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1-7


「忘れ物はない?」


雅人の妹である悠里が、大きく膨れ上がったカバンのファスナーを締めながらそう言った。


事件から一週間。

雅人は、特に後遺症などもなく退院することになった。

腹部の傷はまだ残っているが、生活に支障はない。

大学内での事件とあって、だいぶ世間の間で騒ぎになりはしたものの、外部の人間による犯行だったこともあり、一週間ほどで騒ぎは収まった。

しばらくは雅人が入院していた病院にもマスコミが来ていたらしい。

テレビで、雅人が入院している病院が何度か映ったのを見たことがある。

しかし、海外にも進出している人気絶頂のイケメン俳優が一般人の女性と結婚するという話題ですっかり忘れ去られた。

雅人としては忘れてもらえて嬉しい。

むしろ、触れてこないでほしかった。

間違って殺されかけたなど、恥ずかし過ぎて報道されるのが本当に嫌だった。

悠里の問いかけに答えもせず、雅人は窓の外をボーっと眺めている。

病院の外に並ぶ銀杏並木が黄色く紅葉していて、通りに黄色い絨毯が敷かれているように見える。

風に吹かれて舞い上がる木の葉を見ながら、雅人の頭の中では色んな思いが交差していた。

その時、雅人の背中に衝撃が走る。

それと同時に雅人の心の中に湧き上がってきたのは、まぎれもなく苛立ちだった。

これまで心穏やかだったのに、まるで誰かの感情が流れ込んできたかのようにイラついてくる。

どうしてだろう……。

叩かれた方を振り返ると、悠里が眉間に皺を寄せて腕組みしていた。


「人の話を聞いてくださいませんか?」

「あ、え?」


悠里が深いため息をつく。


「あのね、そんなことしてるから間違って殺されかけるのよ。 もうすこしシャキッとしてよ、シャキッと!!」


大きな声を出した悠里。

雅人は口に指を当てて声を抑えるように促した。

ここは六人部屋だ。

隣のベッドで本を読んでいた七十代のおじいさんが柔らかく笑う。


「元気でいい妹さんだねぇ」

「すいません、うるさくて……」


一瞬顔を赤らめた悠里はおじいさんに軽く会釈をすると雅人に向き直り、しかめ面をする。


「ごめんって。 考え事をしてたんだ」

「何をそんなに考えることがあるっていうのよ」


気の強い悠里にケンカで勝ったことはない。

一歳年下の妹にさえ勝てないのだから、今までケンカと言うものに勝ち目を感じる方が無理である。

雅人は叱られた子犬のように俯いて呟いた。


「ごめん……」

「もう、いいから。 行くよ」


悠里がカバンを背負って歩き出そうとしたのを雅人が止めた。


「ねぇ、悠里。 ひょっとして、ものすごくイライラしてる?」


悠里の眉間のしわがさらに濃くなる。


「してないように見える?」

「いえ、見えないです……」


何をわけのわからないことを、とでも言うようにフンッ、と鼻を鳴らすと、悠里は速足で歩きだした。

その後ろを雅人が小走りでついていく。


「ねぇ、悠里。 僕さ、最近何か変なんだ」

「お兄ちゃんは最初から変わってるわよ。 びっくりするくらいお人よしだし、人類最強に臆病だし、誰に似たのか分からないってお母さんがいつも言ってるじゃない」

「いや、そうじゃなくて……。 なんかこう、精神的におかしいんじゃないかって思うときがあるんだ」


雅人はポツリとつぶやくようにそう言って俯いた。

奇跡的に意識が戻ったあの日から、雅人の中で何かが起こっているのではないかと言う不安が巻き起こっていた。

基本的に心穏やかに過ごしている雅人の中で、急に怒りの感情が沸き起こったり、哀しくなったり、面倒くさくなったりする。

時には嬉しくなったりすることもあるのだが、自分からしても不自然なほどに感情の起伏が激しい。

雅人にも、なぜ嬉しいのか、哀しいのか、いつも理解できないでいる。

決まって誰かと触れ合った時に、自分のものではない感情が湧き上がる。

先ほど悠里に叩かれたときもそうだ。

なんのきっかけもなく急にイラッとしてしまった自分に驚き、怖くなった。

一番酷かったのは、いつも回診に来てくれていた越谷先生のとき。

越谷が雅人に触れた瞬間、胸の奥をきつく締め付けられるような感覚に陥り、呼吸が苦しくなって、最終的には胃の中のものをすべて吐き出してしまった。

その時に湧き上がってきた感情を一言で表すのなら、悲しみ。


「なんていうかこう、他の人の感情が自分に移って来るみたいで。 訳が分からないから困ってるんだよ。 悠里はどう思う?」


雅人からしたら真剣な悩みなのだ。

しかし、悠里はスマホをいじりながら颯爽と歩くだけである。

他人事にしているような口調で、雅人を見ることもなく適当に返事をするだけだった。


「無視してればいいのよ。 その内普通に戻るって」

「でもさぁ……」

「じゃあ何? これから精神科の診察でも受けるの?」

「せ、精神科……」


雅人の背中はどんどん小さくなっていく。

お土産にもらって食べきれなかったメロンを入れたビニール袋をギュッと抱きしめるようにして歩く雅人を、悠里は呆れた表情で振り返った。


「その話、越谷先生にはしたの?」

「ううん、まだ誰にもしてない」

「そう言うことはまず、主治医の先生に言うことでしょう? 私に言われたってどうしようもないわよ」


それはそうだけども、もう少し親身になって聞いてくれてもいいのではないかと思う。

雅人は頬を膨らませ、さらに腕の中のメロンをきつく抱きしめた。


「だって、本当に頭がおかしくなっちゃってたらどうするのさ……」

「それこそ本当に治療が必要でしょう? 先生に相談しな」

「……分かったよ」


何かとんでもないことを言われたらどうしよう。

雅人の思考はどんどん膨らんでいき、心は重くなるばかりだ。

とにかくあした、越谷に相談しよう。

そう誓った雅人だった。


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