蒼い歯車
お守りが首にかかっていない。
祖父からもらった形見のお守りが首にかかっていないことに気付いたのはお風呂に入る時だ。
皮肉なことにお守りは身代わりお守りで、最初は見るのも嫌だったけれど、祖父が最後に私にくれたものだったから、以後、ずっと肌身離さずに持っていたものだった。
ユニットバスのトイレの前で服を脱いだ後、いつものごとくお守りを外そうとして気付いた。
朝食と、昼食を摂った時もあった。
あとは……。
アレクとぶつかった時だろうか?
私はさっさと着替え直すと、お守りを探しに部屋を出た。
アレクのぶつかった廊下の辺りに来てあたりを周りを見回すけれど、お守りらしき物は落ちていない。
フロントにも聞いたが、そんなものは届いていないと言うし、もしかしてアレクが持ってたりしないかな?
そんな望みを持って夜、アレクの部屋を訪ねた。
アレクが用事から部屋に戻ってきたかわからないので確認すれば良かったのだけど、いなかったとしても何度も部屋を訪ねる口実が出来ると言う欲求に、私は愚かにも従ってしまったのだ。
1024号室のドアの前に立って部屋の呼び鈴を鳴らすと、すぐにアレクが出てきた。
用事はすぐに終わっていたらしい。
自分の名前を告げてすぐにドアを開けてくれたアレクにほっとする。
私を見るアレクは完璧な王子様だ。
少し冷たさを感じてしまう。
『何?』
そっけない言葉。
ラフな部屋着に着替えているが、やっぱりこざっぱりとしていて上品さを感じさせるアレクは何だかとても苛立っているようで冷たい雰囲気がする。
『ごめん、いきなり。あのさ、さっきぶつかった時、お守り落ちてなかった?』
『お守り?』
『うん、小さい青い袋なんだけど……』
『ああ』
どうやら、アレクはお守りを知っているらしい。
『アレクが拾ってくれた?』
『ああ』
『ありがとう!』
お守りが見つかったのが嬉しくて、両手を「ちょうだい」するようにアレクの前に差し出す。
けれどアレクはそのまま動こうとしない。
『アレク?』
どうしたのだろうかとアレクの名前を呼んでみたけれど、アレクは私を見たままだ。
アレクの碧眼は、何だかグリーンかかった色合いへと変化しているように見える。
瞳に出ている感情や何を考えているのかはわからなかったけれど、そんなアレクが怖いと感じた。
私が男の子ではなかった事はちゃんと伝えたのだし、その時にアレクは怒らなかったんだから今ごろ怒ったりするのはおかしい。
アレクの用事で何かあったのだろうか?
困惑気な私を見下ろすアレクは次の瞬間、にっこりと笑って雰囲気を和らげた。
『ヒカリ、そのお守りを拾ったお礼として1ゲームしないか?』
『え?』
アレクはめったに笑う事はない。
社交的な付き合いで愛想笑いをするのを何度か見たけれど、口の端を少し持ち上げる程度の笑みしか見たことがなく、こんな笑顔を見せたことははい。
アレクが私に笑う時は、少しだけ幼さが残るかわいい笑顔だった。
見たことも無い顔で笑うアレクに警戒心が頭をもたげてくる。
自分の中の何かがこのまま帰るべきだと告げているが、お守りを返してもらっていないことが私を引き止めた。
それに、アレクが私に何かする理由も思い当たらなかったし、電話で済まさずここへ来た理由もあって、私はアレクの誘いに頷いてしまったのだ。
『うん、別にいいけど……』
『じゃあ、部屋に入れ』
頷いた私にアレクは部屋に入って中に入るように促した。
その背中を見て私の中で不安が膨れ上がる。
『アレク……』
漠然とした不安を感じつい名前を呼んでしまい、アレクが振り返った。
振り返ったアレクの表情はいつものアレクだ。
それなのに不安が拭えない。
『何だ?』
『何か怒ってる?』
『怒ってる? どうして?』
訝しげに聞き返されて、どう答えればいいのか私の方が困ってしまう。
ただアレクの背中を見て不安になっただけなのだ。
アレクは我侭でうるさかった私を嫌がりつつも突き放すことはなかったし、何かあれば護ってくれたりもした。
片言のロシア語しか話せない私にあわせて会話も色々教えてくれた。
私の中でアレクは、とても優しいという印象があるのだ。
それなのに何故か今のアレクは私を傷つけようとしているように感じた。
『ヒカリ?』
『……』
正反対の感情に困惑して入り口に立っている私にアレクも訝しんでいる。
『ごめん、何でもない』
ばかげた考えに首を振って不安を振り払い、私はアレクの部屋に入っていった。
アレクは紳士だ。
アレクに傷つけられるだなんて不安はナンセンスだろう。
それにただチェスをしようと誘われただけで、こんな過剰に反応するなんて私の方が変だ。
彼は世界で一番有名なチェスの王子様なのだから……。