(1):旅立ちの日に
アルハはまた空を見上げた。ちぎれ雲がふわりと空を浮遊している。アルハは、これからいろんな空を見ていくんだと考えると、胸がわくわくした。
アルハは今日、この谷を発つ。十五年間、まるで家族のような存在だったこの谷と別れを告げ、旅に出るのだ。
彼はいったん古屋に戻り、出発の準備を始めた。準備といっても、いろいろと詰め込んだ麻袋を持ち、ナイフと短剣を身につけるだけだ。もちろん短剣は護身用で、決して果物を剥くためのものではない。
古屋の中は、蔓や枯れ草が天井まで生えそむいていて、いかにも数年間、何の手入れもされていなかったということが感じられる。右隅には木のベッドがあり、しかしその上には毛布が敷かれていなかった。何から何までの始末をし、しばらく帰郷することはないと語りかけているようだ。
中に何か入った麻袋を手にしたアルハは、戸の前に立ち、部屋に向き直った。無頓着で大雑把な彼でも、やはり数年間お世話になった古屋を離れるのは寂しいものである。彼は少し微笑み、どこかもの寂しげな表情で室内を見つめていた。
しかし数秒もすると、へへっと笑って古屋を出た。眺めは性に合わないのか、思い出を振り返る時間をつくらない。彼は古屋を出た後、草原の奥にある小さな花畑に向かった。
草原の緩やかな上り坂をのぼった先の、突き当りのところにそれはある。白い岩壁に囲まれた、蝶の舞う優しい場所だ。そこには数年前、嵐の去った翌日に立てた十字架がひっそりと空を向いている。その十字架の下には、アルハを女手一つで育てた母が眠っているのだ。
出発間際にその十字架のもとへ向かおうとするアルハの心には、今まで大切に自分を育ててくれた感謝の気持ちと、別れに対するたくさんの想いがあった。
そしてアルハは、きっと空にいる母への祈りと、もう一人で旅ができるほど立派に成長したということの報告を済ませてこそ、やっと旅ができるのだと信じていた。
やがて坂を上り終えたころ、色とりどりの花が広がる小さな円形の広場に出た。そこには紋白蝶が二匹、ひらひらと羽をなびかせながら遊んでいた。いつ見ても優しい場所で、そして静かな場所である。
その花畑の中心には、空に向かって立つ十字架があった。十字架の足元は土で固定し、倒れないようにされている。その固定した土の上には、花畑の花を三束だけちょこんと置いてあり、優しい光に包まれていた。
「やっぱこの場所は最高だよな、母さん」
アルハは十字架に向き直り、小さな微笑みを浮かべた。まるで本当にそこに母がいるかのような口調で語りかけていた。いや、彼からすれば、この優しい場所に確かに母はいるのだろう。
「母さん、覚えてる? 俺がまだ、やっと言葉を話せるようになったくらいのころ、母さんが俺にすっごく綺麗な海を見せてくれたこと」
生まれて初めて見た、すごく綺麗な海。あのときの感動と、あの一面の青い映像は今でも鮮明に覚えている。今でも大切な思い出の一つとなって、心の中に生き続けているのだ。
「俺はあのとき、初めて世界が美しいと思えたんだ。母さんはあの海の美しさをどう解釈したのかはわからないけど、俺はあの海が世界の魅力の一つなんだと思った。だから……」
アルハはそこで言葉を切った。そして、十字架に背を向けると、眼前に広がる大きな草原を眺めた。
「俺はもっともっとたくさん、美しいものを見たいと思ったんだ。そして、美しいものの数だけの解釈をしたい。だから、俺は今日、母さんに別れを言いにきた」
アルハはずっと微笑んでいた。その表情からは、悲しみを感じているわけでもなく、本当に前だけを向いている彼の凛々しい姿があった。
「母さん、俺、もう大丈夫だからな! 今までありがと! じゃ、またなっ!」
地平線の先にある世界を目指して、彼は歩き出した……。