第8章:消えたイチゴミルク
その日の朝は、少し肌寒かった。柔らかな日差しが窓のカーテン越しに心地よく差し込んでいる。寝室は静まり返り、壁掛け時計の刻む音だけが規則正しく響いていた。エンマはゆっくりと目を開け、ベッドの上に起き上がった。ここ数日に比べて体が軽い。昨夜まで彼を苦しめていた熱はすっかり下がり、首筋に残っていた冷や汗も、頭を覆っていた重苦しさも、嘘のように消え去っていた。
枕元に置いてあった体温計で、念のためもう一度測ってみる。表示された数字は、紛れもない平熱だった。エンマは安堵のため息を漏らし、ベッドから這い出した。ようやく、普通の生活に戻れる。そう、意気揚々と学校へ行く準備を始めた。
だが、本人が「治った」と思っていても、世界がそれを許すとは限らなかった。
彼がベッドから一歩踏み出した瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。そこにはサエルが立っていた。アイロンのきっちりかかった制服に身を包み、長い黒髪を端正にまとめた彼女の姿は、さながら高精度のスキャナーのようにエンマを射抜いた。
「エンマ」彼女の声は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。「そのまま動かないで」
エンマが尋ねる間もなく、サエルは歩み寄り、片手でデジタル体温計を取り出し、もう片方の手を彼の額にそっと添えた。その手つきは丁寧で、まるで壊れやすい宝物を扱うかのようだった。
「さっき測ったよ」エンマが慌てて言う。「もう平熱なんだ」
「もう一度測るわ」サエルは即座に、迷いなく答えた。「朝は体温が安定しないものよ」
エンマは素直に従った。姉のこの「過保護モード」には、もう長いこと慣れっこだ。サエルは声を荒らげたり、パニックになったりするタイプではない。しかし、こと弟の健康に関することとなると、彼女は徹底的に真剣になるのだ。
画面の数字を確認したサエルは、小さく頷いた。
「いいわ。でも、まだ百パーセント安全とは言い切れない」
「まだ安全じゃない」という言葉に、エンマは力なくため息をついた。
サエルは壁際にあるエンマの通学カバンのもとへ歩み寄り、流れるような手つきでカバンを開けた。そして、中身の再構築を始めた。
デジタル体温計、一つ。
解熱鎮痛剤三種類(メーカー別に小分け済み)。
冷却ジェルシート。
携帯用折りたたみブランケット。
追加のハンカチ二枚。
予備の靴下。
そして、ビタミン剤のパウチ。
その光景を黙って見ていたエンマは、ついに堪えきれずに尋ねた。
「サエル……僕は学校に行くんだよね? リハビリキャンプに行くわけじゃないよね?」
サエルは手を止め、少しだけ彼を振り返った。真剣だが、決して怒っているわけではない眼差し。
「学校よ。でも、あらゆる事態に備えておく必要があるわ」
彼女は、それが世界で最も当たり前のことであるかのように平然と言い放った。
カバンのジッパーが閉じられ、エンマがそれを背負ってみると、その重みで体がわずかに傾いた。
「重い……」
「いいわね。それなら走らなくて済むわ」
朝食後も、サエルの監視は続いた。彼が完食するのを見届け、十分な水分を摂ったか確認し、大して寒くもないのに上着を着るよう念を押した。
登校時間、多くの生徒が校門へと吸い込まれていく中、サエルとエンマの姿は一際目を引いた。サエルはエンマの前に立ち、弟の襟元を丁寧に整え、ボタンの一つ一つをチェックしていた。
「エンマ」彼女の声が少しだけ和らぐ。「もし……タイツ――じゃなくて、靴下が濡れたら、すぐに履き替えなさい。ぶり返したら大変だわ」
一瞬言い淀んだが、彼女の真剣さは周囲の生徒たちが思わず足を止めて見入ってしまうほどだった。サエルは視線など気にも留めず、カバンから薄手のマフラーを取り出し、必要のないほど丁寧にエンマの首に巻いた。
「昼休みは長く太陽の下にいないこと」
「もし立ちくらみがしたら、すぐに私に電話しなさい」
「放課後は寄り道厳禁よ」
エンマは、公共の場でこれほど面倒を見られることに少し照れを感じながらも、その温かさに不思議と心地よさを感じていた。サエルは一歩下がり、弟の姿を頭からつま先まで、まるでその姿を記憶に焼き付けるかのように見つめると、かすかな、だがエンマにははっきりと分かる微笑みを浮かべた。
「行きましょう。今日は……会議で話し合わなければならない大事なこともあるから」
エンマは校門へと歩き出した。肩のカバンは重かったが、心は驚くほど軽かった。
彼が門をくぐり抜ける間、サエルはその場に立ち尽くし、弟の背中を穏やかで、それでいて揺るぎない眼差しで見守り続けていた。
その日の午前中、校内はまるで揺さぶられた蜂の巣のような騒ぎだった。廊下、教室の入り口、そして教室内。あらゆる場所で交わされる会話のトピックはただ一つ。昨日、誰にも説明できない形で発生した「謎の震動」についてだ。
机はあちこちでグループごとに寄せられ、生徒たちは身振り手振りを交えて大げさに語り合っていた。まるでつい数分前に起きた出来事であるかのように。
カナタは自分の席に座り、椅子の背もたれに腕をかけて「何かを知っている者」の風貌を装っていた。視線は教室中を巡り、状況を分析する。頭の中では、鮮やかなデビューを飾るためのタイミングを計っていた。
(よし……俺の出番だ)
彼はゆっくりと腰を浮かせ、完全に立ち上がるほどではないが、周囲より目立つ高さで軽く咳払いをした。
「あー……実はさ」カナタは声を低くし、いかにも機密事項を話すような口調で切り出した。「昨日の揺れ、あれはただの地震じゃないぜ」
数人の生徒がこちらを向いた。手応えを感じたカナタは、さらに得意げになる。
「俺が聞いた話じゃ……」彼はわざとらしく言葉を溜めた。「世界政府による、極秘の生物兵器のテストだったらしい」
『世界政府』という単語を強調し、彼は人差し指を一本立てた。まるで世界の真実を暴く告発者のように。
「連中は、エネルギー信号を隠蔽するために、地層が複雑なこの場所をテスト場に選んだんだ。そして――」
だが、彼の言葉が完結する前に、教室の反対側から冷静な声が割り込んだ。
「もしそれが事実だとしたら、観測された周波数データと全く整合性が取れないわね」
ソフィアが自分の席に座り、表情一つ変えずにノートを開いていた。彼女はカナタに視線すら向けず、淡々と続けた。
「地質学的なデータによれば、震源は極めて深く、断層のずれによるせん断運動が原因よ。爆発や人為的なエネルギー放出による波形ではないわ」
カナタは一瞬言葉に詰まったが、必死に食い下がる。
「で、でも、最新技術かもしれないだろ! もしくは魔法だよ。魔法使いなら、そのくらいのことは朝飯前のはずだ」
「技術であれ魔法であれ」ソフィアは被せるように言った。「必ず周期的なパターンや異常な反射波が残るはずよ。でも、記録されたデータにそのような特徴は一切見られないわ」
彼女は冷静にノートのページをめくった。
「結論として、あれは地殻下に蓄積された応力による自然現象。兵器も、魔法も関係ないわ」
グループを囲んでいた空気が一瞬で静まり返り、一人の生徒が頷いた。
「へえ……じゃあ、本当にただの地震なんだな」
「なんだ、つまんないの」
別の生徒がそう言って席を立った。一人、また一人と、学術的な説明によって興奮を吸い取られた生徒たちは、自分たちの席へと戻っていく。
カナタは中途半端に腰を浮かせた姿勢のまま固まっていた。空を指していた指が、力なく下りていく。
「おい……まだ話は終わってないぞ……」
彼の呟きは誰にも届かず、ソフィアは変わらず静かに本を読み続けていた。
数分後、担任の教師が教室に入ってきた。ざわめきが収まり、全員が着席する。カナタもがっくりと肩を落として座った。出席確認を終えた教師は、教卓に積まれた山のような宿題のプリントに目を向け、生徒たちを見渡した。
「誰か、手が空いている者はいないか?」教師が言った。「このプリントを職員室まで運ぶのを手伝ってほしいんだが」
教室はしんと静まり返った。誰も動こうとしない。
教師の視線が、運命に導かれるようにカナタで止まった。
「カナタ、君は暇そうだな」
「えっ……?」
「よし、頼んだぞ」
拒否する間もなく、目の前にプリントの束がドンと置かれた。カナタは胸の高さまである紙の山を見つめ、長い、長い溜息を吐いた。
彼は一人でプリントの山を抱え、クラスメイトたちの無関心な視線を背びれに、トボトボと教室を後にした。
「……俺の出番って、マジでこれだけなのかよ……」
教室のドアが、静かに閉まった。
昼休みのチャイムが校舎に響き渡ると、堰を切ったように生徒たちが教室から溢れ出した。食堂へ急ぐ者、購買部へ走る者、ただ新鮮な空気を求めて外へ出る者。
その喧騒の中、一人の小柄な少女が、明らかに不機嫌そうなオーラを纏って人混みを突き進んでいた。
ルリヒメである。
頬を少し膨らませ、視線は一点を鋭く見据えている。可愛らしい淡い色の服とは対照的に、周囲を寄せ付けないほどの不満が溢れ出ていた。今朝の「ピンクのコーヒー」事件が、まだ彼女の心に深く影を落としていたのだ。
舌の先に残る、あの不快な苦味。
(今日こそは……本物を手に入れてみせる)
彼女の目的地は校内の購買部。昼休みともなれば戦場と化すその場所へ、ルリヒメは迷うことなく割って入り、冷ケースへと視線を走らせた。
チョコミルク。
バナナミルク。
コーヒーミルク。
バニラミルク。
だが。
「ピンク色」がない。
ルリヒメは眉をひそめ、さらに身を乗り出して確認した。見つめ続けていれば、そのうち現れるのではないかと期待したが、どれほど目を凝らしても、お気に入りのイチゴミルクが並んでいるはずのスペースは……空っぽだった。
棚を補充していた店員が、彼女の様子に気づいて声をかけた。
「イチゴミルクは売り切れだよ。今日は朝から凄く売れちゃってね。SNSか何かで流行ってるらしいよ」
『売り切れ』という言葉が、彼女の頭上に雷となって落ちた。
ルリヒメはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。瞳がわずかに細まり、周囲の空気が一般人には説明のつかない性質へと変貌した。
彼女は静かに購買部を後にし、立ち止まった。次の瞬間、軽く目を閉じて体をリラックスさせる。それは、音ではない何かを「聴こう」としているかのようだった。
彼女の『感覚』が研ぎ澄まされる。
食べ物の匂い、会話の騒音、昼休みの混沌。その中を、開けられたばかりのイチゴミルクの微かな「残香」が漂っていた。
ルリヒメが目を開く。その口角が、わずかに吊り上がった。
「……見つけたわ」
数秒後、廊下に異様な音が響き渡った。
――ガシャッ、ピュゥゥゥン!
校舎の角から飛び出してきたのは、鮮やかなピンク色のアヒルの自転車だった。幼稚園児の玩具のような見た目で、フロントには丸っこいアヒルの頭、タイヤは小さく、カゴまでついている。
ルリヒメはその「アヒル号」に跨り、レーサーのような手つきでハンドルを握った。自転車は、到底その構造では不可能なほどの速度で加速していく。
近くにいた生徒たちは、突風を感じた直後、ピンク色の残像が瞬時に通り過ぎるのを目撃した。
ルリヒメは驚異的なテクニックでアヒル号を操り、柱や生徒たちを精密に回避しながら、壁や天井さえも走行した。そのあまりのパワーに、窓ガラスが割れ、天井の石膏ボードが崩落し、校舎は文字通り悲鳴を上げた。
獲物はすぐ先だ。香りは確信へと変わり、ついに彼女は校舎の反対側にある階段の前でブレーキをかけた。そこには、開けたばかりのイチゴミルクを手にしたエンマが立っていた。
ルリヒメは、寸分の狂いもなく彼の目の前にアヒル号を停止させた。
エンマは驚いて飛び上がった。「えっ……!?」
彼が声を出す前に、柔らかな手がミルクの箱に添えられた。
ルリヒメは顔を上げ、瞳をキラキラと輝かせた。先ほどまでの捕食者のようなオーラは霧散し、一瞬にして可憐な少女へと変貌した。
「お兄さん……その箱、私に譲ってくれないかなぁ~?」
エンマは呆然とした。「あ、これ……?」
彼が判断を下すより早く、背後から制止の声が飛んだ。「ダメよ」
サエルがそこに立っていた。表情は穏やかだが、その眼差しは明確に拒絶を示していた。
彼女は歩み寄り、エンマの肩にそっと手を置いた。弟を保護する立ち位置を明確にするように。
「エンマ、そのミルクは全部飲みなさい」サエルは淡々と言った。「私がそう決めたの。……ルリヒメ、校内でこれだけの騒動を起こしておいて、わがままが通ると思わないことね」
ルリヒメは即座にサエルを見上げた。再びモードが切り替わる。怒るのではなく、今度は全力の「おねだり」だ。
「サエルお姉様ぁ~、たった一箱じゃないですかぁ~」
彼女はサエルににじり寄り、その袖を小さく引いた。
「お願いぃ。代わりのものを後で買ってあげるからぁ~」
サエルは一瞬沈黙した。ルリヒメは計算のない純粋な瞳で彼女を見つめる。周囲の空気が、知らず知らずのうちに静まり返った。
サエルは小さくため息を吐くと、自然な手つきでルリヒメの頭を撫でた。
「ダメなものはダメよ」声のトーンは落ちたが、意志は固いままだ。「今日は他のもので我慢しなさい」
ルリヒメは即座に頬を膨らませたが、離れようとはしなかった。彼女は小さく笑い、親愛を込めてサエルの腕に頭を預けた。
「じゃあ、サエルお姉様と遊ぶので我慢してあげます~」
サエルは少し面食らった。「えっ……」
エンマはその場で、何とも言えない表情で二人のやり取りを見つめていた。一方には、毅然とした保護者の態度を貫くサエル。もう一方には、お気に入りのオヤツをねだる子猫のように姉の袖に縋り付くルリヒメ。
そしてその中心には、彼の手にある小さなイチゴミルクの箱。それは本来、ただのありふれた飲み物のはずだった。
だが、この状況においては、奇妙なほど緊張の中心点となっていた。エンマは手を少し動かし、困ったように笑って、特に気に留めない風を装って言った。
「いいよ、別に……。この子にあげちゃうから」
その言葉に、ルリヒメはパッと顔を上げた。瞳が期待に輝く。対照的にサエルは、一気に真剣な表情でエンマを振り返った。
「待ちなさい、エンマ」サエルの声は柔らかいが、断固とした響きがあった。「そんな風に甘やかしてばかりだと、取り返しのつかない癖になってしまうわ」
彼女は一歩歩み寄り、状況を精査するように弟を見つめた。その表情、立ち振る舞い、そして放たれるオーラは、彼女がこれを単なる些細な問題とは捉えていないことを明確に示していた。
エンマは姉を見上げ、穏やかに微笑んだ。深い考えがあるわけではない、彼なりの優しさだ。「大丈夫だよ、姉さん」彼は静かに言った。「この子が、そんな風になるわけないから」
言い終えると、彼は迷うことなく手元のイチゴミルクを差し出した。ルリヒメは一瞬呆然としたが、次の瞬間、その顔は極限の感動に染まった。
「お兄様ぁ~~!!」
声が震え、目尻からは涙が溢れ出した。彼女はそれを隠そうともせず、まるで国宝を扱うかのように、小さな手で大切に箱を受け取った。
「このご恩、一生忘れませんわぁ~!」
彼女は待ってましたとばかりに、すぐにストローに吸い付いた。ズルッという音が短く響き、直後、彼女の表情が劇的に凍りついた。
ルリヒメは動きを止め、箱を振り、中を覗き込んだ。
「えっ……」もう一度吸ってみるが、何も上がってこない。「……ない……空っぽじゃない……」
言い終えるや否や、ルリヒメはゴミを捨てるように箱をポイと床へ放り投げた。プラスチックの箱がカランと虚しく音を立てる。先ほどまでの感動は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
エンマはその光景を黙って見つめ、小さくため息をつくと、のんびりとした口調で言った。
「じゃあ、ついでに捨てておいてくれるかな、お嬢さん」
彼は背を向け、すべてが終わったかのように、足取り軽くその場を立ち去ろうとした。
だが、彼が数歩も行かないうちに、サエルの声が背後から追いかけてきた。
「待ち合わさい……」
その声は先ほどとは一変し、低く、冷徹な響きを帯びていた。
「飲み干したのが誰であれ、捨てに行くのは『あなた』でしょう?」
エンマの肩がビクッと跳ねた。サエルの周囲から、明確なオーラが放たれ始めていた。激しいものではないが、周囲の空気を瞬時に制圧するには十分なプレッシャーだった。
エンマは足を止め、恐る恐る振り返った。
「落ち着いてよ、姉さん」彼は手を軽く挙げてなだめるように言った。「分かったよ、自分で捨てるから……。そんな怖いオーラ出すのはやめてくれ」
サエルは一瞬動きを止め、放たれていたプレッシャーが霧散した。彼女は軽く目を閉じ、感情を整理するように顔を背けた。エンマはその隙に、素直に空の箱を拾い上げた。
エンマがイチゴミルクの残骸を拾い上げていると、アスリートのような規則正しい足音が近づいてきた。職員室へのプリント運びで両腕をプルプルと震わせているカナタが、額の汗を拭いながら、臨時のメッセンジャーとして現れた。
「あ、お前らこんな所にいたのか。ソフィアからの伝言だ。部活の時間はどこにも行くな、部室に集まれってさ。最近起きてるおかしなことについて話があるんだと」
カナタは息を切らしながら一気にまくしたてた。疲れ果てた彼の視線が、ルリヒメの前に違法駐輪されているピンクのアヒル号に止まり、さらには未だにコンクリートの破片をパラパラと降らせている天井の亀裂へと移動した。
「……なぁ、学校の天井って、こんな風に崩落するものなのか? やっぱり本当に高周波兵器か何かの仕業なんじゃないのか?!」カナタは再び陰謀論モードに突入し、目を輝かせた。
ようやく落ち着きを取り戻したサエルは、冷ややかな視線をカナタに向け、エンマの襟元に飛んできた埃を丁寧に払った。
「兵器なんて存在しないわ、カナタ」サエルは淡々と答えた。「ここにいるのは、前を見ずに自転車を乗り回す困った子と、ゴミを捨てるのを面倒くさがる弟だけよ」
口の中に一滴のミルクも残っていないルリヒメは、天井の崩落など自分とは無関係だという顔で、カナタに向かって小馬鹿にするように肩をすくめた。「ただの重力の不具合よ、お兄さん。そんなにシリアスにならないで~」
エンマは空の箱を握りしめ、カナタに向かって頷いた。「分かった。部室だな……」
先ほどまでの騒がしい空気は、一瞬にして真剣なものへと変わった。ソフィアの冷静な顔の裏には、いつも彼らの常識を揺さぶるような情報の嵐が潜んでいることを、エンマはよく知っていた。
「行こうか。ルリヒメ、そのアヒルも片付けなさいよ」エンマが言い残す。
ルリヒメは長い溜息をついた。「ちぇ~、せっかく展示しておこうと思ったのに」
彼女はアヒル号に飛び乗ると、カナタの周りを一回転して彼をよろけさせた。「進路クリア! 部室へ向けて全速前進!」
「おい……ルリヒメ、その前に家庭科の授業だろ!」
遠ざかっていくアヒル号の背中に向かって、カナタの叫びが虚しく響いた。




