なかだちびとの物語
むかし、むかし。あるところに、夏は緑豊かで、冬は雪で真白に染まり、澄んだ水の川の流れる、美しいお山がありました。守り神の一族がそのお山を守っておられました。
お山の守り神は、一見、ただの犬にしか見えませんでした。しかし、ふもとの村人たちは皆、それが犬などではなく、お山の守り神の「大神さま」だと知っていました。大神さまは、お山を練り歩き、いろいろなケモノを適度に召し上がります。大神さまがお過ごしになるお山は、木の実がたっぷり実り、山奥に住んでいる熊たちも、お山の恵みだけでお腹が膨れ、人里に下りてくることはありませんでした。
毎年、節分の日に、ふもとの村人たちは大神さまへの捧げものとして、お山で獲れた鹿や猪などを、お山の頂上付近にある大岩の上にお供えします。大神さまは、きっちりと残さずにお供物を召し上がります。時々、大神さまと村人たちが出くわしてしまうこともありましたが、大神さまは、決して村人たちを傷つけることはありません。つぶらな瞳で人々を見つめ、尻尾を振りながら悠然と立ち去っていきます。大神さまは、別に不老不死でも何でもありません。普通に生きて普通に死んで、いつの間にか、代替わりをしているようでした。
ずいぶんと月日が流れ、村には異国の文化や習慣が入ってくるようになりました。やがて。
大神さまとその一族は、よそ者の入れ知恵により、お山の守り神たる「大神さま」ではなく、「狼」という名のただの害獣として、ふもとの村人たちに滅ぼされてしまいました。その報いは、じわじわとやってきました。お山の鹿や猪が増えすぎて、木の芽が食べつくされ、木々が枯れていき、熊も木の実を十分に摂れなくなって。鹿も猪も、そして熊までもが、やがて人里に下りて畑を荒らしたり村人を害するようになってきて。
――大神さまの罰が当たったんだ――
村人たちは、お山の頂上付近に、小さな神社を立て、「大神さま」を祀り、大神さまの怒りを鎮めようとしたのです。しかし、それだけでは済みませんでした。身体を失くして現世にとどまれなくなった大神さまのお力を、大神さまに代わり顕す人間、「なかだちびと」がうまれることになったのです。
村の言い伝えでは、江戸末期、還暦を迎えてもまだまだ矍鑠としていたという老人、新井竜之介が、初代の「なかだちびと」といわれております。新井家は農民でありながら苗字帯刀が許されていたという、ちょっとした分限者の家柄でした。
神社ができた翌年の節分の日のこと。大神さまのお告げを聞いた竜之介は、村長にだけそれを告げると、神社に向かい、かつてお供物の置き場になっていた大岩の上に立ち、大神さまに、深く祈りをささげたそうでございます。しばらくして暗雲が空を覆い尽くし、大雨が降り、雷がお山のあちこちに落ちました。その結果、増えすぎていた鹿や猪は雷に打たれたり川に流されたりして、間引きされることとあいなりました。
山頂にある神社での竜之介の祈りは毎年節分の日に必ず行われ、気が付くと、お山は豊かな実りを取り戻し、熊も人里に出てきたりしなくなりました。竜之介は古希を迎えてしばらくして天寿を全うし、その次の節分には、また別の矍鑠たる老人が大神さまのお告げを受け、その者が寿命を迎えるとまた次の老人が……という具合に、こうして、村人たちの中から、大神さまのお告げを聞く者、「なかだちびと」たちが、男女の区別なく約十年ごとに入れ代わり立ち代わりしていきました。そのほとんどは還暦以上の老人でした。しかし、現在の「なかだちびと」は、まだ大変若い方でございます。大神さまのお告げを受けて最初の務めを果たしたのは十歳の時で、今は二十歳、まだ大学生ということです。名を新井修一といい、初代のなかだちびと、新井竜之介の直系の子孫でもあります。
■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■
都会の隅でひっそりと暮らすサラリーマンの一家四人暮らし、うちは結構平凡な家庭のはずだ。それなのに。
「明日は節分だから、田舎に帰る」
兄の修一は荷物を手早くまとめて、先ほどひとりで田舎の伯父の元に行ってしまった。大学は明日一日休むようだ。毎年のことなので、父も母も特に何も言わないけれど。
(どうして兄さんが「なかだちびと」なんてやらなければならないんだろう)
新井里美は、兄の修一が「なかだちびと」という役目をこなさねばならないことを、つねづね疑問に、そして不安に思っている。
修一は、もともとは里美の兄ではなく従兄であり、里美の父の妹の産んだ私生児で忘れ形見だ。修一は栗色で里美は漆黒、と頭髪の色こそかなり違っているが顔立ちがとてもよく似ており、特に言われなければ、誰も二人が実の兄妹ではないなどとは気づかない。修一の母は、出産に身体が耐え切れずに命を落とし、当初は田舎の祖父母のもとで育てられたのだ。しかし、祖母が修一をたびたび虐待していたことが発覚し、なおかつ修一が先天性の免疫不全症候群をわずらっていたこともあり、祖母から引き離して、なおかつ大きな病院に近いところに住んだほうがいい、ということで、修一の小学校就学前に、都会に出て一家を構えていた里美の両親の治と華子が引き取ったのだ。まだそのころは里美は赤ん坊だったので、勿論全く覚えていない。いくらあの村の出身だからといっても、「なかだちびと」になった十歳の時、修一はとっくに村民などではなかったのに、一体どうして?
「なかだちびと」は、一度選ばれたら死ぬまでやり続けることになる。しかも、役目についている期間は、過去の例を見ても約十年、となぜか一定なのだ。役目に着いたほとんどが老人だったから、いままで誰も問題にしなかったのだが、兄はほんの子供のころに大神さまに「選ばれた」。あれからもう十年たつ。もしかしたら、兄の寿命は、もう残り少ないのではないか。ただでさえ生まれつきの持病のせいで、身体が弱いのに。
(こんな不吉なこと、誰にも言えないよ)
里美は高校二年、まじめに自室の勉強机に向かってはいたが、広げている参考書の内容がほとんど頭に入ってこないでいる。さっさと儀式を終えて、帰ってきてくれればいいのに、と思う。なまじ「大神さま」や「なかだちびと」が怪しげな新興宗教ではないことを知っているので、かえって兄のことが心配になる。
***
陽が落ちかけたころにようやく故郷への最寄りの駅に着くと、修一は、ケータイで大学の後輩の南哲夫に連絡を取った。高校時代に剣道部で先輩後輩の仲で、進学した大学も学部こそ違う(修一は文学部、哲夫は経済学部)が同じ文系でたまたまキャンパスも一緒、という具合で、つい自分の所属している英語劇のサークルに勧誘してしまったので、よく一緒に行動しているのだ。
「もしもし、南くん? 新井だけど」
「新井さん? あんた、なんで今日サークルに来なかったのさ。というか、もしかして、学校さぼったのか?」
修一の身体のことを知っているためだろう、ケータイから聞こえてくる哲夫の声はどこか心配そうである。言葉遣いがややぞんざいなのはいつものこと。修一は慌てて用件を話すことにする。
「いや、今日は授業だけ出て、サークルだけさぼった。一身上の都合で、明日は大学を休む。連絡するの忘れて、悪かったよ」
「え。まさか、熱でも出したのか? あ、神崎さんに連絡しようか?」
「別に具合は悪くない。うちの都合なんだ。史朗なら、僕の事情は知ってるから、連絡はいいよ。あいつ、後期からうちの大学以外に、よその大学の講義を聴講してるから、忙しいし。だから最近よくサークル休んでるだろ、あいつ」
「――ええっ! 神崎さんって、頭いいとは思ってたけど……、すごい努力家なんだな」
「そんなの、いまさらだろう」
神崎史朗は、修一にとって、小学校から大学までずっと学校が一緒(大学はなんと学部も同じで文学部)、という幼馴染で腐れ縁、という存在だ。顔だちは男前で一七〇センチ台後半の身長、体格もがっちり型、と、女顔で比較的小柄な修一とは対照的な青年である。ちなみに哲夫も甘いマスクの美形で一八〇センチを超す高身長で割と筋肉むきむきタイプなので、二人に挟まれると微妙に男として劣等感を感じてしまう。本来自分と彼は同学年なのだが、大学二年の時に修一が長期入院をしてその結果留年してしまったため、修一は二年をやり直しで、史朗は三年、と学年に差がついてしまっている。
「神崎さんなら、いいところに就職できそうだよな」
「あいつは確か国会図書館志望だったはずだけど」
「国会図書館って、入るの難しいのかな」
「倍率すごいらしいよ」
「へえ」
幼馴染の史朗はもちろん、けっこうどうでもいいことを駄弁ることができるこの後輩の存在は、身体の弱いせいで比較的友人の少ない修一にとって、宝物だ。
(なかだちびとの役目は別にいいんだけど、伯父さんの家に行くのは毎年気が重いんだよね)
とりあえず哲夫のおかげで、修一の落ち込みかけていた気分がやや上昇した。
駅からバスに三十分ばかり揺られて、バス停を降りて少し歩けば、懐かしいかつての我が家にたどり着く。祖父母が他界してしまっている今、もう、我が家、という気はあまりしない。伯父さんの家、だ。
「あっちは寒いんだから、あたたかくして行きなさい」
ついついいつも着ているジャンパーで出ようとしたら、母が厚手のコートを衣装箱から出してくれていた。これ着てきてよかったな、とコートのポケットに、寒さでかじかんだ手を突っ込んで温める。平地の都会と山地の田舎では、いくら隣りあった県でも、気候が全く違うのだ。普段都会に住んでいると、つい忘れがちになる。
(僕って運がいいよな)
父はもともと実の伯父だからともかくも、血のつながらない虚弱体質の子供を我が子としてかわいがってくれる母、従兄なのに兄と慕ってくれる妹を持つことができるなんて、本当に自分は幸運に違いない、と修一は思う。そもそも、自分は祖父もそうだが、祖母にも本当に愛されていたのだ。一人娘の運命を狂わせた男の血を引く子供、という理由で、祖母からたびたび暴力を受けていたらしいのだが、自分の記憶では、何か失敗したときしか手を上げられた覚えはなく、しかもすぐに泣きながら抱きしめられて謝罪されていたこともあり、幼いころは虐待とは認識していなかったのだ。もっとも、祖母に殴られて脳震盪で意識を失ってしまったこともあるので、後から客観的に考えると残念ながら虐待だったのだろうが。祖父母と別れて都会の伯父一家のところに養子に行くのは、かなりつらかった。今では、養子に行けたことを、とても感謝している。
ピンポーン。
伯父の家の門前で呼び鈴を鳴らすと、従兄の光雄が出てきて応対してくれた。修一より十歳年上で、昔ここの離れに祖父母と一緒に住んでいたころ、伯父伯母やその子供たちが遠巻きに修一を見ていたのに対し、一番年の近い光雄だけが普通に弟にでも接するように修一に接してくれていた。いまだに、光雄以外は修一に対し、どこかぎこちない。特につらく当たることもないので、いろいろ複雑な身の上の修一に、単にどう接したらいいか迷っているだけかもしれない。
「こんばんは。修一くん、夕飯食べる前にお風呂に入ってきなよ」
「こんばんは。光にい、遅くなって、すみません」
「いや、学校があるんだからしかたがないだろ。そういえばさ、去年はお山に行かなくても儀式ができたよね?」
「ああ、入院していて来られなかったから。でも、意識してできたわけじゃないしなあ。来られるのにさぼったら、大神さまに悪いでしょう」
(あれってオカルトでいう「幽体離脱」だったな。病院でベッドに眠っているのに、意識だけがこのお山の神社に来てたし……)
昨年は「なかだちびとが来てない」と騒ぐ村人たちをよそに、神社の宮司は悠々と儀式の用意をしており、修一はその情景を「視て」いる。おそらく、なかだちびとが事情により不在でも儀式はつつがなく執り行われる、という前例があったのだろう。意識だけではあるが、神社の境内の大岩に「立って」大神さまに祈りをささげると、にわかに空がかき曇り、大雨が降り、雷がお山のあちこちに落ちた。本当に、例年通りだった。
(時々思うけど、なかだちびとって、どういう条件で選ばれるのかな?)
この村に生まれ育った修一は、大神さまの存在を疑ってはいなかったが、特に信心深かったわけでもなかったのだ。
光雄に案内されて家の中に入り、居間で伯父伯母と挨拶を交わし、仏壇に手を合わせて祖父母にも挨拶をする。客間に案内されてから、入浴を済ませ、食卓につく。現在この家にいるのは伯父夫婦と光雄だけで、光雄の兄姉たちは都会に出たり就職したり結婚したりで家を出ている。伯母がことさら明るい声で告げる。
「今日はスキヤキよ!」
食卓の上には卓上コンロがあり、お鍋がぐつぐつといい音を立てている。
「いただきます」
伯父の一声で、皆も声をそろえて、
「「「いただきます」」」
鍋の中の肉や野菜を仲良くつつきながら、なごやかに会話を交わす。
「治、いや、お父さんたちは元気かな」
「はい、みんな元気です」
「うちの子のおさがりで、里美ちゃんにあいそうな服があるんだけど、明日帰るときに持ってかない?」
「え、いいんですか」
「遠慮しないでちょうだい。おさがりがいやなら、しかたないけど……」
「いえ、そういうことではないんですが」
「姉ちゃんの残してった服か。結構オーソドックスだから、たぶん里美ちゃんの好みにあうんじゃないかな」
もぐもぐ。肉を頬張りながら、光雄はうなずいている。
「わかりました。ありがたくいただきます」
「修一くん、学校、今年はうまくいきそうかな」
「おい、光雄」
今年は留年しないよね? とばかりに訊きづらいことをあっさり口にする光雄。伯父は息子のぶしつけな発言にちょっと焦ってしまっているが。光雄のなれなれしく飾り気のない態度に、修一はいつも救われている。
「うん、今年はたぶん大丈夫です」
「よかった。『幼馴染みが一年上になっちゃった』とか、『後輩と一年差になっちゃった』って、前嘆いてたよね」
「よく覚えてるね、光にい」
「修一くんにしては珍しくしょげてたからねえ」
光雄は目を細めて修一を見つめる。
(少しばかり物分かりがよすぎるきらいはあるけど、修一くん、普通の子なんだけどな)
光雄の両親は、修一に対して気を遣いすぎて、妙にぎこちなく応対してしまう。だから、修一のほうも自然と距離をとることになる。お互い決して相手のことを悪くなど思っていないのは、はたから見ればよくわかる。どちらも不器用なのだ。
翌日、節分の日。
新井家の朝は早い。なにしろ、この家は農家、コンニャクイモやシクラメンやキノコなどの栽培をしているのだ。ひごろ夜更かししがちの都会暮らしの青年は、この家の家族が起きだして仕事をしていても、まだ夢の中にいる。
「修一くん、朝ごはんよ」
客間ですやすや眠っていた修一を、伯母が起こしに来た。修一は慌てて飛び起きる。
「わ。おはようございます」
「急いで頂戴ね」
伯母は居間のほうに戻って行った。修一は、枕元に置いていたケータイの画面を見る。
(五時半、か。うっかりしてたな、アラームの時刻、直してなかった)
普段は六時半の起床で間に合うので、ケータイのアラームもその時刻に設定してある。朝食中にアラームが鳴ったりしたらまずいので、一時的に解除しておくことにする。
素早く着替えて布団を畳んで部屋の隅にまとめて置き、顔を洗い、仏壇に手を合わせて仏様に朝の挨拶を行う。居間に入り、炊き立てのご飯、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁、白菜の漬物、卵焼き、と定番のメニューの朝食を、四人揃っていただくことにする。すでに伯父や光雄は農作業をしていたらしく、食卓の席の足元に、先ほどまで身に着けていたらしい帽子と軍手が置かれている。
「今日はアレだから、修一くんに弁当の用意はできてるのか?」
伯父が空になった茶碗を妻に差し出しておかわりを要求しながら、そう口にする。
「おにぎりを作ってあるわ。今年はあまり雪が積もってないらしいから、よかった」
お山の中腹までは車道があるので、光雄が車で修一を送っていくが、そこからは歩いて登山だ。登山といっても、比較的なだらかな山なので、軽い山歩きのレベルだが、冬山というのには変わらない。神社までは車道の切れたところからは一本道でまず遭難するなどということはないけれど、雪が少ないのに越したことはない。
朝食が済んで一段落すると、修一は伯母が用意してくれていた登山用の靴を履いた。リュックサックにお茶の入った水筒とおにぎりの包みを入れる。
「修一くん、用意はいいかい」
光雄は自家用車の四駆のタイヤにチェーンを装着している。
「はい、どうもすみません」
「じゃあ、いっくよー」
「光にい、物見遊山じゃないんだから」
「修一くん、古いねえ。『物見遊山』って。せめて『ハイキング』と言って」
ほんとにまじめだねえ、と光雄は修一を車に乗せて、お山に向かった。
お山はいつも変わらないな、と車の窓から目に飛び込んでくる景色を眺めながら、後部座席で修一がくつろいでいると、
「最近、隣村にある山でけっこう石が切り出されて、地形が変わってしまったところがあってね。このお山には手を出さないように、村長とか議員とかが、その筋に圧力かけてるって聞いたよ」
と、運転をしながら、光雄がややきな臭い世間話を切り出した。
「圧力?」
「いや、このお山は大神さまを祀った『本当に』霊験あらたかなところだろう。その辺を知らないよそ者に手を出されたら、昔以上にヤバくなる。お山そのものを壊されたら、山や川の恵みも失くなってしまうしね」
「うん」
昔、大神さまがいなくなってしまってから「なかだちびと」が出てくるまでの悲劇は、この村の者なら、昔からの言い伝えで聞いている。山林の恵みがなくなり、田んぼや畑は鹿や猪に荒らされ、熊が人里を徘徊したりして、生活苦のあまり、借金のかたに娘を売る家も出てきたりした、という。仮にいま、このお山が荒らされたらどうなるか。
(田畑とかお山から逃げ出した獣たちにめちゃめちゃにされそうだし、どう考えてもいいことないな)
がんばれ、村長さん、議員さんたち。
修一は心のなかで、彼らにエールを送った。
「じゃ、お務めが終わってここに戻ってきたら、俺のケータイに連絡入れろよ」
車道が切れて、細い一本道になってしまうところで、光雄は修一を車から下ろした。ちょうど「ここより神社参道」と書いてある案内板もあるので、猛吹雪でも来ない限り、まず迷わない。
「はい。ありがとうございます。では、行ってきます」
リュックサックを背負いすたすたと歩きだす従弟の後ろ姿が小さくなり、ほとんど見えなくなってから、光雄は再び車に乗り込んで、ひとまずいったん帰路についた。
修一は途中で伯母にもらったおにぎりとお茶で早お昼にしたりして、だいたい合計三時間くらい歩いて神社に着き、神社の境内に来ている村人たち――だいたい老人が多い――と挨拶を交わす。宮司の指示で、儀式用の白装束に着替え、例の大岩の上に立つ。
ちょうど正午。畑仕事を一段落した新井家の面々は、いつもはその辺でお昼にするが、この日は自宅に急いで全員で戻っていた。いや、こういう行動をとるのは、新井家だけではなく、この村のほとんどがそうだ。正午から、神社でなかだちびとの儀式が始まるのだから、絶対にこの辺りは大雨になるのだ。
「修一くん、風邪ひかないかな、大丈夫かな」
朝のうちに母親が作っていたおにぎりを頬張りながら、光雄は身体の弱い従弟を心配する。
「でも、修一くん、高校まで剣道をやって鍛えてたんだから、昔ほど弱くないんじゃない?」
母親は、お茶のお代りを入れながら息子にこたえる。
「いや、筋力がついても、免疫力が強くなるのかどうかはわからないからな」
どうなんだろうな、と、父親は入れてもらったお茶をすすった。そのとき、窓の外から見える空が急に曇りだし、稲妻が走った。光と轟音。それが何度も何度も続き、その後に、勢いよく雨が音を立てて降り出した。
その日夜遅くなってから、修一は自宅に戻った。家族は夕食をすでに済ませている。
「ただいま。お土産もらってきた」
玄関に出迎えてくれた妹に、ほら、と大きな紙袋を渡す。
「以外に軽いね。なに、これ」
「伯母さんから、おさがりだって」
「うーん、洋服か。後で見るね」
そこに続いて母がやってきた。
「お帰り。夕ごはん、とってあるからね」
「ただいま。伯父さんから、お土産にジャガイモを頂いたよ」
重いから、台所まで持っていくね、と修一は靴を脱いですぐに台所に直行した。背負ったままのリュックサックからジャガイモの詰まったビニル袋を取り出す。
「二、三キロくらいかなあ。結構あるだろ」
「お芋は長持ちするから、嬉しいわ。今夜は遅いから、明日にでも電話しなくちゃ」
母は嬉しそうにジャガイモを野菜保存用の段ボール箱にしまった。
***
「おや、南?」
「あ、神崎さん」
年度が替わって、数か月たったある日のこと。英語劇サークルの先輩後輩、学部の違う大学生の二年生と四年生は、夕方授業が終わった後、大学図書館の閲覧室でばったりと顔を合わせた。
「南が図書館に来るタイプとは思わなかった。彼女いるのに、デートしないの?」
「それ、偏見だ。あいつとは土日しか会えてません。俺と違って社会人だし。ところで、どんな本を」
と言いかけて、哲夫は眉をひそめる。
「神崎さんって、確か専攻は西洋史じゃなかったっけ。なんで神話とか?」
史朗の抱えている数冊の本は日本語、英語、哲夫には解らない外国語、と、いろいろな言語で書かれたもののようだったが、そのうち日本語と英語の本の表紙を見ると、いずれも神話や民話だったりする。
「授業とは無関係の、ただの個人的な興味だよ。前に修一から『大神さま』の話を聞いていたからさ」
「ああ」
哲夫の顔は一気に暗くなった。
「『なかだちびと』とかいうやつですよね。里美ちゃんが泣いてたアレ」
「俺も話半分で聞いてたけど、マジだったんだよな。……まさか本当に十年で逝くなんて思わない」
ふう。史朗はため息をついた。大事な後輩を落ち込ませてしまった。修一の話をうっかり振ってしまった自分が、どう考えても悪い。
哲夫の先輩にして史朗の幼馴染、新井修一は、年度が替わってすぐ、街で桜が散り始めたのと同時期くらいに、命を落とした。二月中旬に誕生日を迎えたばかり、やっと二十一歳になったばかりだったのだ。少々風邪を引いていたのだが、肺炎を併発してしまい、勿論すぐに入院したが、そのまま、ということだった。
「修一のことはともかく、けっこう狼とか熊とか、動物がその地方の神さま、という例はあちこちにあるんだ。精霊信仰の一種かな。ちょっとウェブで検索したら、『なかだちびと』みたいなのも、世界中にけっこういるみたいだ」
「『なかだちびと』って、要は巫女さんみたいなもんですよね」
「そう、その通り」
興味があるなら場所を移ろうか、と史朗は小さな声で囁く。ここは図書館の閲覧室、おしゃべりはあまり好ましくない。
「いえ、いいです。俺、ちょっと急ぎの調べものに来たんで」
哲夫は軽く頭を下げてから、空いている席に腰を下ろし、本棚から持ってきた本を広げ、ノートとシャープペンを鞄から出す。
「悪かった。じゃ」
史朗も空いている席に座り、持っている本を読み始めた。
修一の次のなかだちびとは、翌年の節分の日に現れることになる。村に住む元気な古稀の老婆だった。
■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■
「なかだちびと」とは、お山の守り神である「大神さま」の霊と「人」を仲介するものです。自分の生に執着しすぎる者がなかだちびとに選ばれた例はないそうです。だから、なかだちびとには、己の人生を生きつくした老人が多い。若い人が選ばれることはめったにありませんが、どうも一日一日を大事に生き、決して後悔しない性質の者が選ばれるようです。
――――――これは、これからもずっと続いていく、大神のいらっしゃるあるお山のふもとの村の物語です。
(完)