にあるため、ここに生息する動物は珍種なものが多い。しかし、もともと珍種な動物を普通の動物と思っているアルハには、そもそも外界の動物こそが珍種なのだが。
さきほど地平線の先という言葉を口にしたが、実は言うと、それは小高い場所でしか見ることが出来ないようになっている。というのは、これもさきほど述べたが、岩壁が邪魔になって視界が遮られているからだ。したがって今、アルハの目からは草原と岩壁と美空しか見ることが出来ない。ま、見えなくともさほど問題というわけではないが、あの壁の向こうに何があるのだろうと考えると、期待に胸が膨らむというものだ。
肌に涼しいくらいの風が、草原をさまよっている。そしてそれに揺られたアルハの衣の影が草原の上で踊っていた。アルハは自然の心地よさに身を任せながら、ただ眼前に聳え立つ岩壁へと歩いていた。
いろいろなものを感傷しているうちに、アルハはようやく岩壁の手前まで来ていた。岩壁は職人の手で削られたかのように白く滑らかな表面で、上下左右大きく広がっている。かつて一度だけ外界に出たときの記憶では、この岩壁にぶち当たったときは岩壁に沿って右に進めば間道に抜けられる。アルハは岩壁を高く見上げた後、すぐに右に曲がって歩き始めた。
視界の左側は岩壁、前方と右側が草原しか見えない。ふと空を見上げると、大きな雲が、さきほどのちぎれ雲を探してさまよっていた。
やがてアルハは、岩壁が綺麗に真っ二つに割れた大きな岩間を見つけた。岩間の中は、太陽の光が遮られていて少し暗く、岩によってできた自然の階段があった。自然の階段は段差が大きく、頂上まで登ると岩壁の屋根が見えそうなくらいである。侵食によってこのような道ができたのかは定かでないが、不思議なことにこの岩間の岩壁も表面が滑らかであった。――――これが間道である。
アルハは頂上を見上げた後、岩の階段を登り始めた。いくら無神経なアルハといえども、こればかりは慎重である。なにしろ、岩が滑りやすい故に足を滑らせて捻挫やその他怪我等を負ってしまい旅を中断するなどということにもなりかねないからだ。
太陽の光を受けない岩壁は、とても冷たかった。そして、前方からはビュービューと風が吹き込んできていた。アルハは全身を激しく揺られ、髪を避けながらゆっくりと岩を登っていった。やがて頂上の岩の上に立ち上がったとき、岩間の向こうが少しだけ開けた。まず眼下には階段が広がっており、左右には相変わらずの岩壁、そして前方には、この谷(世間では第三の谷と呼ばれている)と外側の谷(第二の谷)とを繋ぐ吊り橋があった。この吊り橋は、何百年もこの二つの谷を繋いでおり、もうボロボロで今にも谷底へ落ちてしまいそうである。だが、この吊り橋はもう殆ど使われておらず、今は自然の橋(もともと第二の谷と第三の谷は陸続き)を通って渡られることが多い。なぜなら、道幅こそ吊り橋と変わらないものの、吊り橋ほど揺れず、さらに頑丈であるからである。近代は石造りのアーチと呼ばれる洋風の橋がつくられてきているが、この谷の橋はまるで見捨てられたかのように数百年放ったらかしである。ま、こんな大自然の中にアーチだなんてものも逆に滑稽であろうが。
登るときは慎重だったアルハも、降りるときはピョンピョンとカエルみたいに飛び降りていった。そもそも彼は野生児なので、飛んだり跳ねたり、川を泳いだり木に登ったりするのが普通なのだ。やがてアルハは橋の前に立ち、オンボロ橋にため息をついた。
「ここは危ないから、あっちの道を通りましょう」
以前、母にこう言われたのを思い出した。ちょうどこの橋の前で、以前はここを右に曲がって自然の橋を渡ったような気がする。アルハは記憶がままに右に曲がり、記憶の中にぼんやり映る自然の橋の前に立った。
自然の橋は、オンボロ橋と同じくらいの道幅な上に手すりがなかった。昔、母に手を引かれ、震えながら通ったのを覚えている。今考えれば何故震えたのかさえ疑問だが、おそらくあのときは怖かったのであろう。谷底へ真っ逆さま、なんて本気で考えていたからだ。
アルハは目を細くして、脚をドカドカ挙げながら前へと進んだ。まったく、無神経というのはこういうやつのことを言うのである。
そんなこんなで、アルハはようやく第一の谷、谷と外界を結ぶ大きな吊り橋の前へと出た。そのころにはもう、あたりは夕焼けに包まれており、そしてほのかに暗くなっていた。
この橋の前に立ったとき、急にアルハの脳裏に不思議な光景が映し出された。大きな橋を、母と一緒に渡った光景。いやそれよりも、母の言った言葉が鮮明に思い出された。
「この橋の先にはね、あなたの知らない世界がたくさんあるのよ」
母の優しい声。対する無邪気な自分の声。
「え?ほんと? どんなどんな?」
このころの自分は谷の外の世界のことなど知りもしなかった。そもそも、谷の外に世界があるということさえも知らなかったのだ。
「たとえばね……」
高台から水を落とす滝、月明かりに照らされた湖、太陽の木漏れ日を撒き散らす森、人々でにぎわう港町、そして、浜から見られる大きな海。
「へぇ……凄いんだね!」
このときは単に凄いとしか思わなかった。でも今なら、あのときの言葉がいろんな意味を持っていたように思える。現に今、その言葉の意味のおかげで、旅をする理由にもなっている。また、母は自分以上にいろいろな場所を訪れたのだということがわかった。もしかすると、母も自分みたいに青少年時代に世界の神秘にあこがれて、いろんな世界を旅して周ったのかもしれない。
「あとは……そうね、小高い丘の上から見る、星月夜が綺麗だったわ」
母はこうも言った。そのときの顔は思い出にふけっていて、よほど綺麗だったのだと感じることが出来た。
アルハは橋を渡り始めた。遥か眼下には谷川が流れており、ところどころ岩に跳ねて水しぶきを撒き散らしていた。谷の入り口ともいえるこの橋はまるで頑丈で、アルハが通ったところで揺れもしないし、足場もトントンといった音が響いた。
やがて彼は、橋を抜け、果てしなく続く大地へと向き立った……
第一の谷、第二の谷……と、続き、全部で第五まであります。第五の谷を中心にして、第四、第三と同心円状に広がっており、それぞれを繋ぐのは一本の橋だけです。もちろん、山ではなく谷であるため、第五の谷が一番高い、とかそんなことはありません。
また、お察しのとおり、自然感傷が多いです。これからいろんなところを描写していこうと思いますので、応援よろしくお願いします