伸ばされた手
協会が用意した部屋はたいてい2人部屋だ。
私もフランスの選手の子と同じ部屋だった。
けれどアレクは1人でこの部屋を使っているらしい。
たぶんアレクが特別扱いってわけじゃなく、たまたま部屋割りの関係上、アレクは1人だったんだろう。
いくらグランドマスターでレイティングが1位とはいえ、協会が公平ではないことをする事はないからだ。
『やっぱ、こっちの眺めはいいね』
すぐに私が窓に張り付いて景色を見ているのに対し、チェスの基盤を用意しているアレクは興味なさそうにしている。
『別に眺めが良くても悪くても僕は気にしないが?』
『そうやって……、アレクは昔からこういったことに興味がなさすぎなんだよ』
『ヒカリはありすぎでいつも問題を起していたな』
『そ、それは……』
痛いところをつかれて言葉につまってしまう。
なんだよ……。
そりゃ~そのせいで何度も怒られ、その度にアレクを巻き込んでいたけど、別に悪気はなかったんだぞ。
そう、悪気はない性質の悪い子供そのものだった。
アレクには申し訳ないと思うがそれはもう時効だ。
『子供だったんだよ。何でも見て触って確かめたかったの!』
『なるほど。……ヒカリ、いいから座れ』
『うん』
命令口調なのは昔からだったし、それがアレクの独特の言い方だってことがわかっていたから素直に従う。
ベットの横にあるテーブルの上にはチェスの基盤が置いてあり、駒も置かれてる。
座ってよく見れば、綺麗に駒が枠に収まっている。
こうゆうのってやっぱ性格が出るよな。
俺だったら結構大雑把に置いてあるだろうしね。
『じゃあ始めようか? ブリッツ……とまではいかないがあんまり長い長考はなしだ』
『うん』
チェスのルールはいたってシンプル。
西洋の将棋というだけあって、動きが似ているけれど、将棋とは違う不規則な動きをする駒もあるし独特のルールもある。
それが魅力の1つだ。
アレクの表情が変わり集中していくのがわかる。
久しぶりにゲームをプレイして、思ったことはやっぱりアレクは強いという事だ。
ミドルゲーム(中盤で駒の展開が殆ど終わって戦いが起こる段階)に入ると、仕掛けておいた罠が次々とかわされる。
けれど、仕掛けた戦いには罠に誘いこむだけがプレイじゃない。
私の持ち味は誘いをかわしたと思い込ませて伏兵で相手を倒す。
でも相手はアレクだし、私のプレイスタイルを知っているから警戒されてしまう。
それに伏兵の使い方はアレクも得意としていて、自分がアレクを追い詰めるより逆に追い詰められていく。
くやしいけどもう完全に負けは見えた時点で私は両手を上げた。
「Resign!」※
早い宣言だったけれどこの場合、あがいても負けは決まっている。
無駄に時間を使うのは意味がない。
さすがにレイティング1位の実力者だ。
食い下がることは出来ても勝つにはもっと強くならないと……。
ゲームが終わるとアレクは満足してくれたようで、いきなり検討しだした。
ああでもないこうでもない。
こうした方がいい。
ああした方がいい。
そんなことを話しつつ検討が進められる。
『事故の後はどうしたって?』
検討が終わってチェスを片付けながら、アレクは顔を上げることなく聞いて来た。
『リハビリで結構長く入院してた』
『その間もチェスをしてたってことか……』
『まさか!』
『まさか?』
私の言葉にアレクも顔を上げた。
端整な顔が目の前で私へと真っ直ぐ向けられる。
そんなアレクにどきどきしながらも何でもないことのように首を振った。
『退院してからチェスに触りたくても触れないって時期をずっと過ごしたよ』
『ずっと? どれくらいだ?』
『中学の時だから……、14歳までかな?』
そう、触れられなくなってしまったチェスの代りを求めて何でもやってみた。
でもチェスには大事な思い出があったし、チェス以上に夢中になれるものなんて出来なかった。
『それからはチェスをしてたのか?』
『うん、国内大会の快速チェスとか電撃チェスブリッツなんかには出てた。今回、国際大会に出たのはあの時以来だ……』
リハビリの時、怖くてなかなか踏み出せなかった足は、チェスを出来るようになった時も海外へと踏み出す勇気を持てなかった。
海外へ行かなくてもチェスは出来る。
けれど、それでは強くはなれない。
『それまでずっと国内だけで活動していたのか?』
『うん、今までずっとね』
信じられなさそうなアレクに笑ってみせるけど、国内だけの大会では稼げるレイティングも知れている。
だから今の私はアレクには足元にも及ばないぐらい下の方だ。
グランドマスターになるのはそれほどたいそうなことではない。
15年ぐらいでグランドマスターなった人もいる。
それでも、グランドマスターになるには地道にレイティングを稼いでいくことが一番の近道だ。
それなのに私は出る大会をえり好みしレイティングも低い。
だからって自分が弱いとは思っていない。
今はアレクに勝つことは出来なくても、いずれ勝つことが出来るはずだ。
『先は長そうだな』
『うん、それは覚悟してる。これから海外の大会にも積極的に参加するつもりで今回参加したんだしね』
『そうか……』
私の決意もアレクはすんなりと受け入れてくれる。
アレクの瞳には同情も哀れみもない。
だからアレクを好きになった。
淡い初恋が大人の青年となったアレクの前で、はっきりとしたカタチをなしていく……。
アレク、俺はアレクを好きになっても好きだとは言わない。
自分がアレクに相応しくないと思っているし、やっぱりいろいろな障害がありすぎる。
異性に好意を持ったのはアレクが初めてだ。
でも自分は上手く恋ができないだろう。
女性らしいこのほとんどが苦手だ。
まじまじとアレクを見ていて、その時、いきなり自分の身なりが気になった。
無造作にまとめていた髪は今はおろしているけど、ぶかぶかのデザインパーカー。
タトゥーとロゴが入ったGパン姿の俺。
それとは反するきちんとした姿のアレク。
何だか俺ってみすぼらしい感じかも……。
育ちが違うのも恋に消極的な理由の1つだった。
アレクとはチェスのプレイヤー同士の関係だけで満足してしまうと思う。
チェスを片付け終わってしまうとアレクと2人、何をどうすればいいのかわからなくなってしまう。
静かに私を見るアレクに会話が出来なくなってしまった。
『アレク、お守りは?』
何とか用件を済ませてアレクの前から逃げ出そうと、最大の目的だったお守りを持ち出した。
『ああ、こっちだ』
手を出した私にアレクは立ち上がると、ツインベットの間にあるライトボードへと向かった。
その引き出しにでもしまったのだろう。
私はひょこひょことそんなアレクの後ろをついていく。
さっさとお守りを貰って自分の部屋に戻りたかったからだ。
振り向いたアレクの手には、月日が経ってくすんでしまった青色のお守りがぶら下がっている。
『さんきゅー、アレク』
お礼を言ってお守りに手を伸ばしたけれど、その手はお守りを掴む事はなかった。
『アレク?』
アレクはお守りを私の手から後ろの方に遠ざけ、反対側の手で私の手を掴んでいる。
何故お守りを返してくれないのかわからず呆然とする私の視界に、アレクの顔がいっぱいに広がって唇に熱い何かが触れた……。