第三輪「花と嵐と透明色の少女◆-雷九透の場合-」
第三輪 「花と嵐と透明色の少女◆-雷九透の場合-」
季節は初夏。
雨守先輩の件から数日後、そこには天使のいる生活にすっかり順応してしまっている僕がいた。
リンネと出会ってもうすぐ1週間。
たった1週間のはずなのに、リンネとは随分昔から一緒にいたような、そんな不思議な気分に陥ってしまうから不思議である。これも天使の力の成せる技なのかもしれない。
さて、そんなリンネはといえば。
雨守三姉妹を助け、最初の試練を無事に突破してすっかり気が抜けたのか、相変わらず僕の部屋でだらだらと堕落した生活を送っている。
そんな僕等をあざ笑うかのように、僕たちの二度目の試練は、意外な形で幕を開ける。
◆
「あーらーしー、どうしようアレがこないの」
リンネの口から発せられた呪詛にも似たその言葉は、僕の心臓と脳みそを瞬時のうちに凍りつかせた。
断じて違う。まず、それだけは言わせてほしい。いや、是非言わせてください。お願いします。
リンネのアホ毛こと天使センサーに、次の試練の反応が来ない。これが本来の正しい意味。
断じてやましい意味ではない。断じて。
「リンネ、お願いだから妙なところで省略しないでくれ。それだと色々とまずい意味になっちゃうから。本当、洒落にならない。漢として」
きょとんとした顔で、ことらをまじまじと見つめるリンネ。やめて、そんな無垢な瞳でこっちを見ないで。
「どうしたの? そんなに慌てちゃって、変なの。それより嵐、ぱとろーるに行こうよ」
やっぱり出たか、リンネの無茶振り。このところ妙に大人しかったから、そろそろ来る頃かとは思っていたが。
「ぱとろーる? 見回りをしたいのか?」
「うんうん。天使たるもの、例え試練以外でも人助けをして何ぼだと思うんだ。それに、町に出れば何かしら反応があるかもしれないよ」
突拍子も無いことだと思いきや、成程確かにそうかもしれない。
少なくとも、こうして僕の部屋で漫画を読みふけっているより、ずっと天使らしい行動だと言える。
とはいえ、そうなると勿論この僕も一緒に行かなければならないわけで。
「正直、こんな良い天気に外に出るのは僕のポリシーに反するんだよね。でもまぁ、君が僕の前に現れた時点で、僕の平穏は崩壊したわけだし。仕方ない。パトロールでもスイスロールでもロックンロールでも、いっちょやってみっか」
「嵐がギャグを外したところで、それじゃあ善は急げ。早速行こっか」
意気消沈の僕を尻目に、やる気満々な天使殿。
僕は、死んだ魚のような目で玄関へと向かった。
「あら、兄さん。珍しいですね。お出かけですか?」
丁度掃除機掛けを終えた有須と遭遇した。
「うん、ちょっとね。そうだ、何かおつかいがあればついでに買ってくるけど、手伝うことある?」
「ふふ、やっぱり珍しいですね。兄さんからそんなことを言い出してくるなんて。そうですね、ちょっと待っていてください」
ぱたぱたと台所に向かう有須。いつも迷惑掛けてばかりな僕なので、たまにはこうして兄としての沽券を保ってみる。
「ホント、嵐から言い出すなんて珍しい。今日は雨でも降るのかな?」
いや、雨は暫く勘弁願いたい。
「お待たせしました兄さん、はいコレ。今日はハンバーグです。自分から言い出したんですから、忘れずに買ってきてくださいね」
「おいおい有須。幾ら僕でも子供じゃないんだからさ、これくらい楽勝ですよ?」
有須から預かった買い物メモを携えて、僕らは町へと繰り出した。
◆
「でもさ、人助けって急に言ってもな。そんな都合よく困ってる人なんているのかな?」
「ちっちっち。天使も歩けば棒にあたるって言うでしょ?」
いやいや、言わないから。そんなツッコミを入れる間もなく、僕の声は思わず止まってしまった。
リンネと出会ってからというもの、多少なり耐性がついた僕だけど、少なくともそれは、僕のツッコミを止めるには十分過ぎるほど強烈な光景だった。
同時に、リンネの天使センサーが強烈に光りだす。
「きたきたきたー。やっぱり町に出てみて良かったね? 嵐、次の試練だよ。私たちの助けを待っている人が近くにいるよ」
興奮気味にそう答えるリンネを尻目に、務めて冷静に僕は答えた。
「そうみたいだね。まぁ、直ぐ近くっていうかさ、きっと目の前だよ、リンネ」
僕を凍りつかせた光景の正体。
僕の目線の先に佇んでいたのは、今にも消えてしまいそうなほどに儚げな「半透明」な一人の少女だった。
「これって言うまでも無く」
「伝承ね。とり憑かれてるよ、間違いなく」
意外にも、僕らが近づこうとする前にその少女はこちらに走り寄ってきた。
「よ、良かったー。あ、あの、私のこと、見えますよね? 見えてますよね?」
背格好からして、中学生くらいの、有須よりちょっと小柄なその少女は、何故かまるでガラス細工のように半透明で、彼女の後ろの景色まではっきりと見て取ることが出来るほどだった。
気を抜けばそのままいなくなってしまうのではないだろうか。その姿は、僕をそんな風に思わせた。
「うん、大丈夫。僕には君の姿が見えてるよ。まぁ、半透明にだけど」
僕は、その透明な少女を連れて一先ず人混みから抜け出した。
「さて、まず君の状況を確認したいんだけどさ。何故透明?」
透明少女はどこか落ち着かない様子でおどおどしながら答える。
「あの、その。私、私、朝起きたらこんな姿になっちゃって。それで、それで誰も私に気づいてくれなくて。誰も私を見てくれなくて。それで私、わたし、どうしたらいいか分からなくて」
眠りから醒めたら、こんな涼しげなスケルトンになっちゃっていて、誰の眼にも映らない姿になっていた、と。
僕がかろうじてでも、彼女を見てとることが出来るのは、やはりリンネの天使の力のおかげなのだろう。
「そっか、それは不安だったね。僕に何が出来るか分からないけど、君の力になるよ。あ、そういえば自己紹介がまだだったね。僕の名前は花嵐。何の因果か、天使のお手伝いをやってます」
一瞬ぽかんとした表情を見せたものの、次の瞬間には笑顔を見せてくれた透明少女。
「天使… なんですか? ふふふ、全然そうは見えませんよ」
そりゃそうだ。もしもこれで僕が天使なんぞに見えていたら、それはそれで大問題なわけで。
何にせよ、とりあえず笑ってくれて良かった。さっきなんて、本当に今にも消えちゃいそうだったもんな。
僕らがそんなやりとりをしている隙に、リンネはちゃっかりと例の口づけを透明少女に施していた。
「安心して、あたし達がちゃんと助けるよ。なんてったってあたしこそが、本物の天使なんですから」
そう言って偉そうに胸を張ってみせる天使。リンネお得意の、根拠の無い自信ってやつである。
「わわ、こっちは本物の天使様っぽいですね。コスプレですか?」
「コスプレ違うー。本物だよ。本物」
ん? 今一瞬彼女の姿が急にくっきり映ったような。僕の気のせいか?
「とりあえず落ち着いた?」
彼女はにっこり笑顔で答える。
「はい、先ほどはいきなり泣きついてしまってごめんなさい。私、雷九透っていいます。朝起きたら、こんな風に体が透明になってしまっていて。それで、私の姿が見える方たちにやっと出会えたので、ついつい初対面にもかかわらず泣きついてしまって。あの、私、いったいどうなってしまったんでしょうか?」
「伝承の仕業よ、トオルン。今回は間違いなく透明人間ね」
リンネのやつ、また勝手に変なニックネームつけて。毎度センスの欠片も無いな。
「と、透明人間って、映画とかドラマとか小説に出てくるアレですか?」
再び泣きそうな顔になりながら雷九が問う。
「うんうん。トオルンってばそのままだと透明どころか存在自体が消えちゃうかもねー。残念でした」
おいおいそんなずばずばと。もう少しオブラートに包んだ方が。
「うっ、うっ、うえぇーーーん」
ほら、言わんこっちゃない。
雷九は声を上げ、えんえんと泣き始めてしまった。
出会ったばかりの僕でも、今の彼女の精神状態や第一印象を考えれば、そんな風に直球で言われれば耐えられないだろうなと予想は出来たのに、この天使ときたら何をやらかしてくれてるんだか。
それにしても、気のせいか雷九の姿がさっきより薄くなってしまっているような。
「リンネ、雷九の姿がまた薄く、さらに透明になっていくぞ」
「あちゃー、やっぱりそっかー。この透明人間の伝承、トオルンの精神状態に合わせて透明化を進行させているみたいね。っと、このままじゃまずいかも。あらしーお願い、ちゃちゃっと彼女を元気づけて、笑わせてあげてね。よろしくー」
リンネの伝家の宝刀、無茶振りである。
只でさえ、トラウマである女性の泣き顔を前にしているだけで、既にいっぱいいっぱいの状況の僕に、その上笑わせろだなんて。
元はと言えば彼女を泣かせたのはリンネだ、こうなったらリンネにも責任の一端を担ってもらわねば。
僕は、素早くリンネの後ろに回り込み、そのやわらかほっぺをぐにーっと引き伸ばし、上下させた。
「ほべっ、いふぇふぇふぇ、ひょっほあらひー、なにふんのよー」
リンネの言葉をとりあえず無視し、僕は雷九に呼びかけた。
「雷九ー、ほら、見て見て、変顔天使だぞー。こんな顔でも天使だぞー」
今思えば、仮にも神様の使いである天使にこんなことやって、天罰の一つも下りそうな感じだけど、いっぱいいっぱいの僕にそんなことを考えている余裕なんて1ミリも無かったわけで。
「ぷっ。あははははは、変な顔。本当に天使なんですかー」
良かった、本当に笑ってくれた。こんな子供だましで笑ってくれるとは、よほどの純真なのか、それとも単純なのか。
それにしても出会ったばかりだと言うのに、泣いたり笑ったり。何だか表情がころころ変わる子だ。
「あ、ら、っしー。酷いんだからまったくもう。後でお返ししてあげるんだからね」
僕につねられていたほっぺをさすりながら、アカンベーしつつこちらを睨むリンネ。何だか後が怖そうだ。
「ごほん、えーとねトオルン。トオルンが透明になっちゃったのは、あなたにも何か原因があるからなの。伝承に付け入られる隙があったってことなの。何か、心当たりはある?」
雷九はうんうんと唸りながら必死にその原因を探っている。
「リンネ、何も雷九が悪いってわけじゃないだろ? たまたま運が悪かっただけかもしれないし」
僕のそんな意見を聞いたリンネは、珍しくまじめな表情をしながら答える。
「あのね、嵐。三姉妹のときもそうだったけど、偶然や運が悪かったからってだけで伝承は人にとり憑かないし、とり憑かれないの。ほんの些細なことでも、その人には取り憑かれるだけの理由があったってことなんだよ」
そういえば雨守先輩達のときもそんなこと言ってたっけ。それじゃあ、今回も透明になるだけの理由があったってことか?
とは言え、そもそも人が透明になっちゃう理由って一体何だろう。
「あの、関係ないかもしれないですが、私、ドジで、何か失敗しちゃったりしたときには良く消えちゃいたいって思うことはありますけど」
雷九はドジっ子か。確かにそんな雰囲気はひしひしと伝わってくるけど。いや、ありだな。うん。
「ははは、雷九、そういう経験なら僕もしょっちゅうあるよ。その場から逃げ出したいとか、消えちゃいたいってことくらいなら」
リンネが間を割って答える。
「嵐の言う通り、それだと理由としてはちょーっと弱いかな。嵐なんてそんなことしょっちゅうありそうだしー」
にゃははははと屈託無く笑うリンネを横目に、僕はとあるを提案した。
「ここにいても答えは出なそうだし、何より、急に雷九がいなくなったわけだから、君の家族も今頃心配してると思う。雷九、一旦君の家に戻ってみないか?」
雷九は表情暗くし答える。
「それは、大丈夫です。あの、私を心配してくれる家族なんていませんから」
「えっ、と? ご、ごめん。そうだと知らずに僕はまたデリカシーのないことを」
気を使ったつもりが逆に地雷を踏んでしまったらしい。相変わらずのダメ人間っぷりである。
「いえ、別にそういう意味じゃないんです。確かに、両親は私が幼い頃に亡くなりましたけど、私には祖母がいてくれましたから」
「今はそのおばあちゃんと暮らしてるのか?」
僕はさっきより慎重に質問していく。地雷は一つとは限らないのだ。
「私、この春から中学生になったんですが、小学校卒業するまではおばあちゃんと兄との3人で暮らしていました。ですが、つい数ヶ月前、今まで私を育ててくれた祖母も亡くなってしまって…。今は社会人の兄と二人暮しです」
そこで一旦話を区切る雷九。
何だか少しずつだけど雷九の抱えた隙間が見えてきた気がする。とはいえ、先程の件がある以上、こちらから突っ込んで聞くってのも難しい。
そんな僕の思いをよそに、リンネが率直に質問する。
「トオルン、今頃そのお兄さんが心配してるんじゃないの?」
「いえ、それはないです。兄は、殆ど家には帰ってきませんから。だから私、殆ど一人暮らしのようなものかもしれません」
そう言い放った雷九の姿は、明らかに先ほどより薄くなっていた。まずい、このままじゃ本当に消えかねないぞ、彼女。
原因を探るためにも、解決の手がかりを見つけるためにも、僕らは僕の提案通り一旦雷九の家に向かうことにした。
ずーんと重たい沈黙と空気が漂う中、僕は一先ず話題を変えようと必死に辺りを見回した。
と、道すがら丁度有須が通う中学が見えてきた。
「おっ、桜ヶ丘第二中学か。この辺に住んでるって事は、雷九が春から通ってるっていう中学校もここだろ?」
「はい。あの、もしかして嵐さんはここの卒業生ですか?」
どうやら雷九の興味を引く事に成功したらしい。良し、この調子だ。
「そうそう、ほんの2年前まで通ってたよ。だからちょっと懐かしいかな。ちなみに、僕の妹も今ここに通ってて、春から3年になったところなんだ。それにしても、相変わらず大きい桜の木だよな」
僕はフェンス越しに校庭に植えられた大きな1本の桜の木を見上げていた。
「知ってるか雷九? この桜の木って色々噂話があるんだ。例えば、この木の下で告白すると必ず成功するとか、ね」
ま、どこの学校にもありそうな七不思議的な話である。勿論、真偽の程は二の次だが。
「今日は土曜日だから学校休みだけどさ、出来ることなら何とかこの週末で解決出来ればいいんだけどな。急に雷九がいなくなったら、友達や先生達だって心配するもんね」
解決のめどどころか、原因さえもよく分かっていないにも関わらず、とりあえず決意表明のごとくそんなことを口にしてみる。
が、雷九からは意外な角度から意外な回答が返ってくる。
「… いんです」
「え?」
その声はあまりに小さく、僕は思わず聞き返してしまった。
「いないんです。友達。私、こんなふうにいつもうじうじしてるし、暗いから」
ジーザス。僕のバカぁああああああ。
悉く、二つ目の地雷を踏んでしまった。
「そ、そうなのか、まぁまだ入学して1ヶ月だもんね。そんなの、これからどんどん出来るさ。はは」
馬鹿あらしー。リンネがぼそっと呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
それと同時に、雷九の様子が明らかに可笑しいことに気がつく。
いや、透明の時点で明らかに可笑しいとかは一旦置いておくとして、つまりは更なる異常事態が発生したと考えていただきたい。
つまり、僕が何を言いたいかといえば… 雷九の服が、体が…。
「あ、あははは。あの、雷九さん?」
挙動不審な僕の様子と視線に気がついたのか、雷九は僕の視線の先、つまり自分自身の体を見た。
「え! きゃっ、何で、や、やだ、どうし… う、う、ううぅううううえええええん」
顔を真っ赤にしまたもや泣き出す雷九。
解説しよう。今まで雷九の体はその服ごと透けていた。が、今の雷句は、何故か服の透明化がより強く発現し、雷九自信のボディが、はっきりと見えてしまうという、何ともけしからん状態になっているのだ。
「これはまずいわ。思ったよりも時間が無いかも」
「ああ、確かにこれはけしからんな」
ギロリと僕を睨みつけるリンネ。
まさか、天使にまでガンつけられるとは。妹達と違って拳が飛んでこないだけマシだけど。
「嵐サイテー。このままじゃ、嵐のせいで本当にトオルン消えちゃうよ?」
そ、そんな、今のは不可抗力なんだよ。
… イヤ、今回ばかりは僕は全面的に悪いです。
というわけで、何とかせねば。何とかせねば。
リンネの顔弄りが二度も通じるかは分からないし…。
追い詰められた僕は、一つの結論に達した。これだ。これしかない。
「聞け、雷九。うぉおおお、3.14159 26535 89793 23846 26433…」
いきなり何かって?
これは僕の特技の一つ。円周率暗唱だ。
効果は抜群、雷九はびっくりした様子でこちらを凝視している。
どうやら透明率も元に戻っている様子で、残念ながら… ごほん、一先ずは服も体も同じく透明化している。つまり、最初の状態に戻っていた。よくはないけど、一先ず良かった。
「嵐さん、今のって円周率ですよね? 凄い、良く覚えられますね。数学の先生みたい」
そういって、僕の手をつかんで握手し上下にぶんぶん振る雷九の顔は、先ほどの泣き顔から一遍笑い顔になっていた。
ころころ表情が変わる子だなと思っていたが、これって情緒不安定というやつじゃないだろうか。
もしかしたら、これも雷九がとり付かれた原因の一因かもしれない。
「うん、そうだよ円周率。別に数学は得意ってわけじゃないんだ。ただ、何か暗記するのが得意、というより好きなだけ」
実は以前、この手で親戚の赤ちゃんを泣き止ませたことがあった。まさか中学生にまで通じるとは思っても見なかったが。
僕らがそんな会話をしていると後ろからリンネが小声で話しかけてきた。
「嵐、トオルンが彼女の感情の変化によって透明化が進んでいたのは分かったと思うけど、そのバランスが崩れてきてる。彼女の服だけ透明化が進んだり、嵐は気づいたか分からないけど、さっきトオルンが嵐の手をつかんで上下に振っていたとき、一瞬だったけど、嵐の手まで透明になっていたの。トオルンの透明化の対象が無差別になってきているわ」
馬鹿な。つまり、このまま彼女の透明化が進行すれば、自身だけでなく周りまで巻き込んで透明にしてしまうってことか?
「それともう一つ。嵐、走った方がいいよ」
しまった。
前回から何も学んでないのか僕は。普通の人に二人の姿は見えない。いや、それ以前に、公衆の面前でいきなり円周率を叫ぶ人間を見たらどう思う? 僕だったらきっと、ああ、春だなぁと思う。つまりは、そんな状況。
僕は、メロスのようになりふりかまわず、走った。
「嵐ー、まってよー」
後ろからリンネの声がする。
「えーい、止めるなリンネ。僕は、僕は、人間の屑なんだよぉおおお」
またもや後ろから声が聞こえてくる。
「そんなの知ってるけど、そっちはトオルンの家とは逆なんだってばー」
僕は、泣いた。
◆
そんな重苦しい空気の中、僕らは何とか雷九の家に到着した。
「どうぞ、上がってください。何も無いところですが」
「じゃ、遠慮なくー。さーてトオルンのお部屋はどっこかなー」
リンネはドアをすり抜け、ずずいと一人先へ行ってしまった。
「… びっくり。コスプレじゃなくてやっぱり本物の天使様なんですね」
「そうだね。僕も最初信じられなかったけど、あれを見せられると流石に信じざるを得ない」
雷九は目を輝かせこちらをじーっと見てくる。
「ごめん、雷九。そんなに期待してもらって悪いけどさ、僕には無理です。代行なんて名乗ったけどさ、あれは便宜上であって、僕なんて所詮天使の使い走りだから。とてもじゃないけど真似できないよ」
必死に否定する僕だけど、リンネの力の一部を借りているっていうのなら、三姉妹の時の翼のように、いつか僕もあれ出来るようになるんだろうか?
「ふふ、分かってますよ。嵐さんは天使というより、どう見ても普通の人間ですもん。さ、嵐さんも入ってください」
そう言って微笑む雷九。彼女は自分のこと暗いなんて言っていたけど、とてもそうは見えない。確かに色々と辛いことがあったようだけど、こちらが本来の彼女の姿なんじゃないだろうか。
僕は居間に居たリンネを捕まえて雷九の部屋へと向かった。
「ね、ね、嵐。居間に天使の絵が飾ってあったんだけど、見た? ねぇ見た? あたしさー笑っちゃった。だって、すっ裸な赤ん坊の天使が」
「そんなの知りません。というか、フリーダム過ぎだぞリンネ。それより、解決方法は見つかりそうか?」
「ぶーぶー、ちゃんと聞いてよー。え? うん、何となくだけど、原因は分かってきたわ。これから幾つか検証は必要だけど」
僕らを部屋に案内した後、雷九は台所へと向かった。そんなわけで、僕らは雷九の部屋で待機中。
「どうしたの嵐? さっきから妙にそわそわしちゃって。トイレなら階段の横にあったよ?」
「別に我慢してませんから。ちょっと緊張してるだけだよ」
雷九の部屋は年相応に女の子女の子した部屋で、可愛らしい小物やぬいぐるみが幾つも並んでいた。
「ぷぷぷっ。女子中学生の部屋に入ったくらいでもじもじしちゃって、嵐ったら可愛いんだからー。でも、妹ちゃん達の部屋くらい入ったことくらいあるでしょ? 年だってそんなに変わらないんだし、だったらそんなに珍しいこともないと思うけどなー」
僕は引きつった笑顔を浮かべ、リンネから視線を微妙にずらし、虚空を眺める。
そんな僕の様子から何かを察したのか、リンネは申し訳無さそうに答える。
「ごめんね。嵐も苦労してるんだね、色々と」
お願いだから謝らないでください。
年頃の妹を持つ兄の、戦々恐々としたこの気分をどうか分かってやってください。
正直、妹達の部屋なんてここ何年も足を踏み入れていない。単に僕が意識というか警戒しすぎなのかもしれないが、もしも僕が入ろうものなら、どんな罵声を浴びせられるか分かったものじゃない。男兄弟と違って、女兄弟なんてそんなものである。
僕らがそんな不毛なやりとりをしているうちに、飲み物をもった雷九が部屋にやってきた。
やはり姿は消えかかっていても、物を持つことも触れることも出来る様だ。つまり姿が半透明な以外、普通の中学生そのもの。
僕らの前にお茶を置くと、雷句は唐突に質問してきた。
「あの、リンネさんは天使様なんですよね?」
「えっへん、そうだよ」
リンネが偉そうに答える。
本物の天使なら、もう少し謙虚さってやつを知ってほしいものである。
「私、このままだとどうなってしまうんでしょうか?」
こうしている今でも、少しずつだけど確実に薄く透明になっていく雷九の体。と、なるとその成れの果てといえば。
「本当に消えちゃうかもね」
だ、か、ら。もう少しオブラートに包んで言えっていうのに。
案の定、雷句の顔は見る見るうちに悲しみに染まっていく。
「今の状態でも、私たちは天使の力であなたを見ることが出来るけど、既に一般人にはあなたの姿は見えないレベルまで来てしまっているわ。トオルンが消えちゃうのも時間の問題かもねー。勿論、私たちがそんなことさせないけど。だから安心してよ、トオルン」
天使のスマイルを浮かべるリンネ。
「そのためにも、まずあなたが取り憑かれた原因を探らなければならいの。そうだねー。まず最初にあなたのことを聞かせてよ、トオルン。どんなことでもいい、あなたの話が聞きたいな」
「あの、本当にそんなことでいいんですか? そんなことで私、本当に元に戻れるんですか?」
不安そうにこちらの様子を伺いながら、そう答える雷九。
僕自身も何とかしてあげたいけど、ここはリンネの言葉を信じるしかない。
リンネは何も語らない。その代わり、優しく雷九を見つめている。
その姿を見て、何かを決意した雷九はその口を開き始めた。
「先ほどもちょっとお話したことなんですが。小さい頃は両親と兄と私の4人でごく普通に幸せに暮らしていました。両親は優しかったし、兄は私と年が離れていたものの、よく一緒に遊んでくれました。でも、そんな日々も長くは続きませんでした。私が小学1年の頃、あれは忘れもしない、私の初めての授業参観日のことです。両親はとてもはりきっていて、父は会社を休んで見に来てくれると約束してくれました。ですが、当日その時間になっても一向に両親は現れませんでした。両親は、私の授業参観に出席するため、車で小学校まで向かう途中、居眠り運転のトラックに衝突されて…。何だか、B級ドラマみたいなお話みたいですよね。それからの時間は、あっという間でした。変わり果てた両親と対面して、生まれて初めてのお葬式に出席して、親族間で私の処遇が話し合われました。最初は、兄が私の面倒を見ると言ってくれたそうですが、まだ若かった兄に私を育てるのは無理だと判断されて、結局、祖母が私を引き取って一緒に暮らすことになりました」
自身の苦い思い出と向き合あっている雷九。そんな彼女の頬には涙が伝っていた。
「両親を亡くし、兄とも離れて暮らすことになってしまった私は、自分の殻に閉じこもってしまい、学校でも一人で居ることが多くなりました。それでも祖母は毎日私を励まし、元気付けてくれました。祖母がいてくれたから、私はどうにかやっていくことが出来たのですが、その祖母も私が中学に上がると同時に病で亡くなってしまいました。そんな折、今度こそはと兄は私を引き取ってくれて、一緒に暮らすようになったのですが。兄は変わってしまいました。両親が亡くなったとき、兄弟二人で暮らすなんて無理だと親族から言い放たれてからというもの、兄は私を引き取るため、親族を見返すため、たぶん凄く頑張ったんだと思います。一緒に暮らすようになっても、朝は早くから家を出て、夜も帰ってくるのは遅いので、殆ど顔を合わすことは有りません。私、このままじゃ兄まで倒れてしまうんじゃないかと心配で」
今までじっと黙って雷九の話を聞いていたリンネが口を開く。
「トオルンありがとう、頑張ったね。参考になったわ」
そう言ったリンネは、ふと窓の外を見ながら続けて言う。
「ね、トオルン。ちょっとしんみりしちゃっただろうけど、折角のいい天気だし、散歩でもしない?」
また唐突な申し出だけど、リンネなりに何か考えがあるようだし、ここまできたらリンネにとことんついて行くしかないか。
「散歩、ですか?」
「そ、散歩だよ。いこ?」
雷九が玄関に向かう中、僕はリンネに尋ねた。
「なぁ、リンネ。僕には心なしか雷九の姿がさっきよりはっきり映って見えるんだけど。どういうことだ? もしかして今なら、普通の人にも見えるんじゃないか?」
「えへへ、よく気が付いたね嵐。その通り、トオルンの体、今は安定してるからたぶん普通の人間にも見えるレベルまでに戻っていると思うよ。あたしのキッスの効果とあたし達に話した事でちょっとすっきりしたんじゃないかな? でもねー、これはほんの一時的なものだよ。根本的な解決にはまだまだ。これからが勝負よ」
◆
土曜の午後という休日真っ盛りな時間帯に、僕らは揃って散歩に出かけた。
それにしてもいい天気。コレだけの天気なら、確かに部屋に篭っているのはもったいないかもしれない。
特に予定なんて無くてもふらっと外に出たくなってしまうような、そんな天気。
このところ雨が続いてたってのもあってか、若干恋人同士やカップルが多いように見受けられる。
いつもならそんな様子に間違いなく毒づいている僕だけど、今回は一味違う。
右側には自称天使。左側には女子中学生という多少変則的でありながらも、両手に花状態なのだ。世間様に負ける気がしない。
「しっかし、本当嫌味なくらいいい天気だよ。この間までの雨が嘘みたいだよね。それで、リンネ。僕達は何処へ向かっているんだ?」
日の光を浴び、パタパタふわふわと気持よさそうに飛んでいたリンネが答える。
「にゃはは、大丈夫、目的地ならあるよー。あ、ほら見えてきた」
僕らの視線の先に有るもの、それは… 桜ヶ丘第二中学校だった。
「え? ここ来る時にさっき通った中学だぞ? 本当にここでいいのか?」
「いいのいいの。ね、トオルン。あなたの教室に案内してくれる? あたし、トオルンの教室が見てみたい」
天使の考えることは、さっぱり分からない。
「分かりました。特に面白いところでもないですけど、案内します」
雷九の言い方がちょっとだけ引っかかったものの、僕らは彼女の案内で校内へと入っていった。
「そういえば、幾ら休日とはいえ、僕なんかが勝手に入っていいのかな?」
リンネは見えないからいいとして、幾ら卒業生といっても、僕なんかが勝手に侵入してもいいものだろうか?
「ぷぷっ、なに言っちゃってるの嵐。その見た目なら全然問題ないと思うよ、あたしは」
「あーそうですか、そうですか、どうせ僕はチビですよ。高二にもなって未だに中学生と間違えられることもしばしばですよ」
有須はもとより、団子にさえ身長抜かれるんじゃないかと日々戦々恐々としてますよ。
笑いたければ好きなだけ笑うがいいさ。頑張れ僕の成長期。
「ふふっ。お二人は仲がいいんですね。何だかちょっと羨ましいです」
雷九の教室は一階ということもあり、早々に到着してしまった僕達は、それぞれ自由行動をとっていた。
雷九はそこが自分の席なのか、一番後ろの奥の席に座っていた。ついでに言うと、リンネは黒板に落書きをしている。
休日とはいえ、校舎には部活動に勤しむ生徒達の姿があった。僕はといえば、教室の窓から外をぼけっと眺めていた。
「へぇ、やっぱり土日とはいえ結構生徒が居るね。これが正しい青春ってやつなのか、皆輝いて見えるよ。僕のくらーい中学時代とは大違いだ」
「嵐さん、中学時代に部活は何かされていたんですか?」
「いやー、お恥ずかしい話、ばりばり帰宅部だったよ。今考えると相当恥ずかしいんだけどさ、当時の僕ってばちょっとひねくれててね。皆と同じことなんてやりたくねー、とか、僕は皆とは違うんだ、部活なんてやってられるかよ。なんて思ってて、さ」
そんな僕の独白を聞いたリンネと雷九は、顔を見合わせ同時に笑いだした。
「にゃはははは、嵐ってば最高。その思春期丸出しの中学時代は反則だよー。そりゃ、妹ちゃん達も苦労するはずだよー」
分かってるよ。僕の中でも一番の黒歴史さ。妹達にもそれはもうウザがられたもんさ。今思い出しただけでも転げ回りたくなるレベル。夜中に奇声を上げながら転がりまわりたくなるレベル。
… それでも月見ちゃんだけは、彼女だけはそんな僕に対して変わらず接してくれたけどね。幼馴染って偉大だ。
僕は顔を真っ赤にして黙り込む。
そのとき、この教室の扉が突然開かれ、一人の女生徒が入ってきた。
ユニフォームを着ていることから、運動系の部活をした帰りなのかもしれない。
「笑い声がしたから誰か居るのかと思ったけど。意外ねー、雷九さんだったんだ? どうしたの? 珍しいね、お休みの日に学校にくるなんて。あ、もしかして何か部活に入ったりしたとか? それと、そちらは誰? も、し、か、し、て、雷九さんの彼氏とか? きゃーっ」
何だかめちゃくちゃ元気な子だ。しかもこちらに答える隙すら与えてくれない。
「う、うん。教室に忘れものしちゃって、それを取りに来ただけだよ。あの、あと、こ、この人は」
雷九のやつ困ってるな。そりゃそうだ、僕みたいのが彼氏だなんていい迷惑だもんな。ここは一つ助け舟を出そう。
「どうも、雷九の「友達」の花って言います。君は、雷九のクラスメイトかな?」
「はいはい、そうですよ。あたしラクロス部に入っていて、たまたまその帰りに教室に寄ったんですけど。ふーーん。雷九さんのお友達ですか… 本当にー? 本当に唯のお友達ですかー? って失礼でしたね。あははは。実はあたし、雷九さんが笑っているところ今日初めて見たんです。雷九さんが色々と辛い思いをしてきたっていう話は風の噂で聞いています。そのせいか彼女、いつも表情が浮かなくて、元気が無かったから。ちょっとこっちも声をかけずらかったってのもありまして。折角のクラスメイトですもん、この1ヶ月、ずっと何とかしたいなって思ってたんですよ。でも驚いちゃったなー。雷九さん、あんな顔で笑ってるんだもん」
クラスメイトのその子は一気にまくし立てる。うん、話を聞いているとどうやらすごいイイ子っぽい。
「そうなの? 雷九、僕の前では結構笑ってくれたけどな」
「むふふふ、だからですよー。だからてっきりあなたのこと、雷九さんの彼氏だと思ったんです。本当にただのお友達ですかー? と、冗談はさておいて」
ちぇー冗談かー。
「ねぇ、雷九さん、もっと笑って?」
そう言いつつ、自身もにっこり微笑むクラスメイトちゃん。
「こ、こう?」
言われるがまま、にっこり笑って見せる雷九。
「雷九さん、その方が絶対いいよ。ね? えーと、花さん?」
「そうだね、確かにこっちの方が可愛いよ、雷九」
嵐のすけべー。そんな声がどこからともなく聞こえてくる。
「そうだ、雷九さんってラクロス興味有る? もし良かったら見学していかない? それに、もっとお話したいし」
そういえば、雷九の部屋の隅にラクロスの本が数冊あったような気がする。
「雷九、折角こうして話せたんだ。僕のことは気にせず行って来なよ。大丈夫、また後で会おう」
僕の言葉を受け、ちょっとだけ逡巡した後、雷九はこくりと頷いた。
「本当? やったやった。良かった、それじゃ早速いこっか? あとで花さんとの関係も詳しくきかせてね?」
一度だけこちらを向いてぺこりと頭を下げた後、二人は運動場へと向かっていった。
「なぁ、リンネ。これで良かったのか?」
二人を見送った後、僕は教卓の上で何故か偉そうに突っ立っているリンネに向かって言った。
「僕達、雷九に何かしてあげられたのかな? 今回僕、何もしてないぞ?」
リンネは教卓から僕の座る雷九の席の方を見ながら、まるで道徳の時間の教師のように優しく語りかけてきた。
「天使の仕事って言うのは、何も荒療治ばかりじゃないわ。一番大切なのはね、今一歩を踏み出せないでいる人達の、その背中をそっと押してあげること。それだけだよ」
リンネは黒板に向かい、雷九の似顔絵を描き始める。
「今回のトオルンの場合、必要だったのは繋がり、絆なの。つまり、正確に言うと彼女は姿が透明になっていたというより、その存在が希薄になっていたのね。早くに両親を亡くし、お兄さんとも別れ、おばあちゃんと暮らしてきたトオルンだけど、その心の拠り所だったおばあちゃんが亡くなってしまい、お兄さんともうまくいかない。おまけに頼れる親友もいない。それが災いして、元々不安定だったトオルンの精神面は更に不安定になっていた。そのせいもあって、新しい中学校での生活でも新しい絆を作ることが出来なかった。結果、彼女は孤立してしまった。勿論、天使もそうだけど、人間も一人では生きていけない。今回の場合、そんな心の不安定さと、存在の稀薄さってやつに透明人間の伝承がつけこんだのね。あたし達に出来るのは、さっきの話通りトオルンの背中をちょっと押してあげるだけ。切っ掛けをつくってあげるだけだよ」
僕は手を上げて答える。
「はい、先生。それじゃあこの後僕達に出来ることは、雷九を信じて待つだけなんでしょうか?」
「嵐くん、正解。クラスメイトとの絆、部活仲間との絆、お兄さんとの絆もトオルン次第。でもね、人は繋がりを持つこと、絆を作ることで変わることが出来る。きっと、トオルンも、ね」
「そっか、でも雷九なら大丈夫だろう。それに、あのクラスメイトの子もいいやつそうだったし。あの子、帰り支度をするために教室に寄ったってのに、わざわざ雷九を見学させるため戻っていったろ? 彼女なら、雷九ともうまくやっていけるんじゃないかな。雷九は無色透明だった。でもそれは、これから何色にも染まることが出来るってことだ」
「にゃはははは、嵐、クサイ、そのセリフ、臭すぎだよー」
僕らは校庭で楽しそうにクラスメイトと話す雷九を確認した後、懐かしの桜ケ丘第二中学校を後にした。
辺りはすっかり夕暮れ時。オレンジの夕日を見ながら今日の出来事を反芻する僕。
「何だか今日は振り回されっぱなしで、全然カッコイイとこなかったなー」
「そうかな? トオルンにとっては、きっとそんなことなかったと思うよ? たぶん」
たぶんかい。そこはこう、もっと励ましてくれたりするものなんじゃないの。
僕は心の中で毒づきながら、我が家の玄関の扉に手をかける。
「あー、おなか空いたな。今日の晩飯は何だっけ… ん? 晩飯? そう言えば何か忘れているような」
「あ、お帰りなさい兄さん。随分遅かったですね? ちょっと心配しちゃいましたよ私」
「ははは、相変わらず心配性だな有須は」
と、僕の手元に視線を移した有須が固まっている。
「兄さん、買い物は?」
「え? ……あ」
いつの間にか加勢にやってきたダンゴも加わって、二人分の拳が僕に襲い掛かる。
「兄さんの、」
「にぃにぃの、」
「「馬鹿ーーーーーーーーー」」
「今日のおかずーーー」
にゃはは、頑張ってねー、嵐。
どこからともなく聞こえてきたリンネの声を聞きながら、僕の意識は夕暮れの彼方へと飛んだ。
◆
この日、学校の帰り路、僕とリンネは再び雷九の部屋を訪れていた。
雷九の姿ははっきりくっきりと映っていて、この前まで今にも消えてしまいそうな人間だったとは思えないほど回復していた。
「嵐さん、天使様、この前はありがとうございました」
そう言う雷九の顔は実に晴れやかで、以前のような不安げな表情は何処にも無かった。
「あの、私、ラクロス部に入ったんですよ。実は、部活紹介のときから興味あったんですが、自分から動くことが出来なくて。これまでじっと窓から様子を見ているだけだったんですが、この前みやちゃんに練習風景を見せてもらって、私決意したんです。クラスメイトとも、少しずつ話をすようになりました。… 兄とは、まだ完全に話し合えたわけじゃありません。でもいつか、また以前のように本音で話が出来るように、私、諦めませんから」
凄いぞ、雷九。みやちゃんってのはきっと、あの時のクラスメイトのことだろう。
そんな雷九の言葉が嬉しくて、僕はニコニコしながら頷く。
「そっか、でも僕達は何もして無いよ。雷九が頑張ったからさ。僕らはほんのちょっと切っ掛けを作っただけだよ」
「嵐、それアタシのセリフ。ずるいー」
そういってその小さな頬を膨らませるリンネ。
「ごほん、それじゃあ今から最後の仕上げをするよ。トオルン、大きく深呼吸してゆっくり目を閉じて? それと、何があってもあたし達信じて、ね?」
こくん、と一度頷いた雷九は言われたとおり深呼吸した後、目を閉じる。
三姉妹の時同様、リンネが何か呟くと同時に、どこからいつの間にとりだしたのか、珍妙な弓矢が出現し、雷九の心臓目掛けて一気に引き放つ。
矢は雷九に見事命中。雷九の体から黒い煙出てきて、自らの体をを形成していく。
「出たな、透明人間の伝承」
僕はリンネの方を向き、こくんと一度頷く。
僕の右手が一度ズキンと痛んだのち、突然発光し何かの形を形成していく。
今回は前回と違い… 何故か火炎放射器。
「うぉい。何で火炎放射器なんだよ! 仮にも天使の武器ならもっとほかにもあるでしょーが」
「え? 何言ってんの嵐。透明人間と言えば火炎放射器でしょ? あたし映画で見たんだから」
ドヤ顔でそう答えるリンネ。
というか何の映画だよ、何の。しかも火炎放射器なんて当然ながら使った事無いぞ、僕。
つまり、今回も、気合いで何とかするしかないらしい。
仕方ない。今回はいいとこなしなんだ、せめて最後くらいは。
僕は雄たけびとともに、スイッチを入れる。
その瞬間、思わずひくくらいの白い炎が放射され、あっという間に黒い靄を跡形もなく飲み込んでいく。なにこれ、スゲー威力。
とはいえ、どうやら今回も何とかうまくいったようだ。
「ふぅーー。やっぱりこの瞬間は緊張するよ。あらしー、ごくろーさまー」
大きな安堵の溜息をつき、へなへなと力が抜けるリンネと僕。
ゆっくりと目を開き、その目を潤ませながらこちらを見つめてくる雷九。
「本当にありがとうございました。お二人には何てお礼を言っていいのか。やっぱり私にとって、嵐さんや天使様と出会えたこと、お二人との繋がりが一番の宝物です」
そう言う彼女の笑顔には一点の曇りも無く、まるで今日の青空のようにどこまでもどこまでも、透き通っていた。
END