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天使の溜息、108っ!  作者: 汐多硫黄
第1章「始まりの天使リンネ」
5/14

第五輪「花と嵐と覚めない夢の眠り姫◆-霧霞夢の場合-」

第五輪 「花と嵐と覚めない夢の眠り姫◆-霧霞夢の場合-」


 季節は初夏、今年の梅雨入りは例年よりちょっと早い6月上旬。じめじめしとしと、連日雨ばかり降り続いている今日この頃。 

 十五夜月美という存在がこの世界から消えて既に2週間が経過。

 自分で決め、自分で実行したことにも関わらず、未だにふとした瞬間あの顔を思い出しては、溜息をついたりするヘタレな僕。

 そんなただでさえ落ち込んでいる時に、この長雨。僕の小枝のようなか細い心は、真っ二つに折れる寸前である。

 そんな僕の気持を知ってかしらずか、ここ数週間、何故か天使の試練は小康状態。

 こんな日々がいつまで続くかと思っていた矢先、ブルーな気分をよりブルーにさせるような、そんな一人の少女が僕の前に現れるのだった。


          ◆


「今日も雨。昨日も、その前も雨雨雨。きっと、明日も雨だよー嵐。まったくー、毎日毎日よく降るねー」

 僕の部屋でぷかぷかと浮かびながら外を眺めていたリンネがぽつりと呟く。

「ん? んー。そうだねー」

 ベッドでごろごろしていた僕は、こちらも呟くようにぽつりと答えて、また一つ、大きな溜息をつく。

「ちょっと嵐ー、ちゃんと聞いてよー。それに、最近溜息ついてばっかりだよ? まだ引きずってるの? ルナのこと」

 そんな話なんて聞きたくないとばかりに、ベッドの上で布団にくるまる僕。

「確かに、嵐にとっては苦渋の決断だったと思うけどさー。決めたのは嵐自身なんだから。それに、別にルナだって死んだってわけじゃないんだよ? 彼女が立派な天使になれば、いつかまた会える日だって来るかもしれないもん。だから元気出そうよ、ね?」

 のほほん暢気な、おとぼけ天使のリンネさんにここまで心配される僕。

 我ながら相変わらずのヘタレっぷりである。いっその事、もっと罵ってくれた方が大手を振っていじけられるのに。

「んー、頭では分かってるつもりなんだけど、どうにもこう、ぽっかり穴が空いちゃったような気分でね。実際、生活リズムまで変わっちゃったし。なかなか慣れないんだ」

 そう言ってもぞもぞと布団から顔を覗かせる僕。

「次の試験でも始れば、気持の切り替えが出来るかもしれなのに、こんな肝心なときに限って次の反応が全くないのよねー。これって、ルナを送り返したことと何か関係有るのかなー?」

「さぁ? どうだろうね。でもさ、確かに次の試験が始れば否応無しに気は紛れそうな気がする。でも、そんなに都合よく」

 その直後、まるで計ったかのようなタイミングで、リンネのアホ毛が力強く光を放ち始める。

「キッターーーー。やーん、何日ぶりかなー? さぁ嵐、これで言い訳できないよ」

 そろそろ夕飯時って時間帯。

 その上、外は土砂降りの雨。正直言って気乗りしない。とはいえ、やる気満々なリンネを前にして、行かないわけにも行かないし、いつまでもくよくようじうじしていては月見ちゃんに会わす顔が無い。

 ここは一丁、僕も気合を入れて望まねばなるまい。

 僕は両の頬を勢いよくバチンと叩き気合を入れると、興奮気味のリンネを見上げていった。

「ほら、リンネ。いつまでそこで浮いてるつもりだ? 置いて行っちゃうぞ?」

「うん! あは、やる気まんまんだね。よーし、頑張ろうねー」


          ◆


 僕たち二人は彼女のアホ毛に導かれるまま、雨の街を目的地も分からずとりあえず走っていた。

 一応、レインコートを着てきたものの、この雨の中では殆どその役目を果たしていなかった。

 僕がそんな事を考えているうちに、リンネのセンサーの光がよりいっそう強くなる。

 彼女がすっと指で指し示した先にある建物、それはこの町一番の総合病院である霧霞総合病院だった。


 僕が最初の試練の時、足を怪我した春雨先輩を連れてきた場所である。

 僕たちはそんな「霧霞総合病院」という大きな看板を通り抜け、院内へ入っていった。


 相変わらず、院内には大勢の患者たちが存在していた。

「さて、病院にいるってのは分かったけど、まさかこの大勢の患者さん達の中から探せっていうのか?」

 病院に来ているくらいだから、全員何かしら助けて欲しいことがあるというのは確実だが。まぁ、真顔で天使に助けて欲しい、なんて言う人がいたら、それこそ医者に見てもらったほうがいいとは思うけど。

 そんなことを考えるうちに、リンネはどんどん奥へ上へ突き進んでいく。そっちは姿が見えないからいいけど、病院内なのでこちらは走ることすら出来ないのだ。

 そうこうするうちにとうとう最上階に到着。

 この病院には何度も来ているが、流石にというか、幸いにというか最上階にきたことは一度も無かった。

 じりじりと緊張感が増してくるのが分かる。

 そんな時、ある一室の前でリンネが立ち止まり僕を手招きしている。

「リンネ、本当にここであってるのか? 最上階だぞ、ここは。どう見ても普通の患者がいるような場所じゃないと思うけど」

「間違いないよ、あたしのセンサーもバリサンだもの」

 あぁ、あのアホ毛ってやっぱり天界との通信用アンテナなんだ、などと関心しながら僕は、部屋の入り口に張られたネームプレートに目を通す。

 霧霞夢、か。… え? 霧霞だって? ということは、この病院の関係者ってことか?

「さぁさぁ、入り口でつったってないで早く入ろーよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ、まだ心の準備が」

 僕が言い終わる前に、ドアをすり抜けて先に行ってしまうリンネ。

 いまさらだけど、普通病院の面会って受付で手続きしたり、面会時間の制限があったりするものでは?

 まぁ、天使相手に愚痴っても意味なしか。僕も急いでドアを開ける。

 直後、いかにも機嫌の悪そうな、僕と同い年くらいの一人の少女の姿が目に飛び込んできた。

「… あなた誰? 私に何か用? 変質者?」

 確かにいきなり部屋に入ったのは不味かったけど、まさか開口一番初対面の人間に変質者と罵られるとは思わなかった。

 僕は、この時点で早くも頭が痛くなってきていた。

「えーと、すみません、病室を間違えちゃったかなー、なんて」

 僕は必死に考えをめぐらせようと試みた。が、彼女はその隙すら与えてくれなかった。

「間違えた? へぇ、この近くのフロアには病室はこの部屋しかないし、患者も私しかいないわ。あなたはいったいどこの誰と間違えたのかしら? 実に興味深いわ。変質者さん」

 彼女の鋭い眼光と涼しい笑顔が僕の心をえぐっていく。

 彼女と出会ってまだほんの数分だけど、一つだけ確信したことがある。間違いない。彼女はドSだ。

「あははは、ばれちゃったか、うん。実は霧霞さん、君に用が会って来たというか、何というか」

 僕は涙目になりながらリンネの方を見上げる。

 そこはかとない理不尽さを感じながらも、僕はリンネにアイコンタクトを送った。 

 ど う に か し て く れ。

 声なき声で必死にそう訴える僕。その間も彼女の質問攻めは続く。

「あなた、私に用があってきたの? それじゃぁ、あなたは私を知っているのね、でも私はあなたを知らないわ」

 彼女の言いたいことを理解した僕は、慌てて自己紹介を始めた。

「すみません、怪しいものじゃありません。勿論、変質者でもありません。僕の名前は花嵐。天使の使いの者です、はい」

「天使の使いの花嵐さん。… あなた、ぶっとばされたいの?」

 そういって再び鋭い眼光を向ける彼女。彼女のそれは、明らかに有須のものより断然強力だった。強力無比だった。

「あくまでふざけた態度をとるつもりなら、私にも考えがあります。それに、あなたみたいな不審人物に霧霞さん呼ばわりされたくないわ」

 その直後、リンネがそっと霧霞さんの真横に移動して、天使のキッスを施したのが分かった。

 そして、一体何を考えているのか全く理解できないが、リンネの奴、自らの顔をぐにっと引き延ばし変顔を披露している。

 僕が雷九のときにやってみせたあの顔である。

「ぷっ」

 思わず吹き出してしまう僕。

「やっぱり変質者で間違いないようね。突然何?」

 僕の視線につられて後ろを振り向く霧霞さん。

「…… そう」

 リンネの姿にも、その変顔にも動じず、突然、全てを悟ったかのように押し黙りうつむいてしまう霧霞さん。

「分かったわ。ついに時間切れってわけね。いいわ、私もこの生活にウンザリしていたところだし」

 僕とリンネはわけが分からず一緒に首をかしげる。と言うよりリンネ、お前も分からないのか。天使の癖に。

「どういう意味?」

 思い切ってたずねてしまう僕。

「とぼけなくてもいいわ、覚悟は出来ているつもりだから。あなたたち、天使なんでしょ? まさか漫画やドラマみたいに天使が直々にお迎えに来てくれるなんて、流石に予想もしていなかったわ。誰の場合でもこうなのかしら? それともこの病気のおかげ?」

 どうやら彼女は、あまり愉快でない勘違いをしているようだった。

 先ほど、霧霞さん呼ばわりされたくない、という彼女の発言を真に受けた僕は、何をどう勘違いしたのか、彼女を呼び捨てにするという暴挙に出た。

「霧霞、君の事情は良く分からないけどさ。結論から言うと、君はまだ死んでない。それと、僕は天使じゃない。ただの使い走り。だから君を迎えに来たわけじゃない。で、こっちは」

 僕が紹介しようとした刹那、リンネは勢い良く霧霞の前に飛び出る。

「じゃーん、天使のリンネちゃんでーす。キリキリ、あなたを助けにきましたー」

 リンネはここが病室とは思えないほどの声量と元気のよさで彼女に挨拶した。

 彼女の顔がみるみるうちに、初対面時の不機嫌そうなしかめ面に戻っていく。

 リンネの奴、さっきの変顔から続けて二発も滑りやがったな。どうしてもっと普通に登場出来ないんだ?

「助ける? 私を助けるですって? やっぱりあなたたち私をからかっているのね。いったいどうやって助けてくれるの? 私は何をすれば助けてもらえるの? 賛美歌でも歌えばいいの? それとも毎日協会で礼拝でもする? いっそシスターにでもなればいいのかしら」

 彼女の勢いは止まらない。そして僕たちにとって、彼女にとって、決定的な一言を言い放った。

「不治の病と宣告され、どんな医者からも匙を投げられたこの私を、あなたたちはどうやって救ってくれると言うの?」

 僕は全身の血の気が引き、目の前が真っ暗になるのを感じた。

 

 彼女の名前は霧霞雨、どうやら不治の病にかかっているらしい発光の少女。

 僕とリンネはそんな彼女を巡って、早くも一つの壁に直面しているのであった。

 不治の病、およそ日常生活では聞き慣れないその言葉の響きを反芻しながら、僕は淡い希望と期待を込めてリンネに尋ねた。

「リンネ、頼む、治せると言ってくれ。奇跡を見せてくれ」

 さっきまでの勢いはどこへいったのか、今度はリンネがすっかり黙り込んでしまっていた。

「無理だよ。幾ら天使といえども、テンタマのあたしじゃ不治の病を治すなんて奇跡、到底無理」

 僕もリンネも勇んで病室に入り込み、あれだけの啖呵を切った以上このまま無理でしたじゃ済まないし、そんなの身勝手すぎる気がした。

「そう、やっぱり無理なのね。ありがとう。たとえ天使の力でも私を治すことは不可能だって分かっただけでも、もう十分よ。それに、いずれにしろ、私はもう長くは無いみたいだから。だからお願い、私をこれ以上巻き込まないで。私に淡い期待を抱かせないで、私は残りの時間を静かに過ごしたいだけなの」

 彼女は力なくそう答えるとベッドに横になり、その日二度とこちらの方を向くことは無かった。

 つまり、僕たちに残された選択肢は、そのまま病室を後にする以外無かったのだ。

 つい数十分前の勢いが嘘のように、僕らは重い足取りで病院を後にして、あてもなく歩き始めた。

「なぁ、リンネ。彼女、本当に不治の病なのか? 本当に君の力じゃ治せないのか?」

 そんな僕の力無い質問に対して、意外な回答が返ってきた。

「勿論、違うわ。彼女はただの病気なんかじゃない。当然、不治の病でもない。そもそもあたしのセンサーが反応したんだよ? 答えは一つしかないでしょ、嵐」

「やっぱり取り憑かれてるのか?」

「そうだよ。そりゃ伝承が原因の病気だとしたら、普通の医者じゃ治しようがないもの、不治の病扱いされても可笑しくないわ」

「やれやれだよ。いずれにしても、まずは彼女のその病気を探る必要がありそうだな。本人からは聞き出せそうもないし、こっちで調べるしかないか。まぁ、名前も分かってるし、時間はさほどかからないだろうけど」

「本当? それじゃぁ、そっちは嵐に任せるね。あたしは、キリキリに取り憑いた伝承についてもう少し探ってみる。後であの病院で合流しよっか?」


          ◆


 時刻は午前6時。僕はいつもより一時間も早く、目覚ましすら使わず目が覚めてしまった。

 昨日は霧霞についての情報を集めるためあれやこれやと探りを入れ、整理するうちに結局そのまま部屋の床で寝てしまったらしい。

 僕は体をほぐしつつベッドを見上げると、リンネは静かに寝息を立て眠っていた。

 昨日、あれからずっと姿の見えなかったリンネだったったけど、どうやらいつの間にか部屋へと戻っていたらしい。リンネの事だ、何か手掛かりをつかんで来たに違いない。

 僕は、二度寝する気分にもなれず暫く部屋をうろうろした挙句、結局昨日集めた霧霞についての情報を改めて整理することにした。


 霧霞夢。彼女は霧霞総合病院の現院長の娘であり、3兄妹の末っ子。年齢は僕より一つ上ということらしい。

 小さな頃から成績優秀だった彼女はこの病院の跡取りとして、いずれ兄二人と病院を継ぐはずだった。

 しかし、彼女が高校二年になった17歳のころ、その病気は突然発症した。

 彼女の発症した病気、それは睡眠に関するものだった。

 端的に説明すると、彼女はいわゆる眠り姫なのだ。

 彼女は自分の意思、場所、時間に関係なく、いつでもどこでも自分の意識のタガは外れ、睡眠へと陥ってしまうという奇病気を煩っているしい。

 そして、更なる問題はその睡眠時間。 

 最初のうちは、早い時間に眠たくなったり、朝早く起きられなくなるという程度のものだった。

 しかし、やがて彼女の睡眠時間は増加していき、1日、2日、3日、今では1週間眠り続け、その後活動できる時間はたった1日、そんなレベルまで到達してしまっているらしい。このまま彼女の睡眠時間が増えていけば、いずれ昏睡状態に陥りそのまま意識が戻ら無くなる。そんな日が訪れるのも遠くは無い。

 確かに、普通じゃない。だが、これも何らかの伝承の仕業だといえば納得の出来る話ではある。

 どれくらい思考していたのだろう? 誰かの階段を登る音が聞こえたかと思うと、勢い良く僕の部屋のドアが開いた。

「にいさ… って、え?」

 有須は完全に意表を疲れた様子で、ぽかんとこちらを見つめてくる。

「や、おはよう有須」

 僕は普段よりちょっと得意げに朝の挨拶をした。

「お、お早うございます、兄さん。どうしたんですか? 今朝はやけに早いですね。この時間に一人で起きてるなんて、私、ちょっとびっくりしちゃいました」

 そういって僕に微笑みかけてくる有須。そこまで驚かれたのはちょっと心外だけど、たまには早起きってやつもいいかもしれない。

 僕らは揃って部屋を後にした。

 そういえば部屋を出る直前、リンネの姿がベッドから消えていたのがちょっと気になったものの、空腹には勝てずそのまま朝食へと向かうことにした。


「ありゃりゃ、にぃにぃが自分の力で起きて来るなんて珍しいね。これじゃあ、今日もまた雨?」

 小学生にもこんなことを言われている始末。普段の僕っていったいどれだけ情けなくうつっているのかちょっと不安になってきた。

「お早うダンゴ、今朝は自慢のプロレス技をかけられなくて残念だったね」

 いつも通りの朝の団欒風景。そんな中でも僕の心の中は霧霞に対してどしてやるのが一番いいのか、何をしてあげられるのか、という考えで満たされていた。

「なぁ、有須。例えばの話だけど、もし自分が不治の病に掛かっていて、誰かに何かしてもらうとしたら、何をしてもらうのが嬉しい?」

 僕は花家一番の常識人である有須に助けを乞うことにした。

「何ですか、突然? ま、まさか兄さん…」

 おっと、ここで下手に振舞っても怪しまれるだけだ。ただでさえ心配性の有須に心配させては兄失格。

「あ、別に深い意味はないんだ、それに僕のことでもない。ちょっと有須の意見を聞いてみたかっただけなんだ」

「良かった。もう、びっくりさせないでください。でも、そうですね、私だったら勿論病気を治してもらうのが一番でしょうけど、それが無理だとすれば… 誰かに一緒にいて貰えたら嬉しいです。私だったらきっと、不安で押しつぶされそうになってしまうと思うから」

 一緒にいること、か。

 霧霞が同じくそれを望んでいるとは限らないけど、確かにそれは霧霞にとって正しい回答のように思えた。


           ◆


 放課後


 僕は再び霧霞の病室へと向かっていた。

「嵐、待っていたわ。さぁ一緒にキリキリを助けましょう」

 病院入り口で待ち構えていたリンネ。昨日のしおらしさはどこ吹く風、どうやらやる気まんまんのようだ。

「リンネ、そういえば朝から姿が見えなかったけど今日1日どうしていたんだ? 何か分かったか?」

「うーん、確かに解決策といえば解決策かな。そうだ嵐、そっちの方はどう? キリキリについて何か分かった?」

 ちょっと言葉を濁されたのが気になったけど、何か秘策があるのは間違いないようだ。

 となると後は霧霞次第といったところか。

 僕らは緊張しつつ、再び霧霞の病室へと向かった。


          ◆


 霧霞夢の病室前


 そもそも昨日の今日だっていうのに、一体どんな顔して彼女に会えばいいんだろう?

 駄目だ、やっぱり緊張してきた。

 リンネは僕の後ろで僕がドアを開けるのをじっと待っている。

 今の霧霞はリンネが見える状態にある。だからなのか、昨日のようにドアをすり抜けて一人先に入るということはしないらしい。

 覚悟を決めた僕は、2度ノックをした後病室へと入った。


「また来たのね。昨日、私に構うなと言ったはずだけれど」

 僕が調べた彼女に関する情報が正しければ、彼女の今の生活スタイルは1日活動した後は、1週間眠り続けるといったもののはず。

 が、しかし。

 今、僕の目の前にいる彼女は紛れもなく目覚めているし、こうしてと僕と会話さえしている。

「良かった、今日も起きていてくれたんだね」

「ええ。こんな体になってから、二日続けて目が覚めるなんて珍しいわ」

 やっぱりそうか。これで少し希望が見えてきた。加えて、昨日に比べて彼女の機嫌も若干良い様に見える。

「だからといって、あなたたちと話すことも会う理由も無いわ。帰ってくれるかしら?」

「夢魔よ、キリキリ」

 霧霞の冷たく鋭い眼光をものともせず、リンネは良く透る凛とした声で答えた。

 普段聞き慣れたその単語に、僕は思わず聞き返した。

「夢魔だって?」

「そう、夢魔。英語で言うとナイトメア。一般的には黒い馬の姿が有名ね。それがキリキリに取り憑いた伝承だよ」

「またそうやって私をからかうのね。あななたち、本当に何者なの?」

「キリキリには悪いけど、あたしの話は、全部本当の事だよ」

 自信満々のリンネをよそに警戒心丸出しで、訝しげに僕らを睨む霧霞。

 そりゃ、いきなりこんな話をされれば怪しむのも当然だ。へたすりゃ宗教の勧誘かと思われても仕方が無い。

「昨日はあなたの奇抜な格好を見て、不覚にも本物の天使だなんて思ってしまったけれど、普通に考えればまずそれが一番怪しいわ。その上、さらにそんな不審な話を聞かされて、はいそうですかと信じられると思う?」

 彼女の言うことはあまりにももっともなことなので、反論のしようもない。

 僕だって今でもリンネのことを100%天使だと信じているかといえば嘘になる。そもそもリンネの存在自体、そういうレベルの話なのだ。

 そんな僕らの気持を知ってか知らずか、リンネはほぉを膨らませ不満感をあらわにしている。

「ふーん、あくまで信じてくれないのねー。いいわ、キリキリちょっと耳貸して」

 そう言って霧霞に近づいていくリンネ。いったい何をするつもりなんだ?

「ごにょごにょごにょにょ」

「! ど、どうして、どうしてあなたがそれを知ってるのよ」

 リンネが何やら耳打ちした後、霧霞の顔が見る見るうちに赤くなっていく。いったい彼女に何をいったのか気になる。実に気になる。

「ふ、ふ、ふ。言ったでしょ? あたしは天使だって。この部屋に忍びこむことくらいわけないもの。どう? 信じて見る気になった?」

 まだ何か言いたげな彼女をよそに、不適な笑みを浮かべるリンネ。お前はいったい何を見た?

 暫くベッドに顔を埋めていた霧霞だったが、何かが吹っ切れたように顔を上げ、こちらを睨みつけてきた。

「仕方ない。いいわ、信じます。そもそも頭にわっかを浮かべて二本の羽で浮いてる人間なんて、もはや不審人物ってレベルじゃないもの」

 不審人物っていうより、そもそも人間ですらないんだけどね。

「良かった、じゃあ話を次に進めるわね。昨日も言ったと思うけど、私たちはあなたを救いに来たの。私はテンタマ。つまり天使の卵だから、確かに不治の病や大きな怪我を治すことは出来ないわ。でもね、その原因が夢魔の伝承によるものだとしたら、それを取り除くことは出来る」

「それで、具体的には私は何をすればいいの? どうすれば私の体からその、夢魔を追い出せるの?」

「それはにはまず」

 リンネがそう言いかけた刹那、霧霞は突然倒れるようにして、眠りの世界へと誘われてしまった。

「お、おい霧霞? 霧霞さーん? 寝ちゃったのか?」

「あちゃー。やっぱりこうなっちゃったわね。最初から想定していた事態だったけど。もしかしたら、あそこへ行かなくても済むかも、なんて考えは甘かったみたいだね」

「あそこ? それに行くって誰が、どこに行くんだ?」

 僕は、堪らなく嫌な予感がした。

「にゃははは、分かってるでしょう? あ ら し」

 駄目だ、このパターンは駄目だ。僕は冷や汗が出るのを感じながら、リンネに続きを尋ねた。

「つまり?」

「つまりー、嵐が実際にキリキリのここに行って伝承を祓うんだよ?」

 そう言ってリンネが指さす先。

 それは、霧霞の頭部。彼女が今眠っているという状況を考えるなら、辿り着く答えは一つ。

「霧霞の、夢の中?」

「ピンポンピンポーン、花嵐選手、大正解でーす」

 昔、小型化した医者が自ら患者の体内にはいって、病気の原因を取り除くなんてSFものを読んだことがあったけど、今回の場合、それに近い話なのかもしれない。

「にゃははは、嵐、顔がひきつってるよ? まぁまぁ、そんなに心配しないでよ。何も彼女の体内に直接入るなんてわけじゃないんだから。っていうか、いくら天使でもそれは無理だよ」

 良かった。どうやら僕の想像とは違うらしい。

「今回嵐に行ってもらうのはね、あくまでキリキリの夢の中。うーん、そうだね、嵐が知ってるか分からないけど、天使の仕事の一つに、夢の中で人間にお告げを授けたり、母親に赤ちゃんの誕生を知らせたりする事が有るの。その場合、天使は自らが直接その人間の夢の中に出向いていく事になるんだけど、今回はそれを応用する形ね」

「ようするに、僕に霧霞の夢の中に入り込めって言いたいのか? そんな無茶な。そもそも天使の代行者なんて名乗っちゃいるけどさ、僕なんてただの人間だぞ。何の変哲もないただの凡人だ」

「でも、あたしの大切なパートナーだよ? それに、ほら。雨守三姉妹の試験のとき、サメサメを助けるために天使の力を使ったでしょ? それと似たようなものだよー、たぶんね」

 たぶんですか、そうですか。

 それにしてもリンネのヤツ、大切なパートナーだなんて恥ずかしいセリフをさらっと言ってくれちゃって。そんな事言われたらやるしかないじゃないか。

「で? 具体的にはどうすればいいんだ?」

「あは、さっすが嵐。そうこなくっちゃね。それじゃぁ、ちょっとだけ目を瞑って?」

 妙に嬉しそうなリンネの言葉に従い、素直に目を閉じる。

「もういいよー、さぁ、目を開けてみて」

 早いな。もういいのか。

 ぱっと見た限りでは別段、体に変化が起きたようには見えないし、特に何も感じなかった。

「上見て、上」

 上?

 リンネの言葉に従い、そのまま上を見上げる僕。その直後、僕の目に飛び込んでくる本来あるはずの無いもの。それは。

「これって天使の輪? しかもこれ、雨守先輩達の時とは違う種類の輪だよね?」

「そうそう、良く分かったわね。前回は重力制御用、つまり飛行用ね。んで、今回は夢世界進入用。いいなぁー嵐。テンタマはね、まだ人の夢の中に入る事が出来ないの。だ、か、ら、代わりに嵐に頑張ってもらわなきゃね?」

 いやいや、ね? なんて言われても。

 それにしても、天界ってもっとメルヘンな場所かと思っていたが、天使のワッカの秘密や空を飛ぶ仕組み、通信用センサーなどを知るたびに、実はかなりハイテクな技術を持ったところだったらしい。少なくとも現代のこの世界より百年は技術的に進んでいると思う。それは、僕の抱いていたイメージとは大分かけ離れているわけで。

 そんなことを考えているうちに、唐突に急激かつ強烈な睡魔に襲われる。

「… ん何だろう、僕も、何だか、眠くなってき… た…」

 そいじゃぁ、頑張ってねー嵐ー。

 そんなリンネの声援を最後に、僕の意識は、夢の中へと飛んだ。


          ◆


「起きて、起きてよ嵐ー」

 頭がずきずきする。それに、体が妙にふわふわする。まるで、自分の体が自分のものではないような違和感。

 それに、先程から誰かに呼ばれている気がする。誰かって… 誰だ? 確か、僕は病院にいて、それから…。  

 直後、僕の記憶が一瞬にして復活する。

「そうだ。僕は確か、天使のワッカをつけて」

「あ、気がついた? 嵐。あたしの声、聞こえてる? どーぞー」

 リンネの姿は見えないものの、確かにリンネの声は聞こえてくる。どうやらここは、霧霞の夢の世界らしい。

「そのワッカ、あたしとの通信機にもなってるから。何かあったら遠慮なくあたしを呼んでー」

「分かったよ。それで、リンネ。ここに来てから尋ねるのも何だけどさ、そもそも僕はこの夢の世界で、何すればいいんだ?」

「にゃははは、ごめんごめーん。まだ説明してなかったね。でも簡単だよー。その世界のどこかにいるキリキリを見つけて一緒に帰ってくればいいの。それだけ」

 それだけって。簡単に言ってくれるよな、リンネのやつ。

 それにしたって僕は、この夢世界でどうっやって霧霞を見つければいいんだろう。

 ふと、周りを見回してみても、一面白の世界。白い空間。加えて遠くの方は霞がかってよく見えないと言う人探しにはどう考えても向かないような最悪な環境。

「なぁ、リンネ。この世界でリンネのセンサーとかって使えないの?」

「ごっめーん嵐。当然、使えないよー。だってあたしはキリキリの病室に居るわけだしー。だから、頑張って探してね。夢の中だから疲れることは無いんだしー」

 なるほど、夢の中だけに疲労は感じないってわけか。

「分かった。取り合えず霧霞を探してみるよ」

 それにしても不思議な感覚。この世界、何も無い。何も無いのだ。

 こんな中でどうやって霧霞を探せばいいんだろう。そもそもここ、何も無いじゃないか。本当に夢の世界なのか?

 僕は戸惑いながらも歩いていく。

 辺りは一面真っ白。ただし、霞がかった遥か遠く前方方向に、一点だけ光が見えた。

「リンネー、聞こえるかー? 何にも無いぞーここ。どうなってるんだ? どーぞー」

「聞こえるよー嵐。何も無いって事は、今はキリキリが何も夢を見てないって事だよー、どーぞー」

「夢を見てないのに、僕は夢の世界にいるのか? 何だか混乱してきたよ、どーぞー」

「にゃはははは、深く考えちゃ駄目だよ嵐。とにかく夢の世界に慣れるためにも、その辺てきとーに歩いてみたら? どーぞー」

 やっぱり天使ってヤツは、いい加減だ。

 僕は一先ず遠くに見える一点の光を目指してみようと、一歩を踏み出した。

 が、その瞬間、世界が暗転する。

 

 ここは、どこかの部屋? 

 一瞬の暗転後、突如出現したまるで現実のような空間。いや、現実の世界そのものだ。

 つまり、霧霞が夢を見始めたってことなのだろう。

 さて、立ち止まっていても仕方が無い。霧霞探しを始めよう。

 しかし、部屋のドアノブを掴もうとした瞬間、そのドア自体をすり抜けてしまう僕。

 思わず呆気にとられる。

 … そうか、ここはあくまで霧霞の夢の中の世界。どうやら他人の夢の中では何も干渉する事が出来ないらしい。

 これじゃあまるで幽霊にでもなったような気分だ。


 仕方が無いので、リンネのようにすーっとドアをすり抜けていく僕。

 落ち着かない。実に落ち着かない気分。やっぱりドアってやつは開けるものであってすり抜けるものじゃないよね。

 そんな事を思いつつ、幾つかのドアや壁をすり抜けた先、その先で誰かの声が聞こえてきた。

 もしかして霧霞か?

 僕はその声の発生源に近づいていく。すると、一つのとある部屋に行き当たった。間違いない、ここから声が聞こえてくる。しかも二人分の声。

 僕は、思い切って部屋に侵入した。


「いいか、夢。お前は将来、この病院を継ぐ人物だ。だからこそ、お前にはそれに相応しい人間になって欲しい。分かるな?」

「はい。お父様」

 僕の目に、ある親子が映った。

 父親らしき人物の発した夢という言葉から、その幼女が幼き日の霧霞だということが伺える。

 流石は夢の中である。時間も空間も関係無しらしい。それに加えて、当然ながら、向こうにはこちらの姿は見えないようだし、こちらも向こうに干渉出来ないらしい。

 それにしても霧霞のやつ、小さいころから既にあの目つきなんだな。あの年にて既に可愛らしいと言うより、氷のような冷たいオーラを発している。やっぱり霧霞は、こんな小さなころから病院を継ぐつもりだったんだな。僕なんかとは人間としての器が違うのかもしれない。

 僕がそんな事を考えるうちに、再び世界が暗転する。


「夢、何だこの点数は! まだ理解できないのか? お前は私の跡取りなんだぞ。… あまり私を失望させてくれるな。」

「ごめんなさいお父様、ごめんなさい。もう二度と、しませんからっ」

 霧霞の親父さん、幾ら夢の中とはいえ容赦がないな。

 またもや世界が暗転する。


「お前は私の言う通りにしていればいいんだ。夢、お前に選択肢なんて無い」

 目を背けてはいけないと分かっていても、僕はこんなシーンの連続を見ていられなかった。

 何故、彼女が眠りに取り憑かれてしまったのか。それをまざまざと見せつけられたようで、気分が沈む。

 ただし、これはあくまで彼女の見た夢であり、現実世界の出来事とは関係ない… と思いたい。

 まぁ、チキンな僕の希望的観測だけど。

 正直に言ってしまえば、恐らく僕が見たこれまでの夢シーンは、現実にこれまで彼女が体験してきたことなのだろう。

 何というか、僕の幼少時代とは大違いだ。比べる事すら憚られるレベルだ。見ているだけで胃がよじれてくる。


 霧霞の夢、と称したスパルタ劇は続く。終わる気配すら見られない。

 彼女は、毎日毎日目覚めることなく、こんな悪夢を見続けていたってことか?

 気がつけば僕は、訳も無く走り出していた。


 これはあくまで霧霞の夢だ。ただの夢なんだ。僕が探しているのはこんなトラウマだったか? 彼女の傷だったか? 当然違う。

 僕が探しているのは彼女自身。霧霞夢、そのものだ。

 僕は、この彼女の夢の世界において唯一の希望の光のようにさえ見える、遠くに浮かぶ一点の光源を目指し疾走する。


 どれくらい走っただろうか? 夢の中なので疲労感は無いものの、いつまでたっても光に辿りつけない。

 辿りつけないどころか、近づける気さえしない。

「リンネ、リンネ聞こえるか? どーぞー。リンネさーん。リンネ? リンネー。おいおい、冗談だろ?」

 唐突にリンネとの通信が途絶えてしまった。

 これでは、霧霞を探すどころか無事にこの世界から脱出する事すら危うくなってしまった。

 焦った僕は、走った。とにかく走った。走りながら叫んだ。力の限り叫んだ。

「霧霞ー、君が、君がこれまでどんな人生を送ってきたか、どんな道を歩んできたのか、僕はこの夢の世界で見た君の極一部しか知らない。でも、それでも君がこの夢に、眠りにとりつかれた理由は、何となく分かった気がしたんだ」

 突如、僕の目の前に光が広がる。

 どうやら僕は、いつのまにか光へと辿りついていたらしい。

「分かったですって? ふざけないで! あなたに、あなたに私の何が分かるって言うのよ!」

 光の中心には、霧霞がいた。正真正銘、今現在の霧霞だ。

「霧霞、君が親父さんの病院を継ぐため、小さいころから必死に努力てきたってのは痛いほど分かった。ただ」

「ただ何? 私にそれだけの能力が無く、結局は落ちこぼれてしまった能無しだと言いたいの? 才能が無いって罵るの?」

「違う! 僕が言いたいのはそんな事じゃない」

 霧霞がその鋭い眼光でキッとこちらを睨みつける。

 内心震えあがりながらも、僕は構わず続ける。

「君は、本当に医者になりたかったのか? お父さんの後を継ぎたかったのか? それは、本当に君の意志なのかい?」


 バチン


 白の支配するこの空間に、たった一度だけ響き渡る鋭い衝撃音。

 霧霞のビンタは、涙の味がした。

 疲労はおろか、痛覚すらも今の僕には無いはずなのに。それなのに、何故僕はこんなにも痛みを感じているのだろう?

「願ったわ。私は、醒めない夢が欲しいと願った。永遠に眠っていたかった。朝が来なければいいと思った。現実を直視したくなかった。悪い? それの何がいけないのよ? 私は逃げたかった。周りの目から、期待から、重圧から、境遇から、そして、自分自身から」

 自信の塊のようだった彼女の口から、およそ彼女らしからぬ弱気な言葉が語られていく。


「小さい頃から決められたレールを進み、優秀な兄と比較され、それでも父さんや母さんに褒められたい、兄と同じように期待されたい、そんな思いでがむしゃらになって努力したわ。自分を捨てて、自由を捨てて。選択肢なんて、他にはなかったわ。そんな毎日に疲れ果てて、ふと気がついたときには、私はあまりにも空っぽだった。空洞だった。そんな自分に気がついてしまってからは、もう元のレールには戻る気になれなかったわ。でも、もう遅すぎたのよ、何もかも。もう戻ることも、進むことも出来なかった。だから私は、夢の世界へ逃避するしかなかった」

 そして、霧霞は、とうとう決定的な一言を言い放った。

「私は、病院なんて継ぎたくなかった。本当は医者になんてなりたくなかった。そんな風に考えるようになった私の体は、それ応えるように長い眠りに落ちるようになった。元々才能なんて無い私は、さらに両親や周囲から見放されるようになった。この病室は、言わば私の牢獄。私は、私の全てを否定されたの。あなたに分かる? この気持が」


 そこまで一気にまくしたてた霧霞は、両の手で顔覆い隠し、倒れるようにその場へ座り込んだ。

 それに呼応するように、世界は白の世界から一転、漆黒の闇に覆われた。 

 「だったら、そんなレールとっとと外れちゃえば良い」

 そんな彼女に対して、僕は覚悟を決めて話し始めた。

「生まれた環境も、親の期待も、周囲の目も、そんなの霧霞を形成するほんの一部でしかない。そんなもののために、自分を偽って自分を追い詰めて、自分を犠牲にするなんてあんまりだ。確かに君は色々なもの縛られていたのかもしれない。でも、君を見て僕が感じた事、それは、自分で自分を縛ってしまっているってことだ。勝手に自分で決め付け、勝手にあきらめて、自分から逃げている」

 尚も、闇は刻一刻と深まっていく。既に、眼の前の霧霞の姿さえ視認することが出来ない。それでも、僕は語り続ける。

「自分が空っぽだって感じたんだったら、これから君のやりたいことをやりたいようにやって、自分で自分を埋めていけばいい。少なくとも僕は、そんな人を否定なんかしない。人間、再スタートを切るのに早いも遅いも無いと思うよ?」

 そんな僕の言葉に反応するように、世界が再び白に包まれていく。

 眼の前に浮かび上がる霧霞のシルエット。

 良かった。どうやら霧霞は僕の眼の前にいてくれたらしい。僕の話をちゃんと聞いてくれたらしい。

 僕はいつもの癖で妹を撫でるように、俯いたままの霧霞の頭をそっと撫でた。

「なによなによなによなによ。わ、わたしだって、わたしだって本当は、やりたいことくらいあったわよ。人並みに夢くらいもってたわよ。でも、お花屋さんになりたいなんて、言えなかったんだもん」

 霧霞さんよ、その見た目やキツイ言動とは裏腹に、まさかそんな女の子っぽい夢があったとは。

 このご時世、小学生でも花屋になりたいなんて子は少ないってのに。花屋の息子として、何とも言えない感情がこみ上げてくる。

「霧霞、花屋になりたかったの?」

「そうやって笑えばいいわ。あなたもそうやって馬鹿にすればいいのよ」

「いや、馬鹿にするも何も。言ってなかったっけ? 僕ん家、花屋なんだ。だったらさ、うちでバイトでもしてみる?」

 彼女は、まるで緊張の糸が切れたかのように涙を流しながら声を上げた。


「今だ。離れてー、嵐ー」

 え? リンネ?

 聞き返そうとした瞬間、光の矢が僕の鼻先をかすめ、霧霞に命中する。

 直後、霧霞から黒い靄が広がっていく。

 これって、リンネが伝承を祓うときいつも使っている矢だ。リンネの奴、いったいどこから射ったんだ?

 というより、危うくもう少しで僕に命中するところだった。

 そんな文句を言う暇も無く、僕の右手には問答無用にいつもの痛みが走った。

「嵐、言い忘れてたけど、あなたがその世界から脱出するにはキリキリの伝承を祓うしかないの。といっても嵐が頑張ってくれたから、後は最後の仕上げだけだよ。さ、張り切っていってみよー」

「り、リンネ。お前、知っててわざと言わなかっただろ? しかも途中通信が途絶えてたのもお前の仕業だな。あれも嘘か?」

「テヘッ。どーぞー」

 テヘッってなんだド畜生ょおおお。

 こっちは不安で不安でどうしていいか分からない中、必死だったってのに。

 

 僕の右手の光は、やがてあるものの形になっていく。

「はぁ? 何だこれ、こんなものでどうしろってんだよ」

 僕の右手の掌の上に現れた物、それは、目覚まし時計だった。

「リンネ、目覚まし時計ってなんだよ。いいのか? 本当にこれでいいのか? どーぞー」

「にゃははは。大丈夫大丈夫、洒落てるでしょ?」

 洒落てるというより洒落になりません。

 しかもこの目覚まし時計。どこかにボタンがあるわけじゃ無いので、どうやって音を鳴らすかさえ分からない。

 … こうなったら考えても仕方がない、直感で行くしかない。

 僕は大きく振りかぶって、おもむろに光り輝く目覚まし時計を、投げた。目覚ましは黒い靄に命中すると同時にそのベルが鳴った。


 じりりりりりりりりりりりりりりり。


 目覚ましの音が空間中に響き渡る。

「嵐、もうちょっとで夢空間から脱出できるよ。キリキリをしっかり掴んで。絶対に離しちゃ駄目だからね?」

 僕は慌てて霧霞に駆け寄る。

「霧霞、手を、僕の手を掴んで」

 僕の体が徐々に消えていく。どうやら現実世界への転送が始ったようだ。

「…」

 しかし、俯いたまま、僕の手を掴もうとしない霧霞。

 まさか、ここに残るつもりか? 僕の説得は彼女に届いていなかったってのか?

「霧霞。いや、夢。僕が君をここから連れ出してやる。この世界から、病院から、君自身から。君のいるべき世界はこんなところじゃないだろう。だから掴んでくれ、僕の手を。最後の一歩は君の手で、君のその手で掴むんだ!」

 

 既に下半身が消えてしまった僕の腕を、霧霞のその白く細い腕が、力強く掴んだ。


          ◆


「き… か、み、霧霞。僕の声が聞こえるか? おい、しっかりしろー大丈夫かー」

「… ここは、現実? それともまだ夢の中なの?」

「安心して、ここは現実だよキリキリ。ほら、目の前に天使だっているでしょ?」

「こんな怪しげな天使がいるのなら、少なくとも天国ではなさそうね」

 そう言って微笑む霧霞。

 そうか、彼女もこんな風に笑えたんだな。いや、むしろこれが本来の彼女なのかもしれない。

「キリキリ、あなたの中の伝承は確かにあたし達が払ったわ。でもね、伝承に奪われたあなたの体力や精神はすぐには戻ってこない。キリキリの場合、取り憑かれていた期間が長かったから。恐らく、まだちょっとの間は入院生活を続けてもらうことになるわ。でも安心して? あなたの体調は必ず元通りになるよ」

 そうだよな。霧霞のやつ、1年近くも眠りと悪夢の世界に蝕まれ、闘って来たんだ。

 その奪われた一年という時間は、残念ながらもう返っててくる事は無い。

 それでも、彼女ならこれから新しい路が出来るはず。ここから再スタート切ることだって出来るはず。

「やれやれ、良かったな霧霞。少なくとも、君を眠りの世界に縛っていたものは消えた。君が本当の意味で自由になれるかどうか。後は、君次第だ」

 彼女はくしゃくしゃにした顔をリンネに向けた。

「ありがとう… でいいのよね。そんな感謝のセリフを言うのも久しぶりだから。どんな風にどんな顔をしていえば良いのかも、忘れてしまったわ」

 彼女の口から感謝の言葉が聞けるとは、感無量である。まぁ、僕にじゃなくてあくまでリンネに向けた言葉だけど。

「えへへへっ、いいっていいって。なんてったって私は、天使なんだから」

 そう言ってえっへんと胸を張るリンネ。と言うか今回に限っていえば、僕も結構頑張ったと思いません? 

「あ、嵐」

 霧霞に突然、しかも初めて名前で呼ばれ、心臓が飛び出るほどビビるチキンな僕。

 あ、そう言えば僕、彼女の事ずっと年下にも関わらず呼び捨てで呼んでたな。

 しかも夢の中では名前で呼び捨てにしちゃったし。

 まぁ、何も言ってこないってことは霧霞も気がついていないのだろう。たぶん。

「あ、あなたは私を夢の世界から、私の世界から連れ出したのよ? その責任、とってくれるの?」

 せきにん?

 そりゃ確かに、夢魔を払ったのは僕だし、夢の世界から連れ出したのも僕だ。でも、責任って、何すりゃいいんだ?

「あ、あははははは。そんなの当たり前だ。うん。僕なんかで良ければいくらでもね」

 お互い、訳も分からず顔真っ赤。

 そんなほほえましい僕らのやりとりを、少し離れてにやにやしながら見つめるリンネ。

 物知り顔でにやにやするのは止めてください。と言うか何か言えよ。見てないで何か言えよ。

「本当? 本当に本当? じゃ、じゃあ、また会いに来てくれる?」

 上目遣いで不安げにそんなセリフを吐く霧霞。

 今の彼女にそんなことを言われて、断れる男が果たしてこの世界にいようか? いや、いまい。断じていまい。

 少なくとも僕は、断る自信が無い。そもそも断る理由が無いわけで。つまり、僕の答えは。

「勿論。君が無事ここを退院するまでお見舞いに来る。何度でも来るから」

「ええ、ありがとう。楽しみにしているわ。不思議ね。私、今夜はいい夢が見れそうな、そんな気がするわ」


 安心しきったためか、はたまた夢魔を払った事による疲労のためか、彼女はやすらかな顔ですぅすぅと寝息を立て始めた。


 願わくば、今夜の彼女の睡眠が、彼女にとって心穏やかな眠りであらんことを、彼女にとって幸福な夢であらん事を。


 僕は最後に一度だけ、霧霞のその寝顔を確認した後、彼女の病室を静かに後にした。


END



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