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その日の夜、松伏雅人と悠里のアパートでは、悠里が料理の腕を振るっていた。
退院した時に軽くあしらったとはいえ、雅人が本気で落ち込んでいたことくらい悠里にも分かっている。
それなりに気をかけて、今日の晩御飯は手料理をしようと決めていた。
そんな悠里の心遣いをぶち壊したのが、雅人だった。
「うわーっ、おいしそうだね!!」
テーブルの上には、懐石料理が並んでいる。
刺身は小さなお皿にきれいに盛り付けられ、大葉や大根が刺身の美しさをより一層際立てている。
そのほかにも色鮮やかな食材が、きれいな食器に盛り付けられて並んでいる。
豚の角煮、ヒジキの煮物、キュウリの山葵漬けにハマグリの味噌汁。
湯気が上がる料理を目の前にして、雅人は顔を輝かせていた。
悠里は料理が上手いのだが、滅多に本気で料理をしようとしない。
いつも牛丼や豚丼など、簡単に済ませられるもので終わるのだ。
それでもおいしいのだが、ここまで手のかかった料理が出てくるとテンションが上がる。
「どうしたの、急にこんなに気合入れちゃって」
キッチンから歩いてきた悠里の表情は、とてもじゃないが楽しそうだとは言えない。
いつにもまして機嫌が悪そうだった。
乱暴に箸を押し付けると、再びキッチンに戻っていく。
箸を渡されたときに悠里の指が触れ、雅人の体に殴られたような衝撃が走った。
うめき声を上げる雅人を一瞥し、鼻を鳴らす悠里。
「ねぇ、兄ちゃん、何か悪いことした?」
「なんで」
ぶっきらぼうな返事が返って来る。
「ひょっとして、ものすごーく怒ってたり、するんじゃないのかなぁ……、って、思ったもんだからさ……」
「怒ってないから」
右手にノンアルコールカクテルを二つ、左手にグラスを持った悠里はドカッと椅子に座る。
顔に表情が無い。
これはかなりまずいのではないだろうか。
「本当に、怒ってない?」
「うるさいなぁ。 怒ってないから!!」
「じゃ、何か、嫌なことでもあったのかな……?」
機嫌を伺うように話す雅人を尻目に、悠里は持ってきたグラスを使う事なく缶に直接口をつけて一気に飲み干した。
「別に何もないです。 でも、あえて言うなら、せっかく人が心配してやったのに突然元気になった私の兄がへらへらしてる事が気に食わないくらいですかね」
「ごめんなさい……」
雅人は背もたれに背中を付けず、手を膝の上にのせてうなだれた。
「それで。 越谷先生にはなんて言われたの?」
もう一つのカクテルを空けた悠里は、グラスに半分注いで雅人に手渡す。
これは仲直りの印だった。
小さいころからの決まりごと。
ケンカは一時間以上引きずらないこと。
仲直りをするときは、自分の好きなものを半分、分けてあげること。
雅人の、亡くなった母が教えたことを、二人は今でもしっかり守っていた。
「気にするなって。 僕は、感情アレルギーなんだってさ」
「感情、アレルギー? 何それ」
「人の気持ちに、ちょっとだけ敏感なんだってさ」
悠里が怪訝な表情を浮かべた。
「まさかお兄ちゃん、それで納得して帰って来たんじゃないでしょうね?」
雅人はきょとんとした顔をしている。
これは駄目だ。
悠里はため息をついた。
「そんなに簡単に元気になれるようなことでいちいち落ち込まないでよ……」
雅人は人懐っこい笑顔を浮かべた。
それが悠里を余計にイラつかせる。
「でもさ、越谷先生って凄いよねぇ。 越谷先生が大丈夫だって言ってくれると、なんだか、本当に大丈夫な気がしてくるよね」
「まぁ、確かに越谷先生ってこの辺で一番評判はいいよね。 患者さんに優しいって」
悠里が刺身を食べながらそう言った。
「いつもにこにこ笑っててさ、すごく優秀だよねぇ。 何をやっても様になるんだもん。 僕もあんな風に完ぺきな人になりたいよ」
悠里がコップに三杯目を継ぎながら言葉を紡ぐ。
「完璧な人なんて、いないと思うけどね」
「いるんだよ、きっと。 越谷先生とかさ、祐ちゃんなんて、何やってもかっこいいしさ、大学の有名人だし、僕には手も届かないよ。 あんな風には絶対なれないな」
「どんなにかっこいい人でも、たくさん苦労はしてると思うよ。 本当に優しい人は苦労人だって、誰かが言ってたじゃない」
「誰が?」
「知らないわよ、そんなこと」
悠里に噛みつかれた雅人はしゅんとした。
なぜこんなに理不尽なことで一喝されなければならないのか……。
「いずれにしろ、お兄ちゃんには無理だろうね。 根性がないもん」
「そこまで言われなきゃいけないの……?」
「だったら何か一つでもいいから、本気でやれることを探しなよ」
「ぼくだって大学で一生懸命教職を……」
「何かやらなきゃいけないから何と無くやってるだけでしょう? そうじゃなくてさ、心から本気でやろうと思うことを見つけろって言ってるの」
「……なんだろう、ぼくが本気でできることって」
「だから、それを探せって言ってるんでしょ。 大学だってあと二年なんだから、卒業するまでに探せば?」
「悠里さ、どんどん母さんに似てきたよね」
悠里が眉を顰めた。
「どういう意味よ?」
「いや、いい意味だよ!? しっかりしてるからさ」
「しょうもない兄貴がいるとこうなるのよ」
そう言って悠里は、雅人の皿からマグロを取って口に入れた。
「あっ!! 僕の中トロ!!」
「早く食べないから取られるんですよー」
雅人は頬を膨らませる。
おいしそうに中トロを頬張る悠里を見ながら、雅人は考えを巡らせていた。
自分にしかできないこととはなんなのか。
本気でできることとはなんなのか。
悠里の言うとおり、卒業前までには何か見つけなければならないだろう。
そう思うと、とても気が重かった。




