第一輪「花と嵐と天使の溜息◆-花嵐の場合-」
花に嵐 … 物事には、とかく支障が起こりやすいという意味の諺
第一輪 「花と嵐と天使の溜息◆-花嵐の場合-」
季節は春。
いつもの時間、いつもの場所で、いつもの目覚まし時計の、いつもの音声が部屋中に響き渡る。
「おはようございます、今日もいいお天気ですね。さぁ、今日も一日頑張りましょう」
録音された某声優のその美声に、いったいどれだけの目覚まし効果があるのかは甚だ怪しいところではあるが、いつも通りに、三度その聞き慣れたセリフが繰り返された後、辺りは再び静寂に包まれる。
が、それも束の間。
目覚ましから数秒後、大きな衝撃音と共に「ぎゃあああああ」という、およそ朝には似つかわしくない少年の奇声が部屋中に響き渡った。
それは、とある一家のいつもと変わらぬ騒がしい朝の1シーン。
◆
ここは某県、某市、花家。
目覚まし代わりにみぞおちにヒップドロップを食らい、痛みと反動でベッドから転げ落ちて目を覚ます。
そんな朝の恒例行事を一つこなし、僕はいつも通り制服に着替え、いつも通り朝食へと向かった。
どうやら今朝も僕がビリけつ。リビングには、僕以外の家族は既に全員集合しているようだった。
「にひひひ、お早うにぃにぃ。今朝の目覚ましの加減はどうだった?」
朝から僕にヒップドロップをプレゼントしてくれた張本人であり、非常に兄想いな僕の妹、「団子」が僕に確信犯的な笑みを向ける。
いかに小学生とは言え、ゆうに30キロはあろう体重が毎朝毎朝僕のみぞおち目掛けて落下してくるのだ。僕の骨と臓器達が今日の今日まで平穏無事でいられたこと事態、ある意味奇跡だと言えた。
「おはようダンゴ。その目覚ましだけど、もう少しだけ手加減してくれないかな? お前のお尻と体重は凶器なんだから。というより、もっと普通に起してくれないかな。僕の命に関わるから」
そんな僕の必死の懇願を受け、すかさずダンゴが反撃する。
「そんなの知らないもん、れでぃの前でお尻とか、体重の話をするにぃにぃが悪いんだもん。それにダンゴじゃなくて団子だかんね」
彼女は名前の話をすると、とたんに機嫌が悪くなる。それを失念していた僕は、早々に話を逸らすべく視線をキッチンの奥へと移した。
上の妹「有須」が淡々と朝食の用意をしながら言った。
「兄さん、毎朝毎朝いい加減にしてくださいね。お願いですから、二度寝せず自分でさっさと起きて来てください。兄さんの奇声は、近所迷惑そのものなんですから」
有須の右手に持つ包丁が不気味に煌めく。その顔は確かにニッコリ微笑んではいるものの、目の奥はまったく笑ってない。
怖い。怖いです。有須さん。そして、お願いだから一旦包丁は横に置いておこう。それじゃ、脅しにしか聞こえないから。洒落にならないから。
「ぐわはははは、相変わらず朝から元気だな~嵐は」
いやいや、あんたが一番元気だよ、親父。
「ところで、高校の方はどうだ? 勉強はついていけとるか?」
その質問は昨日も一昨日も聞いたよ、親父。
「ぼちぼちだよ。至って普通」
僕は適当かつ投げやりに答え、目の前に並べられた朝食に手をつけていく。
この春から、僕は高校2年生になった。いい加減高校生活にも慣れきった今日この頃。少なくとも僕は、二度寝が出来る位にたるんだ日常生活を送っていた。
唐突だが、我が家は花屋を経営している。「花」なんて、妙に可愛らしい苗字だけに、花屋である。非常にシンプルで分かりやすい。暴露ついでに、改めて僕の家族の紹介。
まず、花家の長男である僕の名前は「花嵐」という。ちなみに、僕はこの名前と苗字が大嫌いだ。
小学生の頃なんて、男の癖に花なんて女々しい奴と笑われ、中学ではその顔で嵐? いっぱしにジャニーズ気取りかよ、という実に中学生らしい理不尽さでさんざん馬鹿にされた黒歴史。思い出したくもないトラウマだ。
朝からぐわははは、なんてテンションMAXで笑っているのが僕の父、「花見琴」。名前すらも豪快な、実に分かりやすい単純熱血下品な、だらしのない親父である。
お次は我が妹その1、「花有須」。親父と兄がこんなだからなのか、やたらしっかりしている中学3年生。ただし、怒ると恐ろしく怖い。僕なんて尻にしかれまくり状態。親父を差し置いて、この家の影の支配者といっても過言ではない。
最後は妹その2、「花団子」。通称ダンゴ。毎朝僕にヒップドロップをかましてくれる元気すぎる小学生。どんな事でも、大抵は笑って誤魔化せると思っている末っ子体質。結果、ハイジもびっくりわんぱく少女に成長。
さっきもちょっと触れたけど、我が家は花屋をやっている。あんな豪快親父が顔に似合わずお花屋さんなのだから、世の中とは本当に不思議なものである。
記憶が曖昧で殆ど覚えていないのだが、花屋の経営は今は亡き母さんとの約束らしい。母さんは、団子を産んで直ぐに亡くなってしまった。そんな母さんの夢が家族で花屋をやることだったらしい。
その母さんが亡くなった後、親父は1週間引きこもった。今思い出してみても、それはもうあの豪快親父からは想像できないほどの衰弱っぷりだった。が、1週間後、何を思ったのか、家族になんの相談もなく勝手に仕事を辞め、勝手に花屋を開いてしまった。なんともワンパクな親父である。ちなみに今は、何とか家族がやっていけるくらいの繁盛はしている。
「… さん、兄さん、どうしたんですか? 箸を持ったまま固まっちゃって」
「ああ。こうしてみると、ウチの家族って変わった名前が多いよなーって思って」
「にぃにぃ、それって団子のこと?」
ダンゴがギロリと睨んできた。まあ、たかが小学生に睨まれたくらいで動じる僕ではない。
「そうそう、だってダンゴだろ? 十分変な… って、ゴフオあッ」
ダンゴの拳が宙を舞う。ついでに僕の噛み掛けの玉子焼きも宙を舞う。
僕としたことが、ついついモノローグが口をついていたらしい。というより、食事中に拳が飛び交う家族団らんがどこにあろうか?
僕は頬を摩りながら再び玉子焼きに手を伸ばした。
「だんちゃん、食事中は静かに! それに良い名前じゃない、団子って」
美味しそうで。そう小声で呟いた有須を、僕は見逃さなかった。
「ぐわはははは、そうだぞ~、多少変でも気にするな団子。それが個性というやつだ」
親父が近所迷惑も考えず、能天気に全力で笑う。
「おいおい、あんたがつけたんだろ。まぁ、親父だって十分変な名前だけどね」
僕がそう言い終わるか終わらないかの間に、団子の拳は親父へと放たれた。が、流石は親父。箸と茶碗を持ったまま、ひょいと避ける。とどまることを知らないダンゴの拳は案の定、僕のところに。
残念無念、生まれ着いての文系もやしっ子体質の僕には、二人のような超人運動スキルは持ち合わせていない。
僕は壮大にお茶を吹きながら吹っ飛び、椅子から転げ落ちたのだった。
◆
何だか体中が痛い。それに、心なしか頭がに靄が掛かったような、何だかぼーっとした気分がさっきから続いている。
僕は、朝から重苦しい足取りで、高校への通学路をひたすらにダッシュしていた。
なんでウチの家族って朝からあんなに元気なんだろう。某海鮮系家族も真っ青なワンパクっぷりである。
微妙についた寝癖を気にしながら、坂道を登る。あれ… そういえば、何かとてつもなく重要な事を忘れているような気がする。何だろう?
鞄を漁ってみるものの、財布もケータイもある。数Ⅱの宿題は持ったし、英語の辞書も持った。… ダメだ、思い出せない。
その思ったのも束の間、いかにも重く鈍そうな擬音を放ちながら、僕の後頭部をナゾの衝撃が襲った。まるで鉄板で思い切りぶん殴られたような、そんな衝撃。
あぁ、目から星ってホントに出るんだ。
「あ、ごめん、嵐、大丈夫? でも、酷いよ、嵐、私を、置いて行っちゃうなんて」
目はチカチカ光っていて見えないけど、この声は。
「おはよう月美ちゃん、それと言っておくけど、僕を殺したって何のメリットも無いぞ」
「うん、知ってる。でも嵐が、一人で行っちゃうのが、悪いと思う、の」
女性にしては長身で、綺麗な黒髪をポニーテールとして束ね、僕の前に現れた制服姿の人物。彼女の名は十五夜月美。我が家のお隣さんで、世に言う幼馴染ってヤツだ。
我が家の女性陣と違い口数こそ多くは無いものの、無口キャラってわけじゃない。ただ、ちょっとだけ語り口が独特で、ちょっとだけ不思議ちゃんが入っているだけ。いわゆるマイペースな人なのだ。まぁ、恥ずかしげもなく言うならば、ちょっとくらいの天然は許せてしまうくらいの、僕の自慢の幼馴染だった。
「ごめんごめん、今日は朝からちょっとぼーっとしててさ。それと、カバンに鉄板を入れるのは辞めようね? … 命に関わるから」
「エスパー?」
僕の後頭部を殴打したカバンから、謎の鉄塊を取り出すお茶目な月美ちゃん。と言うか、本当に入れていたらしい。
無骨な鉄塊と女子高生との間に、どんな素敵な関係があるのか是非とも知りたいところではあるけど、今は命に関わるのでとりあえず没収。
「それはそうと嵐。嵐がぼーっとしてるのは、いつものことだけど、私を忘れるなんて、やっぱり、今日は、可笑しいと思うの」
僕以上にマイペースな月美ちゃんにそれを言われるのは、ちょっと納得出来ないところもあるけど、彼女の言う事も一理有る。
普通、何年も一緒に登校している幼馴染を置き忘れるなんてことが有り得るのだろうか? これはもはやぼーっとしているとか、寝ぼけていたというレベルを逸脱している気がする。
「本当にごめん、でも確かに可笑しいかもしれない。朝から有須に怒鳴られるわ、ダンゴに潰されるわ、殴られるわ…」
「うん、嵐。それ、いつものこと、だよ?」
悲しいかな、確かにいつもの事だった。
「うーん、でも何か変なんだよ。いつもと違うと言うか、体に妙な違和感があると言うか」
「… 何かあるのかも。気をつけてね、嵐。私の予感は、宝くじの末当くらい、当たる、から」
月美ちゃん、それって微妙。
こうして、僕の人生において最も数奇な1日が、その幕を開けた。
◆
桜ヶ丘第二高校2ーA教室
「おはようさん。今日も揃って登校とは相変わらずだな、メガネ夫婦」
のっけから実にツマラン冗談を飛ばすこの男。一応、僕の友人でありこのクラスの委員長であるこの男。名前を堅氷至と言う。
古今東西。委員長と言えば、お下げが似合う真面目な優等生と相場は決まっている。誰だってそう思う。僕だってそう思う。
それなのにこの男ときたら、そんな僕の思いを知ってかしらずか、自ら率先して委員長になるという暴挙に出た。何と言う鬼畜の所業。とどのつまり、男の委員長なんて誰一人として得しないですよっていう、そんな話。
「よっ、イタル。僕も月美ちゃんも普通にメガネ掛けてるってだけだ。それで夫婦だなんて、いささか安直すぎるぞ」
僕は目が悪くなりメガネをかけるようになった、ほどなくして月美ちゃんもメガネをかけるようになった、ただそれだけの話。
「ひゃっひゃっひゃっ。そうか? まぁ、別にメガネだけってわけじゃないんだけどな」
まだ何か言いたげなイタルを放置して、ふと月美ちゃんの様子を伺う。
「と言うか月美ちゃん。頬を染めてるのは何故?」
「べ、別に、何でも無い、よ?」
そう言ってそそくさと席へついてしまう月美ちゃん。やっぱりマイペース。
そんな僕らを尻目に、イタルが藪から棒に言う。
「そう言えば嵐、聞いたか? 流石にお前でも雨守三姉妹って知ってるだろ?」
「いや、知らない。誰それ、芸能人か何か?」
雨守? そういえばどこかで来た事があったようなないような。正直言って僕は、人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだった。
「お前って相変わらずこの手の話に興味が無いのな。俺達の一つ上の学年の美人三つ子姉妹の話だよ」
この男、普段は委員長なんてやっててかなりの堅物… っぽい見た目とは裏腹に、この手の噂話やゴシップネタが大好きなのだ。
まぁ、人の趣味にとやかくいうのも野暮というもの。僕は黙ってイタルの言葉に耳を傾ける。
「雨守春雨、五月雨、小雨の三つ子ちゃんでさ。それぞれ学術、運動、芸術の分野でウチの高校じゃ超がつくほど有名人なんだよ。で、3人ともこれまた超美人なわけよ。この三姉妹目当てでここに入学したやつなんてざらにいるんだぜ? あ、ちなみに俺は次女の五月雨さんが好みなんだけどな。ひゃっひゃっひゃっひゃ」
「へぇ、そんな有名な人達が居たんだ。この学校に一年以上も通ってるのに、全く知らなかったよ」
オーバーリアクション気味に溜息をついたイタルは、さらに続けて語る。
「それと、もう一つ。この三姉妹、超がつくほどの雨女なんだよ」
「雨女? それって、雨男とか雨女のアレか? 肝心な時に雨が降るアレか?」
「そうそう、先輩達が出る大きな大会や、大きなコンテストがあるときなんかは、何故か必ずといっていいほど雨が降るんだとよ。ちょっとミステリアスだろ? 謎めいているだろ? そこがまたいーんだよ。分かるか嵐? お前なら分かってくれるよな? な?」
それってミステリアスというより、ただ単に迷惑なだけだろ。一瞬だけそんな風に思ったものの、イタルがあまりに真剣な顔をしていたため、僕はその言葉を飲み込んだ。
「いや、僕にはその良さが全く理解できないね。それより、その三つ子ちゃんがどうしたんだ? 喧嘩でもしたの?」
「え、良く分かったな。お前が時々見せる感の良さってやつを、何かに生かせないか考えちまうね、俺は。で、だ。そうなんだよ、あくまで噂なんだけどよ、喧嘩したらしくて。事実、今まで1日たりとも学校を休んだこと無かったその三姉妹が、今日は揃って休んでるんだよ。それによ、何と言っても今日は雨。こりゃ、何か有ると思うだろ? 絶対何かあったんだったて」
ますます理解できない。僕は溜息を一つついてイタルに言い放つ。
「何かって何だよイタル、それに雨くらいいつだって降るし、喧嘩くらい誰だってすると思うけど。お前も知ってるだろ? うちの妹達だって」
と、そこで僕等の担任が教室へと入ってきた。
「おっ、話はここまでだな。ほら嵐、お前も席についとけ」
委員長が珍しく委員長らしいことを言ったので、僕はその言葉に素直に従うことにした。
さて、今日の一限目は何だったかな? ああ、数Ⅱか。朝から数学とはついてない。これはもう間違いなく眠くなりそうだ。
「チュっ」
僕がそんなことを思っていたその瞬間、僕の頬に何か柔らかいものが当った感触共に、僕の体を強烈で急激な睡魔が襲いかかる。
あれ、何だろう、まだ授業が始まったわけじゃないのに、意識が… それに瞼が自然に下りてくる…。
まるで何かに誘われるように、導かれるようにして、僕は、その意識を深き眠りの底へと手放したのだった。
◆
「嵐。嵐、起きて、嵐」
聞き慣れた月美ちゃんのその声で、僕の意識は一気に覚醒していく。
「うぅうう、ここどこ? 今何時?」
「嵐、登校してから、ずっと眠ってたんだよ。ちなみに、今は、お昼休み」
何だか体が凄く重い。気分も悪い。眩暈もする。理由は分からないものの、僕のステータスはそんな最悪な状態だった。
「ごめん、月美ちゃん。ずっと眠っておいて何だけど、体調が良くないみたいなんだ。今日は早退するね」
「うん、分かった。無理、しないで。ノート、嵐のぶんも、とっておくから」
流石は月美ちゃん。どっかの悪ノリ委員長にも見習わせたいくらいだ。
「ありがとう、月美ちゃん。この借りはいつか返すから。それと、じゃあなイタル、委員長として先生に報告頼むよ」
僕はそれだけ言い残すと足早に教室を後にして玄関へと向かった。
「何なんだこの状況は。今まで風邪くらいしか引いたこと無いってのに。こういうときはやっぱり病院に行ったほうがいいのか? とにかく、一旦家に帰ろう」
お昼休みということで、廊下は生徒で溢れかえっている。
「ねぇねえ聞いた? 雨守先輩、今日学校休んだんだってー。珍しいよね」
「あー、聞いた聞いた。姉妹で喧嘩したっていう話だよ。あんなに仲のいい姉妹でも喧嘩ってするんだねー」
偶然にもそんな会話が僕の耳に入ってくる。
雨守。確かイタルからそんな話を聞かされたっけか。
どうやら雨守3姉妹ってのは、僕が思っている以上に有名で、その噂も想像以上に広まっているらしいかった。
僕は傘を広げ、玄関から校門を出る。
それにしてもこの雨、梅雨にはまだ早いって言うのに、ここ数日ずっと降り続いている。この時期の雨ってなんて言うんだっけ? 時雨? 春雨? あぁ、五月雨か。この雨が晴れば、きっと五月晴れが広がることだろう。
「それにしても疲れた。本当、何だろうこのけだるさ。まるで何かにとり憑かれたかのような」
重い足取りで、我が家へと向かおうと足を踏み出したその刹那。
その声は、どこからともなく聞こえてきた。
「とり憑くなんて失礼ね。あたし、幽霊じゃなんだから」
「え?」
「え?」
こだまでしょうか? いいえ誰でも。
慌てて後ろを振り向いたものの、辺りに人気はない。そして前方にも、同じく人気はなかった。
「気のせい、なのか?」
まずい、これはちょっとまずい。幻聴まで聞こえてきた。何だ? 次は金縛りか? まさか本当に幽霊でも出てくるとか? ってことは僕、まさか憑かれてる?
僕がそんな風に思考を巡らせていたその時、再び幻聴が聞こえてきた。
「上見てよー、上」
その幻聴に従い、僕は視線を上に傾ける。
「上? ……は?」
その光景を見た途端、瞬間的に凍り付く僕。
どうやら僕の予想には若干の修正が必要なようだった。まぁ、幽霊にしろ宇宙人にしろ、僕のこのリアクションは恐らく変わらなかっただろうけど。
「は? はあ? はああああ?」
僕の目の前には、腕組みをした一人(?)のコスプレ少女が… 浮かんでいた。
「こんにちは、あたしは天使なのです。えっへん」
「これはご丁寧に、どうもこんにちは。僕は普通の人間です、有難い事に」
そうじゃない、そうじゃないだろう、僕。
目の前のあまりに受け入れがたい光景に、ついつい普通に挨拶を返してしまった。何だろうコレは。どういうことだ? 幻聴の次は幻覚と来た。
「まさかダンゴのヒップドロップを毎日毎日くらいすぎて、僕は本当に可笑しくなったのか? それも相当重度に」
「にゃははは、違う違う… まぁ、それも少しあるけど」
「あるんかい!」
僕は涙目になりながらも反射的にそう突っ込んだ。相手が何であり、僕はそう突っ込んだ。我ながら、悲しき突っ込み属性である。
「でも良かったー、やっとあたしを認識くれたね」
さて、ここでちょっと状況を整理してみよう。今、眼の前の物体Xは何て言った?
そう、天使だ。てんし、テンシ、天使?
言われてみれば、天使の代名詞である白い翼が生えているし、ご丁寧に頭にはワッカまで浮いている、おまけに純白のワンピース着用。これは確かに、天使だと言われれば疑いようも無く天使だ。それに、ぷかぷか浮かんでいる時点で間違いなく、普通の人間じゃない。
眼の前の自称天使は、僕にそれ以上に考える時間を与えず、半ば一方的に話を続ける。
「でねでね、突然なんだけど、あたしに力を貸して欲しいんだ。天使のお願い、勿論聞いてくれるよね?」
自分の頬をつねるくらいじゃ到底足りないと判断した僕は、たまらず自らの頬を3度平手打ちした後、進行方向を変えた。
「あれ、どこ行くの? 君の家はそっちじゃないでしょ?」
「ちょっと待て、何で僕の家の場所を知ってるんだよ? それに、これから僕が向かうのは家じゃない、病院だよ、病院」
平穏をこよなく愛しているはずのこの僕が、極々普通の日常生活を何より望んでいる筈のこの僕が、一体どうしてこうなった?
どうやら月美ちゃんのカンが当たったらしい。
ああ、これから僕に待っているのは、長く苦しい入院生活と、気の遠くなるようなリハビリの日々に違いない。
さよなら、皆。さよなら、僕の青春の日々。こんなことならもっと青春っぽいことしておくべきだった。例えばあんなことや、こんなこととか、ふひ、ふひひひひひ。
「待って、待ってよ。ちゃんと説明するからー。脅かす気は無かったの。君ならきっと信じてくれると思ったんだよー」
その根拠がいったいどから出てきたものなのか、僕には到底理解できなかった。
そもそも天使? 今の御時世、そんなの小学生だって信じちゃいない。
疑問と疑惑が次から次へと溢れて来る。
が、そんな僕の疑問を吹飛ばすかのように、天使と名乗る謎の少女型浮遊物体は、まるで人間の少女のようにえんえんと声を上げ泣き始めた。
ここだけ集中豪雨ですか。そうですか。
「って、え? 泣いてる? 泣いてるのか? 僕が泣かせたのか?」
相手が天使と名乗る得体の知れない謎の生命体だと言うことも、そもそも今が異常な状態だということも忘れて、僕は酷くうろたえてしまっていた。とある事情により、僕にとって、女性の涙はトラウマといってもいい代物だったからだ。
顔は青ざめ、全身から汗が噴出し、震えが止まらなくなる。
「分かった、聞く、聞くよ天使様。聞くからさ、お願いだから泣かないで」
僕は必死の形相で懇願した。それこそ、手を合わせて拝むようにして懇願した。自称とはいえ、天使に対してこのポーズをとるのは、かなりシュールな光景のような気がした。
体調は最悪、おまけに雨。そんな中、天使と名乗るわけの分からない生物に、わけの分からないことを言われる。
むしろ泣きたいのはこちらの方である。が、僕のそんな気持を知ってかしらずか、自称天使は言う。
「ほんと? いぇーい、やったねー」
彼女はくるくるとその表情を変える。つまり。
「嘘泣きかよド畜生!」
僕は力なくぐったりとその場に座り込んだ。だが、そんな僕に対して天使様は、後悔の時間すら与えてくれないらしい。
「それじゃ、まず自己紹介からだね。あたしの名前はリンネ。天使。もちろん本物だよ」
彼女は得意気にまくしたてる。
「あ、そうそう、言い忘れてたけど、あたしの姿は君にしか見えてないからね。取り敢えずは」
「… え?」
辺りを見回すと、いつの間にか集まっていた通行人達が、僕の方を見ながらひそひそ話をしていた。
あまりの異常事態に、僕は周りの事が全く見えていなかったらしい。
つまり僕は、衆人環視の中、先ほどからずっと一人芝居を繰り広げていたことになる。天使云々より、これでは僕が不審人物。
「そういうことはもっと早く言えよ、ド畜生め!」
顔を真っ赤にした僕は、嬉しくも無い本日2度目となる本気ダッシュでその場を離脱したのであった。
◆
一先ず人気の無い路地に避難した僕は、自称天使を問い詰める。
「そうか、分かったぞ。今朝から頭がぼーっとしてたのも、この体調の悪さも君のせいなんだろ? 絶対そうだ。間違いない」
例えば、もしも朝からの変調がこの天使のせいだったとして、他の人になんて説明すればいいんだろう?
いやー、うっかりうっかり。実は僕、天使にとりつかれちゃいましてねー。まいったまいった。
… そんな事、死んでも言えない。言えるわけがない。
そう考えると、天使のせいであって欲しいような、無いような。僕の気分は若干複雑だった。
「んー、たぶんそうかも。まず、頭がぼーっとしてたってのは、嵐の… そうだ。ねぇ、君の事これから嵐って呼んでいい?」
「別に構わないけど。っていうか、当然の如く僕の名前も知ってるんだな。本当に何者なんだ君は?」
「良かった、それでね?」
僕の疑問はスルーですか、そうですか。
「君と私のラインを繋げたんだ。だからこうやって天使であるあたしと会話が出来るってわけ。どう? これまでのあたしの話、ついてこれてるかな? 信じてくれたかな?」
はっはっは、はっはっはっは。はぁ?
「そんな胡散臭い話、そう簡単に信じられると思うか? 悪いけど、僕はそんな話を簡単に信じちゃうような電波人間でも、厨ニ病患者でもないんでね」
「絶対ホンとのホンとだよー、だってさー、流石に天使が嘘ついちゃまずいでしょ?」
彼女は、飛び切りの笑顔で僕にそう言い放った。
うっ、良い笑顔だ。少なくとも彼女の笑顔についてだけは、確かに天使のソレだった。
とはいえ、このままでは埒が明かない。一刻も早く開放されるためにも、ここは一先ず、彼女を本物の天使と認めて話を進めるしかないようだった。
「分かった、一万歩譲って君が天使だってのは認めるよ。で、その天使さんが平凡な人間代表であるこの僕に、一体何のようがあるっての? まさかと思うけどさ、僕はもう死んでるってオチじゃないよね?」
仮にとはいえ、彼女の存在を認めてしまった以上、もう何を言われても驚かない自信が僕には有った。
「にゃはははは、大丈夫大丈夫、ちゃんと生きてるよー嵐は。それに、あたしの事は天使じゃなくてリンネって呼んでよ、折角パートナーになったんだからさ」
「それだ。さっきからラインとか、繋げたとかいってたけど、僕は正直言って全く理解出来てません。それに、パートナーになった覚えもありません」
僕は拒絶を示すように、びしっとそう言い放った。
「まーまー、落ち着いて。ちゃんと順番に答えていくから」
自称天使のリンネさんは、ふふんと鼻を鳴らしながら得意げに語り始めた。
「まず、あたしは天使っていっても正式な天使ってわけじゃないんだ。簡単にいうと天使の卵、テンタマだね」
「卵? 修行中ってことか?」
「そうそう、あたしは本物の天使になるため、この地上へ降りてきたの。この地上で108っの善行を積むっていう天使の試練を突破すると、正式な天使になれるって仕組みなんだ」
「ちょっと待った。何だよ108って、108と言えば煩悩の数だろ。思いっきり仏教じゃないか」
色々と言いたいことはあるが、とりあえずそこに突っ込みを入れてみる。
「いいのいいの、気にしないで。天界ではよくあることだよー。深く考えちゃだーめ」
成る程、どうやら天界って場所は、僕が思っていたよりずっといい加減でテキトーな場所らしい。
「それにね、ラインを繋げたって言っても別に難しい話じゃないよ。さっきも言ったけど嵐にあたしのパートナーになって貰ったから、その証みたいなものなんだ」
「なぁ、リンネ。つまりそれって試験なんだろ? 天使になるための。パートナーと言っても、僕みたいな人間が手伝ったりしていいのか?」
「いやいや嵐さんや、仮にもあたしは天使なんだよ? 普通の人間にはあたしの姿は見えないし、触れない。それにテンタマだから、この世界に干渉出きることも物凄く少ないの。このままじゃどうしたって試験を突破できないわけ。そこで、一人の人間にこの試験の間、天使を手伝ってもらうんだ。そのパートナーとなる人間を選んで、試験の間ちょっとだけ自身の力を人間に貸し与えることをラインを繋げるって言うんだよ」
いつの間にか僕は、既にそのラインってやつを繋げられてしまっていたらしい。プライバシーの侵害も甚だしい事態である。
「ラインを繋げた人間は天使を見ることが出来るし、触ることも出来る。勿論、こうやって会話をすることも出来るよ。他にも色々とあるんだけど… それはそのうち分かると思うから。百聞は一見にしかずってね」
四字熟語を会話にとり入れる天使。僕の中の天使のイメージってやつが、音を立てて崩れていくのが分かる。
「そもそも、このパートナーとなる人間を選ぶ時点で、試験はもう始ってるんだよ? 嵐はあたしに選ばれたんだ。もっと喜んでいいんだよ?」
へぇ、そうですか、そりゃ選ばれて光栄、な訳が無い。あるわけがない。そもそも僕に、選択の余地すらない。
「そういうわけだから、一緒に頑張りましょうね、あ・ら・し♪」
にぱーっと笑うリンネ。
どうしていいかわからず、ただただ呆然と立ち尽くす僕。
「あ、そうそう忘れるところだった。嵐にとっては一番大事な話かもしれないから良く聞いてね。無事試験を突破して、テンタマが天使になったとき。そのパートナーの人間にご褒美として、一つだけ何でも願いを叶えてもらえるの。どう? すごいでしょ? やる気出たでしょ?」
何でも? 何でもだって? もしその話が本当なら、確かにすごいけど。
元々胡散臭い話な上に、さらに胡散臭さを上塗りしたようなそんな胡散臭さの塊のような話を、果たしてそう簡単に信じていいものか?
でも実際、僕の目の前にいる少女型浮遊物体が、どうやら人間でないことは見るに明らか。
「一番大事なことなら他にあるよ、リンネ。そもそもどうして僕なのかって事。先に言っておくけど、僕は何か特別な力があるわけでも、特別な才能があるわけでもないぞ?」
「にゃははは、分かってるよー、そんなの」
あ、そうなんだ。やっぱり僕には何も無いんだ。実は隠された魔力があるとか、実は勇者の子孫だったとか、ちょっとだけそんな厨ニ病丸出しな展開を期待していたのに。愚かなる僕の夢は、脆くも崩れ去ったわけで。
そんな僕の落胆っぷりを見てリンネが答える。
「ごめんごめん嵐、そんなに落ち込まないでよー。でもさー、何でとか言われても困るんだよね、これが。強いて言えば、あたしのカン。天使のカンってやつかな? 嵐の姿を始めてみたとき、びびっときたの。それにね、嵐ってば天使であるあたしから見ても、十分才能はあると思うよ」
やっぱり? やっぱりそうなのか? 持ってる持ってるといわれ続けてはや十数年。今、このとき、この瞬間、僕の真の力ってやつがようやく明らかにされる、らしい。
僕は再び目を輝かせ、リンネに問う。
「そ、そうなの? はは、そっかそっか。… で、何の才能なのかな? ん?」
僕はあくまで平静を装いながら、そう尋ねた。
「うーん、トラブルに巻きこまれる才能とか、人間以外に好かれる才能とかかな? ぷぷっ」
はいはいワロスワロス。どうせ、そんなことだろうと思ったよ。
というか馬鹿にしてない? 明らかに笑ったよね、今。馬鹿にしてるよね? これ。
とは言え、花家の家訓に「困っている人がいたら意地でも助けろ」ってのがある。
小さい頃からあの熱血親父にさんざん叩き込まれてきたことなので、僕の思考は否応無しに反応してしまう。リンネの場合、果たして人としてカウントしていいのかって疑問は残るけど。
さて、どうしたものか………。
僕は大きな溜息を一つつき、覚悟を決めて答えた。
「君の言いたいことと、今の状況は大よそ理解したよ。こうなった以上、取り敢えずは、君を手伝ってもいいよ、リンネ。と言っても、何をすればいいのかさっぱりわからないけどね」
そんな僕の答えに対し、天使リンネは大きな大きな安堵の溜息を一つついた後、満面の笑顔で言う。
「ほんと? 良かったーーー、さっすが嵐、あたしが見込んだだけのことはあるよー」
勢いよく僕に抱きつくリンネ。
さらば僕の平穏。さらば僕の日常。
こうして、僕のちょっとだけ非日常的で、ちょっとだけ不思議な天使との毎日が、幕を開けたのだった。
END