第9章:家政の実習とエプロンの危機
家政実習室の透明な窓から、朝の光が差し込んでいた。室内は活気に満ちた喧騒に包まれ、バターや小麦粉、そしてかすかなココアの香りが空気中に漂っている。朝食を食べたばかりのエンマでさえ、抗いようのない空腹感を覚えるほどだった。
実習室はいくつかの調理ステーションに分かれ、それぞれにオーブンと器具が完備されている。担当の教師が明るい声で今日の課題を発表した。「相手への思いやりを形にするスイーツ。そして、二人一組で取り組むこと!」
その瞬間、教室中にどよめきが走った。
家政の実習は、多くの生徒にとって「嫌いではない」数少ない授業の一つだ。少なくとも座学や小テストに悩まされることはなく、最後には自分たちが作ったものを(たとえそれがどんな状態であれ)食べることができるからだ。
調理台が列をなして並び、各台にはオーブン、シンク、器具棚が整然と配置されている。
エンマは自分の水色のエプロンを見つめながら、深く溜息をついた。彼は腰の紐をきっちりと結ぼうと苦戦していたが、その隣ではカナタがミシュランスターのシェフにでもなったつもりで、手にした泡立て器を器用に(だが危うく隣のテーブルの生徒の頭にぶつけそうになりながら)回していた。
「おいエンマ! 今日こそ俺が主役になる番だぜ。こういうお菓子作りの授業こそ、クラス中の女子がこのシェフ・カナタの魅力にひれ伏す絶好のチャンスなんだからな!」カナタが声高らかに宣言する。
「その前にエプロンをまっすぐ結びなよ、カナタ」エンマは淡々と答え、第四ステーションに目を向けた。そこには、一際目を引くサエルの姿があった。
サエルは、制服に驚くほど似合う小さな花柄のピンクのエプロンを身に纏っていた。結び目は完璧で、丈も彼女の体に寸分違わずフィットしており、無駄な弛み一つない。
髪は高い位置でポニーテールにまとめられ、白くしなやかなうなじが露出していた。彼女の表情は、材料の準備に対して真剣そのものだった。
「エプロンって、どうやって着るんだっけ~?」
ルリヒメはエプロンをあべこべに体に巻き付け、紐が複雑に絡まり合って自縄自縛の状態になっていた。彼女はくるくると回りながら背中で結ぼうとするが、なぜか結び目は正面に現れてしまう。
近くにいたエンマは、その光景を少し呆れたような目で見つめていたが、やがて溜息をついて助けに入った。
「ちょっと、そうじゃないよ」
彼はエプロンの紐を掴み、解いてから手際よく結び直してやった。
「あら、もう終わったの?」ルリヒメが目を丸くする。
隣にいたサエルはその様子を静かに見守り、密かに小さく微笑んだ。直後、教師がペアの組み方を発表し、名前が呼ばれた瞬間にサエルの周囲の空気がわずかに変わった。
「サエル、ペアは……ルリヒメさん」
静寂。
エンマは一瞬、動きを止めた。
ルリヒメはすぐにサエルの方を振り返った。サエルと一緒になれたのだ。
「やったぁ……サエルお姉様とペアだわ」
サエルは小さく頷くだけで、表情は相変わらず穏やかだった。彼女は隣に立つルリヒメの頭を優しく撫でた。ルリヒメは、無理やり家事の手伝いをさせられている小学生のような佇まいで、濃い紫色のエプロンをしていた(もちろん、彼女の癖で隅の方をピンク色に塗りつぶそうとした跡がある)。その手には、製菓道具というよりは武器のように小麦粉の袋が握られていた。
「ねぇ、サエルお姉様……どうして小麦粉の重さを量らなきゃいけないの? 私の鋭い鷹の目による目分量じゃダメかしら?」ルリヒメが頬を膨らませて尋ねる。
サエルは優しく微笑んで説明した。「ダメよ、ルリヒメちゃん。お菓子作りは精密な科学なの。もし一ミリグラムでも分量を間違えれば、分子構造が変わり、食感は瞬時に崩壊してしまうわ……分かったかしら?」
ルリヒメはビクッと肩を震わせた。「は……はい、シェフ長閣下」
調理が始まった。サエルは神業とも言えるスキルを披露した。まず、一定のリズムで小麦粉をふるいにかける。粉は冬に静かに降り積もる雪のように、白く美しく舞い落ちた。続いて、片手で鮮やかに卵の黄身と白身を分けていく。あらゆる動きが滑らかで非の打ち所がなく、まるで厨房の中で踊っているかのようだった。
バターが投入され、滑らかになるまで練られる。砂糖が少しずつ、一定のペースで加えられていく。ルリヒメは三十秒ほどは熱心に見ていたが、やがて首を傾げ始めた。
「どうしてそんな風にかき混ぜなきゃいけないの?」
「バターに空気を含ませることで、クッキーの生地を軽くするためよ」
「じゃあ……私に混ぜさせてくれる?」
「ええ、いいわよ」
ルリヒメは頷き、別のスプーンを手に取ると、サエルの三倍の力で猛烈にかき混ぜ始めた。ボウルがガタガタと震え、バターが少し飛び散る。
「……もっと優しくね」
「あっ、ごめんなさい」
他のステーションでは、カナタが卵を握りつぶしたり、他の生徒が粉をぶちまけたりと騒がしくなっていたが、サエルのステーションだけは静寂と秩序に満ちていた。
最後の一仕上げとして砂糖を加える段階になるまでは、すべてが順調に見えた。
「ルリヒメちゃん、左側にある白い壺に入った三温糖を取ってくれるかしら?」サエルはゴムベラで慎重に混ぜ合わせていたため、視線を向けずに指示を出した。
窓の外のスズメをぼんやり眺めていたルリヒメは、飛び起きた。「あっ! 分かったわ。白い壺の砂糖……ええと、これね」
カウンターにはよく似た二つの白い陶器の壺が並んでいた。一つは細粒の三温糖、もう一つは料理用の純粋な海塩だった。ラベルを確認する習慣のないルリヒメは、迷わず塩の壺を掴み、サエルのボウルの中に「これくらいで甘くなるはず」という分量をドバドバと投入した。
「入れたわよ!」ルリヒメが親指を立てて報告する。
サエルは一瞬、動きを止めた。ボウルの中央にこんもりと盛られた真っ白な塊を見つめ、彼女の瞳がわずかに揺れた。「ルリヒメちゃん……今、どの壺から取ったのかしら?」
「ラベルが貼ってなかった方の白い壺よ!」
サエルはそっと指先を伸ばし、その白い粒に触れて舌先に当てた。その瞬間――。
「これ……塩だわ」
「あら……えっ……は?」ルリヒメは素っ頓狂な声を出し、悲しそうな顔をした。
「……大丈夫よ。まだ修正できるわ。ダークチョコレートとココアパウダーを多めに入れて、塩気を抑え込みましょう……『フュージョン風・ソルトキャラメル・ショコララヴァ』になるかもしれないわ……お姉様に任せなさい」
「フュージョン風・ソルトキャラメル・ショコララヴァ!」ルリヒメはパッと顔を輝かせ、完成したクッキーを想像した。
実習の終盤、焼き上がったばかりのお菓子の香りが漂い始めた。カナタのステーションでは、食べるのが恐ろしいような「自分の顔型クッキー」が完成していた。一方、サエルが手に持っている皿には、美しいショコララヴァケーキが載っている。湯気が立ち上り、見た目には教室で最も完璧な芸術作品だった。
「エンマ……ちょっとこちらへ来て」サエルは甘く、しかし期待に満ちた声で弟を呼んだ。
エンマは本能的に一歩後ずさった。「は……はい」
「私たちの自信作を試食してくれないかしら? ルリヒメちゃんが頑張って『隠し味』を入れてくれたのよ」サエルは満面の笑みを浮かべていたが、エンマの生え際からは冷や汗が流れていた。
「で、でも……さっき姉さんは、僕の病み上がりはまだ心配だって言ったじゃないか」
「もう治ったわ……私の評価ではね」
カナタが後ろからついてきた。「おいおい、世界最高のテイスターであるこのカナタ様にも試食させろよ。いい香りじゃないか!」
エンマはカナタを止めようとしたが、もう遅かった。カナタは大きなスプーンでケーキを口に運び、エンマもまたサエルの無言の圧力に屈して、一口分を口にした。
クッキーの生地が舌に触れた最初の数秒、周囲のすべてが静止したかのように感じられた。味覚はプレミアムなチョコレートの贅沢な調べに染め上げられた。濃厚なココアの香りが層を成して広がり、甘すぎず、苦すぎず、黄金色の純正バターによって磨き上げられたまろやかな苦味が広がった。生地は密度があるのに重すぎず、しっとりとしているのに軽やかで、冬の雪が温もりに屈するように舌の上でゆっくりと溶けていく。甘さは突き刺すようなものではなく、空っぽのコンサートホールで響くチェロの長い旋律のように、深く、柔らかく、優雅に染み込んできた。
歯を一度噛み合わせるだけで、生地は礼儀正しく崩れた。バターのコクが舌の表面を薄くコーティングし、思わず目を閉じてしまう。その瞬間、脳内では完璧な一致を見た。これは記憶に留めるべき至高のスイーツであり、食べた者に世界を、時間を、そしてあらゆる警告を忘れさせる味だった。
だが……。そのわずか一瞬後、世界は一変した。
リズムが狂った。美しく終わるはずだった甘みが唐突に途絶えた。脳が事態を完全に解釈する前に、舌の中央から異様な味の奔流が噴出した。それは単なる塩辛さではない。手元が狂って振りかけられた程度の塩ではなく、まるで海そのものを凝縮して一塊にし、口の中に放り込まれたかのような、荒々しく容赦のない塩分だった。
ナトリウム爆弾が作動した。それは音もなく爆発したが、その衝撃は落雷よりも凄まじかった。塩味が味覚のあらゆる次元を貫通した。ショックを受けた味覚神経が停止し、反射的に唾液が溢れ出す。体は予期せぬ脅威に対して防衛本能を働かせ、舌は逃げ場を求めて跳ね上がったが、逃げ道などどこにもなかった。咀嚼していた歯は途中で止まり、顎は呪われたかのように固まった。
先ほどまでのチョコレートの香りは無残に引き裂かれ、バターのコクは苦渋に満ちた油っぽさへと変貌した。あまりの塩分に喉は一瞬で干上がり、食道が収縮し、筋肉が勝手に痙攣を始めた。見開かれた瞳の中で、脳は自分自身に問い続け、叫び続けた。「一体何が起きたんだ!?」
相反する二つの極が混沌の中で衝突した。甘みと塩味は決して混ざり合うことなく、宿敵同士のように互いを引き裂き合った。一秒前の至福の記憶は、今や残酷な嘲笑に過ぎない。生地の中に巧妙に隠されていた塩の粒が、伏兵のように次々と襲いかかる。
息が詰まり、飲み込む音だけが重く響いた。塩味は酸の波のように喉を通り抜け、熱く、不快な感覚を残した。口内のあらゆる細胞が一斉に抗議の声を上げ、感情とは無関係に涙が滲んだ。これは純粋な生物学的反応だった。体が「これは体内に入れてはいけないものだ」という緊急信号を発していた。
海水も裸足で逃げ出すほどの強烈な塩味が、味覚中枢を蹂躙した。あまりの塩分に耳の付け根まで痺れが走り、サエルが相殺しようと入れたダークチョコレートの苦味と混ざり合う。だが、それらは決して打ち消し合うことはなく、むしろ協力してテイスターの神経系を破壊しにかかっていた!
「うっ……!」エンマは目を見開き、剥製にでもなったかのように硬直した。彼の顔色は正常な色から緑色へ、そして異界の幻視でも見たかのように青白く変わっていった。
一方、カナタは……世界が急速に回転し始めるのを感じていた。耳抜きが追いつかないほどの圧力を感じ、頭の中に微かな霧のような声が響く。(……これがタイトルにある『まどろみ』ってやつなのか……?)彼は姉の厚意を無にしないよう、必死でその塊を飲み込もうとしながら、そう思った。
「どうかしら?」ルリヒメが、邪気のない、この上なく愛くるしい笑顔で熱心に尋ねた。
カナタはその場に崩れ落ち、うわごとのように呟いた。「俺……光の差す長いトンネルの入り口が見える……。そこには紫の縁取りのある白いドレスを着た綺麗な女の人がいて……銀髪で、紫の瞳の人が、俺を手招きしてるんだ……」
エンマは残された理性を総動員した。彼は笑顔を作ろうとしたが、それはどちらかと言えば牙を剥いているようにしか見えなかった。「美味しいよ……すごく斬新だ、姉さん……。まるで……チョコの海を泳いでいたら、美味しさの巨大な津波に何度も叩きつけられてるみたいだ……」そう言って、彼も床に膝をついた。
ルリヒメは陶器の壺を胸に抱えたまま立っていた。彼女は小首を傾げ、石像のように固まったエンマと、壁に寄りかかって死線から帰還したような顔をしているカナタを見つめた。
先ほどまでの明るい笑顔が、次第に静止していく。
「……?」
彼女はゆっくりと一度、二度と瞬きをした。
空気中に漂うチョコレートの香りは相変わらず甘く、目の前の惨状とは全く不釣り合いだった。すべてが正常に見える。まるで……二人が大げさに演技をしているかのようだった。
ルリヒメは手元の壺を見つめ、指を突っ込んで白い粉を少しだけ舐めた。
「……」
叫び声も驚きの仕草もなかった。ただ……眉間にほんの少しだけ皺が寄った。
「不味いわ」
達観したような短い言葉が漏れた。彼女は不自然なほど真剣な表情でサエルを見上げた。
「サエルお姉様」
「な、なあに?」
「三温糖って」ルリヒメは壺を目線の高さまで掲げた。「……こんなにしょっぱいの?」
オーブンを囲む一帯に沈黙が支配した。カナタは辛そうに唾を飲み込み、エンマはなぜか自分の胸がチクリと痛むのを感じた。サエルは静かに目を閉じ、長い溜息を吐いた。
「……違うわ、ルリヒメちゃん。それは塩よ」
ルリヒメは素直に頷いた。それから、薄く微笑んだ。
「ということは……」
彼女は皿に残された、見た目だけは完璧なショコララヴァクッキーに目をやった。湯気が立ち、何も失敗などしていないかのように美しい。
「……さっきの二人、甘いものを食べてなかったのね」
誰も答えなかった。ルリヒメは塩の壺を少しだけ強く抱きしめ、教室内で最も無邪気で、最も毒のない声で言った。
「ごめんなさい」
一呼吸置いてから、彼女は続けた。
「でも、お兄様たちの食べてるときの顔……可愛かったですわ」
サエルは力なく笑いながら、長い溜息を吐いた。「どうやら私の『思いやり』という課題は失敗したようね……。ごめんなさい、エンマ。今日の夕飯はとびきり美味しいものを作って埋め合わせするわ」
授業が終わり、全員で後片付けを始めた。エンマはサエルの隣で皿を洗っていた。授業終わりの穏やかな時間は、彼の心を解きほぐした。舌はまだ痺れていたが、彼はこうした当たり前の日常が好きだった。
「姉さん」エンマが小さく呼んだ。
「どうかした?」
「ちょっとしょっぱかったけど……姉さんが一生懸命作ってくれたのは分かってるよ。ありがとう。……まったく、ルリヒメとペアじゃなきゃ、きっと優勝してたのにね」
サエルは一瞬動きを止めた後、心からの温かさを込めて微笑んだ。生徒会長としての面影ではない、最も自然な彼女の笑顔だった。「ええ、ありがとうエンマ。次の授業の準備をしなさい、遅れるわよ」
「次は部活の時間だよ……そんなに急がなくてもいい」
「そ、そうね……。部活、だったわね」
家政実習室の小さな騒動や、洗面台で口をゆすぎ続けているカナタの愚痴の裏で、学校の天井付近では次元の小さな亀裂がゆっくりと広がり始めていた。鈍い灰色の光が、わずか一瞬だけ明滅する。
真実の霧が形成され始めていた。そして、授業中の居眠りよりも遥かに長い「まどろみ」が、数日後の彼らを待ち受けていた。




