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天使の溜息、108っ!  作者: 汐多硫黄
第1章「始まりの天使リンネ」
6/14

第六輪「花と嵐とキャットウォーク猫日和◆-クロマルの場合-」

第六輪 「花と嵐とキャットウォーク猫日和◆-クロマルの場合-」


 季節は初夏。梅雨に入って早2週間。

 こう毎日雨が降っていては、たまの晴れ間はやっぱり貴重。

 キングオブインドアの称号を持つこの僕でさえ、思わず散歩に出かけたくなる今日この頃。

 人間だってそんな風に考えるんだから、きっと動物達だって同じ事を考えているに違いない。

 犬も歩けば棒にあたる。

 それじゃあ、猫が歩けば……?


          ◆


 暇さえあれば部屋に引きこもって読書に、ゲームに、DVD鑑賞。

 リンネとの出会いは、そんなインドア気質だった僕を少しだけ変えてくれた。

 例えば、ちょっとした暇時間を有効利用し、散歩をするため町へと繰り出たり。

 最初こそ、パトロールをしたいと言うリンネにせがまれ、いやいや付き合っているだけの状態だった僕だが、数を重ねるごとに、この散歩という行為の持つ魔力にすっかり惹きつけられてしまっていた。

 神様の嫌がらせは、結果的に僕に新たな側面を与えてくれたのだった。

 

 神様の嫌がらせという話なら、今、僕が直面しているこの事態も、きっと神様の嫌がらせに違いない。

 それも相当性質の悪い、もはや悪ふざけの領域。

 リンネと出会ってからというもの、実にさまざまな事件に巻き込まれてきた僕だけど、それでもこんな事態に遭遇してしまったならば、そりゃぁ、神様のせいにでもしたくなると言うもの。

 

 だって、猫が喋るだなんて学校では教えてくれなかっただろ? 


 そりゃ当然だ。

 もしもそんなことを言い出すやつがいたら、そいつはきっと極めて普通じゃないやつだから。例えば、僕みたいに。



「いい加減認めましょうぜ、だんにゃ。この現実ってヤツをにゃ」

 そう言って、2足歩行でこちらに歩み寄ってくる1匹の猫。

 そう、猫。何というか、不気味というより相当シュールな光景である。

 勿論、ネコ型ロボットなんてオチじゃないし、猫っていう名前の人間ってわけでもない。僕の眼の前で華麗に二足歩行しているのは、一見、どこにでもいるようなごく普通の黒猫だ。

「あっしの事なんて、この際どうでもいいんでさ。重要なのは、だんにゃがあっしの話を理解できる人物だってとこにゃんですから。ま、もっとも、今のあっしの場合、日本語ってやつを喋ってますからね、言葉だけなら他の誰でも理解は出来ると思いやすが」

 そう言って僕の隣へ、トコトコとやってくる猫。

 僕だけが理解出来て、他の人には分からないこと。つまり、天使関連か。

「天使、もしくは伝承に関する話ってことか?」

「流石はだんにゃ。話が早くて助かりますにゃ」

「ちょっとまってくれ。こっちからすればさ、言葉を喋る猫だなんてそりゃ、伝承が絡んでるんだろうって想像はつくけど。お前はどうして僕が代行者だって分かったんだ? 僕が知らなかっただけで、天使の使いって一般人と何か違うところがあるのか?」

 リンネのやつは何も言わなかったけど、まさか、僕が気がつかなかっただけで頭に角でも生えてるって言うんじゃないだろうな?

 そんな僕の素朴な疑問に対し、猫は一度眼を細めた後、僕というより僕の背後を見ながら答える。

「ふむ、光、でしょうかね。ご存知かもしれやせんが、あっしら猫の目ってやつは人間のそれとはちょいと違ってましてね。例え、極僅かな光でも物を見ることが出来るんでさ。ほら、犬は人間の何十倍も鼻がきくっていうでしょ? あれの目版ですにゃ」

 よくみてみればこの猫、オッドアイだ。左右の眼の色が異なっており、どこか不気味な感じがする。これって取り憑かれたことによる影響なんだろうか?

 ここで僕は、頭に浮かんだ疑問を何の躊躇も無く猫にぶつけた。

「車のヘッドライトに当たった猫が車に引かれたりすることがあるけど、あれって逆にまぶしすぎて、ショックで動けなくなってひかれちゃうって事なのか?」

「まぁ平たく言えばそうにゃんですが、猫の前でそんな話をするにゃんて、デリカシーってもんが欠けてますぜ、だんにゃ」

 猫にたしなめられてしまった。僕のダメ人間っぷりもついにここまできてしまったか。もはや引き返せない領域。

「ご、ごめん悪かったよ。えーと、で、その光がなんだってんだ? もしかして、僕に後光でも射してるってのか?」

「そんな神々しいもんじゃにゃいですけど、でもそれに近い感じですにゃ。ちょいと眩しいって程度ですが。それと、先に言っときますが、猫の世界において、天使や伝承の話は一般常識にゃんですよ、だんにゃ。何と言ってもあっしら自体、そりゃー色んな迷信や伝説やエピソードをもってやすからね。だからこそ、人間たちみたいに取り憑かれるにゃんて猫はほとんどいにゃいんです」

 猫と天使と伝承の関係性。

 知りたいような知りたくないような。もしそれを知ってしまったら、もう今まで通りの目で猫を見れない気がする。

「まぁ、その話は後でゆっくり聞くとして。つまり、お前は本来取り憑かれるはずのないその伝承に取り付かれてしまい、急に人間の言葉を喋れるようになってしまった。そこでお前はその伝承を祓ってもらうべく、僕みたいな人間を探していた。そういうことでいいのか?」

 猫は、あぐらに腕組みという妙にオヤジ臭い恰好で、僕の話を頷きながら聞いていた。

「素晴らしい。その通りです、だんにゃ。ただ一つだけ訂正するとすれば、人間の言葉を喋れるようににゃったのと同時に、猫語が喋れなくにゃっちまいましてね。鳴き方まで忘れちまう始末。にゃー、まいったまいった」

 そう言ってにゃははははと豪快に笑う猫。

 こいつは今、猫の言葉を忘れ人の言葉を話す状態。つまり一般の人にもこいつの声は聞こえるわけで。

 ふと、気配を感じ後ろを振り返ってみる。案の定、一人の少女が僕らのやりとりをじっと見つめていた。

 気がついたときには後の祭りというわけで。

「あ、あはははは。さぁーてと、今日の腹話術の練習はここまで。今年の隠し芸大会、優勝は貰ったようなもんだな。あっはっはっは」

 大量の冷や汗をかきながらも、何とかその場を後にしようとする僕。

 少女はそんな僕の独り語を聞いて、母親のもとへとかけよる。

「おかーーーさーーーーん。あのねーあのねー、猫さんとおはなししてるへんなおにーーーちゃんがいるよーーーー」

「しっ、見ちゃいけません。絶対近付いちゃだめよ。このところ暖かい日が続いたから」

 僕は、泣きながら小脇に件の猫を抱え走り出す。

「だんにゃ、元気出してくだせぇ。だんにゃは間違いなくまともですぜ、あっしが保障しやす」

「何が保障だド畜生。そもそも、お、ま、え、のせいだろーが、というより、お前みたいな不気味猫に保障されたってなんの意味も無い。全然うれしくない。ぐすん。暫くこの公園にこれなくなっちゃったじゃないか。僕のお気に入りプレイスだったのに」

 ここは例の雨守小雨先輩の別荘、もとい公園だ。

 あの雨の夜、小雨先輩と出会ったこのドーム型遊戯の中で読書をするのが、最近の僕のお気に入りだった。

「しっかしだんにゃ、いい年こいた健全な男子が、朝っぱらからわざわざ公園で一人読書ですかい? あっしも仲間内じゃ変わってるにゃんて言われてますが、だんにゃも相当の変わりもんですぜ」

「は? 一人? そういえばあの騒ぎのおかげで、とてつもなく重要な何かを忘れてしまっているような」

 その直後、人のものとはとても思えぬ強烈な殺気とオーラを感知した僕。

 先程とは明らかに周囲の温度と空気が変わった。一気に張りつめた、とも言える。こんな気配を醸し出せる人物を、僕は一人しか知らない。

「この私との約束を忘れるなんて。相変わらずいい度胸ね、嵐」

 後方から聞こえるそんな聞き覚えのある声。

 振り返らずとも分かる。そう、霧霞夢だ。

 

 結論から言うと、霧霞は彼女の病院を退院した。

 何だかんだ言われつつも、健気に彼女の病室へと通い詰めていた僕。

 今日はその退院祝いと、直接お礼が言いたいという彼女の申し出を受け入れ、あの公園で待ちあわせをしていたのだ。

「だんにゃ、だんにゃ。こちらさんもしかして、だんにゃのこれですかい?」

 そう言って自身の小指をこれみよがしに立てて見せる猫。と言っても猫の手だけに、ただ単に肉球を見せているようにしか見えない。

 僕は、そんな品のない猫を無視して答える。

「いやー、ごめんごめん霧霞。ついさっきまで公園で待っていたんだけどね。ほら、急にこんな珍妙な猫に遭遇しちゃってさ」

 霧霞は呆れたように、僕が小脇に抱えたままになっている猫を見つめる。

「そう。あなた、性懲りもなくまた可笑しな事件に首をつっこんでいるのね。それって、あなたの趣味なの?」

「いやー、しいていえば体質かもね……え?」

 唐突に、というか会話の最中にごくごく自然の流れで、まるでそうなるのが当たり前の事のように、霧霞の拳が僕目掛けて飛んできた。

 その拳は、見事僕の鼻へとクリーンヒット。僕は盛大に鼻血を放出しながら、放物線を描きながら吹っ飛んだ。

「ひ、ひりふぁふみ、ふぃきなりなにふんふぁよ」

「ふん、罰よ罰。嵐の事情は分かったわ。でもそれはそれ、これはこれ。私を待たせておいて、むしろこのくらいですんで良かったじゃない」

 あははは。病室でしか会ってなかったから知らなかったけど、霧霞ってこんなにヴァイオレンスなヤツだったんだ。あははは。

「くっくっく。だんにゃ、こりゃこれから苦労しますぜー。間違いなく、だんにゃは尻に敷かれるタイプでさぁ」

 ギロリンと猫を睨みつける霧霞。出た、霧霞の絶対零度。

 僕はこれまで出会った人たちの中で、彼女以上の眼力の持ち主を知らない。

「こ、こいつは強烈、思わずちびっちゃいそうだにゃ」

 そう言うととっさに近くの壁へとよじ登る猫。猫が壁をよじ登るって光景は初めてみるけど、やっぱりシュール。

 そして猫は、まるで風来人のようなポーズを取った後、前口上を述べ始めた。

「どなたさまもおひかえなすって、おひかえなすって。手前生国と発しますは桜ケ丘で産湯をうけ、名はクロマル。人呼んで、黒き彗星とはあっしのこと。以後、お見知りおきを」

 どっかで聞いたことあるようなセリフだけど、そんなセリフを猫から聞く日がくるとは正に驚き以外のなにものでもないわけで。

 そんな僕に対して霧霞が一言。

「さぁ、行きましょう嵐。私、久しぶり外にでられたんだもの、ぼーっとしていては勿体ないわ」

 こちらもこちらで貴重なセリフ。あの霧霞からこんなセリフがきけるとは、感無量である。

「ちょっとちょっと姐さん。そりゃにゃーでしょーが。後生ですから、にゃーの話を聞いてやってくださいよー、ね、ね?」

 クロマルのやつ、必死すぎてすっかり素が出ちゃってるよ。何故だろう、ちょっとだけ他人とは思えなくなってきた。

「まぁまぁ、霧霞。こいつを放置しておいたら何しでかすかわからないしさ、とりあえず話だけでも聞いてやろうよ」

 必死に頷き、その大きな眼を輝かせながらこちらを見つめてくるクロマル。そんなちょっと可愛い光景。

「仕方ないわね。とっとと話しなさい、そこの猫」

「はは、よかったな。で、そもそも何者なんだよ、お前は?」


 ぼんっと言うお決まりの擬音を響かせ、いつものようにリンネが突然現れた。


「それってネコマタじゃないかな、嵐。コピーキャットってやつ。それと、やっほーキリキリ、何だか久しぶりだね。元気してた?」

 そう言って霧霞に手をふるリンネ。

 病院は嫌いだし、あたしは空気が読める天使なのーとか言って、結局あのの事件以来、彼女の病室へ顔を出すことの無かったリンネ。

「相変わらずテンションの高い天使ね」

「伝承か。まぁ、猫と言ったらネコマタが妥当か。コピーキャットって確か模倣って意味だったよな?」

 僕の話を全く聞いていないリンネは、何故か滅茶苦茶嫌そうな顔をしつつ、クロマルに天使のキッスを施した。

 やっぱり、というか当然というか。どうやら次の試練の対象者はこのクロマルらしい。

「にゃにゃ? 何か今触られたような感覚が… む、天使」

「どーも、くろ猫さん」

 いつもならテンション高く自己紹介を始めるリンネのはずなのに、何だろう、二人の間に流れるこのちょっとだけ険悪な空気は。

「だんにゃ、さっき猫は昔から天使とちょっとした接点があるって話をしたでしょう? 言い忘れてやしたが、それは悪い方向にって意味にゃんです。天使と猫は昔から犬猿の仲にゃんでさ。特に、あっしみたいにゃ黒猫とはなおのことですにゃ」

 リンネがため息をつきつつ補足する。

「ま、そーゆーことね。種族として仲が険悪だったのはもう遠い昔の話のことだけど。それでもやっぱりお互い顔を突き合わせていてあんまりいい気分がしないんだよねー。それって理屈じゃなくて、本能レベルの問題なのかもね。結構毛だらけ、猫灰だらけってやつよ」

 リンネがウンザリした顔を並べつつ僕に言った。

「と、いうことで嵐。今回は全面的にあなたに任せるわ。もちろん、バックアップや仕上げにはあたしも参加するけど、それまでお願いね。実はあたし、ちょっとだけ用事があるんだ。そうそう、嵐一人じゃ不安だし、キリキリ、あなたさえ良かったら駄目駄目な嵐を手伝ってあげて。その方が嵐もやる気出るだろーし」

 こちらに向き直り、わざわざウィンクしながらリンネが言う。

「それじゃ、嵐、あなたを信じてるから。後、お願いねー」

 一気にそうまくしたてたリンネは、早々に姿を消したのだった。

 

 おいおいおい。幾ら相手が人間じゃないからって、僕一人で何とかなるようなものなのか? 大丈夫なのか、これ。

 不安だ。実に不安だ。

「まるで台風ね、あの天使」

「本当だよ。えっと、霧霞。君には申し訳ないけど、やっぱり僕一人じゃ不安だからさ、出来れば手伝ってほしいなーなんて」

 僕の苦笑いのお願いに対し、ふっとため息をつく。そして、あの日病室で見せてくれた笑顔で答えてくれる霧霞。

「しょうのない人ね、あなたは。分かったわ、二人でこの猫また事件を解決しましょう」

「本当ですかい? あっし、一時はどうにゃるもんかと思いひやひやしましたよ。よっ、ご両人」

 クロマルのひげをひっぱりながら、ちょっとだけ照れる霧霞が答える。

「い、いいからさっきの続きを話しなさい、猫また」

「にゃにゃ、そうでした。実はあっし、自分がこうなっちまった原因にちょいとあてがありやして」

「へぇ? だったら話が早いよ。で、それって何?」

「そこでだんにゃたちの出番なんでさ。百聞は一見に如かず。お二人にちょいと連れて行ってほしいところがあるんですにゃ」

 猫が伝承に取り付かれるに至った原因、そして言葉を話すようになった理由。

 霧霞には悪いけど、僕はこの猫に対しちょっとだけ興味が沸いて来ていた。

「だんにゃ、町はずれに小さな病院がありやすよね? ひとまず、そこに連れて行ってほしいんですにゃ。理由は道中にお話ししやすので」

 町の中心部にある病院なら、ここにいる霧霞の病院だけど。町はずれの病院だって? 

 僕が首をひねっていると、見かねた霧霞が答える。

「それって、桜病院のことかしら? 町はずれにある病院なら、確かそうだと思うけど」

 流石は大病院の娘さん。町にある病院くらい把握済みってわけですね。それとも僕が無頓着なだけか。

「それですにゃ。確かそんな名前だったとおもいやす。いやはや、あっし、猫なんでいちいち名前までは覚えていにゃかったもので、助かりやした、姐さん」

 僕らは一路、その桜病院へと向かった。


          ◆


「で、クロマル。その病院に何の用があるんだよ。そこ動物病院ってわけじゃないんだろ? もしかしてお前の飼い主でもいるのか?」

「だんにゃ、それは勿論違いやすぜ。あっしは天涯孤独の一匹猫。飼い主にゃんて、おりやせん。ただ、こんにゃあっしをまるで自分の家族のように接してくれて、あっしにクロマルという名前まで与えてくれた御仁がいるんですにゃ。いわば、あっしの命の恩人。その方が、その桜病院に入院してるのですにゃ」

 入院中か。さすがに、猫じゃその人の病状や病名までは知ることができないってわけだ。

「ふーん、僕らはこれからその人に会いに行くってわけか。いやまてよ、お前今までもその人の元へ通っていたんだろ? だったらなんで今回に限って、僕らが一緒じゃなきゃだめなんだ?」

「それは、幾つか理由があるんですが、一つはこれですにゃ」

 そう言って自分自身の足を指し示すクロマル。そのクロマルは今、霧霞に抱かれる形で件の病院まで移動しているのだった。

「あっし、この通り、人の言葉を喋るようににゃったたと同時に、2足歩行も出来るようににゃったわけですが。厄介なことに、その際あっしの猫らしい運動能力ってやつが失われちまったらしいんですにゃ」

 それって、つまり高い木にひょいひょい上れたり、高所から落ちても割と平気だったりするあれだろうか。

「あっしの命の恩人のその御仁のいる病室ってやつが、病院の2階にありやして。これまでは木から木へ移ることによって病室まで辿りついて

いたんですが、こんにゃ珍妙な姿ににゃってからはそれすら難しく。それどころか、こんにゃ体じゃ、病院にすら辿りつけにゃい始末にゃんでさ。それで、どうしたもんかと途方にくれていたんですにゃ」

「つまり、猫の手も借りたい状況って事ね?」

 霧霞がぽつりとそう呟いた。

 一瞬の静寂。吹き抜ける風。照りつける太陽。

 自分で言った癖に、みるみるうちに赤くなる霧霞。固まる僕ら。

「悪い?」

 全力で首を横に振る僕とクロマル。

「言わなければ良かった、言わなければ良かった」

 そう言ってクロマルを踏みつけようとする霧霞。勿論、猫だけにである。

「ふ、ふん。何にしてもマヌケな話ね」

「そりゃ酷ってもんですぜ、姐さん。あっしにとってはかにゃり重大な問題だったんですぜ」

 人間の言葉と2足歩行能力を手に入れた代わりに、猫の言葉と猫の運動能力を失ったわけだ。何だか、人魚姫みたいな話。

 でも、そうまでしてクロマルが会いたい人物ってどんな人なんだろう。俄然興味がわいてきた。

「見えてきたわよ。桜病院」

「にゃにゃ、ここですにゃここですにゃ。いやはや助かりました御二方。では早速」

 とてとてと、2足歩行で病院の入口に向かおうとするクロマル。

 猫まっしぐらである。

「ちょっとまて、クロマル。お前まさか、そのまま堂々と入口から入るつもりか?」

 そうでしたにゃ、どうすればいいんだにゃー。とクロマル。

 病院の中で猫をつれて歩くわけにはいかないわけで。ましてや、2足歩行で入るわけには尚更いかない。

「… 仕方ないわ。このバッグの中にお入りなさい」

「おお、恩にきります、姐さん」

 霧霞のその申し出のおかげで、何とか病院の中に入ることができた僕たち。


「確か2階だったよね、クロマルの命の恩人さんってのが入院してるのって」

「そうですにゃ。一番南の病室ですにゃ」

「名前は? その人の名前はなんて言うんだ?」

「にゃー、黒木さんとおっしゃる方ですにゃ」

 黒木、黒木、黒木。… 無いぞ。黒木という名のプレートが見当たらない。どこにもそんな人はいない。

「クロマル、本当にこの病院で間違いないんだよな? 2階で間違いないんだよな?」

「間違いありやせんぜ、だんにゃ。何度も何度も来たんです。間違えるはずがねぇ」

 念のため、1階、3階の病室も探したもののやはり見つからず。

「嵐。こっちもいないわ。もしかしたら、その人はもう」

「そんにゃ、馬鹿な」

 頭を抱えて悶えるクロマル。

 考えたくはないけど、これだけ探してみつからないとなると、そういうことも視野に入れる必要があるのかもしれない。

 最終手段として、近くにいたナースさんに声をかける。

「すみません、この病院に黒木さんという方が入院されていると思うんですが。どこの病室か教えてもらえませんでしょうか?」

 20代くらいの若いナースさんが答えてくれる。

「あら、あなた達黒木さんのお知り合い? 御見舞にきてくれたのかしら。でもごめんね、ちょっと遅かったみたい」

 僕たちの脳裏に最悪の状況がよぎる。

 そんな思わず声を失ってしまった僕らに、ナースさんが慌てて付け加える。

「あ、やだ。別に黒木さんが亡くなったって意味じゃないのよ。ただ、病状が悪化してしまって。この病院の施設では十分な治療が受けられないから転院したのよ」

 どうやら、とりあえず最悪の事態だけは避けられそうだった。

「あの、黒木さんがどこの病院に転院したか教えてもらうことは出来ますか?」

「いいわ。黒木さん、いつも一人だったから。是非お見舞いに行ってあげて、彼女も喜ぶと思うから」

 彼女? クロマルの言う命の恩人とは、どうやら女性らしい。

 と、さっきのナースさんが何やらメモをもってこちらに戻って来てくれた。

「はいこれ、彼女の転院先の病院の住所だから。そういえば黒木さん、いつも1匹の黒猫に向かってお話してたわ。きっと寂しかったのね。あたたちが御見舞に行ってくれればきっと喜ぶと思うから、彼女のこと、お願いね」

 そう言って僕にメモを渡してくれたナースさん。

 そこに書かれていた転院先。それは。

「霧霞、せっかく退院したところ悪いんだけど。また病室にいくことになりそうだよ、しかも君の家の」

 黒木さんの転院先、それは霧霞総合病院だった。確かに、この地域で一番大きくて施設も充実している病院と言ったら、まずこの霧霞の病院の名が出てくる。

「そう。黒木さん、あそこに転院したのね。私なら問題ないわ、早速行きましょう」

 こうして桜病院を後にした僕ら。

「病気が悪化してたにゃんて。ねぇ、だんにゃ、大丈夫ですかね?」

「うん。さっきのナースさんの話しぶりからすると、命には別条ないような感じだったけど。それと、今から行く霧霞総合病院はね。まぁ、名前からも分かる通り、この霧霞の親父さんが院長を務める病院なんだよ」

 僕の言葉に、驚いたように霧霞を見上げるクロマル。

「姐さんの? そうですかい。そいつは何だか不思議な縁だ。世界ってヤツは、猫の額のように狭いもんにゃんですなぁ」

 確かに。何だか出来過ぎというか、作為的というような気がするのは、はたして僕の気のせいだろうか?

 一路、霧霞総合病院を目指す僕ら。

 その道中、霧霞が真剣な表情で僕に語りかける。

「嵐。私ね、あの事件の後、両親と話し合ったの。そこではっきりと宣言したわ。あの病院を継ぐ意思がないこと。医者になる意思がないこと。私は、私のしたいことをして生きていくということ。思えば、私が両親に逆らったのってこれが初めてだったの。幸いにも、私には優秀な兄が二人もいるから。最初は困惑していた両親だったけど、最後には認めてくれたわ」

 力強い眼差しで、僕に語りかけてくれる霧霞。

「そっか。うん。そっか」

「あの時、私を助けてくれたあなたには、一応報告しておこうと思って。… ありがとう、嵐」

 そう言って、その頬を赤く染めながらも僕にお礼を述べる霧霞。

 そんな霧霞に対して僕は、不覚にも涙していた。

「ちょ、ちょっと、嵐、何であなたが泣いてるのよ……馬鹿」

 再び、霧霞の拳が僕の顔面に飛んでくる。が、僕はそんなことお構いなしに感動に浸っていた。

「やれやれ、まだ夏には早いっていうのに、何だか今日は一段と暑いですにゃー。って痛い痛いですから、あっしのひげを引っ張るのはやめてくだせぇ、姐さん」

 微笑みながらクロマルのひげをひっぱる霧霞。

 僕の涙は、まだ止まりそうもなかった。


 そうこうするうちに、目的地である霧霞総合病院に到着した僕ら。

「あのナースさんの話だと、病状が悪化しているらしいからね。恐らくは個室だろうけど、最悪面会謝絶なんてこともありえるし、正直、意識があるかどうかも分からない。覚悟はいいか? クロマル」

 クロマルが静かに1度頷いたのも見届けた僕らは、再びクロマルをバッグに詰め込み、病院へと入っていく。

 何度も何度も霧霞の御見舞にきた結果、僕はこの病院ですっかり顔なじみになってしまったわけで。

 僕は顔見知りのベテランナースさんを捕まえて尋ねる。

「あら、花君。それに、夢お嬢様も。お揃いでどうしたの? もしかして、デートかしら? 若いってのはいいわねー」

 デート? 確かに、そう言えば。そんなこと考えもしなかったけど。朝から待ち合わせして、二人でどこかに出かけるって、これ、完全にデートじゃん。これ、完全にデートじゃん。… 大事なことだから、思わず2回も言ってしまったわけで。

 言われてみれば確かにそうかもしれないわけで。

 そっかー、これが世に言うデートってやつか。

 そう考えてみると、霧霞のやつはどんな気持ちで今日、あの公園にやってきたんだろうか? もしかして、最初からこのつもりで?

 そんなこんなを考えるうちに、僕の脳はオーバーヒート。みるみるうちに赤くなってしまうチキンな僕。

「あら、やっぱり若いわねー」

 そう言って笑うナースさん。

 またも見るに見かねた霧霞が助け船を出す。

「この病院に最近、黒木という女性が、桜病院から転院してこなかったかしら? 私たち、その人の御見舞にきたのだけれど」

「ああ、はいはい。黒木さんなら3階の305号室ですよ。でも意外ねー、お嬢さんと黒木さんがお知り合いだったなんて」

「ええ、ちょっとね。さ、行くわよ、嵐。ってあなた、いつまでそうしているのよ!」

 本日3度目となる霧霞さんの拳を浴びながら、僕らは黒木さんの病室へと向かった。

 残念だったな霧霞。ここは病院だからね、例え何度殴られようが、治療には困らないさ。そんな強がりが言える僕は、まだ何とか霧霞についていけそうだった。

 305号室。かつて霧霞がいた部屋より、一回り小さいものの、思った通り個室部屋だ。それに面会謝絶の札は出ていない。

「黒木、黒木。おっ、ここか。覚悟はいいか? クロマル。それじゃ入るぞ。… 失礼しまーす」

 見ず知らずの人の病室にいきなり入るってのは、やはり何度経験しても緊張する。霧霞のときを思い出す。

 ベッドで半身を起し、じっと窓の方をみつめる一人の老婦人。どことなく品がいいというか、儚げな感じを纏っている。

 この人が黒木さん?

 僕らが部屋に入ってきたことに気がついた老婦人が、こちらに目を向けてくる。

「あら、どなたかしら? わたしにお客さんなんて、珍しいこともあるものね」

「えと、あなたが黒木さんですか? 僕、花嵐と言います。で、こっちが霧霞夢。あなたに、会いに来ました」

「あらあら、そうだったの。こんなおばあちゃんのために、わざわざありがとう。さぁ、そんなところに立っていないで、こちらにおいでになって?」

 僕らは黒木さんのベッド脇の椅子に腰かける。

「はて、わたしあなたたちどどこかでお会いしましたかしら? 単に私が忘れているだけなら、ごめんなさいね。何しろ私も年が歳だから」

 僕は単刀直入に黒木婦人に質問していく。

「いえ、ご心配なく、僕たちこれが初対面です。それと、いきなり現れてこんなぶしつけな質問をして恐縮ですが、黒木さん、ちょっと前まで桜病院に入院されてましたよね?」

「ええ、確かに。少し前から、私の心臓の具合が悪化してしまって。先生の紹介でこちらの病院に転院させてもらったのよ。どのみち、わたしはもう長くないし、あの病院には色々と思い入れがあったものだから、出来れば離れたくなかったのですけどね」

 そう言って病室の窓から外を眺める黒木さん。思い入れか。それってやっぱりクロマルのことなんだろうな。

「それじゃあ、クロマルっていう猫を御存知ですか? ちょっと変わりものの黒猫なんですけど」

 僕の口からクロマルというワードが出た瞬間、眼を輝かせ、こちらを振り向く黒木さん。

「まぁ、あななたち、クロマルを御存じなの? あの子、今頃何処で何をしているのやら。元気ならいいのだけれど」

 黒木さんは昔を思い出すように、思い出に浸るように、すっと眼を閉じ答える。

「私はね、あの子がほんの小さな子猫のときから、あの子をずっと見てきたの。最初の出会いは、そうね、4年くらい前だったかしら、ある日突然、窓からクロマルが私の病室にふらっと入ってきたの。カラスにでも追いかけられ回されたのか、ひどく傷だらけだったわ。私は、クロマルを介抱し傷が癒えるまで私の病室のすみで匿っていたの。勿論、先生には内緒でね」

 そう言って笑う黒木さんの笑顔は、まるで少女のそれのようだった。

「しばらくして、傷が治って私の病室から出ていった後も、クロマルは私の病室を訪れてくれるようになったわ。あ、そうそう。クロマルという名前はね、わたしがつけたの。名前に深い意味はないのだけれど、私のベッドの上でまるまって眠る姿、みたままの名前ね。きっと、クロマルは私に恩義の一つでも感じてくれたのかもしれないし、病室で一人さびしくぽつんとしているわたしを、不憫に思ってくれたのかもしれない。クロマルは私の病室へと頻繁に訪れてくれたわ。わたし、元来おしゃべり好きなものでして、そんなクロマルをすっかり話し相手にしてしまいましてね。勿論、私がクロマル相手に一方的に喋るという意味ですけど。それでもね、あの子はいつでもわたしの話をじっと聞いてくれましたの。ときどき、この子、人間の言葉がわかるんじゃないかって思ったほどよ」

 猫は三年の恩を三日で忘れる何て言うが、クロマルのやつ、やはりというか想像通りというか、猫にしては珍しく義理堅いやつらしい。 

「こうして私がこの病院に移るまで、そんな日々が数年続いたかしら。あの子と会えなくなってしまったのはさびしいけれど、どうせ私も長くはない身ですもの。こんなおばあちゃんに毎日毎日、束縛されるというのもクロマルにとって、きっと良くないと思った私は、結局こちらに転院してきたの」

「あの、詳しいことは言えなくて本当に申し訳ないんですが、その、クロマルがあなたに会いたがっていまして。… それと、黒木さんの知っているクロマルとちょっと違うかもしれませんけど、驚かないでくださいね」

 ただでさえ心臓の悪い黒木さんだ。人の言葉を喋るクロマルを目の当たりにして、ショックで心臓が止まるなんて事態に陥ったら、正直目も当てられない。

 だからこそ、ここまできて本当に今のクロマルと黒木さんを会わせてもいいものかどうか、判断に迷っている僕。

 と、その時。今までの黒木さんの話を聞き、いてもたってもいられなくなったクロマルが、自分で霧霞のバックから勢いよく飛び出した。

「うおおおーーーーん。黒木殿。あにゃたというお方は」

 2足歩行、鼻水と涙垂れ流し状態で黒木さんに歩み寄るクロマル。本来なら感動的なシーンなんだろうけど、相変わらずシュール。

 一瞬何が起こったか分からないという顔をしていた黒木さんだったが、その後笑顔で答える。

「あなた、クロマル? クロマルなのね?」

 そう言ってクロマルを思い切り抱きしめる黒木さん。

「ぐ、ぐるじい。うれしいけど、ぐるじいにゃ」

「黒木さん、若干強く締めすぎみたいですよ。クロマルがアオマルになってます」

 冷静に良く分からないツッコミを入れる僕。

「あら、ごめんなさい。私ったら、あまりに嬉しかったのもだからつい。でもどうして? クロマルが人の言葉を喋るなんて」

「にゃ、いつだったか、黒木殿が言ったでしょう? 本当にあっしとおしゃべりが出来たらいいのににゃ、って」

 こいつ。その願いの為に、わざわざ伝承に取り憑かれて、僕たちを頼ってまで黒木さんに会いに来たってのか?

 猫にしておくにはもったいないくらい義理がたいやつだな、コイツは。

「そうね、そうだったわ。いつもいつも、わたしが一方的に喋るばかりだったから。あなたとお話が出来たらなって。こんな年でそんなことを考えているなんて、おかしいでしょう?」

 そう言ってはにかむ黒木さん。

「そんなことない。少なくとも私は、素敵だと思います」

 僕が答えるより早く、霧霞がそう答えた。バカバカしいって一蹴するかと思っていただけに、ちょっと意外な解答だ。もしかすると、かつての自分と重ね、霧霞なりに思うところがあったのかもしれない。

「ありがとう、お嬢さん。でも、こうして実際にクロマルとお話が出来る日が来るなんて、まるで夢みたいだわ。こんな年まで生きてみるものね」

 そう言って目を細める黒木さん。

 いつの間にかあたりは夕闇につつまれつつあった。

「クロマル、どうやら僕らの出番はここまでみたいだな。明日、もう1度ここに会いにくるよ」

「すまねぇだんにゃ、姐さん。お二方にはなんとお礼を言っていいのやら」

 そう言って一先ず病室を後にした僕と霧霞は、そのまま階段を下り、1階の売店横の待合室で隣会って座った。

「霧霞、今日はごめんな。せっかくの君の退院祝いだったのに、すっかり僕に付き合ってもらっちゃって」

 霧霞はしばらく僕の顔をじっと眺めた後、答える。

「いいわ、許してあげる。その、私も結構楽しかったから。だから、後のことは私に任せて。猫1匹くらいなら、私でも隠し通せる。ここまで来たんですもの、私も最後まで付き合うわ」

「ありがとう、霧霞。今回、君がいてくれて本当に助かったよ。僕一人だったら、どうなっていたか分からない」

「こ、これくらい、どうってことないわ。私が勝手にしただけ。あなたに何かしてあげたかっただけだから」

 そう言って笑顔を見せてくれる霧霞。

「そっか。やっぱりさ、霧霞はいいやつだよ。それに、そうやって笑ってたほうが君らしい」

「ば、馬鹿言ってないでとっとと帰ったら? そろそろ今日の面会時間も終わりよ」

 本日4回目となる霧霞の拳をうけつつ、僕は答える。

「うん。そうする。明日必ずまた来るからさ、それまで二人を頼むよ、霧霞」

 僕は二人を霧霞に任せて、一旦家へと戻ることにした。


          ◆


花家

「あ、兄さんお帰りなさい。今日のお散歩はどうでしたか?」

 そいういばリンネの奴、今日1日僕にまかせきりで何やってたんだろう。後でじっくり問い詰めてやる。

「うん。結構面白かったかな、色々と新発見もあったし。そう言えば有須って、猫好きだったっけ?」

「何ですか藪から棒に。でもそうですね、どちらかと言えば私は猫派ですけど。それがどうかしましたか? 兄さん」

「んー、いや、特に深い意味はないんだけど、今日ちょっと変わった猫と知り合ったもんでね」

「変わった猫、ですか。私に言わせれば、猫なんてみんな変わってると思いますけどね。人に懐かないし、自由奔放だし、何考えてるのか分からないですし。それって、何だか兄さんにちょっと似てますね」

 猫と僕が? こんなにも従順で人懐っこい僕は、どちらかと言えば犬じゃないだろうか。

「おいおい、そりゃ言いすぎだろ。僕はいつだって皆の事を考えてるんだぞ」

「ふふっ、冗談ですよ。もうすぐ晩御飯ですから、それまでもう少しまっていてくださいね」

 僕はそのまま自分の部屋へと向かう。

 すると、リンネが浮かない顔で僕の帰りを待っていた。

「嵐、あのね」

「リンネ、お前今日は何してたんだよ。何か用事があるって言ってたけど、もうすんだのか? こっちの方も何とかなりそうだぞ?」

 何か言いたげだったリンネだが、しばらく考えた後、その言葉を飲み込み、いつもの笑顔で答える。

「にゃははは、ごめんね。それにしても、一人でなんとかしちゃうなんて、さっすが嵐。あたし見直しちゃったよ」

「そう? まぁ、実際は霧霞に大分助けてもらったけどね」

「それでも、よ。今の嵐になら… いえ、何でもない。それじゃ、明日が仕上げね。頑張って、嵐」

 このとき、リンネが言いかけたこと。それは、この事件を解決した後、僕の身にふりかかってくることであり、それは痛いほどに僕を苦しめる

ことになるわけだけど、それはまた別の話。

 このときの僕は、ただただ翌日のクロマルの件で頭がいっぱいだったのだった。


          ◆


 翌日、早々に黒木さんの病室を訪れる僕。病室には黒木さん、クロマル、霧霞3人の姿があった。

「にゃ、まってましたぜ、だんにゃ。さぁ、最後の仕上げといきやしょう」

「もういいのか? 覚悟は決まったんだな? クロマル」

「こうして黒木殿と話すことも出来ましたからにゃ。それと、実を言うとあっしの体力も割と限界に近付いてましてにゃ。みにゃ様の前で、ぽっくりいっちまうってのも、カッコワルイですからにゃ」

「そういうことなら、分かった」

 黒木さんが不安げに言う。

「良く分からないけれど、この言葉を話すクロマルとは、もうお別れなのね? こんな年よりのお願いを聞いてくれて、本当に嬉しかったわ、クロマル。それと、花さんに霧霞さんも、私とクロマルのために、ありがとうございました。これで思い残すことはないわ」

「そんにゃ、黒木殿、弱気なことを言わにゃいでください。確かに、この姿のあっしとはお別れですが、にゃにも今生の別れってわけじゃにゃい。また、かにゃらず会いに来ますよ」

「ありがとう、クロマル。でもね、その気持ちだけで十分よ。こんなおばあちゃんにかまってないで、あなたはあなたの為に生きなさい」

「… にゃー。分かりやした。こにれてしばしのお別れ。黒木殿もどうかお元気で。では、さらば」

「ふん。最後まで生意気な猫ね」

 そんな霧霞のセリフとともに、僕らは黒木さんの病室を後にした。


 霧霞病院近くの川原。

「にゃにゃ、それではだんにゃ。最後のもう一仕事、お願いしやす」

 僕は静かに頷き、心の中でリンネに呼び掛ける。

 おい、リンネ。最後の仕上げだ、出番だぞ。

 そんな僕の要請に答え、どこからともなく現れるリンネ。

「呼んだ、嵐? む、くろ猫」

「むむ、てんし」

 二人の仲は相変わらずのようだ。

「それじゃあ、とっととやっちゃいましょう。くろ猫さん、分かってると思うけど、眼を閉じて心を落ち着けてね。何があっても、私たちを信じて、絶対に眼を開けちゃだめだよ」

「言われるまでもにゃい。さ、覚悟はとっくの昔に出来てますぜ。あっしは逃げも隠れもいたしやせん」

 そう言って胡坐をかき、どっしりと構えるクロマル。

「猫にこれを放つのは初めての経験ね、出来ればこれっきりにしてほしい、わっ」

 そう言って力いっぱい矢を放つリンネ。矢は一直線にクロマルを目指し、その心臓に見事命中。

 同時に、クロマルの体から黒い煙が出現する。

「流石あたし、猫も杓子も関係なし、百発発百中なんだから。さ、嵐、仕上げだよ」

 一瞬の痛みの後、僕の右手が光り出し、やがて何かの形を作り収束していく。

 …って何だこれ、巨大な、猫じゃらし?

 これがれっきとした天使の武器なのだというのだから、まったくもって世も末である。

 というか、今回のリンネさんは相当やる気がないご様子。

「何だか締まらないな、これ」

 とはいえ、武器は武器。どんな形であれ、伝承を祓うために必要なのであれば、それを使うのみである。

 僕はちょっとだけ文句を言いつつ、勢いをつけたのち、その猫じゃらしを黒靄に向かって振り下ろす。

 見事猫じゃらしがクリーンヒットしたのち、内部から光を放ち、やがてコピーキャット、猫またの伝承は離散していった。

 やれやれである。

「お疲れさまー嵐。何だか随分と様になってきたよ。嵐にも、代行者としての自覚が出てきたってところかな」

 自覚が出てきたかどうかは、わからないけど、そう言われてまんざらでもない僕は少し照れながら答える。

「そうか? だったらいいんだけどね」

「御謙遜を。だんにゃは立派な代行者ですぜ、あっしが保証しますよ」

「ははは、クロマルまで、ありがとう。って、え? なんで? お前、何でまだ喋ってるんだよ」

 霧霞が確かめるように、答える。

「何言ってるの? この猫またなら、私にはもうニャアニャア鳴いているだけにしか聞こえないけれど」

「え? それじゃあ何故僕にはまだクロマルの言葉が聞こえるんだ? リンネ、お前もまだ聞こえるだろ?」

「別に聞きたくないけどね。ほら、伝承を祓った後も、その対象者には天使の姿が見えたままでしょ? それと同じで、このくろ猫の言葉が、あたしたちだけには聞こえるみたいね」

 そう言って、けだるそうにくろ猫を見るリンネ。

「まぁ、そーいうことなんで。それに、だんにゃにはまだ恩返も出来てませんから、あっしに出来ることならなんなりとおっしゃってください。

 あっしにもにゃにかお手伝い出来ることがあるかもしれやせんから」

 そう言ってぺロリと舌を出すクロマル。その仕草は確かに猫そのもの。どうやらクロマル自体は無事にただの猫に戻ったらしい。

「そうそう、だんにゃ、早速一つだけアドバイスを。昨日、姐さんのバッグに入った時にゃんですが、にゃんと手作りのお弁当が入ってやした。それも二人分。勿論、猫ばばにゃんてしてやせん。ありゃ間違いなくだんにゃと食べるつもりだったんでしょうね。昨日はあっしたちが邪魔しちまいましたから、もしかしたら、今日も用意しているかもしれやせんぜ? だんにゃ、幸いにも今日もいい天気ですし、姐さんをデートってやつに誘ってやってくださいよ。姐さんも、あんな性格ですから。自分からは言いづらいんじゃにゃいかと思いますし。ね?」 

 このお節介猫が。そんなこと教えられたら、誘わずにはいられないじゃないか。

「ははは、ありがとよ、クロマル」

「にゃんのにゃんの、なんだかんだでお似合いの二人だと思いやすよ、あっしは。それではだんにゃ。また会いやしょう」

 そう言って去っていく一匹の猫の後姿を見送る僕。

 やっぱり変わった猫だ。今にして思えば、あいつってホントに唯の猫だったんだろうか?

 変なとこ、妙に人間くさかったし、猫にしては変な知識を持っていたり、その素性に謎の部分が多かった。実は猫型の地球外生命体とかだったりして。いやいやいや。それは無いか。ないない。

 まぁ、クロマルが去ってしまった今では、それを確かめるすべもないんだけどね。

「嵐、あたしもちょっとだけ確かめたいことがあるから、先に帰るね」

 リンネの奴、やはり昨日の用事はまだ終わっていなかったみたいだ。

「ああ、昨日の続きか? 僕も何か手伝おうか?」

「あたし一人で大丈夫。少なくとも「今」はね。近いうちに、嵐にも関係する話になる可能性はあるけど」

 意味深な言葉を残し、あっという間にいなくなったリンネ。

 その場に残される僕と霧霞。こうなってしまっては、やはりクロマルの助言通り、霧霞を再び誘うしかないじゃないか。デートってやつに。

「さっき、あの猫またと何を話していたの? まさか、私に関係することじゃないでしょうね?」

 こういうときの女のカンって、どうしてここまで鋭いんだろう? 

 僕は覚悟を決め、霧霞に話しかける。

「あのさ、霧霞」

 こうして、僕にとって、長い長い一日が幕を開けた。

 空は快晴、眩しいくらいの青空がどこまでも広がっている。

 そう。今日という日は、まだ始まったばかりなのだから。


 END




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