歪み兎と手折られた百合
眠らなくても夢は見られる。空想と呼ぶのが正しいのかもしれないけれど。
野宮理利仔は精神異常者だった。少なくとも周囲はそう認識していた。
5歳の誕生日には青い犬をねだり、小学校の卒業式では級友の唇を「友の証」と称して噛み千切った。
中学では飼育小屋の兎を生きたまま埋め「生まれ変わったら、私を愛して頂戴ね」と微笑んだ。
変人、狂人。他人は彼女をそう呼び蔑んだ。本来なら精神病院に入れられるのが当然だが、地元の有力者である家の汚名回避を優先した彼女の両親は、ことごとくそれらの不祥事をもみ消した。そこに一人娘への愛はかけらもない。13歳の誕生日にボディーガードをつけたのも本当のところ、彼女が奇行に走った際に負傷者を出すことなく取り押さえるためだ。もっとも、その頃―兎の一件以降―には理利仔も周囲の目というものに頓着しはじめ、表面上は大人しくなっていたが。
とはいえ、それで周りの彼女の認識が容易に覆るわけもなく『野宮の娘には近づくべからず』が、彼女を知るものの不文律となっていたのは言うまでもない。
高校三年の春、孤立していた、それを変える努力もしなかった理利仔は、級友等の受験戦争による苛立ちを一身に受けることとなる。
それまでは家の威光で無視以上の迫害はなかったのだが、有名な私立の進学校という囲いの中で肥大した学生の様々な不満不安負の感情、それをどのように発散しようが教師に咎められることなどほとんどない。それが外に漏れない限り、彼らは不干渉だ。ゆえに理利仔へのいじめに歯止めがかけられることなどなかった。それをこの場で列挙することは避けるが、結果的に理利仔は引きこもりとなった。
部屋から出ず、家族すらもその顔を見せることはなく。布団にくるまりひたすら眠る、あるいは茫と宙を見上げる。その瞳はここでない世界を視ていた。それは、脳内空間―と称するには彼女の場合ソレが占める範囲が大きいが―とでもいいだろうか。それは5年前、理利仔が大人しくなった13歳の誕生日に見た夢が始まり。
♢
「おはよう、リリコ」
暖かい抱擁と少女の声で、理利仔は目覚める。
左右から覗く少女の首は鏡写しで、されど髪型だけが違っている。
短めのツインテールを揺らし、右の少女が理利仔を引っ張り起こす。その際に左の少女は、腰までの黒髪を揺らしながら目線を本棚へ。そう、理利仔は本棚の狭間に寝込んでいた。整然と並べられた書物は見たところ童話が多いように思う。というかここは何処だ、たしか自室で就寝したはずなのに。
す、と左の少女が指差した本は、『不思議の国のアリス』。
「おかえりリリコ、そういうべきなのかしら」
笑んだ姿は、艶。それに比べどこか子供っぽい調子で、右の少女は返す。
「叶姉さん、リリコは迷ったばかりだから、ただいまって感覚はまだ薄いんじゃないかな?」
「―――そうね、祈。私達の存在意義から推移してこの言葉が一番正しいと思ったのだけれど、時期尚早だったわ。リリコは未だ頁を開いたばかり、無垢なまま歪んだからこそアリスは世界を作り出せたのだもの」
「…姉さん、分かりづらい」
どこか芝居がかった口調の姉と、幼気な言動に反して冷静な妹。
「…片貝、叶」
「はい?」
「片貝…祈」
「ん?」
ふたりはそっくり同じ顔を、まったく違った笑みでこちらに向ける。―――現実ではありえないことだ。
「これは、夢ね」
嘆息する理利仔に、当然だと姉妹は笑った。
片貝叶は小学校の卒業式で、理利仔が唇を噛み切った相手だ。その傷は未だ口元に残っていて、以来「あの子を自分の半径3メートル以上に近づけたくない」と公言している。
双子の妹たる祈は、
「リリコって百合みたいだね」
「名前の響きもそうだけど、見た目も」
「白いし、細いし」
「知ってる?飛び降り自殺死体って、手折られた百合みたいなんだって」
「だから、リリコが死ぬときはきっと奇麗だね」
高校3年のクラスになってすぐの話だ。それから幾度となく、首だけ斬り落とされた百合の花を彼女は理利仔に貢ぐ。あるときは下駄箱、あるときは机の上に山と。ロッカーから白い花がこぼれ出たときは焦った。おかげでその日の体育に遅れ、校庭を余分に一周する羽目になった。
教室は息が詰まるから、と屋上に逃れたときに自分の革靴が、柵の前に並べてあった時は思わず拍手を送ったものである。徹底した無言の圧力は決して陰湿ではなく、優雅さ清楚さを感じさせる。
姉をキズモノにされた復讐か、と問うたことがある。それに彼女は
「受験ってストレス溜まるよね」と、こともなげに答えるにとどめたという。
野宮理利仔の被害者だった姉と、その妹且つ加害者の少女。それが今は自分と同じ空間にいる、裏のない笑顔で。
♢
それ以来理利仔は眠るたびに、この『優しい夢』に誘われた。
そこにいるのは片貝姉妹に限らず、理利仔を忌んだもの、相容れないと無視したもの、現実では目を合わせてもくれないような学友教師隣人たちが、彼女を愛し、慕ってくれていた。
自分には向けられえないと思っていた少女達のあまやかな日々に、自分も混ざっている。
それを空々しく寒々しく、理利仔は感じるのだ。其処で幸せだった分、目覚めた時の喪失感は大きい。
けれどそれだけ、其処に彼女が心許している証でもあり。
『かくして甘い夢は麻薬となり、白百合の現を蝕む』
パタリ、と閉じたのは奇麗なイラストの描かれた絵本。閉じたのは男で、この夢において唯一、理利仔の現実にはいない人物。そして、唯一思い通りにはいかない存在。
膝の上で本を広げていた手に重ねた彼のそれは、黒い革の手袋をし、内側の掌は包帯に覆われていた。
少女のよりも一回り大きなその手を外さず本から外し、その白い手の甲に口づける。
思わず振り払うと男は、いたずらっぽく笑った。
「あは、顔真っ赤だよ?」
「……剥製にしてやるわよ、バカウサギ」
こちらの吐いた毒も、へらりと笑ってかわす男は、まさに『兎』であった。
すらりとした矮躯にまとったダークスーツ、その腰の部分には丸い尾があったり、胸元のポケットには懐中時計が収まっていたり、なにより頭頂部には長い耳が…いわゆるウサミミがふぞくしているのだ。
ちなみに以前、きつくひぱっても抜けなかったのでコスプレの類でないことは検証済みだ。
「痛いよ、リリコ」と大の大人の男が涙ぐむさまは滑稽で、いつかもう一度してやりたい気もする、というのは余談。
「『不思議の国のアリス』か。リリコ、それ好きだねー」
落とした本を拾い上げて題目を読み上げる横顔は、どこか猫を思わせる。
常に細められた目といい、こちらを翻弄する言動といい、気に食わない。
「大体ここには私の許可がなければ入ってこられないはずよ?」
現在理利仔がいるのは、この『夢』をはじめて視たときに寝ていた、本棚の並ぶ部屋だ。
土蔵のようになっている此処は無数の本棚と、理利仔が用意した茶器の類があるばかり。
この部屋は理利仔がこの『夢』と現実を行き来する扉のような場所で、眠るとたいてい此処から『夢』は始まる。
最初こそ片貝姉妹やほかの友人達と遊びほうけていた理利仔だが、それにも飽きたのか本来のインドア派の性か、『夢』で過ごす時間の半数はここで本を読む。蔵されたそれらは理利仔が知るもの、知らぬもの、様々だ。そして題名だけ知っているような本は中身を開けば白紙ばかりで、妙なところでリアルだなと苦笑する。今しがた理利仔が読んでいた童話は幾度も繰り返し読んだせいか、色濃く文字も挿絵も描かれているように思った。
話がずれたが、要は此処に理利仔がいる場合はすなわち『一人になりたいとき』であり、『夢』の主人であり客人であり操り手である彼女が望むゆえに、他の住人達は近づけないのだ。
その例外が、目の前の兎に扮した男である。理利仔は「バカウサギ」と呼んでいて、本人も名乗らないので本名は不明だ。他の住人と違い彼は現実に該当する人物がおらず、そして理利仔のいわば神聖領域ともいえる此処に踏み込める、唯一の存在だ。他にも、たいていの住人は理利仔が望んだような言動のみをするのに対し、彼だけは理利仔に手綱を握らせない。ただ、他の住人と同じく理利仔を愛する気持ちは本物のようで
「その服、タソガレちゃんと買いに行ったんでしょ?似合っているね」
微笑んで少女の頭を撫でる、その手のあたたかさを理利仔は信じている。
「と、そろそろ噂のタソガレちゃんとの待ち合わせじゃないかい?」
懐中時計を胸元から取り出して時刻を確認する、その姿は執事のように決まっている。ウサミミさえなければ。
「…そうね。送ってくれる?Mr.(ミスター)」
「Yes,master!」
どこか嬉しそうに、黒服の男は少女をおもむろに抱きかかえ、飛び上がる。
本当に時々、理利仔がこの男を「バカウサギ」以外の愛称で呼ぶことがある。
決して名を明かさない彼の意思を知ってか知らずか、その紳士めいた格好から「Mr.」と呼んだのは、最初はいつだったか。
そうだ、彼女の下駄箱に画びょうが敷き詰められ、手が血だらけになった時だ。
痛みとショックで一瞬意識が朦朧とし、その頃はもう板についていた現実逃避―――『夢』へと転がり込んだ。
「リリコ!」
なぜか土蔵の書庫ではなく、だだひろい草原に出ていた。そこに立っていた彼は、理利仔の姿を見るなり血相を変えて走り寄ってきた。
「…これくらい、へいきよ。ほっといて」
つかまれた手を、いつものくせから跳ねのける。常ならそれを笑う彼も、今日ばかりは真顔で掴み直す。
「っ…放してよ!」
鋭く言い、今度はやや乱暴に振りほどいた、その目は渇いていた。
「これが、私への、罰ならば。受けるわ」
血だらけの手を自嘲の笑みを浮かべて見つめ、言い放つ。
「やっと、もらえた罰だもの」
掻き抱いた右手、それを胡乱に見ていた男は、しかし三度、その手を取った。
「それでも、ボクは君に、傷ついてほしくないんだよ」
そのままスーツのポケットから包帯やらガーゼを取り出して、器用に手当てしていく。それは手品のようにも、神聖な儀式のようにも思えた。
「君はボクらの主人で、ボクらは君の妄想だけれど。君が思いのままに泣いたり、笑ったりできるように、ここはあるんだよ」
現実で凍りついた君の心を、癒すために。
罰されない代わりに関心も得られない、君の孤独を埋めるために。
そう笑う彼の笑みは、手は、あたたかかった。
「…なんだ、泣けるんじゃないか」
己の頬に手をあてる。濡れている。目から、熱いものがぼろぼろとこぼれ出ていた。
知らなかったんだ。他人は、こんなにもあたたかいと。
それが、夢だとしても。
「……っ」
静かに嗚咽する。
気づけば彼女が座り込むのは下駄箱の前で、傷には包帯が巻かれていた。
♢
それ以来、理利仔は彼の多少トリッキーな言動も見過ごしているし、たまに飛び上がって空を散歩したり、目的地までひとっとび送ってもらうこともある。
「お待たせー」
「!リリィ!!」
こちらの声に振り向き、ちぎれんばかりに手を振る少女の名は、黄昏暁。
その名を体で表す見事な金髪は、緩い三つ編みとなっている。
いつもドレスめいた服を現実でも着る彼女はどこぞの名家の令嬢で、ついたあだ名が『赤の女王』だ。
その由来は夕焼け色の服を好んでいたことからだが、今はシンプルなパンツルックだ。理利仔がひそかに「パンツも似合いそうなのに」と思っていたことが、影響しているらしい。
女王然とした、悪く言えば威張り腐った態度も抜けると年相応、あるいは幼くも見える容姿はかわいらしい。どちらかというと子ネズミのような印象を受ける。
「リリィ、遅かったね。また本読んでたの?」
「まあね。それをそこのバカウサギに邪魔されたんで、代償に送ってもらったってわけ」
「ちょ、ジャマだなんてしてないよー」
くすくすと笑う黄昏の顔は、常の冷徹にこちらを見る視線とは程遠い。
「さ、今日も遊ぼう!」
取られた手は柔らかく、感覚がある夢だなんて高性能だな、とぼんやり理利仔は思うのであった。
♢
ノックの音がした。
そのせいで理利仔は、黄昏の手を放し覚醒してしまう。
食べかけのレモンシャーベットも当然霧散し、惜しいことをした、と後悔する。
「寝ているのか」
再度扉を叩きながら呼ぶのは、父。
理利仔のことを5歳のときから名で呼ばなくなり、小学校を卒業するころにはほとんど会話もなくなった、生物学上親にあたり、それでしかない男。顔もよく覚えていない。
「学校から課題用のプリントが来てたから、置いておくぞ。それと夕飯も」
受験期なのと対面が大事な学校側は、理利仔の引きこもり騒動に干渉しない代わりにある程度の課題と、いじめに対しても黙秘することを条件に彼女の不登校を黙認している。政治家の汚職やら天下りのような裏の手回しというのは、こういうところから始まるのだろうか、と皮肉ってみたが、ありがたい話と受けている自分も似たようなものだろう。
「高校を卒業したら、『留学』してもらう」
それが、親の敷いたレール。
行き先は山間にあり、赤十字が紋章の白い建物ときた。洒落ているじゃあないか。
適当な名家に嫁がせる駒にもならない娘は、見えない土地へ御払い箱。そういう家なのだ。
「…じゃあな」
用だけ告げて、あっさり父は去った。
いつもに比べれば話しかけてきた方だ、と理利仔は思う。部屋に隠ってから一度も、彼女は言葉を返していないけれど。
そこにひたすら話しかけるのは文字通り、壁に話しかけた方がまし、という虚しさだろう。
「…おやすみ」
小さく囁いたのは、誰にか、何故か。
解らないまま、少女は再び妄想へ堕ちるーーーーーー。
◇
野宮邸は広い。築山を内包した、季節の花々に彩られた庭は野宮楼鶴の自慢だった。優秀な庭師を雇い、その美しさを保つために死力を尽くした。まるで我が子を育てるように、愛で慈しむ。本当の娘には、見向きもせずに。
「病んだ娘を産み落とした罪悪感からか、母もまた病んでしまった」
訥々(とつとつ)と呟きながら、帽子を目深に被った少年は茶を淹れる。現実の庭は冬のため大方は枯れているものの、此処においてんなことはか関係ないようだ。足下に鬱蒼としげる野花を見ながら、理利仔はそんなことを思う。
「リリコ嬢は砂糖とミルク、如何程使われるかな?」
「…ミルクだけ、お願い」
了解、と支度をする彼の表情は伺いしれない。
それどころか声と背丈から同年代の、異性としか。
けれど彼は『Mr.』と違い、役者に検討はついている。
「ねえ、『帽子屋』」
うん?と首を傾げる彼に、問う。
「マッド・ハッターは導くもの、意味不明の言を吐きながら、アリスを夢から覚めさせるのが役目…違う?」
「そうなの?」
カチャリ、とカップから手を放し、茶菓子のクッキーを摘まんだ。一方理利仔は、追撃の手を弛めない。
「あなただけが現実を話題にする。否が応でも外に目を向けさせる、あなたはバカウサギとは違った意味でイレギュラーだわ」
「…リリコ嬢は『いかれ帽子屋』を、そう解釈するんだ」
面白いね、そう笑う姿に煮え切らない態度に、理利仔は苛立ちを覚えた。
「私は此処にいたいの。現実を忘れて出来るだけ。それは、いけないこと?」
此処にいていいと、泣いたり笑ったりしていいと、あの男は言う。片貝姉妹も黄昏も言う。けれど、彼だけは淡々と現実を話題にする。否が応でも向き合わせる。外で理利仔は思まま動いた訳ではなかった。他者からしてみれば異常でも、彼女にとってはよかれと思ったことだったのだ。
「誰も、教えてくれなかった」
青い犬など居ない。友達を傷つけてはいけない。兎を生き埋めにしてはいけない。
それは当たり前のことなのかもしれない。けれど彼らは理利仔に何が『正常』かを教える前に、彼女を切り捨ててしまった。突然手綱を放されても、子馬は逃げなどしない。ただパニックを起こす。
どうして捨てられたの。私を見て。そう思ってクラスの中でも比較的、理利仔に友好的な少女と仲を育んだ。同じ中学に行ける喜びのあまり、接吻した。新しい環境で離れることを恐れ、どうしていいかわからないから所有痕を残した。 何も言わずに距離をとられ、どうしていいかわからないから、なついてくれた飼育小屋の兎を生き埋めにした。生まれ変わって人間になって、友達になってほしかった。
理利仔はたしかに狂っていた。常識に則した行動をとれないという、重大な欠陥を抱いていた。
けれど、そのために独りに堕とされる必要は、なかったはずだ。傷を負わされなければいけないいわれは、なかったはずだ。
帽子屋は黙っている。いつもそうだ。理利仔がどんなに泣いてわめいても糾弾しても、彼だけは慰めても、抱きしめてもくれない。なにも、くれない。
―――彼は、理利仔にとっての有象無象だった。
理利仔の奇行を咎めない代わりに檻にいれ、周囲のために盾だけ作ってごまかした父。
彼女がおかしいのは自分のせいだと嘆き、あげく理利仔を見なくなった母。
私が多少茫としていても黙認していたかわりに、負傷するほどのいじめを受けていることも見て見ぬふりをした教師たち。
彼は鏡であり傍観者だ。
「…ひどいひと」
そうだね、と笑って彼は酷薄に告げた。
「でも、それすら君が、望んでいることなんだよ?」
僕ら(これ)は、君の夢なんだから。
♢
誰にも会いたくないとき、彼女は土蔵に籠る。ここには住人達も訪れられないからだ。
一人を、除いて。
「リーリコっ」
語尾にハートでもつけそうな上機嫌で、耳を揺らして『Mr.』は現れる。
もっとも彼の機嫌が悪い時など、一度しか見たことがないが。
「うるさい、読書の邪魔」
「また『アリス』でしょ?もう何回目~?」
本を取り上げすらしないものの、読むこと自体を続けさせてはくれないらしい。
ため息をつき、理利仔は絵本を閉じた。
「あんた、なんでここに来られるわけ」
「そこにリリコがいるから~」
「ふざけないで」
睨み付ける少女の目は、剣呑だ。
「ここは私の、精神の核ともいえる場所。いくら私自身が生み出した夢の中の住人たるあんたでも、やすやすと来られるとは思わないのだけれど」
「おやおやおや」
呟く男はどこか楽しげで、一層彼女を苛立たせる。
「ずいぶん自己分析が進んだね、えらいえらい」
「ふざけないでったら!」
頭を撫でる手のぬくもりも、今の理利仔には虚しいだけだ。
少し困ったように、それでも笑んでこちらを見据える彼のまなざしさえ、自身の妄想でしかないのだ。
「帽子屋の差し金かなー」
困ったね、と頭を掻く姿は幻で。
その優しさも慈しみも自慰のようなものだと、まざまざと思い知らされて。
「リリコ、ボクがここに来るのは君がそう望むからだよ?他に答えはありえない」
―――彼が、理利仔の操り人形でしかないことを、実感した。
自分が狂っているということも、同時に。今更に。
「…なら、消えて」
うつむき、目を閉じる。眠るときのように。
「もう誰にも、会いたくない」
吐いた拒絶の言葉に、彼は答えなかった。
1,2,3。顔を上げると、変わらず男は立っていた。
「…どう、してっ」
望んでいるのに。心から、彼が立ち去ることを。
けれど、兎は歪な笑みで答えた。
「無理だよ、リリコ。泣いてる君を置いて、ボクは去ることはできない」
あの時のように、と手袋を外す、その手には包帯。いつかの、草原を思い出す。
「それにさ、ほんとに君がそれを望むなら、ボクは一番に消えるはずだよ」
夢の番人、時計兎。アリスの案内人、チェシャ猫。文字通り、二つ名を冠する歪んだ男は、不意に少女に歩み寄った。
「っ、こないで」
「だーかーら、それを『望めば』いいんだよ。そうすればボクは、近づかない」
言いながら歩みを止めない、男が理利仔は怖かった。今までの彼とは違う気がした。
同じように、へらりと笑っているだけなのに。
本棚を背に立ち尽くす少女をやがて男は、すっぽりと抱きしめた。
「ほら、つかまえた」
少女は答えない。
「結局さ、リリコは現実も夢も捨てきれないんだよ」
何処か楽しげに、男は言葉で理利仔を弄る。
「そうでなきゃ帽子屋みたいな、現実への足枷はいないし、かといって夢を捨てる覚悟がないうちは、ボクみたいな神出鬼没のイレギュラーをたてて、醒めない言い訳をする」
ずるいね。でも、いいんだ、それで。
「ボクが、許してあげる。君の弱いところもずるいところも醜いところも、『人間らしいところ』をさらけ出せる唯一の場所として、此処は、ボクは、在るんだから」
まるで聖母のように。それでいて、契約を果たした悪魔のように。
兎は、嗤う。
「…帽子屋と同じなのは、理論だけじゃないのね」
どっちも酷いわ。それは、少女にできた細やかな抵抗。
それすらも包み込むように笑みを深めて、満足げに歪み兎は謂う。
「いいんだよ、リリコはそれで。『甘い夢は麻薬となり、白百合の現を蝕む』ためにあるんだから」
♢
その日の夜、百合は手折られた。
それに気づいたのは、胸元に懐中時計をぶら下げた若い男。
足元に落ちた百合を、男は黙って愛おしげに抱きしめた。
少女の夢は壊れたか、少女は現実を捨てたのか。