2-5
雅人は、ツーツー、という音に何故か虚無感を感じながら、外来受付ロビーに戻る。
混雑はしているのだが、一つだけ席が残っていた。
周りを見たが、席を譲るべき人は見当たらない。
そこに座ろうと直前まで言ったところ、後ろから席払いが聞こえた。
ゆっくり振り返ると、そこにいたのは強面のお兄さん。
髪は金色。
ピアスが無限についており、ガムを噛みながら雅人を見下ろしてくる。
「俺さ、足怪我してんだよね」
それだけ言って、彼は雅人を一瞥する。
雅人は引きつった笑いを浮かべながら退く。
「骨折、とかですか……?」
「捻挫だよ」
ね、捻挫……。
自分は刺されて死にかけたんだと言いたかったが、そんなことを言う度胸は無い。
「大変でしたね……」
そう言うのが精いっぱいだった。
カウチにふんぞり返って座るその若者は、鋭い睨みを聞かせて雅人を見る。
雅人は何も言わず、逃げるようにしてエントランスの方に戻る。
「どうしよう、もうあっちに行けないよ……」
ショルダーバックのホルダーをギュッと握りしめる。
どうしようかと狼狽えていると、後ろから雅人の名前を呼ぶ声がした。
反射的に雅人は振り返ってすぐに頭を下げる。
「ごめんなさい、すぐどっかに行きますから……」
「何言ってるの?」
そこにいたのはさっきの怖いお兄さんではなく、サングラス姿の女性。
質素なポニーテールだが髪はさらさら。
肌の色は驚くほど白く、雪のようだ。
「雅人君よね? 私のこと、覚えてる?」
「へ?」
絶世の美女とでも言うような女性と接点があるわけがない。
声が裏返った雅人は顔を赤めて俯いた。
それを見た女性は柔らかく笑ってサングラスを取る。
その瞬間、雅人の脳裏に思い出が駆け巡った。
「昔のことだもんね。 忘れちゃったか」
「覚えて無いわけないじゃないですか……」
山手雪乃。
雅人の中学時代の同級生。
実は、雅人の初恋の女性だったりする。
中学時代もそれほど目立たない存在だった雅人に対し、雪乃はいつも話題の中心だった。
派手なわけではない。
バレンタインデーには男子全員に手作りのクッキーを作ってきてくれていた。
誰のクッキーが本命なのかと、男子の中ではよく議論になっていたものだ。
目の前に、憧れのマドンナがいる。
「本当? 嬉しいな」
雪乃が優しく微笑む。
昔と変わらず相変わらずの美人だ。
しかし、雰囲気が変わった。
昔はふわふわとしたかわいい子だったけれど、今では近寄りがたいほどの美人。
昔からの知り合いなのに、雅人は視線を合わせられなかった。
大きいブラウンの瞳、ハイヒールを履いた彼女の身長は雅人より大きい。
「ゆ、雪乃さん、今は何してるんですか……?」
彼女は柔らかく笑ったまま雅人に話しかける。
「私ね、芸能界に入ったの」
「芸能界ですか?」
雪乃が頷いた。
「中学の時からスカウトはあったの。 でも、高校を卒業するまでは普通の女の子でいたかったから。 今までは断ってたのよ」
「そうだったんですか」
「それでもね、高校時代は演劇部に入ってたの。 今は大学で劇団をやりながら少しずつ芸能のお仕事をこなしてるのよ」
「かっこいいですねぇ……」
まるで雲の上の人だ。
中学のころから雪乃と雅人の距離は変わらない。
むしろ、さらに広がったような気がする。
彼女が目指す先は、雅人にとって夢に見ることすらできないようなものだ。
「私、雅人君に会えて嬉しいの。 昔の友達とはあまり連絡を取ってなかったから。 それで、雅人君はどうして病院に?」
「あ、僕は……、ちょっと怪我をしちゃって」
まさか刺されたなんて言えない。
雪乃は気の毒そうな表情で雅人を見た。
「怪我か……。 気を付けないとね。 雅人君は昔からそそっかしかったから」
「雪乃さんは、どうしたんですか?」
「私は、ちょっと体調を崩しちゃって。 忙しかったから」
「そうですか……」
会話が続けられない自分を、雅人は心から呪った。
しかし、雪乃の方は大して気にしていない様子だ。
カバンからメモ用紙を取り出すと、ボールペンでサラサラと何かを書いて雅人に手渡す。
「これ、私の電話番号とメアド。 またゆっくりお話ししたいの。 メールしてね」
「え、これ……」
「それじゃ、ね」
雪乃は甘いにおいを振りまきながらサングラスをかけなおして歩いて行ってしまう。
その彼女に向かって、雅人は気の利いた一言も言えず、結局こういった。
「あ、あの、これ、本物ですか……」
それを聞いた雪乃は歩きながら振り返り、にっこり笑って手を振った。
なんてかわいい人なんだ……。
そう思いながら雅人はもらった番号をギュッと握りしめた。