最終輪「花と嵐と彼女の笑顔とその理由◆-天使リンネの場合-」
最終輪 「花と嵐と彼女の笑顔とその理由◆-天使リンネの場合-」
日本中が沸いた、あの地獄の釜のような暑さもようやく一段落し、長かった夏休みも暑さとともに過ぎ去ってしまった今日この頃。
桜ケ丘学園も2学期を迎えた、そんな9月。
9月と言えば秋。
秋と言えば、芸術の秋、スポーツの秋、読書の秋、そして食欲の秋。
運動会に文化祭、秋に行われるイベントは数知れず。秋は何をするにもいい季節なのだ。
そしてそんな数々のイベントの中で、僕がもっと好きな行事、それはお月見である。
中秋の名月なんて言って、十五夜に月を見るアレである。
勿論、団子食べながら月を見るなんて風流だし、日本人らしくていいと思う。
だけどもう一つ、僕にとって十五夜が特別な理由があった。
夏の終わりと秋の始まり。
そんな季節の変わり目のように、僕等の元にも、とある出会いと別れが待っていたのだった。
◆
「嵐ー、そんな窓辺で一人たそがれちゃって、どうしたの? お腹でも痛いの?」
「うわっ、本当ですね。… 兄さん、何かありました?」
自分の部屋の窓辺に立ち、一人月を見上げる。
そんな僕に対し、部屋に入って来たリンネと有須が開口一番そんな事を言った。
月を見上げていた僕の表情が、よほど可笑しかったらしい。
そこまで言われては、流石の僕も黙っているわけにはいかない。
「いきなりそれか、二人とも。そんなに変だった? 僕の顔。リンネはいつものことだけどさ。有須、幾ら何でもうわっは無いだろ。兄さんちょっと傷ついたぞ」
「へっ? い、いえいえいえ、違うんです。その、兄さんを馬鹿にしたとかじゃなくてですね、ほら、兄さんにしてはですね、珍しくそんなまじめな顔をしていたので、つい」
有須は腕を顔の前でぱたぱたさせながら、何故か必死に弁解していた。
僕の方も、別段本気で言ったわけでは無かったので、この話はこれでおしまい。
「ところで二人して何か用か? ああ、もしかして夕飯の時間?」
「はい。夕ご飯の準備が出来たので兄さんを呼びに来たんですが、ノックしても反応がなかったので」
「そっか、ごめんごめん。ちょっと考え事してたんだ。うん、すぐ行くよ」
僕の返事を聞いた有須は、微妙に納得していない表情で、そのままキッチンへと戻って行った。
有須の姿が見えなくなったのを見計らって、リンネがすかさず言う。
「もしかして、ルナのこと考えてた?」
「… 僕の考えてることってさ、そんなに顔に出てる?」
「にゃはははは、かもねー。でもルナについての記憶があるのは、嵐とあたしだけだから心配ないと思うけどね」
十五夜月美。
かつて花家の隣に住んでいた、僕の幼馴染の名前。
その正体は堕天使ルナ、つまり天使試験に堕ちた天使。その成れの果て。
本人さえ忘れていたそんな月美ちゃんの正体に気がついたリンネと僕は、再び月美ちゃんに天使になるチャンスを与え、その魂を天界へと送り返したのだった。
その際、月美ちゃんことルナに関する一切の記憶は、僕とリンネ以外の人間の頭から完全に消去されていた。
あれから数カ月たった今でも、こうして月の綺麗な夜には、ふと彼女の事を思いだしたりしてしまうわけで。
何せ僕らは、十年来の幼馴染だったのだ。やはりそう簡単には忘れられない。
僕は小さく溜息をついた後、有須の後を追いキッチンへと向かった。
◆
翌日
◆ ◆ ◆
「お嬢様… またそんな泥だらけになってしまわれて」
「にひひひひ。でもねーあたし、一人であんなに飛べるようになったんだよ。偉い? 偉いでしょ?」
「お言葉を返すようですが。全く、偉くはございませんぞ」
「えええー何でだよー。ちっとは褒めてくれたっていいじゃん」
「ワタクシ、あれほどお嬢様お一人だけで飛んではいけないと、申し上げおいたはず。挙句の果てにそんな姿になって。元気いっぱいなのはよろしいのですが、お嬢様の場合些か度が過ぎます。いいですか? お嬢様はもう少し女の子らしくですね」
「うぇー、まーたはじまった…」
◆ ◆ ◆
それは、どこかの誰かの記憶なのか、はたまたただの夢なのか。
「おい、嵐、起きろ」
誰かに体を揺さぶられている。
… 何だよ。僕は今、猛烈に眠いんだ。放っておいてくれよ。
「くっそ、幸せそうに眠りやがって。こうなったら絶対起こす。意地でも起こしてやるからな!」
そんな声が聞こえてきた直後、僕の頬に強烈な衝撃が走った。
「痛ってええええ。起きるよ、起きればいいんだろう!」
僕はじんわりと熱を帯び、じんじんと痛み出した頬を摩りながら、勢いよくその場に立ち上がった。
「よっ、お目覚めかい大将?」
「何だイタルか。… ってえ? ここどこ? 今何時?」
「おいおいしっかりしろよ嵐。もうとっくに放課後だぜ、放課後」
イタルの言葉に愕然とする僕。
慌てて時計を確認すると、針は午後4時を指し示していた。
そう言えば、お昼休み以降の記憶が無い。どうやら僕は、午後の授業中ずっと眠りほうけてしまっていたらしい。
何たる醜態。
そりゃ、授業中居眠りするくらいなら何度も有るけど、こんなにもがっつり寝てしまったのは4月のリンネとの出会い以来かもしれない。
奇妙なデジャブを感じながらも、慌てて周囲を見渡す僕。
「んじゃ、俺は生徒会室へ行くけどよ。今のところ急ぎの仕事はないし、今日は俺らに任せて帰って休んだ方がいいんじゃねーか?」
「ああ、悪いけどそうさせてもらうよ。皆によろしく言っておいて」
「ひゃっひゃっひゃっ。そうしろそうしろ。… で、リンネって誰? 月見ちゃんって誰だよ。お前、ウンウンうなされながら叫んでたけどよ」
僕はイタルの疑問を華麗にスルーし、脱兎の如く教室を走り去った。
◆
ぼーっと歩いているうちに、いつの間にやら自宅へと到着してしまったらしい。
まだ寝ぼけているのだろうか? 学校からここまで道中の記憶が全くない。
… おいおい、この年にしてついに壊れちゃったか僕?
この半年間。リンネと共に突破した試練の数は丁度10。
それが果たして多いのか少ないのか。まぁ、108という試練総数を考えると、まだまだこの先長いってのは確か。
このペースだと後何年かかるんだろう。… 駄目だ、さっぱり分からん。
いつまでも玄関前で突っ立っているわけにもいかず、僕はゆっくりと我が家の玄関を開けた。
「ただいまー」
僕の声に反応し、一足先に帰ってきていたらしい有須がパタパタと出迎えてくれる。
「お帰りなさい、兄さん。今日は早かったんですね?」
「んー、何だか微妙に調子が悪いみたいなんだよね。生徒会、イタルに任せて帰ってきちゃった」
「え… た、大変! 熱は? 熱はあるんですか兄さん。喉は痛みますか? 咳はどうです? 寒気は? お腹は痛みますか?」
有須は相変わらず心配性だな… などと返答する間もなく、気がつくと僕は自室で寝かされてた。
熱も無いのに頭に氷を載せて。
「どうしてこうなった」
僕が自室の天井を見上げながらそう呟くと、僕の看病をする気まんまんの有須が少々興奮気味に答えた。
「いいですか兄さん。兄さんは病人なんです、病人は病人らしく、私に看病されればいいんです。兄さんには、拒否する権利も人権もありませんから」
せめて人権はなんとかして欲しいところだけど、有須に変なスイッチが入ってしまったのは確かなようだった。
本当に、どうしてこうなった…?
「いや、うん。こうやって看病してもらえるのは兄としてかなり嬉しんだけどさ、ちょっとやりすぎじゃないか? 僕、別に病人てわけじゃ」
何か言いましたか? とギロリと睨んでくる有須。
正直言って、怖い。蛇に睨まれたカエル。もとい、妹に睨まれる兄。情けなすぎて涙が出てきそう。
「ボク、モウ、ネマス」
僕らのやり取りを天井近くにふわふわ浮きながら眺め、いつものように大爆笑する某天使。
「よっわー。嵐よっわー」
ああそうさ。その通りさ。好きなだけ笑うが良いさ。
有須に抵抗するのも、リンネに反論するのも面倒くさくなった僕は、そのまま不貞寝と称し、眠りの世界へと身を任せた。
◆ ◆ ◆
「はい、これ」
「通知表でございますな? では、失礼して拝見させていただきます」
「どう? どう? あたし、頑張ったでしょ?」
「… 確かに、一部の科目はトップの成績。流石はお嬢様でございます」
「ふふん。苦しゅうないぞ?」
「ですが、一部は一部。他の大多数がこの成績ではとても胸を張れるものではございませんよ? ワタクシ、頭が痛いです」
「ひっどーい。あたしにだって苦手くらいあるもん。べーっだ」
◆ ◆ ◆
目が覚めると、今度は断片だけではあるもののしっかりとはっきりと、その夢を覚えていた。
「今のって… リンネ?」
「はにゃ? あたしがどうかしたの? 嵐」
天井を見つめながら先ほどの夢を反芻する僕の上に、音もたてずぬうっとリンネが現れた。
これじゃぁ天使と言うより幽霊だよ。わざとか? わざとなのか?
「い、いきなり出てくるなよリンネ」
「ひどいよー嵐。幾ら何でも驚きすぎ。それがずっと看病した人に言うセリフ?」
時計を見ると、7時を回っていた。
どうやら僕、リンネに見守られつつぐっすり眠ってしまっていたらしい。
と言うか看病? あのリンネが? むしろ、看護が必要なあのリンネが?
「もしかして、今までリンネが看病してくれてたのか?」
「んー、看病って言っても殆ど妹ちゃんがやってたからなぁー。あたしはじぃーっと嵐の寝顔を見てたくらいだけどね」
「そっか。それで十分だよ、ありがとう。それと大声出してごめん。実はさっき、リンネの夢を見たような気がしたんだ。それでつい」
「え? あたしの夢?」
「そう。だれかと会話してた。僕の知らない人だったよ。いや、人って言うより天使? しかもさ、外に見える景色がどう見ても地球上じゃ無かったんだよね」
僕が見たそれは、確かにリンネだった。会話の内容までは覚えていないものの、間違いなく天界でのリンネの姿だった。
問題は何故、僕がそれを見たのかと言う事。
勿論、天界でのリンネの姿なんて見た事がないし、そもそも天界ってどんなところなのという話をしたことも殆どなかった。
「………やっぱり、なのね」
「リンネ、どうかしたのか?」
「にゃははは、ごめんごめん。いやー、あたしの夢だなんてちょっと恥ずかしいなーって思っただけ」
妙に明るく振舞っているリンネが少しだけ気になっていたものの、この時点の僕はこの事に関してさほど気にもしていなかった。
勿論、この後僕の身に「ある出来事」が降りかかるなんて事も、予想できるはずも無かったのだった。
◆
「秋だなぁ」
「秋だね」
「良い天気だなぁ」
「秋晴れってやつだろうね」
「… なぁ、嵐。俺達何やってんだっけ?」
「生徒会のお仕事。良く言えば、何かあった時のために待機。悪く言えば、だらだらぼーっとしてるだけ」
秋という季節は実に様々なイベントが開かれる。つまりは生徒会泣かせな季節なのである。
この桜ケ丘第二高等学校も、その御多分にもれず秋晴れ下「体育競技会」なる、ぶっちゃけ運動会の高校生バージョンが開催されていた。
つまり、全国のインドア至上主義な真摯にとって、実に迷惑この上ないイベントである。
いつもの僕なら、よりも深刻な顔をして、一秒でも早く終わる事を願いながら終始つまらなそうにしていたに違いない。
だが、今年は一味違った。
曲がりなりにも生徒会役員である僕は、競技には参加せず裏方として行事を円滑に回すべく動いていた。
具体的に言えば、実行委員のお手伝い。つまりは雑用である。
この学園の生徒会は、何でも屋的な性質やスタンスがあるらしく、あれやこれやとイベントのたび、こうして雑用としてこき使われる。
いい加減そんな扱いにも慣れ始めていたし、それよりなにより、こんな健全で若者的で、ひたすらに疲れそうな行事に参加するくらいなら喜んで雑用に徹するというもの。つまりは、僕にとって渡りに船。願ったり叶ったりなこの状況。
そんなわけで、僕はこの救護テントにて保険委員と共に絶賛待機中なのであった。
が、僕の隣のこの男は、相変わらずこの状況に不満タラタラらしく。
「嵐、俺はこんなことをするために生徒会長になったんじゃないんだよ。もっとこう、女子にモテたいとか、ちやほやされたいとか、尊敬されたいとか… は、置いておいてだな」
「はいはい。9割9分9厘、私利私欲のためだろ? 事実、邪な事しか考えてなかったじゃないか」
推薦人として選挙に付き合わされただけでなく、結局こうして生徒会役員までさせられているこちらからすれば、もう少し自分の立場というものを弁えてほしいところ。
まぁ、イタルに言ったところで到底無駄だろうけど。
「おいおい嵐ー、いつまでそんな昔の事をいってるんだよ。今の俺はあずあず一筋だぜ?」
「あずあずゆーな。未だに、まともに相手すらして貰えてない癖に」
「おまっ、俺が気にしてる事をグサグサと」
そりゃ、会うたびにあれだけストーカー紛いの行動を続けていれば、当然の報いだと思う。むしろ、それでもイタルに法の裁きを与えない東さんの心の広さに敬意を表したいくらいだよ。
僕はわざとらしく大きなため息を一つついた後、目の前で繰り広げられている騎馬戦に視線を移した。
「だが、そう言っていられるのも今のうちだがな」
そう言って不敵な笑みを浮かべるイタル。これまでも何度となく目にしてきた不吉な笑み。
こういうときのイタルは、大抵ろくなことを考えていない。むしろ厄介事しか考えていないのだ。
目の前では、騎馬戦に続きナン食い競争が行われていた。むしろパンではなく何故ナンなのか?
今時パン食い競争なんて小学校でもなかなかお目にかかれないくらいの絶滅危惧種だというのに、この学園の場合、それが古くからの伝統行事なのだから始末に負えない。では何でナンなのか?
古気を知り、新しきを得る。温故知新。そんなこの学園の校風がこのパン食い競争という古き良き伝統行事を、ナン食い競争という形で、このグローバル社会への迎合の一つとして差し向けられたという… のは勿論大嘘。
ズバリ、真実は何代か前のダジャレ好きの校長の親父ギャグが事の発端だったという。いずれにしろ、そんな行事が何年も続く伝統行事になってしまうのだから、不可思議窮まりない。
というか誰も止めなかったのか!
テントの数メール先にセットされ、ぶら下げられたナンに、今まさに選手が食いつかんと飛び跳ねている。
「むしろカレーが食べたいね、僕は」
「何でそこでカレーの話が出てくるんだよ! というお前、俺の話聞いてた?」
僕の現実逃避中、どうやらイタルは勝手に何か喋っていたらしい。
嫌な予感しかしないので、正直聞きたくない。
「だから。終盤の名物競技、部・委員会対抗リレーに俺達生徒会も参加するって話だ」
「は?」
「だからな? 対抗リレーに」
「いやいやいや。聞こえてるから。わざわざ言い直さなくても十分聞こえてるから。むしろ、は? なのはその内容だよ。対抗リレーに参加? って、聞いてないぞそんなの」
「そりゃそうだろ」
自信満々で、ドヤ顔なイタル。
「たった今、決めたんだからな」
凍りつく僕、尚もドヤ顔なイタル。
「待て、待てイタル。まさか、もうエントリー済ませたとか言うんじゃないだろうな? 事後承諾決じゃあるまいな?」
「ふっ。流石は嵐だな、良く分かってんじゃないか。もしかしてやる気まんまんか?」
ソンナワケナイダロ、コノヤロウ。
折角このまま何事も無く競技会を終えられると思っていたのに、完全にそう思っていたのに。最後の最後にイタルサプライズ発動。
僕は怒りに震えながらも、努めて冷静に言った。
「そんな無茶が良く通ったな?」
「ああ。職権乱用した。ひゃっひゃっひゃ。流石は生徒会長。この程度の事ならゴリ押しで何の問題も無いもんな」
「つまり、だ。今回の競技会では、生徒会として裏方に徹していて目立てなかったから、最後のこの対抗リレーで東さんに良いとこ見せたいと、
そういうことなのか?」
「見損なうなよ、嵐! 俺がそんなちんけな漢に見えるのか? 俺はなぁ、俺は… 東さんからバトンを受けたいだけなんだ!」
あぁ、最低だよ、コイツ。
つまりこれは、生徒会選挙の時と同じパターンだ。
つまり、後戻りはもうできない。
◆
僕は急きょ生徒会の面々、鞍馬さん・東さん・白井を招集し、事の次第を説明した。
案の定、メンバーの顔色はよろしくない。それどころか数名に至っては露骨に嫌な顔をしてる。
いや、気持は痛いほどわかるけど。
「はあーー? アンタ馬鹿なの? 何でそういうことを勝手に決めてんの? しんっんんじらんない」
「えとえと、落ち着いて紅ちゃん」
「これはもう鞍馬先輩に同意せざるを得ないですね。つーか、相変わらずのアホタレ会長はともかくとして、先輩は何やってたんですか? ぶん殴ってでも止めてくれればよかったのに」
大よそ予想通りともいうべき、三者三様の答えが返ってきた。
「ま、まぁ、止められなかったのは確かに僕の落ち度だけどさ、こうなったらもうやることは一つしかないわけだよ」
「そうだね。わざわざ無理を言ってエントリーさせてもらったのに、今更やっぱり不参加じゃ、生徒会として示しがつかないもの」
流石は生徒会の天使、東さん。現状をすぐに理解してくれた。
「その通り。悲しいかな、これでも一応生徒の代表だからね。申し訳ないけど、覚悟を決めてひとっ走りするしかない」
僕の必死の訴えが通じたためか、皆やれやれと言った表情を浮かべうなずいてくれた。
「しょーがねぇですね。あーあ、このまま堂々とサボれると思ったのになー」
「はぁー、ホント、何であんなのが会長なんだろ… でもま、やると決まったら勝ちにいくわよ!」
「ありがとう皆… え? 鞍馬さん、本気で走るの?」
「何言ってるの花君、当然でしょ。例えこんなお遊び半分の競技でも、負けるのは嫌なのよ、アタシは」
どうやら鞍馬さんのスイッチが入ってしまったらしい。
これはもう、とりあえず適当に走って完走すればいいよね? なんて、口が裂けても言えない。
「おうよ。分かってるじゃねーか鞍馬。我が生徒会に敗北の二文字はあり得ない」
「誰があんたの生徒会よ! ふん、べつにアタシは単に負けるのが嫌なだけよ」
この二人、何だかんだで気が合うらしい。だからこそ、あんなポンコツ生徒会長でもやっていけてると言っても過言ではない。
そんなことを考えながらも、にやにやと二人のやりとりを見守る僕。
と、東さんがそんな僕の様子に気がつき、ニコリと笑いかけてきた。… 成程、どうやらお互いに同じような事を考えていたらしい。
「ガキですね」
冷めた目で後輩ちゃんが一蹴する。
白井にとってこの状況は厄介事以外の何物でもない様子。
こうなったら気が変わらないうちに、と僕は口火を開いた。
「それじゃ、早急に決めなきゃならない事があるんだ」
「分かってるぜ、嵐。誰が一番東さんに相応しいかってことだろ?」
「違う! 全然違う! しかもそのドヤ顔、非常に腹が立つ! いいか? 走順だよ、走る順番」
落ち着け僕。
イタル如きにペースを握られてどうするんだ。
「ごほん。失礼、取り乱しました… で、どうする?」
「愚門だな。生徒会長足る俺が考えるに、最初は」
イタルが勢いよく片手を伸ばし、何か言いかけたその瞬間、東さんがおずおずと答えた。
「あのあの、私、皆さんの中で一番運動音痴だと思うから。出来れば最初がいいかな」
東さんがそう答えるや否や、全くめげないこの男は、今度は両手を天高くかざしながら言った。
「はいはいはいはいはいはいはい」
「五月蠅いイタル!」
「黙れ、バカ!」
気がつけば、僕と鞍馬さんは同時にツッコミと言う名の鉄拳制裁を加えていた。
「お、お前ら仮にも生徒会長である俺に向かって何てセリフを」
生徒会長は諦める気がさらさら無いらしく、鼻声になりながら熱弁を始めた。
「確かに、お前らの言う事も分かる。俺にアンカーを任せたいって事だろ? だが、残念だったな。俺はもう、東さんからバトンを受けとると、心に堅く誓っているのだ! こればかりは例え蹴られようが殴られようが、矢が降ろうが、隕石が降ろうが、譲る気は毛頭ない!」
イタルは、実に清々しい表情で自分の欲望をさらけ切った。
あぁ… この現代社会において、ここまで自分の欲望に忠実に従えるってのは大したもんだよ、イタル。
あまり認めたくは無いけど、やはり生徒会長の器としてはこれくらいの度量が必要なのだろうか? … 内容はともかくとして。
とはいえ、流石の鞍馬さんもドン引き状態で言葉が出ない様子なので、ここはイタルの言い分を認めるしかない。
「分かった。イタルの無駄な情熱は嫌と言うほど伝わったからさ、一先ず落ち着いてくれ。でもお前がアンカーをやらないとなると、やっぱり」
そう言って僕は鞍馬さんに視線を移した。
「いや、ごめん。アタシは無理」
えぇええええ。さっきまであれほどやる気満々だったのに。何故だ、何故だ鞍馬さん。
「何か急に馬鹿らしくなっちゃって。だったら花君アンカーやってよ」
うえええええええ。この僕がアンカー? この僕が?
「ひゃっひゃっひゃ、そりゃいい。よーし、嵐がアンカー決定な?」
「ぷぷぷ、先輩がアンカーですか。これはちょっと面白い事になってきましたね」
ニヤリと嫌な笑みを向けてくる白井。
もうどうにでもなればいい。
◆
こうして、なあなあのうちに対抗リレーの走順が決定した。
東さんから始まり、イタル、鞍馬さん、白井、そしてアンカーが僕。
他の部や委員会と比べて人数の少ない生徒会は、一人がトラック一周をする事となる。
そして、全員の準備が整ってすぐに競技開始時刻となった。
辺りを見回すと、それぞれの部活や委員会だと一目で分かる格好&バトン代わりのアイテムを持参している。
成程ね、ラケットやバット、ほうきや楽器、サッカーボール… 待て、生徒会は? 生徒会の場合は何をバトン代わりにすればいいんだ?
しまった、順番ばかりに気を取られていて全く考えてなかった。
「イタル! バトンは? バトンはどうする」
そんな慌てた様子の僕をあざ笑うかのように、イタルはにやけ顔で答える。
「落ち着けって嵐。言いだしっぺのこの俺が、それを考えていないわけがないだろう? 安心しろ。ちゃんと用意してある」
そう言ってイタルが懐から取り出したもの、それは。
「きゃあああああああ」
「って、なによコレは!」
東さんと鞍馬さんの悲鳴。白井の呆れ顔。
僕らの目の前には、「東さん型の等身大抱き枕」。
「おまっ、イタル、これ…」
「いいだろ? 俺のお宝だぞ」
生徒会メンバーがドン引きする中、満面の笑みを浮かべるイタル。
恐るべきメンタルである。
「生徒会の皆さん、準備をお願いします」
どうやら、僕らには文句を言う時間も残されていないようだった。
涙ぐみながらも、自分自身の抱き枕片手にスタート位置につく東さん。なんだかシュールな光景である。
バーン!
「さぁ、始まりました部・委員会対抗リレー。ぶっちゃけクラス順位や、得点にはなんの関係のないこの競技ですが、それぞれの部や委員会で趣向を凝らした格好やバトンで観客を楽しませてくれる、毎年の目玉競技の一つでもあります。さぁ、今年はどんな趣向で私たちを楽しませてくれるのでしょうか?」
とうとう、対抗リレーが始まってしまった。
第一走者の東さんが懸命に走る。が、自身でそう答えていたように、運動オンチな東さん。
残念ながら、周りの走者からは大きく離されていた。
「現在トップは陸上部。当然ちゃー当然。というかガチです。バトンも普通の競技用バトンですし。格好も競技用。ガッチガチです。一方最下位は生徒会。あははははは、これは一体どのような趣向なのでしょう? 第一走者の東さんが自分自身の等身大の抱き枕を小脇に抱えております。本人の一生懸命さとは裏腹に、なんとも笑いを誘う光景です。これはもう間違いなく、生徒会長の趣味に違いありません」
最下位になりながらも、それでもなんとか、第二走者へとバトンをつなぐ東さん。
なんというか、物凄く居た堪れない。間違いなく、今回一番の被害者は彼女だと思う。
「ご、ごめん、なさい。やっぱり、私、遅いから」
息も絶え絶えにそれだけを告げながら、バトン代わりの抱き枕をイタルへと手渡す。
「何言ってるんすかあずあず! 素晴らしい走りでしたよ。俺は今、猛烈に感動しています! そして、確かにバトンを受け取りましたからね」
うぉっしゃああああああああ、という掛け声とともに一気に走りだすイタル。
「おーーっと、生徒会第二走者の生徒会長堅氷イタル。歴代最低の生徒会長、変態野郎、バカボンボン等の通り名で知られる彼ですが、東さんの抱き枕をこれでもかとしっかり抱きしめながら、他の走者たちを次々と追い抜いていくー」
先ほどまで最下位だったのが嘘のように、次々とほかの走者を抜き、一気に上位へと躍り出た。
本々運動能力は高いうえに、東さんからのバトン&いいとこを見せたいという私利私欲のため、本気になったイタルは、ガチだった。
あっという間にトラックを一周。
第三走者である鞍馬さんへとバトンをつなぐ。
「うぉら、鞍馬、こんだけ巻き返せばお前でも大丈夫だろ?」
「はぁー? いちいちカチンとくる言い草ね。見てなさい、このまま先頭に立ってみせるわ」
イタルから抱き枕を受け取った鞍馬さんが駆け抜けていく。
「エクセレント! 生徒会長の女房役、副会長である鞍馬さんが、ここにきてガッチガチの陸上部を抜き去り何とトップへと躍り出たー」
鞍馬さんの場合、かつて天狗の能力を自在に操っていたくらいのスペックの高さ。有言実行、その宣言通り、何と運動系の部活を追い抜き、本当にトップへと立ってしまった。
そして、第4走者、白井へとバトンをつなぐ。
「だーーーつ、ほら、後輩ちゃん、後は頼んだわよ!」
「仕方ないですね、任されました」
自分より大きな抱き枕を片手に、懸命にトラックを駆け抜ける白井。
だがしかし、そんな彼女の頑張りも虚しく、一人また一人と彼女を追い抜いていく走者たち。東さんより運動能力は高いとはいえ、他の運動系部活の面々に比べたら雲泥の差。
イタルと鞍馬さんとで作ってくれたリードはあっという間に消化され、順位はすっかり半分より下。むしろビリから数えたほうが早いと言える。
「ここにきて順位は再び陸上部がトップ。次いで、野球部、サッカー部と続いています。先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか? 生徒会はずいぶんと後ろに下がってしまっています!」
そして、対抗リレーもいよいよ終盤。
アンカーが次々と走り出す中、僕の目の前にも抱き枕を片手にした白井の姿が見えてきた。
「せ、先輩、この抱き枕、めちゃくちゃ走りにくい!」
「だろうね。でもよく頑張ったよ白井。後は… 任せとけ!」
後輩の手前、そんな風にかっこつけて啖呵を切ってみたものの、具体的な策も、イタルや鞍馬さんのような運動能力があるわけでもなく。
必死になって走るものの、順位は一向に上がらない。そうこうするうちにトラックの半分が過ぎる。
「うぉらー、嵐。もっと本気だせやー。これまでの辛い修行の日々を思い出せー、あのデスマーチを思い出せやー」
してねーよ! そんな修行も、デスマーチも。
「嵐さーん、あのあの、私の事をよろしくお願いしますねー」
いやいやいや、東さん、それ、意味深に聞こえちゃうから。抱き枕をでしょ? そうなんでしょ?
「せんぱい、中途半端はつまらないですからね、お願いしますよ? 色々と」
白井よ、どういう意味それ? というか、普通に走っちゃいけないのかよ。
とはいえ、ここまで来たら僕だって何とかしたいとは思う。でも、これが僕の限界。どうしたって運動部に勝てるはずもなく。
そうこうするうちにトラックを一周してしまった。
アンカーである僕はこのトラック二周してゴール。現在順位は半分よりちょっと後ろ。
別に、このままゴールしてもいいんじゃないだろうか? 1位になったから何かがあるわけでもなければ、最下位になったら罰ゲームがあるわけでもない。
……… 本当にこれでいいのか?
全身に漂う疲労感と、乱れた呼吸の中、ふいに僕の背中に急な違和感。
眩い光と、じんじんとした熱と痛みとともにあらわれたもの…… それは、天使の翼だった。
「え? えええええええ。何で? 何で急に? リンネもいないし、伝承もいなけりゃ、試練でもないのに。ただのリレーだぞこれ? なのになんで?」
突如、僕の背中に出現した天使の翼。
最初の試練で大雨の中、春雨先輩を病院へと運んだときに出現したあの翼である。
が、前回とはわけが違う。なぜ急に生えてきたのかすらわからない。その上、制御のための天使のワッカは何故か現れない。
僕が混乱するさなか、僕の意思とは関係なく、翼が大きくはためく。
「ちょ、ちょっとちょっと、全然僕の言うこと聞かないじゃないか。え、え、ええええええええ?」
暴走状態。
最後の直線に差し掛かった時、僕の翼は完全に暴走状態へと陥った。
僕の意思とは関係なく、背中の翼は一種のジェットエンジンと化し、僕を前へ前へと追いやる。
「うぉおおお嵐。お前はやるときゃやる男だと思ってたぜ~」
「どうしたことでしょう! ここにきて生徒会アンカー、書記の花嵐君が一気に加速。信じられないスピードで次々と先頭集団を追い抜いていきます! … というかあれ、ちょっと浮かんでない?」
はい、浮いてます。
どうしょう、どうなるの? この状況。
「せ、先輩、それって思いっきり天使の力じゃ」
自分自身、制御しきれない力に振り回される中、僕の眼の前には、もはや他の走者の姿はなかった。
「ゴーーーーーール。大波乱の対抗リレー。今年の一位は、何と飛び入り参加の生徒会! この展開だれが予想できたでしょうか?」
ゴールテープを切った直後、背中の翼が音も立てずに消えたのが分かった。
が、それと同時に、全身の力も抜け、僕は、自らの意識の手綱も一緒に手放してしまったわけで。
◆ ◆ ◆
「お嬢様、ワタクシとてお嬢様の事が憎くてこのような事を申し上げているわけではございません」
「ウソだっ! 本当はあたしの事なんて嫌いなんでしょ?」
「お嬢様… お嬢様はあの方の御息女、受け継いだ力も人一倍強い。その御身に秘めた力は図り知れません。だからこそ、お嬢様にはその力を制御する力、自分のものとする力を身につけていただきたいのです。その分、お嬢様には辛い思い、苦しい思いをさせてしまうかもしれません。どうか、どうかワタクシ共の気持もご理解していただきたい」
「分かってるよ、そんな事。でも、何で、何であたしなのかな…」
「…お嬢様」
◆ ◆ ◆
また、あの夢?
気がつくと、僕は保健室のベッドで横たわっていた。
競技会はすっかり終わってしまったらしく、校庭には後片付けをする委員会の面々だけが動き回っていた。
「よっ、お目覚めか? さっきは大活躍だったらしいじゃねーか?」
僕のベッドにぬっと顔を出した人物、それは五月雨先輩だった。
「五月雨先輩。もしかして、ここでずっとサボってたんですか?」
「ああ、もしかしなくても当然そうだな。あんなだるそうなもん、アタシは出ない」
そうキッパリと男らしく言い切ったのち、自分のベッドへと戻っていく五月雨先輩。
外の景色はすっかりオレンジ色。僕は壁に掛けられた時計に目をやる。
「うげっ、6時? 2時間以上も寝てたのか」
「もやし野郎のくせして頑張りすぎるからそうなるんだろ? ああ、そうそう。他の生徒会の連中なら今頃後片付けだな。さっきまでここにいたんだが、アタシが追っ払っちまったぜ。あれだけの人数にここにいられたんじゃ、落ち着いて昼寝もできねーからな」
もしかして、先輩、僕のことずっと看ていてくれたのだろうか? そのためにわざわざこんな時間まで残っていてくれたのだろうか?
「ありがとうございました、先輩。体は… すっかりよさそうです」
「そいつは良かった。ま、これに懲りたらあんま無理はしないこった」
そう言って、ベッドから飛びのき、かばん片手に立ち上がる先輩。
「そんじゃーな、アタシは先に帰るぜ?」
片手をひらひらと振りながら、先輩は保健室を後にした。
そして、オレンジ色に照らし出される保健室に一人取り残される僕。
可笑しい。明らかに可笑しい。先ほどの天使の力の暴走、何度となく見せられるリンネの夢、体の変調。
僕の中で、何かが起ころうとしているのは明らかだった。
少なくとも、天使の翼の件については、リンネなら何かわかるかもしれない。そう考えた僕は、いつものように、心の中でリンネを呼ぶ。
いつもなら、ボンという派手な効果音とともにすぐにリンネが現れるはずなのに、どうしてなのか今日に限ってリンネは一向に姿を見せなかった。
結果、僕の疑心はより一層強いものへとなっていた。
僕は、リンネに真相を確かめるため、イタルにメールを入れた後、早々に学校を後にした。
後片付けや、急に倒れたことを謝りたいのはやまやまだけど、今は僕自身に起きつつある、変化の真相を探るほうが重要に思えた。これ以上、みんなに迷惑をかけないためにも。
◆
「リンネ!」
僕は自分の部屋に入るなり、僕のパートナーである天使の名を叫んだ。
「どうしたの嵐? そんなに慌てちゃって。お腹痛いの? トイレ?」
「んなわけあるか! 今日、学校で急に天使の翼が生えてきたんだ。それって君の仕業なのか?」
ぽかん、と口を開けてただただ僕を見つめるリンネ。僕、そんなにおかしいこと言ったか?
そんな風に反応されては、こちらもどうしていいのか分からない。
「えっ、と。やっぱり何かまずいのか? リンネの悪ふざけとかじゃなかったってことなのか?」
「う、うん。それに関しては少なくともあたしはノータッチ。でも、そんなのあり得ないよ! 天使の意思とは関係なく、その力をパートナーが単独で行使するなんて」
僕らの間に流れる長く重たい沈黙。どうやらリンネにも事の真相は分からないらしい。
「とりあえずさ、今は何ともないみたいだし。明日は休みだし。幸い次の試練の反応も無いみたいだし、暫くは様子を見てみよう」
競技会の疲れもあり、結局のところ何も解決しないまま、抜けない棘を抱えた僕の心情とは裏腹にこの日はあっという間に眠りについてしまった。
◆ ◆ ◆
「例えばです。お嬢様は、仮にもこの天界の上に立つ存在。だからこそ、我々はあなたを特別扱いするわけにはまいりません。つまりですね、お嬢様にも他のテンタマ同様下界に出ていただき、きちんと試練を受けていただく事になります」
「うん。別にいいよ?」
「… よろしいのですか? 本当に?」
「なーに、その顔は?」
「いえ。お嬢様の事ですから。もっと駄々をこねるかと身構えていたのですが」
「にゃによう、失礼しちゃうなもー。あたしだって自分の立場くらい理解してるよー。それにね、楽しそーじゃん、下界って!」
「お嬢様、御立派になられて…。ワタクシ、大きく成長されたお嬢様に、再びお会い出来る日を心待ちにしておりますぞ」
「任せてよっ!」
◆ ◆ ◆
もう何度目になるのか? とある天使の夢。
とぎれとぎれの天使の記憶。それらは一体、僕に何を訴えているのか?
ふと、時計を睨むと時刻は午前6時。休日にしては随分と早く目が覚めてしまったようだ。
相変わらず全身がだるい。昨日天使の力を行使してからよりいっそうその傾向が強くなっていた。
僕は二度寝する気分にもなれず、部屋の片隅に目をやる。
彼女は、空中に浮かびながら気持ち良さそうに寝息を立てている。
あの天使が僕の元にやってきて早半年。今となってはすっかり見慣れたいつもの光景。
この半年間は、僕にとって本当に長く、そしてあっという間の時間だった。
だが、そんな時間ももうすぐ一つの結末を迎えるような、そんな気がしていた。
・
・
・
ところで、あそこで寝ている天使の名前って、何だっけ?
◆
「ふわぁーーー。むにゅううう、朝だー」
天使は、空中で大きく背伸びをした後、僕の視線に気がついた。
「はにゃ? 嵐おはよー。なーに? さっきからあたしの事見つめちゃって」
「うん、お早う。てんしさん」
いつもと違う僕の態度が気になるらしく、首をかしげる天使。
「なになに、ホントにどーしちゃったの? 変な嵐ー」
どう切り出せばいいんだろう?
彼女の屈託のない笑顔を見ていると、今から言うセリフが非常に申し訳なくなってくる。
それでも、このままの状態でいるわけにはいかない筈。たぶん。
僕は余計な感情を振り切り、思い切って言い放った。
「あのー、怒らないで聞いてほしんだけど… 君の名前が、その、どうしても思い出せないんだ」
目の前の天使は、今まで見せた事がないような悲しい表情を浮かべながら、僕を見つめ返した。
「ご、ごめん。そんな顔をさせるつもりは無かったんだ。でも、ごめん。本当に思い出せない」
天使は何かを決意したかのように、先ほどまでとは打って変わって厳しい表情浮かべる。
「嵐、思い出せないのはあたしの名前だけ? あたしと一緒にこれまで続けてきた試練の記憶はある?」
「あ、ああ。それは大丈夫。一番最初の雨守先輩達の雨女から、この間のゆーこの悪霊までばっちり覚えてる。問題ない」
「そっかぁ、良かった」
そういって安堵の表情を浮かべる天使。
先ほどの言葉通り、彼女と行ってきた試練の数々は事細かに覚えている。むしろそれは、僕にとって忘れようの無いものの筈だった。
それなのに、そのはずなのに、どうしても彼女の名前だけは思い出す事が出来なかった。
まるで、最初からその名前を聞いていないかのように、すっぽりとその記憶だけが抜け落ちていた。
「やっぱりアレ、なんだよね。これって」
「アレ? アレって何? 心当たりでもあるのか?」
「ごめんね、嵐。実はあたし」
リンネがそう言いかけたその時、僕の部屋の隅で、唐突に何かが光り始めた。
「何事? 何が光ってるんだ?」
僕らは急いでその発光元に近寄る。
これは、鉄板? はて、この謎の鉄塊は何だっか?
揺らぐ記憶を揺さぶるように、僕は目の前の謎の物体Xについての記憶を探った。
……… 思い出した!
これは、月美ちゃん鞄にあったものだ。
懐かしさと同時に、当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。
そうだ確かあれは、天使と出会った日の朝、月美ちゃんから没収したもの。
当時は、何故彼女の鞄にこんな無骨な鉄塊が入っているのかと、疑問に思ったのも確かだったけど。
そのまま僕の部屋の片隅で半年間も忘れ去られ現在に至るわけで。(ぶっちゃけ、第0話参照)
「嵐、何であなたがあれを持っているの? あれって天使の使う移動ツールの一種で、ゲートっていうんだけど」
「はぁあああああ? 何故って言うか、月美ちゃんが持ってたんだよ、あれ」
「ルナが? ってことは」
鉄板だと僕が勝手に思っていたそれは、どうやら扉だったらしく、観音開きに両サイドに扉が開き、その中からさらに光が漏れる。
中から現れた人影、それは勿論。
「つ、疲れた。これ、久しぶりに使ったけど、やっぱり、苦手、吐きそう」
開口一番、吐きそうとのたまうこの人物。否、天使。
僕も良く知るこの天使。
「もしかして、月美ちゃん?」
月美ちゃんは僕の顔をまじまじと見つめた後、にっこりと微笑みながら言った。
「久しぶり、だね、嵐。それに、XXも」
XX?
今、月美ちゃんは僕の隣の天使の名前を言った。確かに言った。
が、不思議な事に、僕の耳にはその言葉だけ、その名前だけが入ってこなかった。
「ルナ! ひっさしぶりー。まさかルナが来るとは思わなかったけど、ごめんねー、わざわざあたしのために」
「問題、無い、よ。こちらの、都合でも、あったから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。確かにさ、月美ちゃんと再会できたのは凄く嬉しいよ。言いたい事もたくさんある。でも、取り敢えず今はこの状況を説明してくれるとありがたいんだけどな」
天使と月美ちゃんは顔を見合わせ、あははと笑いあった後、天使の方がその口を開いた。
「にゃははは、ごめんごめん。って、実のところ笑ってごまかせる状況じゃないんだけどね」
「それってつまり?」
「嵐の今の状況、たぶんあたしのせいなの。あっでも、嵐のせいでもあるんだよ?」
「僕のせい?」
天使のせいでもあり、僕のせいでもある。成程、さっぱり意味が分からない。
僕が難しい顔を浮かべていると、天使が慌てて言葉を続けた。
「順を追って説明するね? まず、嵐のその症状。体の倦怠感、あたしの記憶が夢として嵐の中へ流れ込んだこと、天使の力の暴走、そして、パートナー天使についての記憶障害。幸いな事に、どれもまだ初期症状何だけど。これらから導き出される答え、それはね… 天人五衰病」
天人五衰病? 病ってことは病気?
「病気だったの?」
「うーん、嵐の知ってる病気とはちょっと違うかなー。天人五衰病はね、元々天使が掛かる病気なの。でも、ごく稀に天使のパートナーの人間が掛かる事もある。ほんとーーーにごく稀だけどね。だからあたしも最初、嵐がこの病気だってなかなか気がつかなかったし、断言が出来なかったの。ま、いい訳だけどね」
衝撃的な登場から打って変って今まで黙って成り行きを見守っていた月美ちゃんが、その口を開いた。
「天人五衰病に掛かる原因は、幾つか、あるけど。今回の場合、嵐の、天使としての才能と、XXの力の大きさ、と修行不足、が原因」
僕の才能? この平平凡凡、普通代表を地でいくこの僕に?
「にゅふふ、嵐ってばいつも自分は普通だーなんて言ってるけどさ、実はこんな凄い才能があったんだよ? 知ってた?」
「なんってこった。ついに僕の時代到来か。で、その天使の才能って何?」
「簡単に言うと、天使との相性とか、適正とか適応度が優れてるってことね。だから天使の力をあれだけ使いこなせたの。後は、そうね、人間以外に好かれやすいとか、非日常を惹きつけやすいとか。ハプニングにあいやすいとか。いろんな事に巻き込まれやすいとか」
「後半明らかに天使と関係ないよね? ね?」
それって、日常生活では役に立つどころかほぼマイナス的要因しかないじゃないか。
いらねぇ、そんな才能凄くいらねぇ。
僕が、半べそ状態で虚空を見つめていると、慌ててフォローに入る天使。
「本当はもっと色々あるんだけど、たぶん嵐には理解できないと思うからにゃー。今のはあくまで一例だよ、一例」
「そ、そうなの? 僕の才能なのに、僕が理解できないって一体…」
「ぷぷぷっ。っとごほん。まー、嵐の才能については一旦置いておいて。それじゃ話を進めるね?」
天使は、どこから取り出したのか巨大なブラックボードを空中へと展開させた。
ふわふわと宙に浮く二人の天使、その下で正座をして上を見上げる僕。
シュールだ。
僕は、反射的に勢いよく手を挙げた。
「はい先生。さっきの月美ちゃんの話だと、先生の力? にも原因があるってことでしたけど、それはどういうことでしょうか?」
名前が分からないというのは存外不便なもの。
いつまでも天使さんなんて呼ぶわけにもいかないこの状況で、彼女が黒板を取り出してくれたのは、僕にとって僥倖だった。
「良い質問だね、嵐君。はぁー、そうなんだよねー。嵐と同じでさ、あたしもこの天使の力ってやつが人一倍、天使一倍強いらしいんだよね~」
「当然と言えば、当然、だよ。だって、XXは、王女、だもん」
はははは。何だ、王女か。そりゃ血筋からして天使の力が強いってのも納得だよね。
そっか、王女かー…………… は?
「王女? 王女ってつまり、天使の王様の娘ってこと?」
「にゃははは。実は」
「えええええええええええ。ぜんんんんんぜん、そうは見えない。むしろそんな高貴な空気は一ミクロンも感じなかったぞ、僕は」
僕の発言にぷくーっと頬を膨らませる先生。
「失礼だなー嵐。そりゃまぁ、あたしなんて所詮は末っ子だし、王位継承権だって下から数えた方が早いけどさ、一応これでもお嬢様なんだよ?」
ナンテコッタ。ナンテコッタ。
「嵐の才能にあたしの力。それが重なって天使病なんて結果を生んじゃったのねー」
「最も、XXが、自分の力を、完璧に制御、出来ていれば、こんなことにはならなかった、かも」
ルナの発言に対し、テヘと可愛らしく舌を出す僕のパートナー。
「いやー、痛いところを突いてくるにゃールナは。あたしって、昔からその力の制御がヘタクソなんだよねぇー。面目にゃい」
「僕がその天使病に掛かった原因は分かったけど。具体的には今後そうすればいいの? というか僕はどうなっちゃうの?」
今度は僕の発言に対し、浮かない表情で僕の顔をじっと見つめてくる僕のパートナー。
「あのね? このままいくと嵐は人間じゃなくなる。そんでもってあたしのテンタマ試験は失敗ってとこだね」
実に重いボディーブローを喰らい、ふらつく僕。
人間じゃ無くなる? それじゃあ僕は何になるんだ? 人でなし?
いや、それよりテンタマ試験が失敗だって?
それは駄目だ。絶対に駄目だ。それってつまりかつてのルナと同じ、XXが堕天使になるってことじゃないか。一人でパニック寸前状態の僕。叩きつけられた現実は、早々甘くない。
ちゅっ。
そんな僕の頬に軟かな感触。かつて一度だけ味わったことのあるピンク色の衝撃。
「な、な、な、何やってんの月美ちゃん。今、いま、僕に」
顔をほんのり赤く上気させながら、もじもじしている月美ちゃんが答える。
「うん。だから、私が来た。嵐と、XXを助けるために。今度は、私が、二人を助ける番。だから、私が志願した」
「にゃるほどー、だからルナが来たんだね?」
「うん。私は、この半年間で、かつての力を取り戻した。これは、私が再びテンタマ試験を受けるための、リハビリ兼最終試験、なの」
駄目だ、やっぱり二人の会話についていけない。結局、これってどういうこと?
「つまり、私も、嵐のパートナーに、なるってこと。これで、万事解決」
それは、実にシンプルな回答だった。
つまり、二人の話をまとめるとこうだ。
僕は、悲しいかな自らの良く分からない才能と、実は王女だった僕のパートナーの均制御できない力のせいで、天人五衰病なる本来天使がかかる病気になる。
人間が掛かった時の症状としては、様々なものがあるものの、最終段階としては、二つ。一つは自身が人間ではなくなる事、もう一つはパートナーとの記憶、絆の消失。それはつまり、テンタマ試験の失格を意味していた。
それを回避すべく現れたのがかつての僕の幼馴染十五夜月美こと、堕天使ルナ。ルナは天界でかつての天使としての力を取り戻すべく、再びテンタマ試験へと挑むべく日々リハビリに臨んでいた。
そこで僕のパートナーからの緊急コールに答えて現れたのが彼女。僕のパートナー自身も、まさかルナが来るとは想定外だったらしいが、復帰への最終試験としてや、かつての僕との関係を買われて今回彼女が抜擢されたらしい。
で、問題はここから。
この天人五衰病。一旦掛かってしまうと、人間の病気のように抜本的に治す薬やワクチンは無いらしい。
そこで今回とった選択がこれ。ルナが僕のパートナーになる事。
これは原因の一つである、僕の歪な才能の問題を解決するための処置。才能ってものはある意味無意識のもの。修行や鍛錬でどうこうなるものではない。が、この天使の才能に関して言えば、ある程度馴らす事が出来るようになるらしい。
それが何故ルナがパートナーになる事と結びつくかと言えば、もう一つの原因と関連する。
そのもう一つの原因。
それは元々の僕のパートナーの王女としての天使の力。ルナにきっぱりと鍛錬不足と認定されてしまった彼女。上述通り、この天使病を解決するには、元となった原因を取り除く以外には無い。つまり、彼女が彼女自身の力を完全に制御できるようになる必要があるのだ。
そのため、彼女は一旦テンタマ試験を中断し、天界へと帰り再度、力の制御のための修行を積む事となった。
その間、僕の方の問題を解決するための要員として、ルナがピンチヒッターとして暫くの間、僕のパートナーを務めると言う事になったというわけ。
テンタマ試験ではないとはいえ、ルナが復帰するための試験の一環と言う事で、今までの試練同様の日々が続くらしい。
極々シンプルにかいつまんで言うと、パートナーが一旦ルナに変更になったということ。
僕の非日常な毎日は、引き続き変わらないということ、らしい。
一通り説明し終え、きゅっきゅとブラックボードに書かれた文字を消していく二人の天使。
その背中を見つめていると、走馬灯のように今までの記憶が思い出された。
思えば、振り回されっぱなしの半年間だった。けど、悪くなかった。
手に着いたチョークの粉をパンパンとはたき落としながら、僕のパートナーがにっこりと微笑んだ。
「と、言う事であたしは暫く実家に帰ります。嵐が寂しくないように、このルナを置いていきます。でも、あたしが居ない間浮気しちゃめーだよ、なんちって」
その刹那、彼女の足元が光を放ちながら少しずつ消えていく。これは、かつてのルナと時と同じ。
つまり、早くも別れの時、らしい。
「あっちゃー、もう転送が始まっちゃったよ。相変わらずせっかちだなー天界ってやつは」
「もう、いっちゃうのか?」
「にゃはははは、なーにしんみりとした顔しちゃってるのよ嵐。笑って笑って? あたし達に、そんな別れ方は似合わないでしょ?」
「… そりゃそうだ。それに、今生の別れってわけでもない。でもなー、こんなときに君の名前を呼べないってのは我ながら情けないよ」
そう、これはあくまで前向きな解散。
僕と彼女の間に、しみったれた別れは似合わなかった。
「だよねー。あたしもさっきから違和感ありまくりだよ。でも安心して、今度嵐の前に姿を現すときは、ちゃーんとあたしの名前を思い出させて見せるんだから!」
「ああ、分かってるよ。ま、何十年先になるか分からんけどな?」
「ぶー。嵐ったらこの期に及んでまだそんな事言うのねー。覚えてろー、光の速さで終わらせてすぐに戻って来てみせるから!」
「期待してるよ。天使さん」
そんなことを言いあい、僕らはハイタッチを交わした。
天使とハイタッチ。
「にゃははは、まかせといて。あーそうそう、皆に宜しく言っといてね? 皆あたしがいなくなってさびし」
バリッという音を最後に、完全にその姿を消した僕の元パートナー。
その元、という文字が解消されるかどうかは今後の彼女と、そしてこの僕の頑張り次第。
「… 最後の最後まで元気な奴だったな。ま、どーせすぐに戻ってくるんだろうけどね」
気のせいか、彼女の居なくなった部屋は酷く静かだった。それに、いつもより広く見えた。
「って気のせいじゃない! 月美ちゃん。月美ちゃんが居ない」
やけに静かだと思ったのは気のせいでも何でもなく、その実彼女が見当たらないからだった。
「相変わらずマイペースだよ、人間の時と何にも変わらない」
もしやと思い、僕は部屋の窓を開け、かつて「彼女の家」があった方角を見渡した。
案の定、月美ちゃんは空中に浮かびながら、今は何もない空き地をただただ見つめていた。
「月美ちゃん…。君が天界へ帰った次の日には、もうこんな状態になってたんだ。でも、おじさんも月子さんもきっとどこかで元気に暮らしてると思う」
「うん。私も、そう思う」
「そう言えば月美ちゃん、喋り方は人間の時のままなんだね? 確か、別れる直前は普通に喋ってたような気がしたけど」
僕のその問いかけに対し、ちょっとだけ照れ臭そうに笑いながら、月美ちゃんは答えた。
「うん。天使として本当は、人間だった時の癖は、直さなきゃいけない。でも、私は、十五夜月美が、好きだったから。嵐は、どっちが良いと思う?」
「そんなの決まってる。やっぱり僕は十五夜月美としての部分を残した君の方が… その、うん、いいかな」
「うん」
それだけ言うと、月美ちゃんはふわふわと僕の部屋へと戻ってきた。
「嵐、改めて、これから私のパートナーとして、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね月美ちゃん… ってやっぱりルナって呼んだ方が良いのかな?」
「別に。今まで通りで、いい、よ?」
「そっか。そう言えば月美ちゃんが僕の部屋にくるなんてどれくらいぶりかなー? 小学校くらいまでは結構遊びに来たりしたよね?」
「たぶん、高校に入ってからは、一度も無いと思う」
「そう言えば、そうかも」
ここでふと、ある思考が僕の頭を巡る。
待てよ、月美ちゃんがパートナーになったってことは… おいおいおい、この部屋で一緒に暮らすってことか?
はははは、いやいや待て待て、冷静になれ僕。
相手はもう人間じゃない、天使だぞ?
確かに幼馴染だが、今は天使だ。
いや、でも月美ちゃんは月美ちゃんなわけで…。
僕は、唐突に部屋の柱に頭を打ちつけながら叫んだ。
「うぉっしゃおらああああ、耐えろ、耐え抜け僕の理性!」
「嵐、嵐、どうしたの? お腹痛いの?」
どうして天使ってやつは、お腹の心配ばかりするんだろう。それとも天界ではやってるギャグなのそれ?
その時、突然僕の部屋のドアが開かれ、鬼の形相の有須が部屋へと侵入してきた。
「兄さん! 朝から何やってんですか、五月蠅いですよ! やっぱり可笑しくなっちゃったんですか? それともお腹痛いんですか?」
お前もそれか。
知らないうちに、どうやら僕は胃腸虚弱キャラにされてしまったらしい。
「… 嵐、全然変わってない」
そう言って嬉しそうに笑いながら、安堵の溜息を一つついた月美ちゃん。
「そう言えば月見ちゃん、これ言うのも変な感じなんだけど、一応。誕生日おめでとう」
時刻は朝の9時。
外は快晴、雲一つない気持ちのいい秋晴れ。
僕にとって、ごく普通で騒がしい非日常な1日が始まろうとしていた。
今日は十五夜。この天気ならきっと、今夜は綺麗な月が見れるに違いない。
END